秋の入り日にヒグラシ鳴いて
我が家の墓は、長い坂の上にある。
私は老いた足を鞭打ちその坂を登った。
今日は暑くなりそうだ。一雨来そうだ。来客があるから……難癖を付け、墓参りを先延ばしにしていたのは私自身である。
そして、気がつけば夏も終わりに近づいていた。
墓参りが嫌なわけでは無い。墓の中に眠る母に、恨みがあるわけでもない。ただ坂道の先、そこに墓があるのがいけない。
まだ若い時分、眺めのよい場所がよいだろう。そんな知ったような口をきいて私は坂の上の墓を買った。
女手一つ、私を育ててくれた母へ感謝をこめて墓を建てたのである。
まだ若かった私は、自分が衰える日が来ることなど予想もしていなかった。
つまり年老いてしまった私は、昔の自己満足に閉口している。
いや。それも難癖だろう。ともかく、私は盆の時期を大きく外して墓参りをする事となったのである。
息を乱して私は坂道を上がる。
手に持つひしゃくと桶、そして花。ひとつひとつは軽いが、老いた指にぎちぎち食い込む。
ぐずぐずせずに朝早くに出れば良かったのだ。しかし持ち前の愚鈍さと面倒臭がりが私の体に根を張って、結局出かけたのは夕暮れの頃。
せめて豪勢にと買い込んだ花も、どこか元気がない。
初秋とはいえ、日差しは暑い。私の丸い背中が焼け焦げていく。首筋にぬるりとした汗を感じた。
額に浮かんだ汗が目に滑り込み、拭っても拭っても同じ場所に染みこむ。
口につるりと入り込んだ汗は、枯れ果てた水の味だ。年を取れば、汗の味さえ変わるのだ。
(……おや)
ひいひいと坂道を上がっているうちに、私は二つの影に気がついた。
それは小さな子供と母親らしい影である。ちょうど私の後ろを付いて歩いているのだろう。西日に伸ばされた影が、私の足を超えてまだ先にのびているのだ。
肩越しに見ても、西日が目に突き刺さるばかり。
追われるのは気分も良くない。いっそ追い越してくれと気を揉むが、親子は足の悪い私に気遣っているのか緩やかに後を追いかけてくる。
盆も過ぎ、辺りは人気が無い。背後の親子も私と同じく、怠惰に過ごしているうちに墓参りの機会を逃した者たちだろう。そう思えば、妙に親近感が湧いた。
やあ一緒に行きませんか。など声をかけるか? 私は逡巡し、一人で苦笑する。このような場所でかけるべき言葉ではない。
突然振り返っても奇妙に思われるだけだ。私は黙々歩きつつ、大地にのびる影を見る。
少年は丸刈りで短いズボンをはいている。母親もこざっぱりとした髪をしているらしい。手には何やら花を握っている。
どんな花であるのか、形だけではよく分からない。目をこらし慎重に見つめると、やがてそれは大きく開くヒマワリであると気がついた。
初秋、まだ咲くヒマワリもあるのである。
(……墓前に供えるには似合わない花だな)
夏の象徴であるヒマワリの影を見て、私の額にまた汗が浮かぶ。
周囲はヒグラシの声ばかりが賑やかである。
それはカナカナカナ、カナカナカナ。波のような強弱をたてて鳴く。カナカナ、カナカナ。私の歩調や息づかいが、やがてヒグラシの鳴き声に同調する。
私を背後から追いかけてくる影もまた、同じ呼吸になっていた。子供は母にじゃれつくように、くっついては離れた。まだ幼いのだろう。
母親らしい影がそのたびに子供を撫でてやるのが、微笑ましくも切ない光景である。
ふと私は、ヒマワリの花言葉が”愛慕”であると、思い出した。
懐かしみ、愛おしむ。それを思えば。
(……これほど墓参りに似合う花もない)
私は若い親子が向かう墓が、少しばかり羨ましくなった。
……やがて私は坂の上に到達する。そこからは町が一望できるのだ。町を見下ろせるこの場所が母の眠る墓である。
私は墓前に花を添えようと、一歩足を踏み出す。背後の影はまだ、付いてきている。
はて。この頂上に墓を構えているのは、私の家だけである。彼らはどこへ向かうのか。
振り返ろうとすると、私の老いた影に少年の影が吸い込まれた。
少年の母親の影は探してみても、どこへやら。ふと見れば、我が母の墓前にはまだ新しいヒマワリの花が一本。
手向けのように、置き忘れたように。黄色の花がそこにある。
ヒマワリは心配性だった生前の母が、一番好んだ花であることを私は思い出した。