月夜
それから寝たり起きたりを繰り返して1日過ごしたが、さすがに翌日の夜は目がさえて眠れなくなった。眠りが浅くなってからは、眠りたくない気持ちのほうが強かったかもしれない。何しろ、夢を見るのだ。
決して忘れることのできないだろう、悪夢。
(父さん…)
そしてそれと一緒に頭から離れないのは、これからのことだった。
ここに長いこと居座るわけにもいかない。しかし、唯一の身内である父は亡い。今更ながら、ほんの高校生の優にはなんだか途方もなく心細く思えた。当然、家や学校も見張られているわけで、帰る場所なんて・・・
「学校…」
忘れていた。もうしばらく行っていない。
特に学校が好きだったわけではない。でも今となっては平穏だった生活の象徴のような気さえする。あそこに戻れば以前の生活が戻ってくるわけじゃないのはわかっているけど・・・
優は、ふっと笑った。
(そんなはず、ないのにね)
気持ちを切り替えようと部屋の明かりをつけて、改めて部屋の中を見回して感嘆する。
最初に見たときも思ったが、まるで一流ホテルのような部屋だ。
薄いピンク色の壁紙。決していやらしい色ではなく、むしろ上品なピンク。それにあわせてか、部屋全体がピンクをベースに整えられている。カーペットはベージュで、幾何学模様のような柄のもの。優の寝かされていたベッドは、木製のがっしりしたつくりで、映画にでてきそうなアンティークな雰囲気のものだ。布団も多分シルクだろう、肌触りがすごく気持ちよかった。そのうえ、部屋の中に暖炉がある。実際には使えないものだろうが、大理石調の白いおおきな暖炉がベッドの足元の側の壁にあり、その上に、クリスタルの花瓶が載っていて、赤や黄色やピンクや、色とりどりの小さなバラが贅沢にいけてある。花瓶の横にあるクリスタルの置時計は、もうすぐ10時になろうかというところだ。
優はベッドから起き上がると、左側の壁に下がっている厚手のカーテンをそっとめくってみた。
カーテンの後ろには大きなフランス窓がついたテラスがあり、その向こうに大きな針葉樹が風に吹かれて静かに鳴っている。
優は着ている白のパジャマの上に壁にかけてあったガウンをはおり、窓を開けてテラスに出てみた。石造りの重厚なテラス。柱には彫刻が施されていて、まるでヨーロッパのお城にでもいるような雰囲気だ。出てみると夜風が気持ちいい。空に青白く耀く月は、半月よりもちょっと太ったくらいだろうか。外の空気を胸一杯に吸い込んでみると、久しぶりの空気になんだか心がじいんとした。
「あれ?眠れなかったか?」
そのとき、下のほうから声がした。見ると、テラスの下のほうに一平がいて、こちらを見上げている。
「一平さん」
「少しはよくなったみたいだけど、無理すんなよ」
「どうしたんですか?こんな夜ふけに」
「俺も何だかねつけなくて。ちょっと、体動かしてたんだ」
確かに、一平はTシャツにトレパンという出で立ちだ。首に青いタオルをかけていて、それで額についた汗をぐいっとぬぐった。
「見てのとおり、庭もだだっ広いからな」
「庭?」
みまわして、優は目をむいた。この家にはまだ驚くポイントがあったのか。
まるで雑誌に載っているイギリスかどこかの貴族の城のようなのだ。暗くてはっきりしないが、きれいに手入れされた植物や大きなアルコーブがみえる。そして、遥か向こうにどっしりとした金属製の門が見える。門の両側をふさぐ壁はそんなに高くはないが、壁の上に先のとがった鉄柵があり、それがずっと続いている。
平たく言ってしまえば、一平の言ったとおりものすごく広いのだ。
ただし、寸文の隙もなく調えられた感じだが。
「一平さんのおうちって・・・いったい・・・」
「あ、聞いてなかった?知ってるだろ、昴グループってさ。TVとかでみたことない?」
「え?ニュースとかでよくききますけど・・・あれ?」
「そ、蘇芳はアレの会長なんだ」
「・・・・・・・・・」
一瞬、頭の中が真っ白になる。そのあと、じわじわと驚きが広がってきた。
「え、え、ええ?!」
うまくしゃべれないくらいにパニックしてしまう。でも、だったらこの豪邸にも納得がいく。
昴グループといえば、特に化学系を中心に発展し、日本でも1,2位を争う大財閥だ。日本経済に深く根を張っているといっても過言ではなく、また高校生の優でも知っているくらい知名度も高い。
しかし、その昴グループの会長といえば、あまり表にでてこないことで有名だった。前会長が他界して、年若い長男が跡を継いだという話だったが、これがメディアにちっとも出てこない。しかし、確かに昴グループは代替わり以降も目覚しく発展を続けているのだ。だからマスコミは興味津々だが、昴グループ上層部はかたくなに会長を隠している。
「蘇芳は年もまだ20代後半だし、ああいう外見だからね、表に出たら騒がれるのわかってるんだよ。ちゃらちゃらした若造、とかってさ。まわりも蘇芳にすごく心酔してるから、蘇芳の意向の通り会長の正体を隠してるんだ。でも、あんだけ実績あげてるんだし、もうそろそろ表舞台にでてもいいころだと思うんだけどな」
一平はぶつぶつ言っていたが、はっとして優をみあげた。
「ごめんごめん、つまんない話になっちゃったな。まあ、そんなわけだから、人のひとりやふたり厄介になったところで痛くも痒くもないんだよ、このうちは。だから、しばらく腰据えてここにいなよ。俺なんてもう11年も居候してるんだぜ」
「??」
「うーん…つまりさ…ちょっと、そっちいっていいか?」
一平は慣れた手つきでベランダ脇の大木を登ってきた。優の横でテラスの手すりに腰掛ける。
「いや、俺も身寄りのない口でさ。8歳のときに蘇芳に引き取られたんだ。蘇芳とは血縁じゃないんだけど、いろいろあってさ、結局引き取ってもらったっていうか…」
ぽりぽりとこめかみのあたりを掻く。
「だからさ、あいつはそういうの経済力をぬきにしても気にならない性質なんだよ。いい奴だよ。安心して厄介になっちゃいな」
そういって一平は優を見た。
月明かりの下で、おだやかに笑うその人の顔は、何だか優には柔らかい光のように思えた。
「そういう一平さんも、いい人ですね」
「え?」
「だって、見ず知らずの行き倒れを家に連れてきちゃうんだから」
「うーん…だって、ほっとくわけにいかないだろ?」
「普通、救急車呼んだりしません?」
「いや何となく…何でだろうなあ…」
ひどく照れたように一平はあさってのほうを向いている。優はくすっと笑った。
(でも、事情を聞かないでいてくれる)
優には、全てを話してしまいたい衝動と、話してはいけないという強い自制が働いている。
(もし話しても信じてはもらえないだろうし、それに)
「あれ?蘇芳だ」
一平の声にはっと見ると、1台の黒っぽいセダンがアルコーブの向こうの大きなガレージに入ってきたところだった。
「多分、夏世を送ってったんだよ。こんな時間だし、夏世も泊まってけばいいのに」
「夏世さんって、ここのうちの人じゃなかったんですか?」
「うん、蘇芳の彼女だよ。夏世もお堅いからさ、ほぼ毎日ここに入りびたりのくせに一緒に住む気にはならないらしいよ。とっとと結婚すりゃいいのにさ。ああ、でも君は気にするなよ。夏世は好きでこうしてるんだから」
よいしょ、っと手すりから体をおこす。
「さてと、蘇芳に見つかる前に退散するよ。女の子の部屋のテラスにこんな時間にいたなんて、何言われるかわかったもんじゃない」
「もーーーうーーーおーーーそーーーいーーー!」
一平はぎくっとした。蘇芳はもうテラスの下に立っている。
「一平!!何やってるんだ!!」
「あ、いや、ちょっと月見など。」
「あ、あの、私が眠れなかったんで、一平さんが話に付き合ってくれてて、その…」
蘇芳はきょとんとして、大笑いした。
「大丈夫、優ちゃん、こいつにそんな甲斐性ないのはよく知ってるからね」
「どーいう意味だよ」
一平の抗議はあっさりと無視される。
「さてと、眠れないなら僕も仲間に入れてもらおうかな。体調がいいならリビングのほうへ来ないかい?一平、ちゃんと靴を脱いで中から案内してきて」
蘇芳は屋敷の中へ姿を消した。一平はちょっとばつが悪そうにしていたが、
「んじゃ、行ける?」
と、履いていたスニーカーを脱ぎだした。
通されたリビングは階段を下りてすぐの部屋だった。
リビングには蘇芳が後から入ってきた。初老の男性が蘇芳の後を従うように入ってきて、部屋の中を見ると
「ただいまお茶をお持ちします」
と恭しく一礼してでていった。
3人は座り心地のいい緑色のソファに腰を下ろした。
「本当はもうちょっと早く帰ってくるはずだったんだけどね」
蘇芳が話し出した。
「夏世を送っていったんだよ。もう遅いからね。なのに、住宅街の只中だって言うのに車が多いんだよ。」
「へえ、変なの」
「まったく、要所要所に路駐があって、通りにくいったら」
ちょっと肩をすくめる。そんな仕草が妙にハマる。
他愛のない話が始まったころ、控えめなノックの音がした。
さっきの初老の男性が、ワゴンを押して部屋に入ってきた。
「失礼いたします。当家の執事で駿河でございます。」
丁寧に一礼する。優はつられてぺこり、と頭を下げた。
駿河は無駄のない動きでカップに紅茶を注ぎ、好みに応じて砂糖やミルクをいれて3人に渡すと、もう一度一礼して部屋を出て行った。
「で、優ちゃん、支障のない程度でいいから話してくれないかな?」
蘇芳が優の目を覗き込んでいった。優しげな視線だが、なんだか全てを見透かされそうな気がする。そんな鋭さが奥底にあるような気がして、優はなんだかいたたまれなくなってきた。
「―――ごめんなさい。お話できたらいいんだけど…あんまり突拍子もない話だし、それに」
その「事情」が頭をかすめ、そのとき突然気がついた。
(車が、多かった?)
さっきの蘇芳の話、なにか引っかかっていた。それにすとん、と思い当たった。
「あの、夏世さんのおうちって、近くですか?!」
「あ、ああ、車で10分くらいだけど?」
急に勢い込んだ優の言葉に二人はちょっとびっくりする。
優はちょっとの間押し黙っていたが、だんだん表情がこわばっていった。
普段交通量のそんなにない住宅街に、要所要所に止められた車。まるで、警察か何かが張り込んでいるみたいに。
そうとは限らないが、ひょっとしたら。
「もう…こんな近くに」
「優ちゃん?」
優はぎりり、と歯をかみ締め、それから決心して二人に向き直った。
「ごめんなさい…本当にごめんなさい!いっぱいお世話になってるのに、すごく心苦しいんです。でも…行かなくちゃ」
ゆらりとソファから立ち上がる。
「な、何言ってるんだ、まだ君はどこかに行けるような体じゃ」
「いいえ、これ以上ここにいると皆さんにご迷惑がかかります。さっき蘇芳さんが言っていた車、多分、私の追っ手です。私の父を…殺して…私を追ってるんです」
優の目が暗く耀いた。一平と蘇芳は突然の話に言葉が出ない。彼女は続ける。
「理由は、お話できません。これ以上は皆さんを私の事情に巻き込むことになりますから」
ぺこっと頭をさげる。
「だ、だめだよ!追われてるって言うなら、事情はわからないけど、ますますここにいたほうが安全じゃないか!」
一平がとっさにたちあがり、優の手を取った。
引き止められると自分にそれを許してしまいそうになる。だから、どうか止めないで。
優は、泣きそうな顔で一平を見た。
「ありがとう…何のお礼もできなくて…でも、どうか私のこと忘れてください。その方が皆さんのためです」
次の瞬間、泣きそうな優の微笑が掻き消えた。
一平の手は、優の手を持った形のまま宙に浮いている。
部屋の中には、優のいた気配すらない。
半分ほど残ったミルクティのカップを除いて。