舞衣ちゃんセンパイ(7)
◆登場人物◆
・岡本千夏:高校三年生、文芸部部長。一人称は「わたし」。ちょっと舌足らずな喋り方の小柄な女の子。お茶を淹れる腕は一級品。受験生だが、部の雑務や勧誘活動、新人の指導で大わらわ。
・那智しずる:文芸部所属の三年生で忍の姉。一人称は「あたし」。学業優秀の上、長身でスタイルも申し分のない美少女。基本、他人には冷淡だが、弟の忍にだけはベタ甘。実はペンネームを『清水なちる』という売れっ子小説家。
・高橋舞衣:舞衣ちゃん。文芸部の二年生。一人称は「あっし」。身長138cmのロリータ体型。変態ヲタク少女にして守銭奴。忍に「センパイ」と呼ばせてこき使っている。自分のロリータ体型に劣等感を持っているらしい。
・里見大作:大ちゃん。二年生で千夏の彼氏。一人称は「僕」。2mを越す巨漢だが、根は優しいのんびり屋さん。鋭い観察眼を持つ。
・西条久美:久美ちゃん。高校二年生、双子の姉。一人称は「私」。おっとりした喋り方の可愛らしい女の子。髪の毛は左で結んでいる。
・西条美久:美久ちゃん。二年生、双子の妹。一人称は「私」。おっとりした喋り方の可愛らしい女の子。髪の毛は右で結んでいる。
二人共、オシャレや占いが大好き。見かけは普通の女子高生だが、隠れた才能も持っているらしい。
・那智忍:弟クン。文芸部の新一年生。しずるの弟。一人称は「ボク」。しずる同様に背が高い美形男子で、細々した事にもよく気づく紳士。姉のことを異常に大事に想っている。
<カリカリカリ>
シャーペンの先が擦れる音が、静かな室内に響いていた。時折、<パラリ>という紙を捲る音も聞こえる。
わたし──文芸部の部長である岡本千夏は、何かの音が聞こえる度に、ビクビクとしていた。
隣に座っている背の高い美少女は、那智しずるちゃん。去年から文芸部に在籍しているわたしの親友だ。そして、ペンネーム『清水なちる』として活躍する若手小説家さんでもある。
そんな彼女も高校三年生。来年には大学受験を迎えるとあっては、さすがに作家業よりも受験勉強が優先される。しかし、クリアな丸渕眼鏡の向こうに光る真剣な眼差しは、参考書やノートに向けられたものではなかった。
<ギリッ>
まただ。この歯噛みするような感じ。
わたしの正面の椅子には、しずるちゃんの男性版と呼んでも過言ではないほどの端正な顔の美少年が座っていた。彼の名は、那智忍。その名の通り、しずるちゃんの弟さんである。今年入学してきた彼は、姉譲りのハンサムさん。しかも、百八十センチ近い高身長。その上、細かいことにも気が付き、丁寧で紳士的な完璧な男子だ。ただ一つ、その異常なまでの姉想いを除いては。
そんな弟クンが、今、文芸部の部室でもあるこの図書準備室に居るのは、一重に姉の強引とも言える勧誘のお陰である。
そのしずるちゃんの機嫌が、今日はすこぶる悪い。
理由は、目の前にあった。
少し蒼ざめた顔で椅子に腰掛けている弟クンの膝の上には、小学生とも中学生とも見られそうなボブカットの女子が、チョコンと鎮座していた。そして、その胸の辺りには、男性にしては繊細だが、しっかりとした大きな手が置かれていた。
──膝の上の少女を抱きかかえているのだろう
普通はそう思う。
だが、しずるちゃんが気に入らないのは、それのみにあらず。その手が、うねうねと蠢いていることである。
<ギンッ>
という擬音が聞こえてきそうな程の鋭い視線が、眼前の男女を貫いたような気がした。
「あ、しずる先輩。勉強、進んでるっすかぁ」
それに気が付いてかどうか、弟クンの膝の上の少女──舞衣ちゃんが、左手に持った文庫本から視線を上げた。去年よりも伸びた前髪が目にかかっていて、その隙間から覗く瞳が悪戯っ子のようだ。
それに、男子に胸を触れられているというのに、彼女は全く気にすることもなく、あっけらかんとしていた。
「進む訳がないでしょう。目の前でそんなものを見せられてちゃ。舞衣さん。あなたねぇ、いい加減、忍クンから離れなさい!」
しずるちゃんが怒るのも無理はない。
時間を少し前に戻そう。
「先輩達みたいにおっぱいの大きい人には、あっしみたいなペッタンコな貧乳の気持ちは解らないっす!」
あの舞衣ちゃんが、涙目で訴えていた。
「だからって、舞衣さん。アナタは忍クンを使って、な……な、なんて事をしているんですか!」
そう、しずるちゃんが部室にやって来た時には、もう、あの体勢になっていたのだ。
「ね、姉さん。こ、これは誤解なんだ。……えっと、なんて言ったらいいか……」
「黙らっしゃい!」
「ゔ……」
この一言で、弟クンは凍りついたように固まってしまった。そんな彼を他所に、膝の上の少女──か幼女かは知らないが──は、しずるちゃんを涼しい目で見返していた。
「だからっすね、しずる先輩。『刺激』を与えているんすよ、胸に。……弟クン、手が疎かになってるっすよ」
舞衣ちゃんは、そう言って、片手で前髪を払った。その言葉に反応するように、少しだけ彼の手がピクリと動く。
「止めなさい、忍クン!」
「はいっ」
姉とセンパイの板挟みで、弟クンの神経が磨り減っていくのが分かる。目が虚ろだ。
「全くもう、分別ってものがあるでしょうに。……! それより、舞衣さん。『刺激』なんて尤もらしい事を言っても、騙されませんからねっ。さっさと、忍クンから降りなさい」
普段の三倍増しくらいの鋭い目つきが、眼鏡のレンズを通して荷電粒子ビームのように翔んでゆく。
しかし、それを受ける方も只者じゃない。
「だからぁ、『刺激』を与える事は、生物学的に理に適ってるっす。あっしは、今、成長期。毎朝・毎昼・毎おやつ、それから毎晩、牛乳を1.8ℓずつ飲んで、おつまみ小魚を噛じってるっす。だから栄養も充分。じゃあ、足りていないのは何か? あっしの胸をデカくするのに、何が必要なんすか?」
依然として弟クンの膝の上を独占している舞衣ちゃんは、いっぱしの科学者のように、その御高説を垂れていた。
「ぐむぅ。それが『刺激』と言いたいんでしょう。……間違っている、とまでは言わないわ。でも、それと、忍クンに、む、む、……む、胸を、さ、……触らせるのは、違うでしょう」
部室の入り口の側に立つ美少女の顔には、紅が差していた。
いつものような憤怒の所為ではない。これは、……羞恥。って、説明するまでもないか。
だが、部屋の中は、巨大な冷凍庫の中のように<キンッ>と張り詰めた空気で満ちていた。テーブルを挟んで入り口とは反対側に、双子の西条姉妹──久美ちゃんと美久ちゃんが、お互いに手を取り合って小刻みに震えている。彼女達も、しずるちゃんと、舞衣ちゃんや弟クンの間に生じている異様な感じにアテられているのだ。
「えっとぉ、ね、しずるちゃん。わ、わたしも大ちゃんも、止めたんだよ。弟クンだって嫌がったし……。説得はしようと……」
「千夏は黙ってて!」
「はいっ」
高音域だが若干ハスキーな声で叱咤され、わたしは電撃に打たれたように、ビクッと姿勢を正した。
(うわぁ。しずるちゃん、そうとう怒ってる。どしよか……。困ったなぁ)
わたしは、部長として、しずるちゃんの友達として、この状況を何とかしたかった。しかし、さすがにこれは手に余る。ってか、無理。無理ゲーだよぉ。
ちょっとだけ身体をひねって、隣の巨体を見上げる。身長二メートルを越す巨漢──里見大作クンは何を思っているのか、幼馴染みの窮地を黙って見守っていた。……いや、それとも、何とも思っていないのか?
もしかしたら、大ちゃんには見慣れた光景なのか? いや、ダカラトイッテ、これを放置してちゃダメだろ。
「…………」
わたしは、何かを言いかけて、それを止めた。
<ギシッ>
モデルのような絵になる立ち姿から放たれた一瞥だけで、わたしは頭蓋骨を握り潰されるような感覚に痺れていた。
(うううぅ。いつもとは比較にならないよう。死んじゃう。このまま、わたし、死んじゃうのかなぁ……)
全身の感覚が麻痺して……、いや研ぎ澄まされて。でも、入ってくる五感の情報を処理しきれなくって。パソコンさんがフリーズした時って、中身の回路さんは、こんな感じなのかな。どして、舞衣ちゃんは平気なんだろ。……あ、気が遠くなる。
「千夏さん」
その一言と、わたしの手を握ってくれた<ギュッ>とした暖かさで、我に返る。見上げると、優しい目線が、わたしを見つめていた。
(何とかなる……のかな?)
そんなホッとした気持ちを吹き飛ばすように、冷徹な声が響いた。
「舞衣さん。今度という今度は、ただじゃ済ませないわ。姉として、見過ごすことは出来ません」
その音圧だけで、目の前のテーブルが<ギジ>と歪んだような錯覚が襲う。
「いや、まぁ、しずる先輩がそこまで言うなら、別の方法もあるんすがねぇ」
火に油を注ぐような、リチウムに水をぶっかけるような、濃硫酸に水を一雫垂らすような、いやいや原子炉から水を抜くような。もう、なんて言ったらいいのか分かんないや。助けて。
「ふぅーん。で、どうすると言うの」
事ここに至って、しずるちゃんが舞衣ちゃんを見つめる目線は、高天原の最高神が根の国の蛭子を見下ろすようだった。て、神々の戦いになっている。
「いいんすか」
挑むような声には、下卑た嫌味が含まれていた。
「言ってごらんなさい」
優しい柔らかい声音には、一切の慈悲が含まれていなかった。部室の中が、緊張で張りつめる。どこかから、空調が暖房に切り替わったような<フィーン>という音が聞こえた。電子機器も、感情があるのかも知れない。
「まぁ、考えてみれば、簡単な事っすが。に……」
「止めなさい‼」
最初の一音節だけで全てを理解したのだろう。舞衣ちゃんの『切り札』に、全校──生徒だけではなく教諭も含めて──に女神と言わしめた美少女は、耳まで紅潮していた。この距離からでも、恥ずかしさで溢れた汗で、肌がしっとりと湿気っているのが分かるくらいだ。
「…………っ」
しずるちゃんは、そこに立ったまま、ワナワナと肩を震わせていた。
さ、さんびょうくらい? してから、彼女は<プイ>と椅子の上の男女から目を背けると、ツカツカとこちらに歩んできた。
「…………し」
<ジロッ>
言いかけたわたしを、これまた擬音通りの怒気が襲った。
「ひっ」
思わず肩をすくめて縮こまるわたしに、改めて柔らかい言葉がかけられた。
「ごめんなさい、千夏。傍迷惑だったわよね。悪かったわ」
今ではもう、彼女の表情は、今までにないくらいの温和な感じになっていた。
「あたしも大人気なかったわ。済みません、部長」
そう言って、わたしに深々と一礼する姿は、痛々しくもあった。
「そ、そんなコトないよ。こんな事態を招いたのは、わ、わたしの不徳の致すところであって。だからって、弟クンを責めないで欲しいってゆーか。あ、あれ? わたし、何言ってんだろう」
一気に呑み込まれた安堵感で涙が溢れた両目を、わたしは左腕の袖でゴシゴシとこすっていた。
「あああ、千夏。ご、ごめんなさい。本当にごめんなさい」
そう言いながら、制服のポケットから木綿のハンカチーフを取り出す姿は、映画の一シーンのようだった。まるで大物女優と見紛うような彼女に相対するわたしの頬は、旬の林檎のようだったに違いない。
そんな至福のような一瞬を台無しにするように、下品な笑い顔が視角の第四象限辺りを侵した。
「全く舞衣さんときたら……。千夏も『アレ』で黙らされたのね。破廉恥な」
再び恥ずかしさに赤くなりながらも、しずるちゃんは、わたしの隣の椅子を引くと、優雅な動作で腰を降ろした。
「まぁ、乳腺が発達すれば、女の子の胸は大きくなるんだなぁ〜」
「大作クン。それ以上は黙ってなさい。千夏と添い遂げて長生きしたかったらね」
「……は、はい」
飽くまでも優しい慈母のような口調だったが、その恐ろしい内容に、大男も口を噤むざるを得なかった。
「し、しずるちゃん。それ以上は」
わたしの言葉で、しずるちゃんが平静を取り戻す。
「あ、また。ごめんなさい。八つ当たりだったわね。ごめんなさい、千夏。大作くんも」
そう言って<シュン>と項垂れる彼女の表情は、いつになく鬱々としていて、それも限りなく魅力的にわたしの瞳に映っていた。
「ニヒヒヒヒ」
それを嘲笑うかのような舞衣ちゃんに気が付いて、しずるちゃんは手に握っていたハンカチーフの端を噛み締めていた。
「しずる先輩が巨乳になる方法を教えてくれれば、今すぐにでも離れてあげるっすよぉ」
そんな挑発に対抗できずに、
「っぐむぅ」
と怒りを抑え込むと、彼女は鞄から参考書やノートを取り出し始めていた。
そして、現在に至る。
「ゔゔ。まぁったく、舞衣さんときたら。あんなのが義妹になるなんて思うと、気が重いわぁ」
溜息を吐きながら放たれた小さな呟きに、わたしは、
「えっ」
と反応していた。
(今のはしずるちゃん? それとも『なちる』の方なの?)
その瞳は、どこまでの未来を見通しているのだろう?
わたしには、『彼女』の底知れない筋書きに、大宇宙の深淵を垣間見たような感覚に襲われて身震いをした。