私だけを悪女にするおつもりですか、殿下
「明日は、君一人でやったと言ってくれ」
セドリック殿下は私の手を取り、婚約指輪の石を撫でた。
面会室には暖炉がなかった。その指だけが温かく、私は振り払うのを少しためらった。
「ロシュフォール伯爵を陥れたのも、金杯を盗ませたのも、すべて私一人で?」
「君が認めれば、それ以上の追及はなくなる」
「私への追及は、終わりませんわ」
殿下は顔を上げた。
困った娘をなだめる時の目だった。以前、私が彼の隣で同じ顔をしていたのを思い出す。父王に叱られた彼が、何一つ好きにさせてもらえないと苛立っていた夜に。
「私が何の罪に問われているか、ご存じでしょう」
「分かっている」
「王家の宝物を奪い、偽りの証言で伯爵を獄に送った。両方を認めれば、首を落とされます」
殿下は私の手を両手で包んだ。
否定はしなかった。
「王位に就くのは私だ。ここで私まで倒れたら、君がしてきたことは何になる」
私は唇を少し開き、それから閉じた。
金杯を持ち出すよう従者に命じたのは、私だ。伯爵を陥れる証言も、自分の意思で口にした。
明日は私が裁かれる。殿下は、私に騙された被害者として出席するつもりだった。
「君は、私を王にしたかったのだろう」
ええ、と答えそうになった。
私は彼を王にしたかった。そして隣の席を、自分のものにしたかった。
「王妃になるつもりでした」
「君のことは生涯忘れない」
随分と小さな席を用意してくださったものだ。
殿下は私の左手を持ち上げ、指輪に口づけた。
この人が贈り物を選ぶ時の顔が好きだった。石の色を私の瞳と比べ、もっと大きなものを用意させると笑う顔が。
伯爵が連行された夜も、この指輪に口づけられた。
よくやった、私の妃にふさわしい、と。
「愛しているよ、ヴィオラ」
まだ、その声を聞くと胸が痛んだ。
腹立たしいことに。
「でしたら、私を助けてくださいませ」
「助けられるなら、そうしている」
彼は迷わず答えた。
私が黙っていると、今度は声を柔らかくした。
「君の母上は、あの別邸で今までどおり暮らせる。あたたかい部屋も、世話をする者もいる」
私は扉の方へ目を向けた。
母からの返事は、まだ届いていない。
「あれほど静かな場所だ。王都で何が起きようと、心安らかに過ごせるだろう。君が、私を信じてくれる限り」
椅子の下で足が冷えた。
母は今月初めから殿下の別邸にいる。療養に向いた静かな屋敷を貸すと言われ、私が勧めた。
私の関与が明るみに出ると、母の外出が禁じられた。面会も、手紙も、殿下の許しがなければ通らない。
「母には、何もなさらないと」
「約束する。君が私を愛していると、皆の前で示してくれれば」
私は空いた右手を襟元へ添えた。
以前はそこに小さな鍵を吊るしていた。殿下と二人で過ごすための別邸の鍵だった。
今は、鎖しかない。
「明日の朝まで、考えさせてください」
殿下はようやく私の手を離した。
すでに了承を得たつもりの顔だった。
「君は賢い。私のために何をすべきか、分かっている」
立ち去る時、彼は一度も振り返らなかった。
私は左手を膝へ戻した。まだ温かい指を握りしめ、扉の向こうの足音が消えるまで待った。
◇
次の足音が聞こえたのは、夜も更けてからだった。
入ってきた青年は、外套の肩を濡らしていた。私の向かいへ座る前に、扉の外の衛兵へ頷く。
伯爵の息子、ユーグ・ロシュフォール。
半年前、私の証言を聞いて立ち上がり、衛兵に押さえられた人だった。
杯を運んだ私の従者が見つかり、彼の訴えが通った。明日の再審理を待ち続けてきた人でもある。
「母は」
挨拶より先に尋ねた。
彼は懐から小さな紙を出し、卓上へ置いた。
折り目を開くと母の字があった。
『青い外套を忘れないように。あなたは寒いと、いつも機嫌が悪くなるから』
最後の文字が少し右へ流れている。
いつもの字だった。
「別邸を出た。今は王弟殿下の保護下にいる」
「殿下の兵は?」
「陛下の命令で屋敷ごと押さえた。明日の審理が済むまで、外へ連絡は出させない」
私は紙を畳もうとして、端をうまく合わせられなかった。
ユーグは見ていたが、手を貸さなかった。
「裏口は君の鍵で開いた。母上の部屋へ先に入れたので、揉めずに済んだ」
小さな鍵が卓上へ置かれた。
私が彼に預けたものだ。
十日前、母との面会を断られた帰り、王弟殿下への陳情を続けていた彼を呼び止めた。
私が言葉をかけると、彼は汚れたものを見るような目をした。それでも母の居場所と、金杯の行方を話すと最後まで聞いた。
「約束は果たした。君の番だ」
「減刑の話は?」
ユーグはもう一枚、封じられた書面を出した。
国王の印の下に、王弟ルドルフ殿下の名がある。
再審理を任された王弟は、事件の全容解明に協力する者をどう処分するかについても、国王の裁可を求めていた。
私への条件付き減刑は、すでに認められていた。
「君が、自分の指示と偽証をすべて認めること。供述が証人や押収品と一致すること。そのうえで処刑を国外追放へ改める」
「身分は」
「失う。王子の関与を証明しても、君の罪は消えない」
私は書面を引き寄せた。
母と出国することは認められる。携行できるのは着替えと指定された僅かな私物。父から受け継いだ屋敷も土地も没収され、損害の償いに充てられる。
侯爵家の名を名乗ることも許されない。
「私が何もかも失う一方で、殿下は王冠を手に入れるのでは?」
「殿下の処分を、私が約束することはできない」
「それでは、足りません」
ユーグの目が冷えた。
「私は君の機嫌を取るために来たのではない。父を獄から出すために来た」
私は書面から顔を上げた。
「母上の安全は確保した。君が黙っていても、母上を殿下へ返したりはしない。それで黙って死ぬつもりなら、もう止めない」
声は低かった。
優しくされるより、ずっと話が早かった。
「お父様は、私を許さないでしょうね」
「許さない」
「あなたも?」
「当然だ」
半年前の審理で、伯爵は私をまっすぐ見た。
何を見たと言っているのか、もう一度よく考えてほしい。そう言った。
私は目を逸らさず、同じ嘘を繰り返した。
殿下の無駄遣いを止めようとする伯爵が邪魔だった。私の家を見下していた彼の妻も嫌いだった。舞踏会から彼らの姿が消えた時は、胸がすいた。
母が別邸へ移ったのは、それからずっと後のことだ。
「では、無駄な挨拶は省きましょう」
私は母の手紙を折り畳んだ。手紙をしまい、書面を彼へ返した。
「杯を運んだ従者は、保護されていますね」
「君から遠ざけてある。王子からも」
「密使は?」
「こちらにいる。王子が君を見捨てたと知って、自分の順番を恐れた」
私は頷いた。
殿下は口の軽い人間を嫌う。けれど使者として働かせた人間が、都合のよい時だけ黙ってくれるとは限らない。
「王子は明朝、早めに控えの間へ呼び出す。その間に私室を捜索する。杯の場所に間違いは?」
「寝台の向かいの棚。奥板を外すと、赤い布に包まれた杯があります。先月、私が最後に見た場所です」
最初は溶かすつもりだった。
殿下はそれを嫌がった。戴冠式でしか王が口をつけない杯を、自分が先に持っている。そのことを楽しんでいたのだ。
伯爵が捕らえられた夜、私にもその杯で酒を飲ませた。
膝の上へ座らされ、残った酒を唇から舐め取られた時、私は自分こそ選ばれた女だと思った。
「今夜のうちに、移していたら?」
ユーグに聞かれ、私は指輪へ目を落とした。
「あるでしょう。私がまだ殿下を愛していると、安心してお帰りになりましたから」
「確かなのか」
「私が死ぬものと決めていれば、杯を惜しんで捨てられない方です」
彼はしばらく私を見ていた。
それから立ち上がり、書面を懐へ戻した。
「明日、続きを聞く」
扉が閉まると、私は卓上の鍵を握った。
愛の証としてもらった鍵が、母を閉じ込める屋敷を開けた。
殿下の役に立ったものを、ようやく私のためにも使えた。
◇
翌朝、審理の広間へ入ると、衣擦れの音が止まった。
私を見ている顔には見覚えがあった。夜会で笑い合い、私の婚約指輪を褒め、伯爵が失脚した後はその空席へ競って近づいた人々だ。
今は誰も目礼しなかった。
広間の奥に王弟ルドルフ殿下が座り、その前に書記官と近衛の兵が並んでいた。
セドリック殿下の席は右手の高い場所にある。
私は床に置かれた椅子へ座らされた。手首に鎖はない。それが王子の婚約者への最後の礼儀なのか、罪人には不要な見栄なのか、考える気にもならなかった。
まず、伯爵が拘束された経緯が読み上げられた。
半年前の春祭の前夜、宝物庫から儀礼用の金杯が消失した。監督の任にあったロシュフォール伯爵が持ち出すところを、侯爵令嬢ヴィオラが目撃した。
伯爵は終始否定したが、王子の婚約者が名を賭して誓った証言は重かった。
杯は見つからず、伯爵は官職と所領を失い、今も獄中にいる。
私の嘘が、朗々と読み上げられた。
一言一句、聞き覚えがあった。
「殿下からも、改めてお話を伺いたい」
王弟に促され、セドリック殿下は立ち上がった。
「彼女の関与を聞いた時、私も耳を疑いました。伯爵家を快く思っていないとは知っていましたが、ここまでするとは」
殿下は私を見た。
痛ましいものを見るような顔をするのが上手だった。
「杯の行方については、何もご存じなかったと?」
「ええ。宝物庫から消えた後、どこへ運ばれたのか、私は知りません」
私は膝の上で指を揃えた。
昨夜まで殿下の私室にあったなら、今朝の捜索で見つかっているはずだ。
母の手紙は袖の内にある。紙の端を指で確かめてから、顔を上げた。
「彼女には、私からも真実を話すよう勧めました」
殿下はそう付け加えた。
「ヴィオラ。君がしたことを認めるんだ」
以前なら、その言葉に頷くだけで褒めてもらえた。
私は立った。
「金杯を宝物庫から運び出させたのは、私です」
ざわめきが広がった。
殿下は目を伏せた。つらい告白を聞いたように見せながら、口元だけがわずかに緩んだ。
「私の従者を使いました。春祭の飾りを確かめるため、殿下のお部屋へ届けるのだと伝えました」
広間が静かになった。
私は続けた。
「彼は王子のご命令だと聞いて従いました。殿下の私室まで運び、ご本人へ渡したはずです」
「ヴィオラ」
殿下が私の名を呼んだ。
今度は、褒める時の声ではなかった。
「伯爵が持ち出すところを見た、という証言は偽りです。私はあの夜、伯爵を見ていません」
傍聴席の端で椅子が鳴った。
ユーグが座っていた。手を膝へ押しつけ、私を見ていた。
私はそちらへは頭を下げなかった。
「殿下から、伯爵を退けたいと伺いました。自分を子供扱いする男を、監督の席から降ろしたいと」
「違う。君が勝手に――」
「違いません。どの罪にするかを考えたのは私です。盗みなら官職を失う。王家の杯なら、軽い処分では済まない」
王弟が私を見た。
「脅されて、したのか」
「いいえ」
私の声はよく通った。
「殿下のお役に立ちたかったのです。伯爵の奥方にも、私の家を侮ったことを後悔していただきたかった」
「報酬は受け取ったか」
「官職も金銭もいただいておりません。いずれ王妃になる私のためだと、殿下はおっしゃいました」
期待していた報酬は大きかった。
いまさら、ほんの一時の迷いで間違えたことにはできない。
「王妃になれるなら、人を陥れてもよいと?」
「あの時の私は、そう考えました」
誰かが悪女と囁いた。
声の主を探す必要はなかった。どの顔を見ても、同じ言葉を飲み込んでいるように見えた。
セドリック殿下は席の肘掛けを握っていた。
「彼女が自分の罪を軽くするため、私を巻き込もうとしているだけです。私の名を使って杯を動かし、今度は私の部屋へ運んだと言う。伯爵を陥れるなど、私は命じていない」
私は少し笑った。
「私だけを悪女にするおつもりですか、殿下」
彼の顔から、作っていた悲しみが消えた。
「お望みのものを運ばせた時は、よくやったとおっしゃったでしょう。伯爵を獄へ送った時も、同じように」
「証拠のない話だ」
「ございます。殿下のお言葉を、私へ届けた方が」
王弟が書記官へ頷いた。
扉の近くに控えていた男が二人、近衛に付き添われて前へ出た。
一人は私の従者。もう一人は王子が内密の用件を任せていた使者だった。
どちらも私の目を避けた。
使者の供述が読まれた。
伯爵が疑いをかけられる前夜、殿下は私への口上を託した。杯は自分が預かる。翌日の問いには、伯爵が運び出すのを見たと言うように。詳細は打ち合わせたとおりに、と。
使者は私へそのまま伝え、私が承知した旨を殿下へ報告した。
供述に間違いはないかと王弟が尋ねると、男は深く頷いた。
その首筋に汗が浮いているのが見えた。
「寝返った者の言葉を信じるのですか」
殿下が言った。
「追及を逃れたくて、彼女と口を合わせたのだ」
「二人は別々に聴取している」
王弟は短く答えた。
続いて、運搬した従者の供述が示された。
彼は杯の入った箱を殿下の私室へ運んだ。殿下は蓋を開けて杯を確かめ、棚の前へ置くよう命じた。運搬が人目につかぬよう私が手配したことも、彼は認めた。
私は否定しなかった。
「どちらも、己の罪を知ったうえで供述している。免責の約束はしていない」
王弟が言うと、殿下は口を閉じた。
従者が私へ一度だけ目を向けた。
私は、彼の怯えた顔を知っていた。あの夜、王子の名を出せば従うと思って、実際にそうさせたのだから。
「私が、命じました」
改めて言った。
「この者に伯爵を陥れる企てまでは話していません。ただし運搬を伏せるよう命じ、口止めの金も渡しました」
書記官の筆が動いた。
自分の首から綱が外れていく心地はしなかった。別の形で、固く結び直されている。
「そして、杯の所在だが」
王弟の声で、皆が顔を上げた。
近衛が卓上へ箱を置いた。蓋が開き、赤い布がめくられる。
金の杯が現れた。
殿下の指が肘掛けから滑った。
「今朝、そなたが控えの間で待つ間に、陛下の命で私室を捜索した。寝台の向かいの棚、その奥にあった」
私の知っている杯だった。
細い脚に獅子が絡み、縁には小さな赤い石が並んでいる。殿下が私の口へ傾けた時、少し重いと思った。
いま見ても、美しかった。
「宝物庫の刻印とも一致した。伯爵が横領したとして罪に問われているのは、この杯だ」
王弟は殿下を見た。
「行方を知らぬと言ったな」
セドリック殿下はすぐに答えなかった。
私を見た。杯を見た。もう一度、私へ目を戻した。
「ヴィオラが、私の部屋へ隠したのだ。彼女は出入りを許されていた」
「殿下ご自身へ渡したと、従者が述べている」
「買収されている」
「その者を手配した彼女も、自ら認めている。使者の伝えた指示も含めてな」
殿下は立ち上がった。
「彼女が認めれば、何でも事実になるのですか」
「ならない。だから三人の供述と、この杯を照合している」
広間の空気が変わっていた。
私を見ていた顔が、殿下へ向く。
彼が私へ押しつけようとしていたものが、ようやく彼の椅子にも届いた。
私は婚約指輪の石に指を添えた。
殿下が身を乗り出す。
「君は、母上のことを考えているのか」
昨夜より低い声だった。
「あの静かな屋敷で、一人きりなのだぞ」
王弟が書記官へ顔を向けた。
「今の言葉も、そのまま記録せよ」
殿下は口をつぐんだが、もう筆は動いていた。
私は袖から母の手紙を取り出した。
開かず、掌に載せるだけにした。
「昨夜、別邸を出ました」
殿下の目が初めて大きく開いた。
「王弟殿下のお世話で、暖かい部屋におります。今頃、お茶を飲んでいるのではないかしら」
彼は入口の方を見た。
そこに立っているのは、彼の命令を待つ者たちではなかった。
ユーグが傍聴席で静かに息を吐いた。
「母のご心配は、もう結構です」
私は手紙をしまった。
指先は冷えていたが、震えてはいなかった。
◇
「ヴィオラと、二人で話をさせてほしい」
殿下が言った。
王弟は首を振った。
「ここで話せ」
殿下は高い席から下りてきた。
近衛が間へ入る。彼は苛立った顔をしたが、兵を押しのけることはせず、その肩越しに私を見た。
こんなに近い場所で見つめ合うのは、昨夜以来だった。
「すまなかった」
私は息を止めた。
たった一言で、まだ体が勝手に反応する。
「君がここまで思い詰めているとは、分からなかった。母上を傷つけるつもりはなかったんだ」
「私には、死ねとおっしゃいました」
「あれは、ほかに道がないと思ったからだ」
殿下は一度、周囲へ目をやった。
誰も彼を助けなかった。
「私も誤った。二人とも、間違えた。だが君まで、すべてを壊す必要はない」
私は彼の手を見た。
近衛に隔てられていなければ、きっと今、私の手を取るつもりなのだろう。
私の手に唇を寄せ、私しか頼れないと言う。
どんな顔をすれば私が頷くか、彼はよく知っている。
「君は、私と一緒になるはずだった」
青い寝室を選んだ。
南の庭には白い花を植えようと話した。冬の離宮は風が強いから、同じ寝室を使えばいいと彼が囁き、私は扇で口元を隠して笑った。
つい最近まで、全部手に入るはずだった。
「覚えています」
「なら、まだ間に合う。父上に二人で許しを請おう。君の望みを、私は覚えている」
彼は私の左手を見た。
「その指輪を、まだしているだろう」
私は石の表面を撫でた。
綺麗な指輪だった。返せと言われなかったことを、昨夜は少しだけ喜んでさえいた。
あれをして死ぬことまで、彼の用意した物語だったのかもしれない。
「君を愛している。私の妃は、君だ」
もう一度だけ、その言葉に目を閉じた。
王妃になりたかった。
この男の隣で、私を見下していた人々を跪かせたかった。
彼が私を抱く時の、少し気の緩んだ顔も好きだった。
それが全部なくなるのだと、ようやく実感が湧いた。
私は目を開けた。
「では、先ほどの言葉を取り消してください」
殿下の表情がわずかに明るくなった。
「何をだ」
「私一人で企てた、という言葉です。あなたも承知で伯爵を陥れた。そうお認めになって」
彼は口を閉じた。
視線が私から外れ、卓上の金杯へ動いた。
「今、ここで言うことではない」
「ここでなければ、聞いていただけません」
「ヴィオラ。私の立場を考えろ」
私は彼を見た。
愛していると言う声から、先ほどまでの柔らかさが消えていた。
「ずっと考えてきました。伯爵よりあなたを上に。ほかの誰よりも、あなたを上に」
指輪から手を離した。
「今日は、あなたを王にしないために話しています」
殿下が半歩前へ出た。
近衛が進路を塞いだ。その向こうで、彼の顔が歪んだ。
「裏切るのか」
「順番をお間違えにならないで」
王弟が私の名を呼んだ。
私は殿下から目を離し、奥の席へ向き直った。
「述べたことを、すべて記録してください。運搬を手配したことも、伯爵を見たと偽ったことも。私は撤回しません」
書記官の筆先が止まらずに動いていた。
私の家の名も、殿下の名も、同じ記録の中へ収まっていく。
審理はそこで閉じられた。
殿下は別室へ留め置かれ、私も元の部屋へ戻された。廊下の先で彼が私の名を呼んだが、振り返らなかった。
部屋へ入ってから、私は椅子に座ったまま長いこと動けなかった。
裁可が下ったのは三日後だった。
セドリック王子は継承権を失い、北の離宮に幽閉される。
ロシュフォール伯爵への裁きは取り消され、名誉と所領が戻された。
私には、あらかじめ示されたとおりの処分が下った。身分の剥奪、財産の没収、そして国外追放。
告げられた時、私は自分の家の門を思い出した。
幼い頃、馬車から身を乗り出して眺めた紋章。庭の噴水。鏡の並ぶ私の部屋。
もう、どれも私のものではなかった。
「受け入れるか」
問われ、頷いた。
処刑台へ向かわずに済むというだけで、勝ったと思える日が来るとは知らなかった。
◇
出国の日、港は朝から風が強かった。
母は宿の食堂で待っていた。借り物の杖を椅子へ立てかけ、私が入ってくると、羽織った青い外套を見て小さく頷いた。
「着てきたのね」
「手紙に書いてあったでしょう」
母が私の頬へ手を伸ばした。
痩せたと言われるかと思ったが、母はそうは言わなかった。頬を一度だけ撫で、手を膝へ戻した。
私も、遅くなってごめんなさいとは言えなかった。
「少し買い物をしてきます。温かいものを頼んでおいて」
「二人分?」
「ええ」
食堂を出ると、護送を引き受けたユーグが待っていた。
彼は私の左手へ目を落とした。
「それを売るのか」
「携行を許された私物です。没収し忘れたわけではないわ」
「知っている」
国王の裁可に添えられた目録には、この指輪も載っていた。
伯爵の事件より前に私へ贈られた品だ。王家の財産ではなく私の持ち物と認められ、旅の支度のため残された。
ほかには着替えと外套、母の小さな宝石箱が一つ。
買い取りの店は港の通りにあった。
店主は石を光に透かし、内側の刻印を見てから値を告げた。
私は笑った。
「そのお値段では、台の金までおまけにすることになります」
少しだけ値が上がった。
それでも殿下が誇らしげに語っていた額には、遠く及ばなかった。
私はもう一度だけ交渉し、硬貨を受け取った。
母と二人の船賃を払っても、しばらく屋根のある部屋で眠れる。それだけの金額だった。
店を出る時、指輪を見直さなかった。
外した跡に風が当たり、いつもより指が細くなったように感じた。
「お父様は?」
通りへ戻ってから尋ねた。
「昨日、家へ帰った」
「そう」
「階段は、一人で上がれなかった」
私は足を止めた。
ユーグはこちらを見ず、荷車が通り過ぎるのを待っていた。
「君が話したことは伝えた。父は、それだけか、と言った」
「でしょうね」
許してほしいと言えば、彼はどんな顔をしただろう。
私は尋ねなかった。
硬貨の袋を持ち直し、食堂へ向かって歩いた。
「よく私の話に乗りましたね。あの時、あなたまで罠にかけるつもりだったかもしれないのに」
「君を信じたわけではない」
ユーグは少し遅れて答えた。
「君が、殿下だけは許さないと思った」
私は声を出して笑った。
通りを行く人が一人、振り返った。
「よくご存じで」
彼は笑わなかった。私もそれ以上、機嫌を取ろうとはしなかった。
食堂の前で、彼がもう一度私の名を呼んだ。
「殿下から伝言がある。君を、今でも愛していると」
扉の取っ手にかけた指が止まった。
あの声が聞こえた気がした。
愛しているよ、ヴィオラ。
母の席へ目をやると、二人分の食事から温かい湯気が上がっていた。
「船が出る時刻に、また来てください」
伝言には答えず、私は中へ入った。
母の向かいへ座り、パンの皿を引き寄せる。
「何か、なくしたの?」
母が私の左手を見て言った。
「売りました」
硬貨の袋を開き、食事代を卓上へ置いた。
母は頷き、私にスープを勧めた。
私は匙を取り、少し冷ましてから口へ運んだ。塩が強く、宮廷で食べていたものよりずっと粗い味がした。
それでも、もう一口食べた。
窓の向こうに、これから乗る船の帆が見えた。
指輪は売れた。
殿下の愛よりは、高かった。




