↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR

私だけを悪女にするおつもりですか、殿下

掲載日:2026/10/12

「明日は、君一人でやったと言ってくれ」


 セドリック殿下は私の手を取り、婚約指輪の石を撫でた。

 面会室には暖炉がなかった。その指だけが温かく、私は振り払うのを少しためらった。


「ロシュフォール伯爵を陥れたのも、金杯を盗ませたのも、すべて私一人で?」

「君が認めれば、それ以上の追及はなくなる」

「私への追及は、終わりませんわ」


 殿下は顔を上げた。

 困った娘をなだめる時の目だった。以前、私が彼の隣で同じ顔をしていたのを思い出す。父王に叱られた彼が、何一つ好きにさせてもらえないと苛立っていた夜に。


「私が何の罪に問われているか、ご存じでしょう」

「分かっている」

「王家の宝物を奪い、偽りの証言で伯爵を獄に送った。両方を認めれば、首を落とされます」


 殿下は私の手を両手で包んだ。

 否定はしなかった。


「王位に就くのは私だ。ここで私まで倒れたら、君がしてきたことは何になる」


 私は唇を少し開き、それから閉じた。

 金杯を持ち出すよう従者に命じたのは、私だ。伯爵を陥れる証言も、自分の意思で口にした。

 明日は私が裁かれる。殿下は、私に騙された被害者として出席するつもりだった。


「君は、私を王にしたかったのだろう」


 ええ、と答えそうになった。

 私は彼を王にしたかった。そして隣の席を、自分のものにしたかった。


「王妃になるつもりでした」

「君のことは生涯忘れない」


 随分と小さな席を用意してくださったものだ。


 殿下は私の左手を持ち上げ、指輪に口づけた。

 この人が贈り物を選ぶ時の顔が好きだった。石の色を私の瞳と比べ、もっと大きなものを用意させると笑う顔が。

 伯爵が連行された夜も、この指輪に口づけられた。

 よくやった、私の妃にふさわしい、と。


「愛しているよ、ヴィオラ」


 まだ、その声を聞くと胸が痛んだ。

 腹立たしいことに。


「でしたら、私を助けてくださいませ」

「助けられるなら、そうしている」


 彼は迷わず答えた。

 私が黙っていると、今度は声を柔らかくした。


「君の母上は、あの別邸で今までどおり暮らせる。あたたかい部屋も、世話をする者もいる」


 私は扉の方へ目を向けた。

 母からの返事は、まだ届いていない。


「あれほど静かな場所だ。王都で何が起きようと、心安らかに過ごせるだろう。君が、私を信じてくれる限り」


 椅子の下で足が冷えた。

 母は今月初めから殿下の別邸にいる。療養に向いた静かな屋敷を貸すと言われ、私が勧めた。

 私の関与が明るみに出ると、母の外出が禁じられた。面会も、手紙も、殿下の許しがなければ通らない。


「母には、何もなさらないと」

「約束する。君が私を愛していると、皆の前で示してくれれば」


 私は空いた右手を襟元へ添えた。

 以前はそこに小さな鍵を吊るしていた。殿下と二人で過ごすための別邸の鍵だった。

 今は、鎖しかない。


「明日の朝まで、考えさせてください」


 殿下はようやく私の手を離した。

 すでに了承を得たつもりの顔だった。


「君は賢い。私のために何をすべきか、分かっている」


 立ち去る時、彼は一度も振り返らなかった。

 私は左手を膝へ戻した。まだ温かい指を握りしめ、扉の向こうの足音が消えるまで待った。


 ◇


 次の足音が聞こえたのは、夜も更けてからだった。

 入ってきた青年は、外套の肩を濡らしていた。私の向かいへ座る前に、扉の外の衛兵へ頷く。

 伯爵の息子、ユーグ・ロシュフォール。

 半年前、私の証言を聞いて立ち上がり、衛兵に押さえられた人だった。

 杯を運んだ私の従者が見つかり、彼の訴えが通った。明日の再審理を待ち続けてきた人でもある。


「母は」


 挨拶より先に尋ねた。

 彼は懐から小さな紙を出し、卓上へ置いた。

 折り目を開くと母の字があった。


『青い外套を忘れないように。あなたは寒いと、いつも機嫌が悪くなるから』


 最後の文字が少し右へ流れている。

 いつもの字だった。


「別邸を出た。今は王弟殿下の保護下にいる」

「殿下の兵は?」

「陛下の命令で屋敷ごと押さえた。明日の審理が済むまで、外へ連絡は出させない」


 私は紙を畳もうとして、端をうまく合わせられなかった。

 ユーグは見ていたが、手を貸さなかった。


「裏口は君の鍵で開いた。母上の部屋へ先に入れたので、揉めずに済んだ」


 小さな鍵が卓上へ置かれた。

 私が彼に預けたものだ。

 十日前、母との面会を断られた帰り、王弟殿下への陳情を続けていた彼を呼び止めた。

 私が言葉をかけると、彼は汚れたものを見るような目をした。それでも母の居場所と、金杯の行方を話すと最後まで聞いた。


「約束は果たした。君の番だ」

「減刑の話は?」


 ユーグはもう一枚、封じられた書面を出した。

 国王の印の下に、王弟ルドルフ殿下の名がある。

 再審理を任された王弟は、事件の全容解明に協力する者をどう処分するかについても、国王の裁可を求めていた。

 私への条件付き減刑は、すでに認められていた。


「君が、自分の指示と偽証をすべて認めること。供述が証人や押収品と一致すること。そのうえで処刑を国外追放へ改める」

「身分は」

「失う。王子の関与を証明しても、君の罪は消えない」


 私は書面を引き寄せた。

 母と出国することは認められる。携行できるのは着替えと指定された僅かな私物。父から受け継いだ屋敷も土地も没収され、損害の償いに充てられる。

 侯爵家の名を名乗ることも許されない。


「私が何もかも失う一方で、殿下は王冠を手に入れるのでは?」

「殿下の処分を、私が約束することはできない」

「それでは、足りません」


 ユーグの目が冷えた。


「私は君の機嫌を取るために来たのではない。父を獄から出すために来た」


 私は書面から顔を上げた。


「母上の安全は確保した。君が黙っていても、母上を殿下へ返したりはしない。それで黙って死ぬつもりなら、もう止めない」


 声は低かった。

 優しくされるより、ずっと話が早かった。


「お父様は、私を許さないでしょうね」

「許さない」

「あなたも?」

「当然だ」


 半年前の審理で、伯爵は私をまっすぐ見た。

 何を見たと言っているのか、もう一度よく考えてほしい。そう言った。

 私は目を逸らさず、同じ嘘を繰り返した。

 殿下の無駄遣いを止めようとする伯爵が邪魔だった。私の家を見下していた彼の妻も嫌いだった。舞踏会から彼らの姿が消えた時は、胸がすいた。

 母が別邸へ移ったのは、それからずっと後のことだ。


「では、無駄な挨拶は省きましょう」


 私は母の手紙を折り畳んだ。手紙をしまい、書面を彼へ返した。


「杯を運んだ従者は、保護されていますね」

「君から遠ざけてある。王子からも」

「密使は?」

「こちらにいる。王子が君を見捨てたと知って、自分の順番を恐れた」


 私は頷いた。

 殿下は口の軽い人間を嫌う。けれど使者として働かせた人間が、都合のよい時だけ黙ってくれるとは限らない。


「王子は明朝、早めに控えの間へ呼び出す。その間に私室を捜索する。杯の場所に間違いは?」

「寝台の向かいの棚。奥板を外すと、赤い布に包まれた杯があります。先月、私が最後に見た場所です」


 最初は溶かすつもりだった。

 殿下はそれを嫌がった。戴冠式でしか王が口をつけない杯を、自分が先に持っている。そのことを楽しんでいたのだ。

 伯爵が捕らえられた夜、私にもその杯で酒を飲ませた。

 膝の上へ座らされ、残った酒を唇から舐め取られた時、私は自分こそ選ばれた女だと思った。


「今夜のうちに、移していたら?」


 ユーグに聞かれ、私は指輪へ目を落とした。


「あるでしょう。私がまだ殿下を愛していると、安心してお帰りになりましたから」

「確かなのか」

「私が死ぬものと決めていれば、杯を惜しんで捨てられない方です」


 彼はしばらく私を見ていた。

 それから立ち上がり、書面を懐へ戻した。


「明日、続きを聞く」


 扉が閉まると、私は卓上の鍵を握った。

 愛の証としてもらった鍵が、母を閉じ込める屋敷を開けた。

 殿下の役に立ったものを、ようやく私のためにも使えた。


 ◇


 翌朝、審理の広間へ入ると、衣擦れの音が止まった。

 私を見ている顔には見覚えがあった。夜会で笑い合い、私の婚約指輪を褒め、伯爵が失脚した後はその空席へ競って近づいた人々だ。

 今は誰も目礼しなかった。


 広間の奥に王弟ルドルフ殿下が座り、その前に書記官と近衛の兵が並んでいた。

 セドリック殿下の席は右手の高い場所にある。

 私は床に置かれた椅子へ座らされた。手首に鎖はない。それが王子の婚約者への最後の礼儀なのか、罪人には不要な見栄なのか、考える気にもならなかった。


 まず、伯爵が拘束された経緯が読み上げられた。

 半年前の春祭の前夜、宝物庫から儀礼用の金杯が消失した。監督の任にあったロシュフォール伯爵が持ち出すところを、侯爵令嬢ヴィオラが目撃した。

 伯爵は終始否定したが、王子の婚約者が名を賭して誓った証言は重かった。

 杯は見つからず、伯爵は官職と所領を失い、今も獄中にいる。


 私の嘘が、朗々と読み上げられた。

 一言一句、聞き覚えがあった。


「殿下からも、改めてお話を伺いたい」


 王弟に促され、セドリック殿下は立ち上がった。


「彼女の関与を聞いた時、私も耳を疑いました。伯爵家を快く思っていないとは知っていましたが、ここまでするとは」


 殿下は私を見た。

 痛ましいものを見るような顔をするのが上手だった。


「杯の行方については、何もご存じなかったと?」

「ええ。宝物庫から消えた後、どこへ運ばれたのか、私は知りません」


 私は膝の上で指を揃えた。

 昨夜まで殿下の私室にあったなら、今朝の捜索で見つかっているはずだ。

 母の手紙は袖の内にある。紙の端を指で確かめてから、顔を上げた。


「彼女には、私からも真実を話すよう勧めました」


 殿下はそう付け加えた。


「ヴィオラ。君がしたことを認めるんだ」


 以前なら、その言葉に頷くだけで褒めてもらえた。

 私は立った。


「金杯を宝物庫から運び出させたのは、私です」


 ざわめきが広がった。

 殿下は目を伏せた。つらい告白を聞いたように見せながら、口元だけがわずかに緩んだ。


「私の従者を使いました。春祭の飾りを確かめるため、殿下のお部屋へ届けるのだと伝えました」


 広間が静かになった。

 私は続けた。


「彼は王子のご命令だと聞いて従いました。殿下の私室まで運び、ご本人へ渡したはずです」

「ヴィオラ」


 殿下が私の名を呼んだ。

 今度は、褒める時の声ではなかった。


「伯爵が持ち出すところを見た、という証言は偽りです。私はあの夜、伯爵を見ていません」


 傍聴席の端で椅子が鳴った。

 ユーグが座っていた。手を膝へ押しつけ、私を見ていた。

 私はそちらへは頭を下げなかった。


「殿下から、伯爵を退けたいと伺いました。自分を子供扱いする男を、監督の席から降ろしたいと」

「違う。君が勝手に――」

「違いません。どの罪にするかを考えたのは私です。盗みなら官職を失う。王家の杯なら、軽い処分では済まない」


 王弟が私を見た。


「脅されて、したのか」

「いいえ」


 私の声はよく通った。


「殿下のお役に立ちたかったのです。伯爵の奥方にも、私の家を侮ったことを後悔していただきたかった」

「報酬は受け取ったか」

「官職も金銭もいただいておりません。いずれ王妃になる私のためだと、殿下はおっしゃいました」


 期待していた報酬は大きかった。

 いまさら、ほんの一時の迷いで間違えたことにはできない。


「王妃になれるなら、人を陥れてもよいと?」

「あの時の私は、そう考えました」


 誰かが悪女と囁いた。

 声の主を探す必要はなかった。どの顔を見ても、同じ言葉を飲み込んでいるように見えた。

 セドリック殿下は席の肘掛けを握っていた。


「彼女が自分の罪を軽くするため、私を巻き込もうとしているだけです。私の名を使って杯を動かし、今度は私の部屋へ運んだと言う。伯爵を陥れるなど、私は命じていない」


 私は少し笑った。


「私だけを悪女にするおつもりですか、殿下」


 彼の顔から、作っていた悲しみが消えた。


「お望みのものを運ばせた時は、よくやったとおっしゃったでしょう。伯爵を獄へ送った時も、同じように」

「証拠のない話だ」

「ございます。殿下のお言葉を、私へ届けた方が」


 王弟が書記官へ頷いた。

 扉の近くに控えていた男が二人、近衛に付き添われて前へ出た。

 一人は私の従者。もう一人は王子が内密の用件を任せていた使者だった。

 どちらも私の目を避けた。


 使者の供述が読まれた。

 伯爵が疑いをかけられる前夜、殿下は私への口上を託した。杯は自分が預かる。翌日の問いには、伯爵が運び出すのを見たと言うように。詳細は打ち合わせたとおりに、と。

 使者は私へそのまま伝え、私が承知した旨を殿下へ報告した。


 供述に間違いはないかと王弟が尋ねると、男は深く頷いた。

 その首筋に汗が浮いているのが見えた。


「寝返った者の言葉を信じるのですか」


 殿下が言った。


「追及を逃れたくて、彼女と口を合わせたのだ」

「二人は別々に聴取している」


 王弟は短く答えた。

 続いて、運搬した従者の供述が示された。

 彼は杯の入った箱を殿下の私室へ運んだ。殿下は蓋を開けて杯を確かめ、棚の前へ置くよう命じた。運搬が人目につかぬよう私が手配したことも、彼は認めた。

 私は否定しなかった。


「どちらも、己の罪を知ったうえで供述している。免責の約束はしていない」


 王弟が言うと、殿下は口を閉じた。

 従者が私へ一度だけ目を向けた。

 私は、彼の怯えた顔を知っていた。あの夜、王子の名を出せば従うと思って、実際にそうさせたのだから。


「私が、命じました」


 改めて言った。


「この者に伯爵を陥れる企てまでは話していません。ただし運搬を伏せるよう命じ、口止めの金も渡しました」


 書記官の筆が動いた。

 自分の首から綱が外れていく心地はしなかった。別の形で、固く結び直されている。


「そして、杯の所在だが」


 王弟の声で、皆が顔を上げた。

 近衛が卓上へ箱を置いた。蓋が開き、赤い布がめくられる。

 金の杯が現れた。


 殿下の指が肘掛けから滑った。


「今朝、そなたが控えの間で待つ間に、陛下の命で私室を捜索した。寝台の向かいの棚、その奥にあった」


 私の知っている杯だった。

 細い脚に獅子が絡み、縁には小さな赤い石が並んでいる。殿下が私の口へ傾けた時、少し重いと思った。

 いま見ても、美しかった。


「宝物庫の刻印とも一致した。伯爵が横領したとして罪に問われているのは、この杯だ」


 王弟は殿下を見た。


「行方を知らぬと言ったな」


 セドリック殿下はすぐに答えなかった。

 私を見た。杯を見た。もう一度、私へ目を戻した。


「ヴィオラが、私の部屋へ隠したのだ。彼女は出入りを許されていた」

「殿下ご自身へ渡したと、従者が述べている」

「買収されている」

「その者を手配した彼女も、自ら認めている。使者の伝えた指示も含めてな」


 殿下は立ち上がった。


「彼女が認めれば、何でも事実になるのですか」

「ならない。だから三人の供述と、この杯を照合している」


 広間の空気が変わっていた。

 私を見ていた顔が、殿下へ向く。

 彼が私へ押しつけようとしていたものが、ようやく彼の椅子にも届いた。


 私は婚約指輪の石に指を添えた。

 殿下が身を乗り出す。


「君は、母上のことを考えているのか」


 昨夜より低い声だった。


「あの静かな屋敷で、一人きりなのだぞ」


 王弟が書記官へ顔を向けた。


「今の言葉も、そのまま記録せよ」


 殿下は口をつぐんだが、もう筆は動いていた。

 私は袖から母の手紙を取り出した。

 開かず、掌に載せるだけにした。


「昨夜、別邸を出ました」


 殿下の目が初めて大きく開いた。


「王弟殿下のお世話で、暖かい部屋におります。今頃、お茶を飲んでいるのではないかしら」


 彼は入口の方を見た。

 そこに立っているのは、彼の命令を待つ者たちではなかった。

 ユーグが傍聴席で静かに息を吐いた。


「母のご心配は、もう結構です」


 私は手紙をしまった。

 指先は冷えていたが、震えてはいなかった。


 ◇


「ヴィオラと、二人で話をさせてほしい」


 殿下が言った。

 王弟は首を振った。


「ここで話せ」


 殿下は高い席から下りてきた。

 近衛が間へ入る。彼は苛立った顔をしたが、兵を押しのけることはせず、その肩越しに私を見た。

 こんなに近い場所で見つめ合うのは、昨夜以来だった。


「すまなかった」


 私は息を止めた。

 たった一言で、まだ体が勝手に反応する。


「君がここまで思い詰めているとは、分からなかった。母上を傷つけるつもりはなかったんだ」

「私には、死ねとおっしゃいました」

「あれは、ほかに道がないと思ったからだ」


 殿下は一度、周囲へ目をやった。

 誰も彼を助けなかった。


「私も誤った。二人とも、間違えた。だが君まで、すべてを壊す必要はない」


 私は彼の手を見た。

 近衛に隔てられていなければ、きっと今、私の手を取るつもりなのだろう。

 私の手に唇を寄せ、私しか頼れないと言う。

 どんな顔をすれば私が頷くか、彼はよく知っている。


「君は、私と一緒になるはずだった」


 青い寝室を選んだ。

 南の庭には白い花を植えようと話した。冬の離宮は風が強いから、同じ寝室を使えばいいと彼が囁き、私は扇で口元を隠して笑った。

 つい最近まで、全部手に入るはずだった。


「覚えています」

「なら、まだ間に合う。父上に二人で許しを請おう。君の望みを、私は覚えている」


 彼は私の左手を見た。


「その指輪を、まだしているだろう」


 私は石の表面を撫でた。

 綺麗な指輪だった。返せと言われなかったことを、昨夜は少しだけ喜んでさえいた。

 あれをして死ぬことまで、彼の用意した物語だったのかもしれない。


「君を愛している。私の妃は、君だ」


 もう一度だけ、その言葉に目を閉じた。

 王妃になりたかった。

 この男の隣で、私を見下していた人々を跪かせたかった。

 彼が私を抱く時の、少し気の緩んだ顔も好きだった。

 それが全部なくなるのだと、ようやく実感が湧いた。

 私は目を開けた。


「では、先ほどの言葉を取り消してください」


 殿下の表情がわずかに明るくなった。


「何をだ」

「私一人で企てた、という言葉です。あなたも承知で伯爵を陥れた。そうお認めになって」


 彼は口を閉じた。

 視線が私から外れ、卓上の金杯へ動いた。


「今、ここで言うことではない」

「ここでなければ、聞いていただけません」

「ヴィオラ。私の立場を考えろ」


 私は彼を見た。

 愛していると言う声から、先ほどまでの柔らかさが消えていた。


「ずっと考えてきました。伯爵よりあなたを上に。ほかの誰よりも、あなたを上に」


 指輪から手を離した。


「今日は、あなたを王にしないために話しています」


 殿下が半歩前へ出た。

 近衛が進路を塞いだ。その向こうで、彼の顔が歪んだ。


「裏切るのか」

「順番をお間違えにならないで」


 王弟が私の名を呼んだ。

 私は殿下から目を離し、奥の席へ向き直った。


「述べたことを、すべて記録してください。運搬を手配したことも、伯爵を見たと偽ったことも。私は撤回しません」


 書記官の筆先が止まらずに動いていた。

 私の家の名も、殿下の名も、同じ記録の中へ収まっていく。


 審理はそこで閉じられた。

 殿下は別室へ留め置かれ、私も元の部屋へ戻された。廊下の先で彼が私の名を呼んだが、振り返らなかった。

 部屋へ入ってから、私は椅子に座ったまま長いこと動けなかった。


 裁可が下ったのは三日後だった。

 セドリック王子は継承権を失い、北の離宮に幽閉される。

 ロシュフォール伯爵への裁きは取り消され、名誉と所領が戻された。

 私には、あらかじめ示されたとおりの処分が下った。身分の剥奪、財産の没収、そして国外追放。


 告げられた時、私は自分の家の門を思い出した。

 幼い頃、馬車から身を乗り出して眺めた紋章。庭の噴水。鏡の並ぶ私の部屋。

 もう、どれも私のものではなかった。


「受け入れるか」


 問われ、頷いた。

 処刑台へ向かわずに済むというだけで、勝ったと思える日が来るとは知らなかった。


 ◇


 出国の日、港は朝から風が強かった。

 母は宿の食堂で待っていた。借り物の杖を椅子へ立てかけ、私が入ってくると、羽織った青い外套を見て小さく頷いた。


「着てきたのね」

「手紙に書いてあったでしょう」


 母が私の頬へ手を伸ばした。

 痩せたと言われるかと思ったが、母はそうは言わなかった。頬を一度だけ撫で、手を膝へ戻した。

 私も、遅くなってごめんなさいとは言えなかった。


「少し買い物をしてきます。温かいものを頼んでおいて」

「二人分?」

「ええ」


 食堂を出ると、護送を引き受けたユーグが待っていた。

 彼は私の左手へ目を落とした。


「それを売るのか」

「携行を許された私物です。没収し忘れたわけではないわ」

「知っている」


 国王の裁可に添えられた目録には、この指輪も載っていた。

 伯爵の事件より前に私へ贈られた品だ。王家の財産ではなく私の持ち物と認められ、旅の支度のため残された。

 ほかには着替えと外套、母の小さな宝石箱が一つ。


 買い取りの店は港の通りにあった。

 店主は石を光に透かし、内側の刻印を見てから値を告げた。

 私は笑った。


「そのお値段では、台の金までおまけにすることになります」


 少しだけ値が上がった。

 それでも殿下が誇らしげに語っていた額には、遠く及ばなかった。

 私はもう一度だけ交渉し、硬貨を受け取った。

 母と二人の船賃を払っても、しばらく屋根のある部屋で眠れる。それだけの金額だった。


 店を出る時、指輪を見直さなかった。

 外した跡に風が当たり、いつもより指が細くなったように感じた。


「お父様は?」


 通りへ戻ってから尋ねた。


「昨日、家へ帰った」

「そう」

「階段は、一人で上がれなかった」


 私は足を止めた。

 ユーグはこちらを見ず、荷車が通り過ぎるのを待っていた。


「君が話したことは伝えた。父は、それだけか、と言った」

「でしょうね」


 許してほしいと言えば、彼はどんな顔をしただろう。

 私は尋ねなかった。

 硬貨の袋を持ち直し、食堂へ向かって歩いた。


「よく私の話に乗りましたね。あの時、あなたまで罠にかけるつもりだったかもしれないのに」

「君を信じたわけではない」


 ユーグは少し遅れて答えた。


「君が、殿下だけは許さないと思った」


 私は声を出して笑った。

 通りを行く人が一人、振り返った。


「よくご存じで」


 彼は笑わなかった。私もそれ以上、機嫌を取ろうとはしなかった。

 食堂の前で、彼がもう一度私の名を呼んだ。


「殿下から伝言がある。君を、今でも愛していると」


 扉の取っ手にかけた指が止まった。

 あの声が聞こえた気がした。

 愛しているよ、ヴィオラ。

 母の席へ目をやると、二人分の食事から温かい湯気が上がっていた。


「船が出る時刻に、また来てください」


 伝言には答えず、私は中へ入った。

 母の向かいへ座り、パンの皿を引き寄せる。


「何か、なくしたの?」


 母が私の左手を見て言った。


「売りました」


 硬貨の袋を開き、食事代を卓上へ置いた。

 母は頷き、私にスープを勧めた。

 私は匙を取り、少し冷ましてから口へ運んだ。塩が強く、宮廷で食べていたものよりずっと粗い味がした。

 それでも、もう一口食べた。


 窓の向こうに、これから乗る船の帆が見えた。

 指輪は売れた。

 殿下の愛よりは、高かった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。