11話 究極の幻想
ドラゴンが首を伸び上がらせると地響きがしたように思ったが、すぐにそれはドラゴンの嗤い声だと気付いた。洞窟が怯えたように身震いし、天井から小石がパラパラと落ちてくる。
蛇に睨まれた蛙のように体が竦み動かなくなる。今まで体験した全ての恐怖が些細な子供騙しだったように感じる、それほどの根源的恐怖、畏怖。もしもドラゴンが起きたらああしようこうしようと考えていた作戦が頭から吹っ飛び、真っ白になって何も考えられない。
「勇者気取りか、夢無人『ああああ』」
ドラゴンははっきりと侮蔑を込めて嘲った。とぐろを巻いていた尻尾が解かれ、うねる。跳ね、崩れる財宝の山はドラゴンの威容を妖しい輝きで彩った。
「淺ましい盗人め。大義を掲げれば上手く行くでも思ったか。我が赦すとでも思ったか。まさか貴様の見窄らしい小道具が通用すると驕ったか」
ドラゴンが冷笑する。
僕は馬鹿みたいに突っ立っているだけで精一杯だ。
罵られても怖くて言い返せない。
釈明も説得も口が固まって出てこない。
逃げたいけどB29の顔が浮かんで足が止まる。
絶対勝てないという諦めがドラゴンに挑む選択を奪う。
今こそ何かをしないといけないのに、何もできない。何ができるのか、何をすればいいのか、わからない。
だから動けない。
焦りと混乱と情けなさで涙が出た。
事ここに至って僕は何もできない。体が動いてくれない。
分からない、分からない。いっそ誰かどうしたらいいのか教えて欲しい。そうすればきっと動ける、今までそうして生きてきたから。
しかしここには僕とドラゴンしかいない。
ドラゴンの喉が白熱する。あと一度瞬きする間に僕は焼け死ぬ。確定した未来を幻視する。
死ぬ。
消える。
無くなる。
僕は腹を括った。
作戦も何もなかった。
獣のように咆哮し、ただ動いて、前に一歩踏み出して、夜の秘宝に飛び付いた。
手に入れて、走る。たったそれだけしか考えていなかった。
腹を括っても怖くて怖くて怖くて仕方なかった。吐き気がする頭痛がする。本能が逃げろと叫んでどうしようもない。それでも、身体丸ごとガタガタ震えながらでも、腰が引けていても鼻水と涙をみっともなく垂らしていても、僕は最後の最後に自分の意思で前に踏み出した。
そしてドラゴンのブレスが放たれた。
結果は呆気ない。
単純な成り行き。
僕は夜の秘宝に触れる寸前に焼き払われ、塵も残さず燃え尽きた。
夜の試練は失敗した。
臨死体験は人生を変える。ネットの噂話、宗教、漫画。色々な胡散臭い情報源が口を揃えてそう語る。何度か死んだプレイヤーに会った事があるけど、確かに皆何かに啓発されたような悟ったような妙な雰囲気を持っていた。
僕もドラゴンに殺され臨死体験をした。肉体からの解放、狭く暗いどこかを通り、優しい光に包まれる。現実感がないのに生々しい実感はある奇妙で鮮烈な体験は、しかし僕を揺り動かす事は無かった。
簡単な話、ドラゴンとの対峙は死より強烈だったのだ。比べてしまえばなんて事はない。死神すら奴を恐れるだろう。
夢世界で死ぬと約六時間はログインできなくなる。ログイン停止が開けてもまだ睡眠薬の効果が少し残っていたらしく、僕は気がつけばまたキングスポートの町外れに立っていた。
空を見れば、ちょうど白み始めたところだった。もうすぐ朝になる。
もう一度試練に挑戦する時間は無い。
装備も無い。
僕の夜の試練はもう終わっていた。
僕は目を閉じ少し考え、B29の墓に重い足を向けた。
心は凪いで……燃え尽きて灰になっていた。最後の光景が頭をよぎりかけ、脳が思い出す事を拒否する。思い出せばショック死するかも知れない。
あんなに頑張ったのに、勇気を出したのに、失敗した。下手を打った訳じゃない、むしろ上手く行き過ぎたぐらいだった。あれ以上の事なんてできない。
そしてドラゴンのブレスは僕の心を折るには充分過ぎた。再挑戦する勇気が全く出ない。
惨めだった。
でも仕方ないじゃないか。根性無しと馬鹿にする奴は一度ドラゴンの前に立ってみればいいんだ。
誰もが漫画の主人公のように誓いを守り抜ける訳じゃない。高すぎる壁を前にして、登れない事が分かれば挫けてしまう。
僕のように。
無限に湧き上がるように思えた、絶対に成し遂げてやる、という情熱は枯れ果てた。
……やっぱり僕はB29の言う通り、中途半端な人間だ。
失敗するたびに立ち上がり、挑み続けられるなら良かった。
成功する前に辞めるなら、最初からやらなければ良かった。
自分で誓って挑戦したクセに途中で辞めるのは最悪で、でも、僕の身体も頭も心も、試練への再挑戦を考えるだけで固ってしまう。
やがて鬱々と墓の前に着き、呆気に取られる。墓石は倒れ、掘り返されていた。死体を操る骸山猫がキングスポート周辺に出没するという話を思い出す。
力が抜け、僕はその場に膝をついた。
こんなのあんまりだ。泣きっ面に蜂、しかし今は怒る気力もなかった。墓守も立てなかった僕が馬鹿だった。
もう、疲れてしまった。
死者も生者も誰も聞いていないけれど、僕は無性に謝りたくなった。
「ごめん、B29。僕は駄目な奴だ。B29は僕を命懸けで助けてくれたのに、僕は無理だった。B29と最初に会った時言われた事、まだ覚えてるよ。僕も僕なりに夢世界に本気だったつもりだけど、やっぱり他人事だったんだ。辛くなれば現実に逃げれるプレイヤーなんて信用できなくて当然だ。僕が……そうだから」
僕は深呼吸して、終わりを告げる惨めな言葉を吐き出した。
「僕は、夢世界を辞める。夜の試練を諦めたのに続ける資格はもう無い。
全部夢だったんだ。夢みたいな楽しい夢だった。でも現実を突きつけられて、現実に帰る時が来たんだと思う。いつかB29が生き返ったら、優柔不断で弱い馬鹿なプレイヤーの事は忘れて欲しい。
……さよなら、B29」
心が重い。結局逃げ帰るのか、本当にそれでいいのか、と良心が自分を責める。良くは無い。良くはないけれど、生きていれば良くない事を選ぶ事だってある。
僕はよろよろと立ち上がり、墓石に背を向け、
気まずそうに立っているB29と目が合った。
「え?」
長い金髪は土に汚れ、顔も服も泥だらけ。綺麗な碧眼が泥の中の宝石のように目を引く。酷い姿だが見間違いではない。B29は頭をかいて謝った。
「えーっと、ごめん。全部聞いちゃった」
「え?」
「脅かそうと思ったんだけどなんか話しかけるタイミング逃しちゃってさ」
え? いや、え? なんで? え? B29なんで!?
B29にばかり気を取られていたけど、日富野君とニクスさんも、天獅子もいる。
どういう事なんだ?
「あっ、まさか気がついて無いだけで夜の試練を突破してた!?」
「それはない。アサンは失敗した」
電撃的閃きはハシビロコウに真っ向から否定された。そ、そうか。やっぱり失敗してたのか。
じゃあなんでB29は生き返っているんだ。
生き返らせられないから夢世界辞めますと宣言したばかりなのに。
いや、理由がどうであれ生き返ってくれて嬉しい。とても嬉しい。
でも気まずい。思いっきり見捨てます宣言をして、よりにもよって本人に聞かれた。僕が気まずいしB29も気まずい。
「どういう事なんですか?」
疑問は顔にも口にも出た。楽しそうにぶんぶん大きな手振りを交えて説明してくれたのはニクスさんだった。
「私が今日の、いやもう昨日かな、とにかく夜に夢世界に来たらね、この天獅子くんがドラゴンの鱗持ってきてさ」
天獅子がのこのこ僕のそばに歩み寄ってきて、得意げに鼻をふんふんさせた。キングスポートに届けてくれと頼んだだけで誰にとは指定していなかったけど、ちゃんと話が通じそうな人に届けてくれたらしい。偉い。撫でてあげよう。
「ものすごい魔力だったからドラゴンの鱗だってすぐに分かった。それで私は閃いたの。これだけの魔力なら復活の儀式の触媒にできるってね」
「復活の、儀式?」
言葉を飲み込み、事情もおぼろげに飲み込めてきた。白いローブに蒼い宝石がついた杖。魔女然とした格好のピンク髪のゲームマスター、ニクスさんは黒魔術に精通している。
霊薬の調合、魔法具の製作、呪殺など、彼女の実力は広く深い。
黒魔術も万能ではないらしいが、『あの』ドラゴンの鱗があるなら……
「復活の儀式には触媒と、魂と、魂の入れ物が必要だったんだけど、ドラゴンの鱗とカラスの御守りと埋葬された死体があったから、ヒプノスと一緒に掘り返して……あ、お墓荒らしてごめん」
天獅子に手をめちゃくちゃに舐められながら荒らされた墓を見る。言われてみれば確かにスコップで掘り返したような綺麗な穴だった。
ニクスさんの話をハシビロコウが引き継ぐ。
「それでさっき復活の儀式が終わって来てみればマヌケな独り言言ってるアホが居たって寸法だ。
いやアホでも無いか。アホは俺達だ。夢世界にはフェニックスがいるしニクスの魔術もあった。NPC蘇生の手段が夜の試練しか無いなんて思い込んだ時点でナイトメアの掌の上だったんだ。
アサンはよくドラゴンの鱗で蘇生儀式しようなんて発想出てきたよな。しかもそれで本当に鱗をゲットしてきっちりニクスに送ったんだからすげぇよ。人間なのに。馬鹿にしてるんじゃないぞ、素直にすごい。
人間なんて翼も尾羽も無いクソ雑魚生物だと思ってたけど見直した。月並みな感想だが人間には勇気と絆があるんだな」
鳥類の表情は読めないが、ハシビロコウが心底感心しているのは声音で伝わってくる。
この場にいる全員が、僕に掛け値なしの賞賛を向けていた。
……さっきから気まずくて恥ずかしくて仕方ない。
ドラゴンの鱗で蘇生儀式をしてもらうために天獅子を送った訳じゃ無い。
偶然、奇跡的に色々噛み合って上手く行っただけで、僕はそんなに褒められるような奴じゃない。
僕は勘違いしている皆に本当の事を言おうとして、B29に口を塞がれた。そのまま耳元で囁かれる。
「よく分かんないけどさ、今余計な事言おうしたでしょ。黙って僕がやったんだって胸張っといた方がいーよ」
「いや、でも」
「アサンは悩んだみたいだけど、私は生き返らせてもらって嬉しい。それで良いんじゃないの? 私のありがとうなんて一万回言ってもアサンの苦労に釣り合わないと思うけど……まだ夢世界に居てよ。アサンが辞めたら寂しい。また一緒に楽しい事探そう?」
現金なもので、B29に手を握って言われるとまだ夢を続けようという気になってきた。僕は頷いた。
B29がそう言ってくれるなら、夢世界にいよう。
二転三転する自分の態度に自分で呆れる。
でも、きっと人間なんてそんなものなのだ。
失敗して立ち直れなかったり、約束を破ったり、自分で自分のやった事がよく分かっていなかったり。それでも生きていて、生きていく。それが当たり前。
僕は試練に挑み、失敗し、それでも目的を果たした。それが全てだ。
僕は胸を張った。
「頑張りました」
自慢下手か、と小声で突っ込まれた。ヒソヒソ話の後急に堂々とし始めた僕にゲームマスター二人が訝しげにしている。B29は話題を逸らしにかかった。
「ドラゴンの鱗盗んできちゃったけど報復とか大丈夫なんですか?」
「ん? ああ、そうだな、逆に聞くけどお前蟻が玄関に落ちてた抜け毛盗んでったからって追いかけて踏み潰してやろうって気になるか? 俺たちにとって超弩級の幻獣素材でもドラゴンにとっちゃそんなもんなんだよ。俺達とはスケールが違うんだ」
ハシビロコウは満足気だ。
彼のドラゴンへの狂気的情熱は良く知っている。
ドラゴンはドラゴンらしく財宝を守り抜き、ドラゴンに挑んだ『ああああ』は殺され、しかしドラゴンの力のほんの少しを手に入れて目的を達した。
ドラゴンのせいで、ドラゴンのおかげ。
世界がドラゴンを中心に回っている。それが嬉しいのだろう。
日富野君は昔から何も変わっていない。
僕は変わっただろうか。
天獅子の鬣を撫で、B29とぽつぽつ話しながら一緒に朝焼けの空を眺めていると、ふっと意識が浮き上がり始めた。現実に帰る時間がきた。
僕は抵抗せず身を任せ、まだ話し足りなそうなB29に再会を約束し、一時の別れを告げた。
覚めない夢は無い。
しかし眠らない現実も無いのだ。
僕はこれから何度でも夢を見て、同じだけ現実も見るだろう。
一日ぶりの高校はいつもと変わらなかった。クラスメイトにおはようと言い、おはようと応える。仮病を信じて風邪は大丈夫かと心配してくれる人もいて、僕はしれっと熱はすぐに下がったと嘘をついた。
クラスの隅で、小声で目立たないように、そして楽しそうに話しているグループがあった。
僕は彼らが夢世界のプレイヤーだと知っていた。知っているだけでずっと話しかけなかった。彼らはクラスの中で変な奴らだと遠巻きにされていたから、僕もそれに流されていた。僕まで変な奴だと思われないように。
僕は昨日のお笑い番組の話をするクラスメイトに一言断り、彼らのところへ行った。昨日の大冒険の話を、話の分かる人に、話を信じてくれる人に話したくて仕方なかった。彼らと友達になりたいとも素直に思えた。
彼らのグループはいつも同じ人で固まっていたから、僕が近づくと驚いたし、クラスメイト達も物珍しそうにチラチラ視線を向けてきた。
グループの一人がどもりながら話しかけてきた。
「な、何か用?」
「うん。用っていうか……えーと、あのさ、昨日見た夢の話なんだけど」
四章「銀の黄昏」へ続きます。