NYANKO:2015
小汚い猫だった。
それが夏の日差しに熱されたアスファルトによって焼かれるように横たわっていた。
車に、はねられて死んだのだろう。 猫が多いこの地域ではそれほど珍しいことでもない。
軽い同情心と、嫌なものを見た不快感に眉を寄せる。
仲間内の一人が、心底気持ち悪そうな目で猫を見た。
自分もあのような顔をしているのだろうか。 だとすると……随分と酷いものだ。
妙な期待をしたのか、俺の目は一緒に歩いていた彼女を見た。
恋をしている。 なんて初心なものではなく、下衆な言い方をすれば、狙っている女の子だった。
よく言えば清楚、悪しく言っているのを聞くと男ウケを狙っているらしい。 そんな彼女はいつも優しかった。
大学に入ってから、たった半年のことだけれど、いつも彼女には助けられている。
頭はあまり良くないので、主に人間関係についてだが。
そんな彼女は不思議そうに俺を見て、微笑んだ。
照れを覚えながら笑い返す、そんな幸福感。 俺は猫を忘れてカラオケにまで歩いた。
安いことで有名な店で、よく行く店だった。
常連ではあるが、なんとなく常連であると言えるような雰囲気ではない店の中で、ドリンクバーを適当に注いでから部屋に入る。
「……あー、涼し」
「なんか、歌を歌いにきたってか、涼みに来た感じやね」
人工的な冷気を吸って喉に入れる。 唇がエアコンの風で乾いていくのを薄く感じた。
歌えば、喉を悪くしそうなぐらい涼しい。 ほんの少しの間、歌の選曲をしながらたわいもない駄弁をする。
彼女は薄く微笑みながら、直ぐに飲み物を飲み終えた人のためにコップを持って部屋の外に出た。
いい人だと思う。 いや、いい人なのだろう。
喉に詰まった何かを流そうと水を飲み込んでから、歌い出した友人の男の顔を見る。
今を楽しんでいる顔をしていて、人間として、あるいは友人として、とても魅力的な人物であることが分かる。
自分もいつもは同じように、下手な歌を歌っているのかと思えば、薄らとだが、気持ち悪く感じてしまう。
何を突然、達観したフリをしているのか。 結局、俺も何も違いはないくせに、一人だけ浮いているような気がし始めてしまった。
携帯を弄って、ニャンコの画像でも見て癒されようかと、軽く検索をする。 まだパソコンのキーボードが打てないのでその一貫としてスマホでもキーボードのような方法で文字を打っていく。
「おい、お前も歌うだろ?」
「いや、今日は……」
そう言いかけたところで、扉が開いた。 適当に盛り上がる曲を選曲してからそれをジュースを持ってる彼女に回した。
「ありがと。 ジュース入れて来ようか?」
「自分の分ぐらいは自分で入れてくるよ」
そう言ってから席を立った。 よく喉の乾く暑い日だったからだ。
歩きながら携帯を点けると、文字入力の設定が代わっていたのか「ニャンコ」と打つはずの、それが違う物になっていた。
「NYANKO:」
少しだけ、手が止まる。 何処か惹かれる文字列は、猫画像を検索する前のそれだからだろうか。
自分の気持ちが分からなかった。 不意に先の猫の死骸を思い出して、それでも喉の渇いた手は止まらずドリンクバーでコーラを注いだ。
「猫、好きなはずなんだけどな」
確か、俺の好いている彼女も好きだったはずで……。 それ以上は考えたくなかった。
結局、俺は何も思うことなく部屋へと戻った。 俺が感じたのは、手の平とコップから滴り落ちるコーラの甘い匂いが少しだけ不愉快だったことぐらいだろうか。
喉を痛めるほど歌ったし、それを癒せるだけ飲み物を飲んで、それでも痛くなるほど話した。
楽しい時間はすぐに過ぎて行くもので、クタクタに疲れきったあと時計を見ると、まだ1時間も経っていないことに気がつく。
自身の思いを濁すように携帯をまた開いて、検索しかけの文字を見る。
電源を落としてから、決して忘れないように、いつも使っているメモ帳に書き写した。
「何してるの?」
「んー、あー……ああ、そうだな」
何処か、期待してしまう。
誰にでも優しい彼女を見て、少しだけ期待する。
「猫は好きか?」
少し不思議そうな顔をして、彼女は頷いた。
「俺も好きなんだ」
そう言ってから、財布を開いて3000円だけ手にとって、机の上に置いた。 これだけ置いていけば文句が言われることもないだろう。
「どうしたの? 体調悪いなら、送ろうか?」
「いや、急な用事。 通夜が入ったんだ」
通夜という言葉に、彼女は顔を曇らせた。
「ああ、いや。 ……ほとんど知らない奴だから、気にしなくていい。 悪いな」
話を聞いていた他の人にも声を掛けてから、扉を開ける。
「猫は好きか?」
道路を歩いて、来た道を戻る。
せめて「害獣だろ」と言ってくれたら、納得出来たのに。
好きなんだったらーー。自分のことを棚にあげて、俺は頭の中で罵りそうになる。 それを恥じながら、歩いた。
アスファルトが日の光を弾き、上と下から頬を焼くような天気の中で、薄い腐臭に鼻をひくつかせてみる。
小汚い猫はいなかった。
代わりに一人だけ女の子が立っていて、不思議と俺はその女の子と目が合って、その手に持っているビニール袋に目を向ける。
赤いその中身から、腐臭がしていることが分かったのは鼻がいいからではないだろう。
少女が俺の顔を見てから、歩き始めた。
どうするべきかも分からず、けれどもその女の子に着いて行く。
黒い髪が日の光を浴びて一部だけ白く輪になる。 まだ、ランドセルを背負っているような歳だろう。 三年生か、四年生か。
手足は細く短く、体躯は小さく、分かりやすくひ弱な身体に、何より目を引いたのは重いビニール袋の取っ手の食い込んでいる小さな白い手だ。
「その……猫。 飼っていたのか?」
耐えられずに声を掛けた。
知らない小学生に声を掛ける。 こんなところを優しい彼女に見られたら、などと思ったが、別にどうでもいいように思えた。
「え、あ……いえ、知らない子です」
次の言葉は繋がらない。 それは良かった、などと言えるはずもなく、俺はビニール越しにその猫を見る。
重そうにしているが「持とうか」などと優しい言葉は出ない。 俺には持つだけの権利がないように思えた。
「……知ってる子だったんですか?」
女の子は隣に俺が歩いているのが当然かのように、俺に尋ねた。
「いや、さっき始めて見たんだ」
「そうですか」
女の子は、俺にビニール袋を向けた。 少し戸惑ったが、俺はそれを受け取った。
優しい少女だな。 なんて朧げに思いながら、一緒に歩き小さな山がすぐ近くにある道にまで来た。
山のところに咲いていた小さな花を一輪だけ摘んで、山の中に入り、手で地面を撫でる。
「ここでいいか」
女の子は頷いた。
手はドロドロに汚れて、ズボンは勿論のように、服にもみっともないほど泥を着けながら掘り進めた。 だが、これで窮屈もしないだろう。
泥を顔に付けている少女を見て少し笑いながら、ビニール袋に目を向け、頷く。
少女の小さな手が大きな猫の身体をビニール袋から引っ張り出して、優しく穴の中に置いた。 積んでいた土を被せていく。 猫の体積分だけ土が余るので軽く均してから、花を一輪だけそこに添えた。
無言で二人で手を合わせる。
無宗教だと思っていたが、意外と信心深いのだろうか。
一言、ごめん。 謝った。
微妙な気持ちを表に出さないようにしながら道を戻る。 帰りに自販機で水を買って、手の泥を落とす。
遠慮する少女の手も洗い流してから、お茶を二本買って、女の子に押し付ける。
アスファルトは光を弾いて俺の肌を焼いて苦しめる。 せめてもの抵抗に冷たいお茶を煽りながら、隣を見る。
途中で別れたらしく誰もいなかった。
小汚い猫はいなかった。
家に着いて、風呂場に直行する。 冷たい水で身体の汗と泥を落として、息を吐き出す。
新たな服に着直してから、部屋の中にあった木刀を手にする。 鋸でいらない部分を切り落とし、カッターナイフで文字を掘る。
ひらがなは難しかったので、ローマ字で、それに享年の年齢が分からなかったので、年を書き足して。
「こんなもんでいいか」
それを持ってまた外に出る。
【NYANKO:2015】
一つ墓が完成した。 ちょっとした達成感を感じながら、もう一度手を合わせた。
友人である彼らは、おそらくこの墓に手を合わせることはないのだろう。 それは当然のことなのは分かっている。 けれど、それでも……ほんの少しだけ物悲しく思うのは俺の傲慢さゆえにか。
正しい、間違っている。 そんな真面目な話ではなく、ただ、俺は少し思っているだけだった。
可哀想だな。 一言、共感してほしいなどと、女々しく情けなくも思っただけだった。
木陰の涼しさに浸りながら、ゆっくりと身体を近くの木に預ける。
小さな手が合わさる音が聞こえた。 ほんの少しだけ悪い気分も薄らいだ。
目を開けると、泥塗れが一人。