しずるとなちると弟クン(6)
◆登場人物◆
・岡本千夏:高校三年生、文芸部部長。一人称は「わたし」。ちょっと舌足らずな喋り方の小柄な女の子。入学してきた新一年生の勧誘活動中。親友のしずるに、時たまイケナイ感情を抱いてしまう。
・那智しずる:文芸部所属の三年生。学業優秀の上、長身でスタイルも申し分のない美少女。事故の後遺症で、感覚が過敏で不眠症を患っている。
・那智忍:弟クン。文芸部に入部した一年生。しずるの弟。一人称は「ボク」。しずると同様に背が高い美形男子。姉のことを異常に大事に想っている。
・藤岡淑子:国語教師で文芸部の顧問。喋らずにじっとしていさえすれば、超のつく美人。しずるの事情を知っている数少ない人物の一人。
・清水なちる:しずるのもう一つの人格。一人称は「アタシ」。未だ持って正体不明の人物。
「姉さんが植物人間になったと宣告されても、それを心の内では認めかけていても、ボク達家族は、姉さんの生命維持装置を止める決断を下せずにいました。そうして、ダラダラと時間は過ぎ去って、事故から半年が経とうとしていました」
しずるちゃんの眠るベッドの脇に座っている弟クンは、震える声で自分達の過去を語っていた。
「夏休みに入ってから、ボク達兄弟は、両親の代わりに姉さんの付き添いをする為に、毎日のように病院に通っていました。父さん達は、……仕事が忙しかったから。きっと疲れていたんでしょう。……事故の後始末とか、保険とか、保証とか、……姉さんの治療費とか」
頭を項垂れている弟クンからは、その時にしずるちゃんの家族の間に亀裂が入りかけていた事が想像された。まるで、いつか読んだ小説のように……。
「そんなある日、ボクはいつものように、一人で姉さんの付添いをしていました。事故から半年も経っていれば、容態は──それは絶望的なものでしたけれど──安定していたし、脈拍を確認したり、繋がったチューブの点滴を交換するとか以外には、看護師さん達のする事も無かったんです。姉さんと二人だけの病室に、測定器の単調な電子音だけが響いていました。ボクの頭の中は真っ白で、ただただ、姉さんの寝顔を見ていただけでした。でも、その時が来たんです。……いきなり、病室内の時間を刻んでいた電子音が乱れたんです。最初……、ボクは何が起こったか分かりませんでした。でも、気が付くと、眠っていた筈の姉さんの瞼が薄っすらと開いていたんです。しかし、『姉さんが意識を取り戻した』とは思いませんでした。ボクは、何か恐ろしいモノを見るように怯えて、姉さんの顔を見つめていました。嬉しい筈の事だと気が付いたのは、後になってからでした。でも、その時のボクには、恐怖しか無かったんです」
そこで、弟クンは、一旦しずるちゃんの顔を見た。
──恐怖
弟クンは、その時の感情をそう表現した。
そんな思いを抱いた弟クンは、彼の時も、こんな風にベッドの傍に座っていたんだろうか。
「ボクの目の前で瞼を開いた姉さんは、酸素マスクとチューブが繋がった首だけをボクの方に向けると、こう言いました。『やぁ、おはよう。君は誰だい。可愛い男の子だね。アタシは、……なちる。仲良くな』って。か細く消え入りそうな声でしたが、ボクにははっきりと、そう聞こえたんです」
そこで、弟クンは言葉を詰まらせた。
「それが、あの『なちる』なんだね」
藤岡先生が、そう言った。確認するためでは無いだろう。先生も、この場から言葉が失せて仕舞うのが怖かったのだろうと思う。
「そう……だと、思います。とにかく、ボクの目の前に居るその女は、姉さんじゃ無かった。小学生のボクには、それだけしか分かりませんでした。でも、『ボク達の大好きだった姉さんは、もう居ないんだ』と言う事だけは、どうしてかはっきりと解りました」
弟クンは、そう言ってわたし達を見上げた。その顔は、苦渋に満ちた表情を見せていた。きっと、わたしは、そんな彼に居た堪れなくなっていたんだろう。
「でも、しずるちゃんはしずるちゃんでしょ。今日だって昨日だって、皆とお話してたよね」
わたしは、そう彼に問いかけていた。
でも、彼の顔は奇妙に歪んだ。笑っているような、泣いているような……。
(なんて顔。どうしたら、こんな顔が出来るの……)
わたしは、本当に息が詰まって、それ以上の言葉が出てこなかった。
「姉さん? 岡本センパイは、『アレ』が姉さんだって言うんですか?」
「…………」
自分への問に、わたしは応える事が出来なかった。
「岡本センパイ、『アレ』は、『なちる』が生み出した幻想ですよ。ボク達──ボク等家族から聞いた情報を元にして再構築された記憶を使って、『なちる』が姉さんの人格をエミュレートしているに過ぎません」
そう言う弟クンの顔は、わたしの方を向いていたが、その眼はどこにも焦点が合っていないように思えた。
「そ、そんな。弟クン、今のしずるちゃんは幻想だって言うの? そんなの信じられないよ」
わたしからそんな言葉を引き出したのは、いったい何だったんだろう。
しかし、彼は、思わぬ表情を見せた。
澱んだ眼が焦点を結び、みるみるうちに濡れていった。そして、またたく間に、それは流れとなって頬を伝っていった。
「お、弟クン? ど、どしたの」
予期しなかった彼の涙に、わたしはドギマギしていた。
「センパイ、……ぼ、ボクは、今……、いったい、何て、言ったんでしょう……」
その言葉はまだ震えていたが、そこには今までとは別の感情が混じっているような感じがした。
「だ、だって、弟クン。今、しずるちゃんの人格は、『なちる』が創り出した幻想だって……」
わたしは、その内包する事実の重大さを充分理解しないまま、彼にそう応えた。
「そ、そうか……。そうだったんだ。……あの時、姉さんは本当に居なくなって仕舞ったんだ。ど、どうして、忘れていたんだろう。……ぼ、ボクは……」
彼は、自分の喋った事にようやく気付いたように、そう告げた。自力では頭を支えきれなかったんだろう、彼は左手を額に当てていた。
「その先は、私が話そう」
そう言ったのは、椅子から立ち上がっていた藤岡先生だった。
「尤も、医者や警察の知っている程度の事だが。那智 (弟)の話をどこまで補足できるかは、分からん。それでも良いか」
先生はそう言うと、わたしと弟クンの顔を交互に見つめた。
「那智 (弟)の言う通り、八月のある日、那智しずるは、突然、何の前触れもなく意識を取り戻した。日本語を喋ったり、身の回りの物を認識する事は出来たが、『名前も含めて』事故以前の記憶は殆ど失っていたそうだ」
「そ、それで、しずるちゃんは、弟クンの事が分からなかったんですね」
わたしは、どうにかして、かつて起こった出来事を合理的に解釈しようとしていた。
そんなわたしの言葉に、先生は軽く頷くと、話を続けた。
「当然、医師により、CTやMRIでの脳の断層撮影が徹底的に行われたが、その結果は驚くべき事だった」
先生は一旦口を閉じると、弟クンの方を見やった。しかし、彼は左手の平で顔を覆ったままだった。先生の話を聞いているのかどうかまでは、わたしにも分からなかった。
立ったままの先生は、軽く溜息を吐いて、続きを語り出した。
「事故後、ほとんど破壊されていた脳組織が、ほぼ完全に再生されていたそうだ。しかも、驚く程、活性化されてな」
「先生、それって、凄い事なんですか?」
文系のわたしは、思わずそんな質問をして、先生の話を遮って仕舞った。
藤岡先生は、一度わたしの方を見ると、こう続けた。
「ああ、そうだな。千夏っちゃん、聞いた事あるだろう。普通、大脳なんかの脳神経組織は、破壊されると容易には……いや、殆どの場合、再生する事は無い。だから、脳溢血とかクモ膜下出血とかで倒れて半身不随になった人は、ほぼ間違いなく治る見込みは無いと言われているだろう」
そう言われて、わたしは、もう一度頷いた。
「だから、脳波が消えただけでなく、測定によって脳の大規模な破壊が確認された那智が、意識を取り戻す可能性はゼロだったんだよ。その上、脳神経が高活性な状態になって再生されている事は、当時の──いや、今の医療技術でも考えられない事だったんだ」
「…………」
わたしは、先生の言葉に息を呑んだ。
「千夏っちゃん、知ってるかい? 人間の脳が一番活発で高機能なのは、生まれたばかりの時なんだってよ。赤ん坊は、その高度な脳機能を使って、四肢の使い方を学習したり、言葉に反応したりするんだ。五感からの外部刺激を、脳の中で情報処理するための仕方を覚えるんだとさ。そして、ある程度『この世界』で生活出来るようになるまでに学習が終わると、脳はそれに特化した状態に変化して、成長を止めるんだって。……国語教師をやってる私には、さっぱりだが」
先生は、サラリと重要そうな事を言うと、両手を持ち上げて肩をすくめていた。
「……そ、そうなんですか。し、知らなかったなぁー。しずるちゃんてスゴイんだね。ね、弟クン」
わたしは、わざとらしく明るく振る舞うと、弟クンに言葉を掛けてみた。
「……え? あ、そうですね。そうかも知れません」
事情を一番良く知っている筈の彼は、どうしてか、そんな曖昧な返事をした。
それを見た先生は、呆れたようにもう一度溜息を吐くと、今度は両腕を胸前で組んでいた。
「その後の那智の回復は、驚異的だったそうだ。僅か一週間で車椅子に乗れるようになると、急激に知識を吸収していったらしい。おおまかな測定でも、知能指数は三百五十を超えていた。二ヶ月後には、自力で外を歩けるようにまで回復。そして、その頃には、一年ほどの学習の遅れは吹っ飛んでいたんだ。と言うよりも、中一の二学期の時点で、大学院の学生にも負けないくらいの知識と理解力を持つに至ったんだとよ。……スゴイな、確かに」
確かにスゴイ事なんだけれど、先生は、むしろ呆れているように見えた。
「そうですね。姉さんは、意識が戻った後、本や教科書を欲しがりました。……一週間くらいして本を読むのにも飽きると、今度はパソコンを使いたがりました。インターネットに興味があったようです。自分のベッドにパソコンを持ち込んでもらって、ネットが出来るようになると、医者や看護師さんの目を盗んでは、朝に夕に……、いいえ、ほぼ二十四時間、貪るようにネットをしていました……」
先生の言葉でようやく自分を取り戻したのか、弟クンは、目覚めた後のしずるちゃんの事を話してくれた。
「先生の言ったように、その年の年末くらいには、もう学校に行っても何の問題も無いくらいに迄、姉さんは回復していました。でも、医師達は、頑なに退院を拒んでいました。姉さんの症例は、脳医学にとっては画期的な材料だったんです」
そう言った弟クンの両の拳は、しずるちゃんの眠っているベッドの上で固く握り締められていた。
「その通りだよ、那智 (弟)。『脳が再生する』。お前の姉が回復したその理由が分かれば、脳溢血とかの脳の病気に対する治療の突破口になる可能性がある。医者が手放したがらない筈さ。それは、今でも変わらない」
「そうです。姉さんが毎月通院しているのは、薬を処方してもらうだけでは無いんです。採血や、様々な検査によって、調査は続けられているんです。……治療費を免除してもらう事と引き換えに」
「そ、そんな……」
わたしには、彼にそれ以上語るための言葉が思い浮かばなかった。
(そ、それじゃ、しずるちゃんはモルモットじゃない。そんなの、ヒドイよ)
わたしが両手で口元を押えているのを見てか、弟クンは言葉を繋いだ。
「岡本センパイ、だから、父さんと母さんは、今も抵抗を続けているんです。残業を続けてでも治療費を払い切るために。例え……、例えそれが、残酷な現実から目を逸らすためでも、ボクには両親を批難する事なんて出来ません」
それを聞いても、わたしの心は納得出来なかった。
(お医者さんの世界って、そんなにヒドイの? だったら、医学部に進学するしずるちゃんの彼氏さんも? そんなのって無いよ)
わたしが未だ口籠っているのを見てか、弟クンは話を続け始めた。
「兎に角、姉さんは、『検査とカウンセリングを継続する』という事を確約させられた上で、退院しました。その頃には、『なちる』と『姉さん』は、奇妙でしたが平和な『同居』状態を維持していました。『なちる』が生み出した『姉さん』の人格は、まるで一個の独立した人格のように、平然とボク達の前で生活を続けていました」
弟クンが話し始めたものの、その言葉を藤岡先生が遮った。
「そこが変なところなんだよ、那智 (弟)。私が中学校の担当教諭や医者から聞いた話では、那智は『当初は記憶の混乱があったものの、治療が進むに従って本来の記憶と自我を取り戻した』と言われたぞ。初めは自分の事を『なちる』と称した事もあったが、退院前には自身を『那智しずる』として認識していたと記録されている。『なちる』の方が、記憶の混乱した那智の、分裂した自我の一つじゃないのか」
先生も、わたしと同じように、しずるちゃんの事を合理的に理解したいのだと思う。きっと、弟クンはナーバスになって、しずるちゃんの事を変に思ったんだろうと。
「そうかも知れません。いえ、その方が、どんなにか救われるでしょう。でも、ボクははっきりと覚えています。目覚めたアイツは、自分を『なちる』と呼びました。そして、事ある毎にボクの前に現れては、ああやって誘惑してきたんです。それは、ボクだけではありませんでした。姉さんが退院出来たのだって、アイツが医者に色目を使ったからなんだ」
弟クンは、少し興奮しているように見えた。
「待て待て、那智 (弟)。『なちる』って言ってるが、それは那智自身の事じゃないか。単に記憶が混乱しているだけであって」
先生は、彼を落ち着かせようとしているようだった。でも、
「じゃぁ、どうしてアイツは、自分の事を『なちる』って呼んでいるんですか」
と、弟クンは反論した。
「えっと、……それはだな、『なちしずる』が訛って『なちる』になったんじゃ……ないかな」
少し遠慮しがちだったが、先生はそう応えた。
「えっとぉ……、なちしずる、なちしずる、なちぃ……る、なちぃる、なちる。あっ、本当だ、『なちる』になる。そうだよ、弟クン。きっとこれが真相だよ」
わたしは、疑問が晴れたような気がして、彼にそう言った。
「それも、レポートに書いてありましたよね。これ迄に、何回も言われましたよ。ボクにもカウンセラーがついていたんです。『事故を目の当たりにした後遺症でPTSDになっているんじゃないか』ってね。でも、ボクは聞いたんだ。アイツと担当医が話しているのを」
その時、弟クンは、再度あの奇妙な表情を見せた。あの、泣き笑いのような……。
「医者は、半分狂気に満ちていたよ。まるで、地獄から呼び出した魔女に、『賢者の石』の製法の秘密を聞き出そうとする錬金術者のようだった。姉さんの大脳は、事故でグチャグチャに壊れて仕舞っていたんだ。そんな状態から、たった半年で回復出来る筈が無い。回復したとしても、まともに機能する筈が無いんだ。人間の脳みそは単なるCPUじゃない。ハードウェアが修復出来たとしても、その上で動作するソフトウェア──ファームウェアやOSに相当するモノが無いことには、起動する事すら出来ないんだって。脳神経が複雑に絡み合うことで、大脳はその構造自体にソフトウェアを内包しているんだと。ボクは見たんだ。そう迫る医者に、アイツが何かを囁くのを。きっと、あっちの世界の秘密に違いないよ……」
彼こそが狂気に魅せられている。わたしには、そうとしか見えなかった。だからだろうか。弟クンの言葉を、藤岡先生は、強引に遮った。
「止めなさい」
静かだが怒りの籠もった声にも、彼は怯まなかった。
「アイツは……」
「……止めなさいと言っている」
二人の鬩ぎ合いに、わたしの耳にキーンという耳鳴りが響いているように感じた。
「アイツは、本当は……」
「それ以上は、止めなさい」
耳鳴りが止まらない。どうしてだろう。
もしかしたら、わたしは、それ以上の彼の言葉を、聞きたくなかったのだろう。そうだと思う。
「アイツ……『なちる』という名前は……」
「……もう、止めて!」
その時の医師の声も、今の先生のように泣きそうだったに違いない。
「それは、トレーラーの……、事故で即死したトレーラーの運転手の名前じゃないかっ」
そう言い切った彼の声も悲鳴のようだった。
耳鳴りが止まらない……