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黒色聖母

作者: @眠り豆

 1


 もう二度と寝坊はしないようにしよう。


 なんて、どんなに決意しても、いまの状況は変わらないわけで。

 デパートの地下駐輪場に向かうエレベーターの中で溜息を噛み殺す。

 OLさんたちと一緒に乗ってるときは、知らない相手とふたりっきりでも、こんなにB3までが長くはないんだけどな。

 沈黙が支配する密室で、見知らぬ男の子とふたりっきり。

 睨みつけられてるわけでもないのに、視線を感じると緊張しちゃう。

 着崩した制服からすると駅前にある男子校の生徒。

 不良の多い学校だから茶髪や金髪は珍しくないけど、真っ黒な髪でここまで迫力があるのも珍しいんじゃないかな。かといって粗暴な雰囲気じゃなくて……クール? うん、そう、クールな感じ。

 身長は百七十センチを越えている。

 わたしより十五センチほど高い。

 しなやかな肢体は筋骨隆々とはほど遠いものの、ケンカ慣れはしてそう。

 因縁をつけられる危険がありそうな行動は慎まなくちゃ。

 もうひとり、だれかべつのひとがいればいいのになあ。

 せっかくこのエレベーター、自転車三台までなら乗れるんだから。

 ……早くB3に着きますように。

 階数表示を見つめてハッとする。


 B2にしておけば良かった!


 ここの地下駐輪場にはB2とB3がある。

 B2はいつもすぐいっぱいになっちゃって、今朝も地上のエレベーター入り口に混雑の表示があったけど、たぶん探せば一台置くスペースくらいあった。

 このままじゃB3まで彼と一緒で、降りてもしばらく一緒、下手したら地上に戻るときもふたりっきりでエレベーターだ。

 ああ、でも……

 わたしは肩を落とした。

 溜息だけは漏らさないよう気をつける。

 低い声で「B3でいいか?」と聞かれたとき、なにも言えずに頷いたんだった。

 そんなこと聞いてくれたんだから、きっと彼は優しいひとなんだ。

 うん、そう。

 きっとそう……たぶん。


「あ」


 つい声が漏れて、怪訝そうに向けられた視線から顔を逸らす。

 そうだ、いいこと思いついた。

 B3で降りなきゃいいんだ。

 戸口に近い彼が先に降りたら、急いで閉ボタンを押してB2に戻ろう。

 軽く揺れて、エレベーターが止まる。

 わたしの熱視線の先で、クールな不良くんは開ボタンを押した。

 こっちが降りるのを待ってくれてる。

 わー、優しーい。

 感動で涙が出そう。

 自転車を押してエレベーターを出た。

 一番近い駐輪スペースはいっぱいだった。

 二段式のサイクルラックの上さえ塞がってる。

 それはいいんだけど……


「……暗いな」


 背後でぼそっと呟かれてすくみ上がる。

 あああああ。

 そうだ。

 わたしが止まってると、彼が動けない。

 あわてて足を動かした。

 とりあえず入場ゲートに入る。

 いまは無料駐輪場なんだけど、むかし有料だったときの名残。

 それにしても……ホント、暗い。

 見上げて気づいた。

 天井の蛍光灯がいくつか割れて、割れ目のところが黒ずんでる。

 単なる影、だと思う。

 思うんだけど……血がこびりついてるみたいで怖い、な。

 薄暗い空間に漂うのはカビと埃の匂い。

 それに混じって、ちょっと変な生臭い匂いもする気がした。

 普段はもっと早い時間で、OLさんやうちの高校の生徒たちもいるから気にしてなかったけど、ここ、不良が溜まり場にしてるって噂がある。

 背筋に冷たい汗が流れた。

 クールくんも、そういう、集会? とかに来たのかな。

 昼間なら駐輪場の奥のスペースに停めるのもイヤじゃない。

 向こうにはデパート店内に上がれる階段がある。

 でもいまの時間は開いてない。

 だってデパート開店してないもの。

 どうしようもないことはわかってる。

 ここで身を翻して彼を押しのけ、エレベーターに飛び込んでB2に向かう度胸があるなら、利用階数を聞かれたときにちゃんと答えられてた。

 そのうちほかのひとも入ってくるだろうし、ふたりっきりだからってなにかあったりしないよね?

 わたしの自意識過剰だよね?

 ぼんやりしてるうちに、わたしたちの乗ってきたエレベーターは上へ戻っていった。

 もう一台あるけれど、そっちが降りてくるのはまだ先。

 一応防犯カメラの位置を確認しながら、入場ゲートの出口に向けて足を踏み出して、


「……あはは、マジ? ウケル」


 響いてきた笑い声に、ふたたびすくみ上がった。

 後ろから舌打ち。

「ちっ……バカどもが」

 呟きが向けられたのは、奥から出てきた少年たち。

 クールくんと同じ制服を着た四人組。

 髪の色は派手目の茶色や金髪。

 鼻や唇にしているピアスと、シャツをめくり上げて見せつけているタトゥーのせいもあって、かなり危険な感じ。

 崩した制服を着てても鞄は持ってない。

 クールくんの自転車のカゴには、ちゃんと薄い鞄が入ってるのに。

 とても教科書が入ってるとは思えない薄さだけど。

 あれ……五人?

 彼らの後ろに女のひとがいる。

 同行してるわけじゃなくて、わたしとクールくんみたいに、たまたま一緒になっただけなのかもしれないけど──


 ……え?


「あっれぇ、2組のショーちゃんじゃん」

 奥から出てきた不良が、わたしの後ろの不良に声をかける。

「朝から女連れ? やるじゃん」

 顔見知りだったらしい。

 あわてて俯いて身を縮めた。

「違う。エレベーターで一緒になっただけの知らない女だ」

「……ふぅん」

 四人組がわたしの顔を覗き込んでくる。

 うううう。

 入場ゲートと退場ゲートは違うんだから、こっちに来ないでほしい。

「何点?」

「六十点!」

「お前気前良すぎ、いいとこ三十点だろ」

「二桁行くぅ?」

 ひとの顔を採点して、四人でゲラゲラ笑う。


「……うるせー」


 低い声に鳥肌が立った。

 四人組の中にも緊張が走る。

 ふり向かなくてもわかった。

 クールくんの鋭い視線が、彼らを射てる。

「お前らが詰まってると、チャリを置けないんだがな?」

「ショーちゃん、怖ぁい」

 またゲラゲラ笑って、四人はようやく退場ゲートに移動した。

「俺らオールだから、これから家に帰りまーす」

「センセがなんか言ってたら誤魔化してね、ショーちゃあーん」

「知るか」

 わたしたちが乗ってきたんじゃないほうのエレベーターがちょうど降りて来て、四人がいなくなる。

「……駐輪場にチャリを停めるほど、真面目なヤツらじゃないんだけどな」

 不思議そうな呟き。

 それから、

「お、おい! どうした?」

「……ごめんなさい」

 自転車を支えに、わたしは立ち上がった。

 緊張の糸が切れて、一瞬座り込んでしまったのだ。

 眼球が熱くなっていく。

 情けないな、これくらいで怯えて泣いちゃうなんて。


 ――菜花なのかの「な」は「泣き虫」の「な」だな。


 あれ?

 頭にふっと、小学生くらいの男の子の声が蘇った。

 確かにわたしは菜花だけど、苗字の野々木のほうが印象強いのか、そちらで呼ばれることのほうが多い。

 親しい友達にも、ののちゃんとかのんちゃんって呼ばれてる。

 家族以外に名前を、それも男の子に呼ばれたことなんてあったかな?

 低い声が思索を打ち消す。

「大丈夫か?」

「あ、はい、ごめんなさい!」

 わたしはいそいで駐輪場に入った。

 ゲートを入ってすぐのスペースだけでなく、今日はほとんどが塞がってた。

 奥の壁際にある二段式サイクルラックの上段だけ、ほんの少し空いてる。

 狭い通路を進んでいく。

 ただでさえ幅がないのに、サイクルラックや駐輪スペース以外にも自転車を置いてるひとがいて進みにくい。

 後ろにはクールくんがいるし。

 だけど……あの四人組ほど怖くはない。

 さっきも心配してくれたしね。

 天井で割れてない蛍光灯が点滅してる。

 こういうの、だれが点検して替えてくれてるのかな。

 聞くともなしに聞いてしまうOLさんたちの会話によると、たまにデパートの警備員がここも見回ってくれてるらしいんだけど。

 防犯カメラもあるんだし、うん。

 クールくんは、ずっとわたしの後をついてくる。

 停めるところがないから仕方ない。

 ふたりとも奥に進むしかないんだって、ちゃんとわかってる。

 わかってるんだけど。


「おい?」


 足が止まる。

「どうした? まだ怯えてるのか? すまない、アイツらはつるんで弱いものイジメするしか能がないバカどもだ。ヨソの学校の人間には悪さしないよう、俺らも気をつけてるんだが……」

 四人組は確かに怖かった。

 それは間違いじゃない。

 彼らを乗せたエレベーターの扉が閉まるまで、口から飛び出しそうなほど心臓が暴れてた。

 すれ違ったとき、ほんのり血の匂いを感じた気がしたのだ。

 でも、いま動けないのはそうじゃなくて。

 頭上の蛍光灯が点滅する。

 こんな地下でも虫はどこからともなく入り込む。

 蛍光灯にぶつかった茶色い蛾が、ジジジ、ジジジと音を立ててる。

 目の前に広がるのは、いつもの駐輪場。

 だれもいない。

 そう、だれもいない。

 さっきのは気のせいだった。

 四人組の後ろについてきてた女のひとが、この場所で消えたなんてあるわけない。

 あれは人間じゃなかった。

 ただの影、見間違い。

 だって顔なんてわからなかった。

 髪型も、服装も。

 ただの黒いぼんやりとした影。

 だからこの蛍光灯の点滅で見えなくなったんだ。

 四人組を追うようにゆらゆら揺れてたのは、割れてない複数の蛍光灯のせいで、影が変な位置にできてたからだ……たぶん。

 だけど。

 なぜかわたしはあの影が、なんらかの意思を持った存在に思えた。

 点滅する蛍光灯を見つめる。

 上のデパートで使っているのか、用途のわからないパイプが無数に天井を這ってる。

 ジジジ、ジジジという音に紛れて、なにか小さな囁きが――


「おい!」


 がしゃんと自転車が倒れる音がして、肩をつかまれた。

「どうしたんだ? アンタおかしいぞ?」

「あ、いえ、ごめ、ごめんなさい……なんでもないんです」

 自分の自転車を倒してまで駆け寄ってくれた、クールくんに頭を振って見せる。

 意識がはっきりしてみると、われながら恥ずかしかった。

 影を見たくらいで、こんなに怯えて動けなくなるなんて。

「なんでもなくないだろ! 涙まで出てるじゃ……あ」

 彼のほほが染まる。

 切れ長な目に細い眉、端整で和風な顔立ち……男の子に使う表現じゃないかもしれないけど、お人形みたいに綺麗な顔だ。

 かといって弱々しいわけじゃなくて、う~ん、若武者みたいな感じ。

 黒髪をかき上げる仕草に、なんだか見惚れてしまう。

 当然さっきの四人組には断然勝ってる。

 友達に「ひよこ顔」と、褒められてるのか貶されてるのか、よくわからない評価をされてる自分の顔を見られてるのが恥ずかしくて、わたしは俯いた。

 と言いつつも気になって視線だけ上げてしまう。

 眉間に皺を寄せた彼が、低い声を漏らす。

「……俺が怖いのか……」

「違います!」

 反射的に答えてた。

 澄んだ瞳が、不思議そうに丸くなる。

「……そうか?」

「あの……暗い、から……オバケが出そうで、それでわたし、怖くて……」

「オバケ……?」

 てっきり笑われると思ってたのに、彼は笑わなかった。

「……そうか」

 ふわりと、なんだか涼しげで上品な香りがわたしを包む。

 クールくんに頭を撫でられたのだ。

 なんの香りだろう。整髪料やコロンじゃない。

 もっと素朴で純粋で、だけど洗練されてて、彼の顔と同じように和風な香り。

 どこかで嗅いだことがある。

「あんまり気にするな。気にしてると寄って来られちまうぞ。アイツらは、自分たちを気にしてくれる優しい人間が大好きなんだから」

「え? べ、べつにわたし、優しいわけじゃ……」

 わたしの反論を無視し、彼は自分の自転車を起こし出した。

 大きな手の重さを失った頭が、ちょっとだけ寂しい。

 クールくんは自転車のスタンドを立てて停め、鞄からなにかを取り出した。

「アンタ、ちょっと自転車停めろ。そんで手を貸せ」

 おそるおそる出した手に、いくつかのお菓子が置かれた。

 最初キャンディかと思ったけど違う。


「塩だ」


「お塩?」

「ああ。塩のタブレットだ。汗ばむ季節だから塩分補給に持ち歩いてる」

 そっか、いまは夏だった。

 地上でエレベーターを待ちながら暑いと思ったことを覚えてる。

 照りつける陽光が、肌を刺すように激しくて眩しかった。

 暗い駐輪場に来てからはずっと肌寒かったから、いまが夏だってこと忘れてた。

 ここまで寒いのはきっと、開店前のデパートがかけ始めたクーラーの冷気が降りてきてるからだよね。ほかの理由なんてない……よね?

「葬式から帰って来たとき、家に入る前に塩をかけるだろ? 洋の東西問わず、塩には浄化の働きがあるって言われてる。これを持ってればオバケなんか怖くない」

「あ、ありがとうございます」

「タメ口でいい」

 優しいほほ笑みが、なんだか妙に懐かしく感じられた。

 恐怖が溶けてく。

 そのあと彼は、サイクルラックの上段に自転車を置くのも手伝ってくれた。

 世の中に良い不良と悪い不良がいて、彼は良いほうの不良なのだと思う。


 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆


 2


 ――とはいえ。


 良い不良がいれば悪い不良もいるのが世の中で。

 帰りにまたあの四人組と会ったらどうしよう、なんて考えながら歩いてたら、学校に着くころにはすっかり憂鬱になってた。

 頭上に広がる夏空が皮肉な感じ。

 真っ青で、雲が白くって、そもそも登校すること自体憂鬱。

 走る気持ちはまったくなかったので、教室に入ったとき、朝のLHRは終了してた。

 うちのクラスの担任はあんまり厳しくない。

 出入り口ですれ違ったとき、出席簿でこつんと頭を叩かれるだけで済んだ。


「ねえねえ」


 一時間目までの空き時間。

 とりあえず自分の机に鞄を置き、親友のゆー子ちゃんの席に駆け寄って息を飲む。

「あ……のの子? おはよー」

 ゆー子ちゃんは苗字の野々木から取って、わたしのことを「のの子」って呼ぶ。

 ううん、そんなことはどうでも良くて!

「ゆー子ちゃん、どうしたの?」

 わたしの憂鬱が消え失せるくらい、ゆー子ちゃんは憂鬱そうだった。

 窓際の席なのに、差し込む陽光が感じられないほど雰囲気が暗い。

 いつも綺麗に梳いてる長い髪も、心なしかボサボサ。

「ノワが……」

 そこまで言って、周りを赤く腫らした目から涙をこぼす。

 鼻の辺りもガビガビだった。

 きっといっぱい泣いたんだ。

「ノワールがどうしたの?」

 フランス語で「黒」を表すその名前は、ゆー子ちゃんが飼ってるメスの黒猫のもの。

 わたしとゆー子ちゃんは幼馴染。

 小さいころ近所にあったお寺の境内で遊んでたとき、捨てられてた仔猫を見つけたの。

 ……そういえば。

 朝のクールくんから漂ってきたのって、お寺とかにある仏像と同じ匂いだった気がする。


 ――白檀っていうんだ。


 ううん、いまはそんなこと、どうでもいい。

 ふたたび蘇ってきた謎の少年の声を、頭を振って打ち消す。

 声と一緒に背中を走った悪寒も。

 当時わたしは両親とアパートに住んでて、動物は飼えなかった。

 だからノワールはゆー子ちゃんが飼うことになったんだっけ。

 ゆー子ちゃんもゆー子ちゃんのお父さんも猫バカ……もとい猫が大好きだから、それで良かったんだと思う。

 小学校半ばでおじいちゃんが亡くなって、わたしと両親はひとりになったおばあちゃんと同居するため引っ越した。

 ちょうど駅前を中心にして逆方向にある町に。

 そのとき学校も変わって、ゆー子ちゃんと離れ離れになっちゃったんだけど、高校で再会して親友になった。

 前の家だったら距離的に自転車通学の許可をもらえて学校の駐輪場に停めれたから、デパートの地下を利用したりしなくても良かったのにな、なんてことは、またべつの話。

「……のの子さー」

 ゆー子ちゃんはわたしから目を逸らし、肘をついて両手で顔を覆った。

「最近、仔猫や子犬がさらわれてる事件知ってる?」

「う、うん」

 ちょうど今朝、急いでご飯を食べてたときにTVの地元ニュースで見た。

「なんなんだろうね? あんまり可愛いから、さらっちゃうのかな?」

 ゆー子ちゃんが吹き出した。

「ホント、のの子は平和なんだから」

「え?」

 そこで思い出す。

 この間、ノワールは出産したんだ。

 母子ともに元気だという、嬉しい話も聞いていた。

 いまはノワールが緊張してるから、落ち着いてから仔猫を見せてもらう予定。

 ノワールを拾ったときと違って一軒家に住んでるし、おばあちゃんも元気なので、いい子がいたらもらおうかな、なんて思ってる。


 ――んだけど。


「もしかして、仔猫さらわれちゃったの?」

 ゆー子ちゃんが頷く。

「あ、う、大丈夫だよ。わたしも携帯で写真見せてもらっただけだけど、あんなに可愛いんだもの。きっと誘拐犯も可愛がってくれてるよ」

「……バカ」

 涙混じりの声に背筋が凍る。

 本当はわたしも、わかってたのかもしれない。

 ゆー子ちゃんは淡々と続ける。

「そんなわけないでしょう? 小学校のウサギが殺されるのと同じよ。さらっていって遊びで殺すの」

 不自然なほど激しさを欠いた口調に覚悟を感じて、胸が痛む。

 人間が殺されても死体が見つからなければ事件にならない。

 ましてや動物、死体を見つけても飼い主以外は訴え出たりしないと思う。

 車に轢かれたカラスや鳩が道路に刷り込まれて消えてくみたいに、見ない振りで忘れ去られるだけだ。

「……ひどい」

「うん。ホントひどい。……今朝ね、ノワールが激しく鳴いたの」

 登校中の小学生たちに塀から覗き込まれて威嚇するのは毎朝のことだったから、ゆー子ちゃんは気にしなかった。

「どうして、すぐ外に出なかったんだろう……小学生どもが来るには、早すぎる時間だったのに」

 ノワールは基本家猫なんだけど、いまは出産前自力で作った庭の寝床で生活中だ。

 ゆー子ちゃんのお父さんが、朝夕食事を献上している。

 遠くから撮影するのはOKでも、お触りはまだNG。

「ひゃんって苦しそうな叫び声がして、おかしく思って見に行ったときは遅かったの。仔猫たちはいなくて、ノワールは蹴られて血塗れで……」

 登校する前に、ゆー子ちゃんはお父さんの車でノワールを動物病院に連れて行ったのだという。

「は、早く治るといいね。仔猫たちも見つかって……」

 顔から両手を離し、ゆー子ちゃんはかすかにほほ笑んでくれた。

 ノワールの内臓は潰れてたらしい。

 血塗れだったのは外傷のせいじゃなくて、口から血を吐いたから。

 治る治らないじゃない、助かるか助からないかなのだ。


 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆


 昼休みが始まる直前、ゆー子ちゃんの携帯にメールが来た。

 ノワールを心配して会社を早退した、ゆー子ちゃんのお父さんからだ。

 授業中だったんだけど、メールを読むゆー子ちゃんの表情を見た先生は、なにも言わなかった。

 ゆー子ちゃんはそのまま早退した。

 窓の外の空は、いつの間にか彼女の心を映したかのような灰色の雲に覆われてて。

 涙雨が窓ガラスを叩き出したのは、それからすぐのことだった。


 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆


「はあ……」

 溜息がこぼれた。

 折りたたみ傘は持ち歩いてるし、レインコートは自転車のカゴに入れてある。

 突然の雨なんか怖くない。

 ゆー子ちゃんにはいつも、天気予報見て出し入れしなよ、重たくて邪魔でしょと呆れられてるけど。


 ……ゆー子ちゃん。


 ひとりっきりのエレベーターは、朝より遅く感じた。

 携帯はポケットに入れたままにしてる。

 ずっと彼女からのメールを待ってる。

 ノワールが助かった、ってメール。

 ゆー子ちゃんに来たメールはそういうことに違いない。

 必死でそう思おうとしても。

 早退してった彼女の表情が頭に浮かぶ。

 また明日、と声をかけることもできなかった。

 目頭が熱くなって唇を噛む。

 ふっと、朝のクールくんの顔を思い出した。

 最初は怖かったし、そもそも親しくなったわけでもない。

 もちろん、ゆー子ちゃんやノワールのことを話したりできる相手じゃない。

 だけど彼がいてくれたら、ちょっとだけ心が軽くなりそうな気がする。

 ――サイクルラックの上段から自転車降ろすのも手伝ってもらえそうだし。

 上段から自転車を降ろすのは少々辛い、なんて考えてたら、軽い衝撃。

 エレベーターの箱が揺れる。

 B3に着いたのだ。

 わたしが降りると乗ってたエレベーターは上がっていった。

 もう一台は地上で停まったまま。

 ひんやりした空気に包まれる。

 肌寒いのはいつものことだけど、地下にもかかわらず雨の匂いを感じた。

 やだなあ、と入場ゲートに向かったとき、


「うわあああぁぁぁっ!」


「ええっ?」

 思わず後ろに下がる。

 朝会った四人組のひとりが、叫びながら駆けてきた。

 わたしにぶつかる直前で倒れて、そのまま動かなくなる。

 うつ伏せだ。

 鞄を体の前に構えて近寄って、おそるおそる覗き込む。

 ……いきなり立ち上がって襲ってきたりしませんように。

 制服の背中が破れてた。

 何本も線が走ってる。

 大きな熊手か動物の爪で攻撃されたみたい。

 布の隙間から覗く素肌には血が滲んでる。

 倒れた彼の体で入場ゲートが塞がった。

 いまは料金を取ったりしないから、退場ゲートからでも駐輪場には入れる。

 だけどそんな気になれるわけがない。

「な、なに?」

 あわててポケットから携帯を取り出す。

 ……警察? こういうときは警察だよね?

 不良同士のケンカかな。

 もしあの四人組がなにか悪さをしてて、クールくんが懲らしめたのだとしたら通報したくはないけれど、気絶させるほど攻撃するのはやり過ぎだよね。

 震える指でボタンを押してて、不意に気づいた。

 アンテナが立ってない!

 地下だから? でもいつもは使えてたよ?

 携帯画面とにらめっこしてても仕方ないので、エレベーターに駆け寄った。

 停止ボタンを連射する。

 オレンジに輝く電光の階数表示。

 うん、二台とも降りてきてる。

 警察に知らせるのは地上に戻ってからにしよう。

 男の子を運ぶなんて、わたしには無理だし。

 ちらちらと後ろに目をやる。

 不良は動かない。

 命に関わるほどの怪我じゃない……と思うんだけど。

 階数表示に視線を戻す。

 だれか、こういうときに適切な対応をしてくれるひとが降りてきてくれないかな。

 警備員さん、見回りに来てよ。防犯カメラ動いてないの?

 到着の音がして、エレベーターの扉が開いた。

 飛び込もうと思ってたのに、わたしの足は動かなかった。


 ゆらり。


 彼女が揺れる。

 真っ黒でぼやけた揺らぐ影。

 顔もわからない。

 服を着ているのかどうかすらわからない。

 なのにわたしには、エレベーターの中央で光を吸い込んでいるその存在が、女性だとわかった。

 女性で、深い憎悪に包まれている。

 生きた人間じゃないこともわかった。

 どうしてだろう。

 わたし、全然優しくなんかないのに。

 怪我した男の子を見捨てて逃げようとしてた、ひどい人間なのに。

 ゆらゆらと彼女が動き出して、わたしは退場ゲートから駐輪場に飛び込んだ。

 黒い影が追ってくる。


 走る。

 必死で走る。

 いまなら上のデパートが開店してる。

 奥の扉を開けて、階段から上がればいい。

 そうすればきっと、なんとかなる。

 なんとかなる……はず。

 そう信じるしかなかった。


「ひっ」


 足元の奇妙な感触に見下ろすと、朝の四人組のひとりだった。

 床に伸ばされた腕を踏んでしまったのだ。

 入場ゲートに倒れた男の子とは違う。

 だけどやっぱり、背中が破れて血が滲んでる。

 わたしは辺りを見回した。

 割れたままの蛍光灯。

 点滅してる数本には蛾が群がって、掠れた音を立ててる。

 朝と変わらないように見えるのに。

 浮かんでくる涙を飲み込む。

 なにが起こってるのかわからないけど、ともかく逃げるしかない。

 足を止め、息を整える。

 ジジジ、ジジジと蛾が蛍光灯にぶつかる音。

 ふっと顔を上げて。


「いやあああぁぁぁ!」


 天井に張り巡らされているパイプをつかむ、黒い影。

 わたしと逆方向に足裏を向けて四つん這いになった姿を見てると、どちらが上でどちらが下なのかわからなくなる。

 はっきりした顔なんか判別できないのに、視線を感じた。

 影が揺れる。

 エレベーターのほうに踵を返す。

 倒れた男の子の腕をもう一度踏んでしまったけど、気にしてられない。

 最初に会った少年は、まだ倒れたままだ。

 でも今度は、かすかに背中が上下してるのに気づいた。

 うん、生きてる。

 今度は正しく退場ゲートから出て、オレンジ色の階数表示を見上げた。

 どちらも降りてきてる。

 足踏みしながら後ろの駐輪場を覗き込む。

 天井のパイプにつかまった黒い影は、その場でゆらゆらしてる。

 ……追ってくる気はない、の?

 目を逸らしたいのに、できなかった。

 見てなかったら彼女が消えて、前のエレベーターから出てきそう。

 相変わらず視線を感じる。

 でも最初の憎悪は消えた気がした。

 エレベーターから現れたとき感じた憎悪も、わたしに向けられてたわけじゃない……なんて都合が良すぎるかなあ。

 到着を知らせる音。

 だけどまだ、黒い影から視線は逸らさない。

 扉が開くのを待つ。

 待って――


「おい、なんなんだ? なんで開かない?」


 エレベーターの中からクールくんの声がする。

 ガチャガチャと開ボタンを押しているだろう音も聞こえてきた。

 硬く閉じた鋼鉄の扉は開かない。

 天井で揺れていた影が、水滴みたいに床へと落ちた。

 そのまま吸い込まれてく。

 自分の心臓の動悸がうるさい。

 本能が告げてる。終わりじゃない。……なにかある。

 だって、エレベーターの扉はまだ開かない。

 気配を感じて息を飲み、振り返る。


 彼 女 が い た。


「いやあああぁぁぁっ!」

 エレベーターの中から叫び声が呼びかけてきた。

「おい! 菜花? 菜花だろ? そこにいるのか、菜花?」

 なにかを放り投げたらしい金属音と、内側から乱暴に扉を叩く音。

 どうしてクールくんがわたしの名前を知ってるの?

 疑問に思ってる暇なんかない。

 わたしは駐輪場に駆け込んだ。


 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆


 3


 走る。

 地下の駐輪場で走る。

 学校に遅刻しかけても走らなかったわたしなのに。

 サイクルラックと自転車の列の間を走る。

 どこをどんなに走っても視界が変わらない気がした。


「……っ」


 靴の下に奇妙な感触。

 おそるおそる視線を降ろす。

 ああ、また。

 倒れた不良少年だった。

 何度彼を踏んだんだろう。

 なんだかさっきから同じ場所ばっかりグルグルしてる。

 息が苦しい。

 喉を押さえて、汚れたコンクリートの床に膝を落とした。

 最初に「彼女」が消えた場所。

 見上げれば天井に張り巡らされたパイプの群れ。

 点滅する蛍光灯の周り。

 明かりにぶつかる茶色い蛾たちの羽音。

 耳をくすぐるかすかな囁きは、

「あ!」

 ふと思い出して、制服のポケットに手を入れる。

 指先に硬いビニールの感触。

 エレベーターの中から開かない扉を叩き続けてる、クールくんにもらったお塩。

 向こうに戻ろうとしても、奥に進んで階段からデパートに上がろうとしても、黒い影に邪魔される。

 心も体も限界だった。

 どうしてこんな目に遭ってるのか、さっぱりわからない。

 気づかないうちに、あの黒い影に恨まれるようなことをしてたの?

 だけど彼女はわたしに攻撃してこない。

 追い立てるだけ。

 そこになにかがある気もするし、疲れたところで倒れてる不良少年たちみたいに襲撃されるのかもしれないって気もしてる。

 わたしが動かなくなったら、今度はエレベーターに閉じ込めてるクールくんで遊ぶのかもしれない。


 ……遊ぶ。


 うん。なんとなく、ひとりうなずいてみた。

 それが一番いまの状況に合っている気がする。

 わたし、遊ばれてるんだ。

 ポケットの中のタブレットを握って立ち上がる。

 ざわざわと産毛が逆立つ。

 彼女が見てる。

 駐輪場のあちこちに点在する暗闇の中から、わたしを見張ってる。

 呼吸を整えてエレベーターのほうへ走り出す。

 天井のパイプの隙間から、音もなく滴り落ちた影が追ってくる。

 ああ、やっぱり。

 顔なんかわからないけれど、彼女からは楽しんでる雰囲気が漂ってきた。

 ゆー子ちゃんの家に遊びに行ったとき、物陰に隠れて攻撃してきたノワールみたい。


 走って、走って――


 入場ゲートに倒れた不良少年を踏みつけて、エレベーターの前に出る。

「えいっ!」

 ふり向いて、わたしは追ってきた黒い影にお塩のタブレットを投げつけた。

 一瞬間があって、ふっと、彼女は消えた。

 後ろでエレベーターの扉が開く。

「大丈夫か、菜花!」

 クールくんが飛び出してきた。

 目の前に転がる、ビニールに入ったままのタブレット。

 わたしは首を傾げた。

 助かった、の?

 消える寸前、彼女が苦笑したように思えた。

 ……お塩が効いたんじゃなかったかもしれない。

「菜花? おい、菜花!」

 肩をつかまれて、ふり返る。

 ところで、彼はだれ?

 わたしの視線で察したのか、クールくんが溜息をつく。

「お前、俺のこと思い出してないな」

「……うん。ごめんなさい」

 エレベーターの中には彼の鞄が転がってる。

 扉が開く前に聞こえた金属音の正体。

 薄っぺらい割りに硬い音だった。

 ケンカ用の秘密道具でも入ってたりして。

 すごく心配してくれてたことはわかるんだけど、黒い影に追われてたのと同じで、どうしてなのかわからない。

勝利まさとしだよ。お寺の勝利。黒猫拾ったときも一緒にいたろ?」

「黒猫? ゆー子ちゃん家のノワールのこと?」

 あのとき男の子なんかいたっけ。

「いいよ、もう。チャリ出せよ、とっとと帰るぞ」

 拗ねた口調で言いながら、わたしを追い越して駐輪場に向かった彼から白檀の香り。


 ――悪いことしたら仏様が、


「あーっ!」

 朝からの謎の声が、目の前のクールくんと重なった。

「もしかしてショーちゃん? お寺のショーちゃん?」

「さっきからそう言ってるだろ」

 幼馴染のショーちゃんがほほを膨らませる。

 ショーちゃん、勝利くん。

 本当は「マサトシ」だけど、あえて「ショーリ」と読んで「ショーちゃん」。

 おばあちゃん家に引っ越す前、近くにあったお寺の跡取り息子。

「……最悪」

 思わず漏れた呟きに、ショーちゃんは眉を吊り上げた。

「なんだ? お前それが、朝チャリ上げてやって、塩のタブレットもくれてやった恩人に言うセリフか?」

 バカバカしい。

 ケンカも言い争いも嫌いだけど、ここで負けてはいられない。

 彼を睨みつける。

「どうせ、さっきの影もショーちゃんの仕業なんでしょ? 悪いことしたら仏様が罰を当てに来るって脅して、わたしのポケットに白檀のお香のかけら入れたときみたいに」

 いつまでも匂いが消えず、わたしは本当に仏様が罰を当てに来たんだと思って泣きじゃくった。

「ごまかしたのは悪かったけど、あの仏像の指、ホントは最初から壊れてたんじゃない!」

 真夜中、両親とお寺に行って謝ったわたしに、住職さんは大笑いした。

 仏像の指を接着剤でくっつけてくれたあと、ウソを教えたショーちゃんも笑ってた。

 彼にはそういう嫌な思い出しかない。

 だから頑張って記憶から消してたのに。

 入場ゲートに転がった男の子の腕を蹴る。

「いい年して友達まで巻き込んで、バカみたい!」

 背中にリアルな傷痕を見せる少年は、わたしに蹴られても起き上がらない。

「……あれ?」

「なにも仕込んでねーよ」

 ショーちゃんは舌打ちを漏らした。


「もう小学生じゃないんだ。いくら俺だって、好きな女の子の気を引くためにイジワルすんのは、バカのやることだってわかってる」


「え……?」

 駐輪場のところどころに傷ついた不良少年が倒れてて、わたしは謎の黒い影に追いかけられたばかり。

 そんなとんでもない状況なのに、クールくんがほほを染める。

「ご、五年以上会ってない、よね?」

「うるさい。俺だって参ってんだ。この前、偶然お前がこの駐輪場に入るのを見て、ひと目で菜花だとわかって……ああ、もう、くそ!」

 ショーちゃん家のお寺から、彼の学校までの距離を考えると、充分自転車通学の許可をもらえるはずだ。

 わざわざ途中にあるデパートの地下駐輪場に停めなきゃいけない理由なんかない。

「えっと……じゃあ、あの黒い影は、なに?」

「黒い影? 知らねーよ。俺はずっとエレベーターに閉じ込められてたんだ。なんかヤバイことが起こってるのは感じてたが」

 わたしは、ちょっとだけショーちゃんに近寄った。

 イジワルでもクールな不良でもお寺の息子。

 腐っても鯛、餅は餅屋。怪奇現象には詳しいはず。


「……ただ、まあ」


 そっと見上げると、彼は横たわる少年に目を向けて言った。

「朝も言ったがコイツらは弱いものイジメしか能のないバカどもだ。……最近の小動物誘拐事件、俺はコイツらの仕業じゃないかと疑ってた」

「殺された動物の恨み?」

 どうしてわたしまで追いかけられたんだろう。

 人間全部が憎くなってたのかな。

「かもな。そこまではわかんねー。俺が寺の息子だからって、漫画に出てくる霊能力者みたいな真似は期待するな。うわ、ここにも倒れてやがる」

 点滅する蛍光灯の下の少年を見つけ、ショーちゃんは顔をしかめた。

「残り二匹もどっか倒れてたか?」

「わかんない。同じところばっかりグルグルさせられてたから」

「そういやお前、朝この辺りでおかしくなってたな」

「きゃ!」

 ショーちゃんは飛び上がり、天井のパイプにつかまった。

 蛍光灯の裏を覗き込む。

「菜花」

 そっと優しく呼ばれて、手渡されたそれは――


 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆


 四人の不良少年は全員、駐輪場の中で倒れていた。

 背中に刻まれていた爪跡は獣のものだったし、防犯カメラの映像もあって、ショーちゃんやわたしが犯人だと疑われることはなかった。

 彼ら自身はカメラに映らない位置で悪さしてたみたい。

 蛍光灯やパイプの上から、たくさんの小動物の死体が見つかったという。


 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆


 ……せっかく寝坊しなかったのに。

 エレベーターの中には、わたしとショーちゃんしかいない。

 地上で一緒にエレベーターを待っていたOLさんは、彼が睨みつけたせいで乗ってこなかったのだ。

 あの事件から数日経つ。

 その間なぜか、登下校はいつもショーちゃんと同じになっていた、

「名前決まったか?」

「グリ。フランス語で灰色のこと」

「相変わらず直球なのか捻ってるのかわかんねー名前つけるな、早瀬は」

 早瀬はゆー子ちゃんのこと。早瀬優子と輝坂勝利、ふたりはわたしの幼馴染。

 わたしがショーちゃんのことをすっかり忘れていたという話に、ゆー子ちゃんはかけらも興味を示さなかった。

 地下駐輪場の蛍光灯の上で見つかったノワールの忘れ形見、灰色仔猫のグリに夢中だったからだ。


 母猫のノワールは――


 水や湿気は霊と相性がいい。

 あの日の雨が彼女に力を貸したのだろうと、ショーちゃんは言った。

「ノワールはわたしに、グリを見つけて欲しかったんだね」

 たった一匹生き残った子ども。

 彼女は、真っ黒いノワールは、不良少年たちに復讐して、わたしに子どもの救助を頼んでいたのだ。

「助かって良かったけど……」

 もっと早く気づいていたら、ほかにも助けられた仔猫がいたかもしれない。

 それを思うと気が滅入った。

「お前はお前にできることをしたんだ。落ち込むことはない。それに、気づかなかったのはあの猫のせいだろ」

「え?」

 彼がエレベーターに閉じ込められていたときのことは詳しく話していた。

「お前も悪いけどな。お前からかうのって面白すぎるんだ。猫は獲物を弄ぶ生きものだから、ついつい夢中になっちまったんだろ」

「なにそれ!」

 実はグリにもからかわれてる気がしてた。

 ゆー子ちゃんが見ていないとき、薄くて鋭い爪を立てられるのだ。

 甘えられてるだけだと思おうとしてたんだけど。

「そうだ、菜花。今日帰り、サテン行こう。デートだ」

「行きません」

「却下。ウチの学校のほうが終わるの早いんだ。お前のチャリの前で待っててやる」

「あのねえ」

 B3に到着して、エレベーターが揺れた。

 ショーちゃんは開ボタンを押して、わたしを促す。

「それくらい、してくれてもいいだろ?」

 優しくほほ笑んで見つめてくるショーちゃんはカッコ良くて。

 そもそも小さいころのわたしが、どんなにイジワルされても一緒に行動していたのは、むかしから彼が──

 だから、その、つまり。

 ひどく照れくさい気持ちになって、わたしは彼から視線を逸らす。

「……こっち向けよ」

 顔を近づけられて、胸のドキドキが加速する。


 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆


「そういや菜花」


「なぁに?」

 わたしの自転車をサイクルラックの上段に片づけて、彼はふり返った。

 大して混んでもないのに上段に乗せたのは、さりげないイジワル。

 帰りに、わたしがひとりで降ろそうとしたら大変だと知ってるのだ。

 子どもだからイジワルしてたんじゃなくて、ショーちゃんは基本的にドSなのだと思う。

「お前臆病なくせに、よくまだこの駐輪場使ってるな。正体があの猫だとわかっても、思い出すと怖くないか?」

 駐輪場を見回す。

 言われた通り、黒い影も怖いし不良も怖い。

 あのあとデパートは防犯カメラを増やし、警備員の巡回も強化した。

 それでもやっぱりここは地下だし、ひとも少ない。

 でも。

「ショーちゃんがいるし」

「そうか」

 ストーカーのくせに嬉しそうに笑う。

 彼の学校はほかより休み時間が短くて、始業が遅いのに終業が早い。

 いつも駐輪場の入り口で待ち構えられてて、わたしには逃げる方法がなかった。

 ……ウソ。

 本当は自転車で登下校するのをやめたら、家が逆方向なので会うことはない。

 時間をずらしてもいいし、無料駐輪場だってほかにもある。

「今日ね、奢ってくれるなら喫茶店行ってもいいよ」

「わかった。その代わり、いい加減ケー番とメアド教えろ」

 それはどうしようかな。

 思いながら、駐輪場隅の暗闇を見る。

 割れた蛍光灯は直されたけど、どこからか入り込んだ蛾がぶつかるのは変わらない。

 ジジジという音に混じって、かすかな囁き。


 ……にゃー、にゃー。みゃー、みゃー。


 黒いお母さん猫が、グリ以外の仔猫と仲良く歩いてる。

 そんな光景が見えてくる気がした。

「あとゲーセンでプリクラ撮って、待ち受け用の写真も撮って、せっかくだから寺に寄って親父とお袋に挨拶もしとけ。遅くなっても送ってってやるから」

「やだ」

「そうか」

 ショーちゃんは口角を上げた。

「前に言ったよな。優しい人間にはアイツらが寄ってくるって」

「わたし優しくないもん」

「ふうん……でも今朝来る途中、道路で潰れた鳩の死体見たとき、可哀相って思ったよな?」

「え? な、なんで知ってるの?」

 そんなこと話してない。

「肩。いや違うな。頭、なんか重くないか?」

 確かにちょっと前から重たく感じてたけど、それも口には出してない。

 ううん、違う。これは夏の太陽を浴びて疲れただけ。

「……ショーちゃん、お寺の息子だからって漫画に出てくる霊能力者みたいなことはできないって言ったよね?」

「ああ、できないぞ」

 彼の笑顔はお寺の仏像みたいに端整で凛々しい。

 なんて罰当たり。

「ところで知ってるか? アイツら寂しがり屋だから、一体いるとそこにみんな集まってくるんだ。寺の墓地にでも来れば、そっちに引きずられるだろうがな」

「ショーちゃん!」

「ははは。菜花の「な」は、相変わらず泣き虫の「な」だな」

 大きな手が伸びてきて、わたしの目に盛り上がった涙をぬぐう。

 ショーちゃんはしみじみ言った。


「ああ、俺、お前の泣いてる顔、むかしからスゴイ好きだ。すっげー可愛い」


 愛しい子どものために地下駐輪場で暴れまわった真っ黒な聖母様も、わたしのことまでは助けてくれない。

 明日はもっと早起きして、ショーちゃんになんか会わないんだから!

 わたしはエレベーターに急いだ。


 ……今日は一緒に寄り道して帰るけど、ね。

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