夜の屋上
古川邸に戻った二人が出現したのは、あのアジサイの前だった。
優は、うつむいたまま「部屋、戻るね」とだけ言ってテラスから家の中へ入っていった。入るときにちょっとだけ立ち止まって、
「ありがとう」
と言った。
一平は優が部屋に入ってから少しそこにたたずんでいたが、ふう、と大きくため息をついてテラスへ向かった。
だが、何だか家の中に入る気になれなかった。そこでテラスの段差に座って、そのまま庭を眺めていた。
空はだいぶ淡いオレンジ色に染まってきている。その色を受けて、庭のアジサイの色が灰色に見える。
視線を落とし、もう一度大きくため息をついた。と。
「あんた、なにやってんのよ!!」
という叱責とともに、なにやら重たいもので頭をばしっと叩かれた。
振り向くと、怖い顔をした夏世が背後に仁王立ちになっている。
「ああ、夏世」
「ああ、じゃないわよ!優ちゃんがいなくなったと思ったら、さっき泣きそうな顔して部屋に入ってったわよ!」
「…泣いてた?」
「それっきりでてこないから、わかんないけど。でも、あんた一緒にいたんでしょ?なにしたのよ!!」
「人聞きの悪い」
それからもう一度、顔を伏せて、ため息をついた。
「実は・・・・」
「こ~の~、ばかったれ!!!!!」
再度後頭部をはたかれる。どうやら、内容の割に分厚く重たい外国のファッション雑誌が凶器らしい。
「何だって、そんな考えなしなことしたわけ?!」
「…見てられなかったんだよ」
少しだけ家の中を振り返る。
「すごく、すごく苦しいこと中に溜め込んでて、だから自分でもわからないうちに涙が出ちゃったりするんだよ。
わかるんだ、そういう気持ち。そんなふうに泣いてるの見てられなかくて、何かしてあげたかったんだ・・・・でも、結局おれが泣かせちゃったのかな」
夏世は持っていた雑誌を下に下ろした。
「今度は・・・ちゃんと、あやまれるかな」
「一平・・・あなた」
「わかってるよ、彼女は環じゃない。でも、さ」
「そっか・・・優ちゃん、環ちゃんと同い年なんだ」
少し沈黙が流れる。
「うん…だけど、俺、きっと二人を重ねて考えてたんだよな。だから、あんなにあわててなんとかしてやりたいなんて」
一平はもう一度、大きく息を吐いた。それから思い切ったように、
「俺、優ちゃんに今日のこと謝ってくる」
と、テラスの段からやっと立ち上がった。その一平を夏世が引き止める。
「もうちょっと一人にしといてあげなよ」
そういって、今まで一平が座っていたテラスの端に腰を下ろす。一平は足を止めた。
ふたりで何となく空を見上げる。
「昼が長くなったね」
「・・・うん」
時計はもう6時半を指している。暗くなり始めた空に、ジェット機のライトが点滅しながら流れていく。
その日の夕食に優は現れなかった。
一平もいたたまれない気持ちで、食事もそこそこに自室に引きこもってしまった。
あのとき、せめて自分が優と南美の二人を抱えてジャンプしていれば、優の能力が南美の前で披露されることはなかったかもしれない。そもそも、連れていくべきではなかっただろう。
昼間の格好のまま、ヘッドフォンをして、自分で編集しておいたCD-Rをかなりの音量で聞いていると、だれかがドアをノックした。
一平が気がつかなかったので、勝手にドアが開いた。
蘇芳だった。
「夏世から聞いたよ」
アクアスキュータムのネクタイをはずしながらベッド脇に置いてあるディレクターズチェアに腰を下ろす。一平もヘッドフォンをはずして、デッキを止めて、ベッドに腰掛けなおす。
「夏世からずいぶん怒られたみたいじゃないか。」
「・・・やめときゃよかったと思ってるよ」
「そうだな。おまえにしては考えなしの行動だ」
「・・・・」
「もうひとつおまけに、それ以外にも馬鹿な真似したのわかってるか?」
「え?」
「その、優ちゃんの友達の身の安全をちゃんと確保したかどうかって事だ」
「・・・・!」
「近くに不審者がいたのに、もうちょっと離れたところまで送るか、あるいはその子が帰る道すがらおかしな動きがないか見ておくべきだったかもな」
「あ・・・」
みるみる一平は不安そうな顔になる。
「おまえらしくない」
蘇芳は肩をすくめて軽く笑って見せた。
「一平、その優ちゃんの友達の子、どんな子かみせて」
「あ、うん」
蘇芳がそっと指先で一平の額に触れる。一平は今日会った南美のことを思い出し、表層意識に上らせるように努める。
それから、一平から手を離すと、椅子にもたれかかってコンセントレーションを図る。
南美の周囲をサーチしているのだ。
蘇芳はふう、と一呼吸置いて言った。
「大丈夫だよ、俺の見たところ、彼女は無事だ」
一平はほっとした。でも、蘇芳はまだ緊張した表情だ。
「でも、問題は解決したわけじゃない。一平たちが彼女に接触したとき、近くに『やつら』がいたんだろ?つまり、『やつら』にとっても南美ちゃんは見張っておくべき重要な人物だということだ。優ちゃんにはもう家族はいないわけだから、最悪の場合、充分に人質としての価値がある」
「ってことは」
「彼女に優ちゃんが接触したことがわかったら、危険だ。というか、本来もうわかっていそうなものなんだが・・・」
「そうか、俺たちが南美ちゃんに会った時点で近づいてきて、来てみたら俺たちどころか南美ちゃんもいなかった。たしかに簡単に想像がつくな」
「だけど、南美ちゃんには今のところ何の危害も加えられていない。・・・泳がせておいてまた接触するのを待ってる、ってとこか?」
「そりゃまた悠長な話だよな」
「でも、確かに不審者が近くにいたら優ちゃんが近づいてこないよな」
うーん、と、ふたりで考え込む。いろいろな可能性が頭の中をめぐって、思考がまとまらない。一平がぽつりと言った。
「俺、優ちゃんに悪いこと、しちゃった」
「うん?」
「泣かせたくないんだ」
「うん」
一平はどさっとベッドに転がった。天井をみつめて、動かない。
蘇芳はしばらくそんな一平を見ていたが、やがて立ち上がってドアへ向かった。
「とりあえず、今夜は休もう。一晩寝て、すっきりしてから考えたほうがよさそうだ。おたがい、な。」
一平は返事をしなかった。そのとおりだと思いつつも、あまり眠る気がしなかった。
蘇芳が出て行く音がして、部屋がしいんと静かになった。
優の部屋は一平の二つ隣だ。間に一部屋あるせいもあるが、物音ひとつ聞こえない。
もう一度ヘッドホンを手にとって、デッキのスイッチを入れる。
流れてきた曲は、ちょっと昔の洋楽で、ギターがぎんぎんにきいているのに切ない曲。
なんだか聞いていられなくなって、ヘッドホンを投げ捨てた。
そのまま目を閉じる。
部屋の主でさえ見ていない部屋の中を、どこからか入っていた小さな蛾が一匹、せわしなくとびまわっていた。
そんな夜の静寂を破ったのは、またしてもドアをノックする音だった。
(また蘇芳かな)
そう思って、なんとなく返事をしなかった。だが、今度はかってにドアが開くことはなかった。かわりに、もう一度ちょっと控えめのノックがあった。
「・・・?」
起き上がって、部屋のドアを開ける。
「あの・・・夜遅くに、ごめんなさい」
「優ちゃん?!」
正直、おどろいた。
ドアの向こうに立っていたのは、優だった。優は、やっぱり昼間の格好のまま、まっすぐ一平の目を見た。
「あの、あのね、話があるの」
部屋に招きいれようとして一瞬躊躇する。時計は夜の11時半、こんな時間に部屋に女の子を招きいれるなんて、誰かに見られたらあからさまに誤解されそうなシチュエーションだ。
だが、優はそれを全く意に介していないように見える。
「入る?それとも、リビングに行く?」
「え?・・・・あ」
本当に真剣に考え事をしていたのだろう。優の方も、『こんな時間に男の部屋を一人で訪ねる』シチュエーションにやっと思い当たったらしい。頬が赤くなる。
「ご、ごめんなさい!」
結局、ふたりでリビングに行くことにした。
人気のないリビングに照明をつけ、ソファに腰を下ろす。
ふたりとも何となく気まずい。一平は思い切って切り出した。
「あの、優ちゃん・・・」
がばっと頭を下げる。
「まずは、昼間のこと、ごめん。俺、あんなことになると思わなくて・・・一応、良かれと思って連れてったつもりだったんだけど、結果的に優ちゃんに悲しい思いさせることになっちゃって・・・その・・・」
「え、え?」
優はなんだか鳩が豆鉄砲くらったような顔をしている。
「やだ、一平さんのせいじゃない・・・私のほうが謝ろうと思って来たの。一平さんは悪くないの」
「だけど」
「ううん、本当に半年振りに学校行けて、南美の顔が見られて、本当にうれしかったの。だって、私があんなふうに泣いたりしたから、一平さん、困って慰めてくれたんでしょ?私が悪いの。結局、また、一平さん巻き込んで、南美も・・・・」
そこまで言って、少しだけ言葉を飲み込む。
「ごめんなさい。それから…ありがとう」
「そんな・・・」
何といっていいかわからない。反対に、責められても甘んじて受けるつもりでいたので、一平は言葉に詰まってしまった。
優はまっすぐ一平の目を見ている。大きな瞳に、混乱した頭がさらに混乱してしまうような気がして、一平は少しだけ目をそらした。
そんな一平に気がついてか気がつかないでか、優は話を続けた。
「私、帰ってきてからずっと、南美の周りを注意してたの。あのとき学校で近づいてきた誰かが、ひょっとして南美に思い当たって、なにかするんじゃないかって心配になって。でも、何も起こらないの」
さっきまでの蘇芳との話と、同じ事を考えていたようだ。
「・・・『やつら』の考え方だったら、おそらく南美をすぐに監視するか、人質にとるかすると思うの。でも、監視もなければ、南美本人も全然無事。」
「・・・いいことじゃないか」
「うん。本当に。だから、私もほっとしたから、一平さんにそのこと話しておこうと思って。謝りたかったし」
にこ、と微笑んだ。そのとき、優のおなかがくう、と音を立てた。
とたんにまた顔が赤くなる。
「やだ・・・そういえば、ごはん食べなかったから・・・」
くすっと笑って一平が立ち上がった。
「キッチンになにかあると思うよ。一緒に行く?実は俺もちょっと小腹がすいた。」
思ったとおり、キッチンには二人分の夜食が用意されていた。佐藤さんが気を利かせておいたのだろう。サンドイッチが2皿と、メモが置いてあって、『一平様、優様、お鍋にスープがございます。あたためてお召し上がりください』と書かれていた。ガス台の横に、白いスープカップがこれまた二つそろえてあった。
「お見通しだよ」
優もくすっと笑って、レンジに向かった。スープをあっためて、二人分よそう。
「あ、かぼちゃのポタージュだ♪私、大好き」
うれしそうな声と暖かな香りに、一平もほっとした。
キッチンで夜食をたいらげ、お互いの部屋に帰る。とたんに優の表情に緊張が戻った。
着ていた服を脱いで、夏世が用意しておいた服の中から黒いTシャツと、もともと自分のはいていたスパッツを出し、それに着替える。髪をほどいてひとつに結いなおし、長い三つ編みにする。クローゼットにしまってあったスニーカーをはいて、窓の外を見た。
さっきは一平にあんなことを言ったが、本心ではちっとも安心などしていなかった。『やつら』に何らかの思惑があるのは明らかだ。南美が今のところ無事でいるのも、おそらくは自分をおびき出すための罠なのではないかと優は疑っていた。さっきのは、あくまで一平をけん制するための方便だ。
帰ってきてからずっと南美の周囲を警戒していたのは本当だ。あまりに何もおこらないので、逆に不安が増していき、いてもたってもいられなくなった。これがわなだと疑いながらも出て行く前に、一平にお礼が言いたかった。そして、やはりもう関わり合いになってほしくなくて、今度は追いかけてこないように暗示をかけるつもりで、こんな夜更けに一平の部屋を訪ねたのだ。
だが、結局はやらなかった。
自分を心配してくれている人に、そんなまねをすることは、さすがにできなかった。
優はキッと表情を引き締めると、テレポートして消えた。
深夜の住宅街。
大通りから2、3本奥まったところにある、低層マンション。
このあたりまで来ると、人通りはほとんどない。街灯に照らされた、マンションの周りをぐるりと囲んだ植え込みに、何かに驚いたように猫が一匹、音も立てずに滑り込む。
マンションは3階建てで、明るい茶色のタイル張りの外壁。ワンフロアに5世帯が入っている。ここの3階の西側に、南美の自宅があるのだ。
優は、テレポートアウトした屋上から、そっとあたりの様子をうかがった。
人っ子一人いない。少し離れた大通りを走る車の音が遠くから響くだけだ。
(本当に、誰もいないのかしら)
自分のさっきまでの考えに、ちょっとだけ疑念がわく。けれど、そんなわけはない。『やつら』が自分を野放しにしておくわけがないからだ。
南美の部屋、周囲の世帯、マンションの周辺を改めてサーチしてみる。
やっぱり、怪しいところはどこにもない。
ちょっと、肩の力を抜く。
そのときだった。
「遅かったじゃん。」
背後から声がした。はっとして振り向くと、20代前半くらいの、軽そうな雰囲気の背の高い男がだらっと立っていた。
派手な赤のアロハシャツ。ベージュのチノパン。思わず首にレイでもかけてウクレレをもたせてやりたくなるような、到底追っ手には思えないいでたちだ。
「もっと早くくるかと思ってよ、彼女と約束しちまったんだよ。フラレたら、あんたのせいだぜ。P-7」
P-7、という呼称に、この男が追っ手だということを確認する。
「・・・あなたは?」
「おれ?俺はね、…そうだな、ま、呼ぶならマイケルとでも呼んで頂戴よ。マイケル・ジャクソンのファンだからさ」
へらへらと笑う。なんだか、癇に障る笑い方だ。
「私が来るか来ないかもわからないのに人と約束するなんて、いいかげんね。来なかったらどうするつもりだったのよ」
「いや、あんたは来たよ。研究所がどういう対応をするか、いやってほどわかってるだろうからな。どうせ、ずっとお友達ちゃんを見張ってたんだろ?下手に手出しをしてお友達に騒がれるよりはこっちとしては楽だからね。・・・まあ、ちょいと不確かな方法だとは思ったけどさ、あんたを教育した連中がそういうんだ、まあ楽させてもらったさ」
何だか含みのある言い方だ。
正直、南美を見張っている間、かすかに不穏な気配を感じないわけではなかった。けれど、頭の隅を掠めて、すぐ消えてしまう程度のかすかさで、それがかえって優の不安を増長させていた。それでここへ来てしまったということは、やっぱり研究所の思惑通りに乗ってしまったことになるわけだ。マイケルは、ふてぶてしい表情をくずさないまま、じろじろと無遠慮に優を見回した。
「そーれにしても、こんなケツの青いガキひとり、何で捕まえられないかなあ」
不意に、自称マイケルが優に近づいた。優はおもわず体を硬くした。へらへらした態度からは考えられないような俊敏さだったからだ。マイケルは優のあごに手をかけて、くいっと上を向かせた。優はあわててその手を払いのける。
「安心しなよ、俺、ロリコンじゃないからさ。ま、でも、顔はかわいいよな。」
にやにやしながら、なんだかねちっこい目つきで優をみまわす。
「うん、あんたのお友達よりはあんたのほうが好みだわ」
「いい加減にして!何なのよ、一体・・・」
「だから言ったじゃん、あんたを捕まえにきたって」
男の台詞が終わらないうちに、優の体にものすごい衝撃が走った。
「・・・・・・!」
不意打ちだったので、何のガードもしていなかった。優は、床にばたっとくずれおちた。
「油断したね~。あんたはさ、成功作第1号だけど、もう成功作はあんただけじゃないわけさ。」
脳に直接なにか衝撃を与えられたようで、ぐらんぐらんする。動くことができない。マイケルは、倒れこんだ優の横にしゃがんで、ニヤニヤ笑いのまま優の顔を覗き込んだ。
「しばらく動けないぜ~。ま、死にゃしないから、安心しなよ」
それから優の体をよいしょっと肩に担ぎ上げた。
油断した。でも、そもそも考えるべきだったのだ。優自身は研究者ではないのだから、薬の完成度はわからないのだから、ひょっとしたら『やつら』の中に能力者がいるかもしれないと警戒してみるべきだったのだ。
ぐらぐらする脳をできるだけ集中させて、男の足を狙った。
ぱしっ、という軽い音がして、男の履いている茶色のサンダルのひもが切れる。
優を担いでいたマイケルは、思わず転倒した。いきおい、優は硬いコンクリートの床に投げ出される。
「・・・いってぇ」
転んだ拍子にぶつけた額や腕をさすりながらマイケルが起き上がる。放り出した優がそのまま倒れているのを見て、憎憎しそうに毒づく。
「ったく、このガキ!余計な真似しやがって。」
それから立ち上がって優に近づくと、無事なサンダルを履いたほうの足でいきなり優の腹を蹴った。
「ぐうっ」
優がくぐもった声を上げる。痛みにますます頭が真っ白になる。
「馬鹿な真似すんじゃねえよ。おまえはこれからただのP-7に戻ることになってんだよ。」
ぺっとつばをはいて、優をもう一度抱え上げようとしゃがみこんだ。
「み・・・」
優は、苦しそうに言葉をつむぐ。
「何だって?」
「みな・・・みに・・・・てを・・・・ださない・・・で・・・」
「あん?オトモダチに手ぇだすなってか?」
マイケルはぷっと吹き出した。
「お人よしだなあ。こんなときまで他人の心配かよ?」
あからさまに人を小ばかにしたような顔で、優の顔を覗き込む。
「俺はださないぜ。青くせえガキにゃ興味ないし、命令されてもいないのに厄介ごとに巻き込まれんのはごめんだぜ。ただし、俺は、な。あとのことはしらねえよ。」
そういってせせら笑うと、ひょいと優を担ぎ上げた。どうやらテレポートの能力はないらしい。そのままマンションの建物内の階段へ向かう。
「・・・どこへ・・・連れて行く・・・気・・・?」
「訊いてどうすんだよ」
優の問いに、男は答える気配はない。
だが、優にはそれで充分だった。
もう一度意識を研ぎ澄ませ、衝撃を放つ。
ばしっ!!
「うわっ!」
再度、男が転倒した。さっき、サンダルの紐を切ったときとは比べ物にならない威力の衝撃だった。どうやら、脳がぐらぐらしているせいで、パワーコントロールができていないらしい。
優はなんとか立ち上がった。もちろん、立ち上がるといっても、まだぐらぐらする衝撃の余韻は残っているので、何もなかったように、とはいかなかった。よろよろっとよろけて、すぐ後ろにあったフェンスにがしゃんともたれかかる。息もまだまだ荒い。
サンダルで腹を蹴られたことが幸いした。痛みで少し頭がしゃんとしたのだ。だが、本調子には程遠かった。
「・・・この、アマぁ・・・」
マイケルの表情が一変する。どこか、ブチ切れてしまったように、恐ろしい目つきで優をにらみつける。転んだときにひどくぶつけたのか、しきりに額をさする。
(来る!)
瞬間的にふたりともコンセントレーションを図る。
刹那、互いの間に空間が波打つような衝撃が走る。
ドカッ!!
横っ面を張り倒されるような衝撃が優をおそう。だが、本当に平手打ちをされた程度のパワーで、優を捕らえるには至らない。
一方のマイケルは、みぞおちに強烈な衝撃を食らって後方に吹っ飛び、コンクリートの壁に激突してしまった。
優は、はあはあと荒い息をつきながら、警戒してしばらくマイケルの様子を見ていたが、起き上がってこないので、やっと安心したように大きなため息をついた。それからそっと近づいてみるが、マイケルは完全に気を失っていた。衝突のショックがよっぽどすごかったのだろう。コントロールしきれていない能力が、我ながら一瞬怖く感じる。
正直、マイケルの能力はパワーとしてはそう高くはないのだろう。優とガチンコ勝負をすればおそらく完全に優に押し負ける。ただ、直接脳に衝撃を送るという方法をとっていたので、狙いはかなり正確なのだろう。
それにしても。
「G県・・・の」
優の思惑は成功した。
「何処へ連れて行くのか」と質問したことで、とっさにマイケルの表層意識に浮かんだG県の研究施設の場所を読み取ったのだ。マイケルが場所を知っていて幸いだった。もし知らなければ、マイケルが自分を受け渡す相手にも同じことをするつもりだった。
けれど、今になって、自分の両手が少し震えていることに気がついた。
ただの女子高生だった優には、誰かをひっぱたくことすらしたことがなかったのに、いきなり自分の命にもかかわる場面にでくわしたのだから。正直言って、たった今マイケルをやっつけたのも、もしパワーコントロールができていたらあそこまで派手にたたきつけることはできなかっただろうと優は思う。どこかで、人を傷つけることを躊躇する「ただの女の子」の部分があるからだ。けれど、これからしようとしていることを考えると、躊躇はしていられない。必ず、やり遂げなければならない。
痛いくらいにぎゅっとこぶしを握り締め、震えをおさめ、深く深呼吸をひとつした。
振り向いて屋上のフェンス越しの町の夜景を見やる。
遠くから聞こえてくる車の走る音。ちょっと湿った埃っぽい住宅街のにおい。そのなかで渡ってくる柔らかい風・・・
少しの間、じっとそちらを見ていたが、やがて吹っ切るように背を向けると、腰につけていたウエストポーチから折りたたまれた紙片とペンを取り出した。
大きなモニター画面の並んだ、薄暗い部屋。
青年は、手元のデスクライトをつけて、書類の束を読んでいる。
ふふん、と鼻で哂って書類をばさっと投げ出す。それから、手元にあった受話器をとりあげ、短くダイヤルする。
「ああ、僕です。報告書、見たんですけどね…ええ、ええ…じゃ、結局、P-7は捕捉はできたわけですね?ふうん。じゃ、誰か協力者がいるわけだ。そっちのほうは?…ああそう、で?今のところ、首尾は?…ふうん、そうすると、今後は…あ、いや、こっちの話。いいですよ、また動きがあったら報告ください」
通話の切断ボタンを押して受話器を置く。
「まったく、まだそこまでしか掴めてないとは・・・予想以上に、使えないオジサンたちだよ」
キャスターつきの椅子をがらりと転がして、モニターの前へ行き、キーボードを操作してデータを画面に呼び出す。
優と、南美の写真が現れた。
「さて、次にどう動く?お姫様」
軽くひじをついて笑顔で写真を見上げる。
だが、目はこれっぽっちもわらっていなかった。
一平達が駆けつけたときにはもう遅かった。
夜食を食べて自室に引き上げたあと、電気を消して寝ようと思ったが、一平はなんとなく何かがひっかかっていた。
何だろう、と考えて思い当たった。
優の、表情。
妙に明るい表情をしていたが、何だか無理がなかったか?
夕方から塞ぎこんでいたのに、やっぱり不自然なような・・・
そう思ったら、いてもたってもいられなくなった。
無礼は承知で、そっと優の部屋をノックする。
「優ちゃん?」
心の中で「ごめん!」とつぶやきつつ、そっとドアを開ける。
案の定、部屋はもぬけの空だった。
ベッドの上に、昼間の服がきちんと畳まれて置いてある。ベッドに横になった形跡はみられない。パジャマもベッドにそろっていて、優が特に気に入ったといっていた、桜色のシルクのガウンが壁にかけてある。
「蘇芳!!」
あわてて蘇芳の部屋へなだれこんだ。当然、ぐっすりと寝入っていた蘇芳は、それこそ口から心臓が飛び出すほどびっくりする。
「な、な、なんだ、どうした」
「優ちゃんがいないんだ!」
叫ぶように言う一平の声に、蘇芳は一気に真顔になった。サイドテーブルにおいてあった眼鏡を取る手をとめて、そのまますっ、と目を細める。
精神を集中して意識を飛ばす。
眼鏡をかけないのは、眼鏡が一種の制御装置のような役割をしているからだ。本当にそういう装置なのではない。一種の自己暗示のようなものなのだろうが、眼鏡をかけているときは意識しなくてもパワーを抑えられている気がする。
その制限をなくして意識を飛ばした先は当然、南美のマンションだ。
「・・・南美ちゃんの家には優ちゃんはいない。」
「いない?」
「でも、なにか痕跡みたいなのが・・・力同士がぶつかったみたいな・・・・・あ?」
蘇芳の目がさらに細くなる。
「・・・・屋上だ」
そこまで言うと眼鏡を取り上げ、着ていたパジャマを手近の洋服に着替える。
その間に玄関から一平が蘇芳と自分の靴を取ってきて、着替え終わった蘇芳の腕を掴んで、一気にテレポートした。
南美のマンションの屋上は、閑散として誰もいない。
「本当に、ここ?」
周囲をぐるりと見回しながら、一平が持ってきた靴を履く。
「うん、ほら」
屋上から建物内に入る入り口の上、給水塔設備のあるところを蘇芳が指差した。
一平や蘇芳からは目には見えないが、蘇芳には感知できているのだろう。一平がふわりと上に飛び上がり、気を失って倒れていたマイケルを見つけた。
マイケルの倒れている横の金網に、紙が貼り付けてある。
それを読んだ一平の顔色が見る見る曇る。
「蘇芳!」
マイケルは放っておいて紙を持って飛び降りた。
『お世話になりました。せめてものお礼です』
そんな言葉が、G県の地図に印をつけたものに書いてあった。