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悪食令嬢は、災厄の竜を晩餐に変える

掲載日:2026/04/13

 茶会というのは砂糖漬けの薔薇と同じだ。甘く、美しく、食べると少し胸焼けがする。

 テーブルの向こうで、令嬢たちが扇を動かしている。こそこそと。楽しそうに。

「ねえ、聞いた? ルシアニア帝国が、竜を三頭従えたって」

「本当? 東の国境で試験運用中だというのも聞いたわ。竜騎兵、というらしいわよ」

「ハルトマン公爵が陛下に進言したのも、そのせいだって。七層の古竜、放置すれば帝国に取られるって」

 マリア・フォルスタイン男爵令嬢が扇を口に当てる。ルイーズ・アルベール子爵令嬢が眉をひそめる。ヒルダ・レインが「竜同士で戦争になるわ」と呟いた。アデリア・コーヘンがそっとカップをソーサーに戻した。

 セレス・ヴァールハイトはマドレーヌをかじった。

 バター。卵。蜂蜜、少し。粉の量が昨日より多い。計量ミスか嫌がらせか。いずれにせよ今日のマドレーヌは昨日に劣る。でも嫌いにはなれない。バターの質が良い。

 それより、帝国の話だ。

「セレス様、聞いていらして?」

 ソフィア・バルトハルト夫人が声をかけてきた。三十二歳、元侯爵令嬢で王都社交界の顔役。微笑みの形が常に完璧で、その分だけ裏が透けて見える。

「聞いています」とセレスは言った。「ルシアニア帝国が竜を従えたなら、ダンジョンの竜は国家戦略資源になります」

「そういうこと。あなた、まさかまだ七層に行くつもりじゃ」

「今すぐ行かないと間に合いません」

 沈黙が、さあっと座に広がった。ソフィア夫人だけが微笑みを崩さなかった。でも扇の角度が変わった。今度は面白がっている顔だった。

「間に合わない、とは」

「ハルトマン公爵が軍を動かす前に、私が先に話をする必要があります。竜は従属を受け入れない個体です。軍が近づけば防衛で迎撃します。迎撃されれば討伐が既成事実になる。その前に、腹を満たす必要があります」

「腹を」と夫人は繰り返した。

「食べさせに行きます。腹が満ちれば動きません」

 ソフィア夫人が扇をゆっくり閉じた。それから「──あなたって」と小さく言った。「本当に変な子ね」

「よく言われます」

 セレスは二枚目のマドレーヌに手を伸ばした。帰ったら仕込みを始める。


 帰り道、馬車の中でライナが言った。

「ソフィア夫人が見送りのとき、いつもと違う目をしていましたよ。面白いものを見た、という顔」

「それより準備です」とセレスは言った。「明朝には動きます」

「帝国の話、本当ですか」

「本当です。王立図書館のオスカル・ラインヘルト帝国大使の動向記録を確認しました。先週、軍部のグレン将軍と非公式に面会しています。議題は記録にありませんが、時期が重なりすぎる」

 ライナが振り向いた。よく笑う十七歳の侍女が、今日は口元を押さえていない。

「……いつの間に調べたんですか」

「昨日です」

「お父様には」

「今夜話します。先に話すと止められるので、準備を終えてから」

 ライナが深くため息をついた。御者台のキースが小さく咳払いをした。


 カルロス・ヴァールハイト伯爵は、その夜、書斎の椅子に深く座った。

 五十一歳、白髪交じりの穏やかな男。ヴァールハイト伯爵家を三十年切り盛りしてきた。この十九年で、娘が何を言い出しても動じなくなった。でも今夜の顔は少し違う。

「帝国の件は、宮廷でも動きがある」と父は言った。「ラインヘルト大使が王宮への謁見を申し込んでいる。来週には面会が入る予定だ」

「来週では遅い」

「そうだ。だからお前が動く前に言っておきたかった」とカルロスは続けた。「帝国が竜を兵器化しているなら、ヴリトラへの接触は国家間の問題になりうる。お前一人の話ではなくなる」

「知っています」

「知った上で行くか」

「行かなければ間に合わない」

 父はしばらく黙った。それから机の上に手を置いた。

「執事のクラウスに、念のため冒険者組合への連絡経路を確認させておく。三日以内に戻らなければ、タウロ・マスターに動いてもらえるよう話をする」

「ありがとうございます」

「帰ってきなさい。生きて」

「はい」

 セレスは立ち上がった。扉に向かいかけて、止まった。

「父上」

「何だ」

「帝国が竜を三頭従えたとして、その竜たちは食べていますか」

 カルロスが眉をひそめた。

「……それは確認していない」

「私は確認します」


 翌朝、冒険者組合の扉を押すと、グレン・マッシュが立ち上がった。

 受付主任、三十八歳。丸眼鏡の奥で、今にも頭を抱えそうな顔をしている。

「令嬢。昨夜、ハルトマン公爵の使者が来ました。七層の情報を全部出せと。組合マスターのタウロが今朝から法務顧問のゴット氏と協議中で、スタッフのリーム、オルトも全員対応に入っていて」

「通行証の申請に来ました。C以下、七層まで」

 グレンは書類を見て、令嬢を見て、また書類を見た。

「令嬢。討伐隊が準備を始めています。帝国大使の件も組合に情報が入っています。今のダンジョンは」

「組合規則第十七条と第四十二条を確認しました」とセレスはカウンターに書類を置いた。「担当主任の裁量で通行証を発行できます。かつ、組合が認定した異種族との協定が成立すれば、軍事行動の前に組合への通知義務が発生します。通知があれば、私が出られます」

「どこまで読んでいるんですか」とグレンはかすれた声で言った。

「交渉には準備が必要なので。もう一点。タウロ・マスターに今日中にお伝えください。私の目的は古竜との素材提供協定です。組合として後ろ盾いただければ、討伐より法的に安全なルートが生まれます。帝国への牽制にもなる」

 グレンがスタンプを取り上げた。押した。

「名前と連絡先を」

「セレス・ヴァールハイト。連絡先はカルロス・ヴァールハイト伯爵と、タウロ組合マスターに」

「……マスターも入れましたか」

「三日以内に戻ります」


 エントランスでマルクが待っていた。A級パーティの前衛、二十六歳。隣に回復術士のティア・ヴァン、槍使いのヤコブ・ラインがいた。今日は三人とも顔が固い。

「令嬢。昨夜、俺たちのパーティに公爵府から打診が来た」とマルクは言った。「討伐の先導を頼めないかと」

「受けましたか」

「断った。でも第二候補のシルバーウルフ隊が受けたそうだ。隊長はドルフ・クレイン、二十九歳。猪突型の男で、交渉より速攻を好む。彼らが先行すれば、五日待たずに動く可能性がある」

 セレスは少し考えた。

「二日で戻ります。もし先行隊が動く動きを見せたら、三十分稼いでほしい」

「何をする気です」

「料理を仕上げます。それが間に合えば、竜は動かない」

「間に合わなければ」

「間に合わせます」

 ヤコブが腕を組んだ。「わかった。だがその二日、俺たちもダンジョン内にいる。五層より上で待機する」

「邪魔しないでください」

「しない。でもお前が戻れなくなったとき、俺たちが行く。それだけだ」

 セレスはヤコブを見た。一秒だけ。

「……ありがとうございます」


 一層から三層は速く進んだ。

 【食材調達】が常時発動している。周囲の生物の構造が流れ込んでくる。スライムは右から押すと左に逃げる。ゴブリンは先頭が止まると全員止まる。三層で七匹に囲まれたが、ナイフを正面に向けて一歩踏み出すと、ざっと散った。倒さない。素材として利用価値が低い。

 四層の水場で魚を三匹確保した。ひんやりと冷たい。よく肥えている。今日は急ぐ。

 五層でベルナが待っていた。ゴブリン族長、体格が大きく、目に知性がある。部下のポル、グロムたちが道を塞ぐように立っている。

「人間の軍の兵士が昨日来た」とベルナはゴブリン語で言った。「三人。シルバーウルフ隊の匂いがした。鉄と油と、それから焦り。七層まであと一歩まで来て引き返した」

「引き返した理由は」

「竜の気配が変わっていた。三日前から、もっと尖っている。近づけば何が起きるかわからないと思ったのだろう」

「竜の状態は」

「悪い。食えていない。それだけじゃない──何かを感じ取っている。人間が大勢、縄張りの外で動いていることを」

「わかりました。私が今日話してきます」

「もう一つ」とベルナは言った。「昨日、東の匂いがした。帝国の人間ではないが、帝国の荷物の匂いがする者が組合にいた。我らの縄張りより下には来ていないが」

 セレスは立ち止まった。

「組合に帝国の情報屋が入り込んでいる可能性がある」

「知らんが、匂いは嘘をつかん」

「帰ったらグレンに伝えます。今日は通らせてください」

「行けい」


 七層。

 入った瞬間に、空気の重さが違うとわかった。

 前回と同じ洞窟、同じ結晶、同じ冷気。でも何かが張り詰めている。息をするたびに、それが肺に入ってくる感覚がある。【食材調達】が大量の情報を送り込んでくる。鱗の脱落痕が多い。体液の蒸発痕が強い。呼吸のリズムが速い。前回より状態が明らかに悪化している。

 金色の眼が、入り口の時点でこちらに向いた。

「また来たか」

「来ました」

「軍が近くまで来た。匂いで知っている」

「知っています。シルバーウルフ隊が先行した可能性があります。帝国の情報収集も動いています」

「それを知って、来たか」

「腹が空いている竜の前に軍が来れば、最悪の結果になります。私が先に来る必要がありました」

 ヴリトラが息を吐いた。白く広がる。でも今日の息は前回より短い。

「お前が来れば、我が大人しくなると思っているのか」

「そうです」

「……傲慢だな」

「そうかもしれません。でも今日も料理を作ります」


 今日の食材は丁寧に選んだ。四層の魚、乾燥茸、山の根菜、薬草、六層の清潔な水。それに、前回から残していた竜鱗の欠片をごく少量。

 削いだ。内層を薄く。加熱時間を長くする。揮発成分を徹底的に抜いてから旨味だけを取り込む。

 鍋の底に鱗を敷いた。火をつけた。

 ぐつぐつ、と。水が沸き始めた。細い何かが立ち上る。煙ではない。魔力成分が熱で揮発して、スープに溶け込んでいく。水がほんのり青みがかった色に変わった。

「良い匂いがする」とヴリトラが言った。

「まだ途中です」

 乾燥茸を入れた。土の香りと海の香りが混ざった、深くて温かい匂いが洞窟に広がっていく。根菜を切る。薬草は後半。竜の成分比率を考えて、今日は塩を少し減らした。

「一つ、聞いてもいいですか」とセレスは言った。

「何だ」

「帝国の竜は、食べていると思いますか」

 ヴリトラが動いた。首を引いた。眼が細くなった。

「……何を知っている」

「帝国が竜を三頭従えたという話が社交界に広まっています。竜騎兵、と呼んでいるそうです」

「従えた」と竜は言った。声が変わった。低く、冷たく。「従える方法は一つだ。精神を削る。飢えさせて、痛みを与えて、それを繰り返す。そうやって意志を壊す」

「……そうですか」

「三頭、か」とヴリトラは続けた。「我には、その竜たちの声が聞こえることがある。遠く、かすかに。ずっと昔から」

「声が聞こえる?」

「竜同士には、距離を超えた感知がある。七百年生きれば鋭くなる。あれは空腹の声ではない。もっと深いところからの──」

 ヴリトラが口を閉じた。言葉を止めた。

「もっと深いところから」とセレスは繰り返した。

「お前には関係ない」

「関係あります。今日の料理に関係します」

 竜が少し間を置いた。

「……諦め、だ。あきらめた竜の声がする。三頭とも、もう食べたいとも思っていないかもしれない」

 セレスは手を止めた。

 薬草を引き上げた。香りだけを残す。火を少し上げる。今日の仕上げは急がない。でも一点だけ、変える。根菜の切り方を少し変えた。細かく。甘みが出やすい形に。

「できました」とセレスは言った。


 竜の分を大型の鍋に取り分けた。

 ヴリトラがゆっくりと鼻先を近づけた。長い間、匂いを嗅いだ。

「今日は、少し違う」

「甘みを増やしました」

「なぜ」

「あなたが今日、悲しい話をしたので」

 静寂。洞窟の奥で、水が岩肌を伝う音だけがした。

「……お前は変なことを考えるな」と竜は言った。

「料理は、状態に合わせて変えます。あなたの状態が変わったので、変えました」

「悲しいと決めつけるな」

「決めつけていません。可能性があると思ったので、甘みを加えました」

 竜がゆっくりと口を開けた。一口。二口。

「……美味い」とヴリトラは言った。静かな声で。「今日の方が、深い」

「甘みが奥まで届きますか」

「届く。……なぜかはわからないが」

「甘みは警戒を和らげます。体が緊張しているとき、甘いものが旨味の層へ道を開けることがあります」

「料理に、そういう理屈があるのか」

「経験則です。証明はできません。でも今日、効きました」


 自分の器に竜鱗スープを取り分けた。一口。

 おかしい。

 もう一口。旨味がある。温かさがある。でも奥の層が薄い。竜の魔力由来の清澄な感覚、光を見るような感覚が、前回より更に薄くなっている。

 火の準備をしながら確認していた。今日の食材を選ぶとき、自分の指先の感覚を試していた。前回の異変から一週間、【超味覚】の最深部が戻っていない。

「顔が違う」とヴリトラが言った。

「少し、味の感じ方が変わっています」

「我の鱗のせいか」

「たぶんそうです。竜の魔力と人間の感覚神経は相性がある。干渉が起きているかもしれません」

「悪化しているか」

「前回より薄くなっています」

 ヴリトラが動いた。首を引いた。距離が開いた。

「セレス」

「はい」

「お前は今、自分の能力が壊れていく可能性を知りながら、それを使い続けている。なぜだ」

 セレスは答えなかった。すぐには。鍋をかき混ぜながら、少し考えた。

「……わかりません」とセレスは言った。正直に。「止めるべきかもしれないと思っています。でも止めると、あなたの状態が読めなくなる。今日の料理が変えられなくなる。それが、嫌です」

「料理のためにか」

「料理のためです。でも料理の向こうに、あなたがいる。あなたのために、続けているのかもしれません。自分でもわかりません」

 長い沈黙があった。

「一つ、聞いてもいいか」とヴリトラは言った。

「何ですか」

「お前の力が完全に壊れたとして、それでもここに来るか」

 セレスは手を止めた。

「……来ます」と言った。「料理は感覚だけで作るものではないので」

「我も来る者を断らない」とヴリトラは言った。「だが、一つ言う。料理を続けるかどうかは、お前が決めることだ。我のためならば、決めるな」

「どういう意味ですか」

「お前が来ることを我は望む。だが壊れながら来ることは望まない。来ない選択もある。それを忘れるな」


 帰り道、セレスは自分の右手を見た。

 指先を広げる。感触はある。冷気も感じる。でも【超味覚】の複層的な情報の流れが、一枚薄くなっている。

 来ない選択もある、とヴリトラは言った。

 来ない選択。七層に行かない。鱗を使わない。能力を守る。それは可能だ。でもそうすれば、竜の状態は読めなくなる。今日のように甘みを加えるという判断が、できなくなる。料理が変わる。

 セレスは五層でベルナと別れ、四層を抜けた。

 答えは、まだない。


 組合に戻ると、タウロが待っていた。

 六十二歳、白髭の大男。元S級冒険者。眼光だけは衰えていない。その隣に、今日は知らない顔があった。四十代の女性で、王宮の文官服を着ている。

「令嬢。こちらはフォン・ケーラー補佐官です。王子殿下の直属で、帝国問題の窓口を担当している」

「ユリア・フォン・ケーラー」と補佐官は言った。声が早い。仕事の速い人だとわかる。「単刀直入に聞きます。七層の古竜との交渉はどこまで進んでいますか」

「料理の関係です。協定の枠組みは大体合意できています」

「大体、というのは」

「竜から一点、条件が出ています。私が来られなくなる状態のとき、先に知らせること。これを正式に盛り込む形で詰めます」

 ユリア補佐官が書類を取り出した。

「帝国が竜を三頭保有している件、王宮でも確認が取れました。先週、ラインヘルト大使が軍部と面会した議事録を入手しました。内容は──四頭目の確保について、です」

「七層の古竜を、ということですか」

「可能性があります。ハルトマン公爵の討伐案もそのための圧力として機能している。討伐失敗が既成事実になれば、帝国が代わりに引き受けるという構図を作れる」

 タウロが低く唸った。

「つまり、討伐も交渉も、帝国に口実を与えるための前座になりうるということか」

「そうです」とセレスは言った。「だから今日、私が先に動きました」

「竜側の意思を確認しましたか」とユリアが言った。

「竜は従属を拒否します。断言できます」

「根拠は」

「今日、帝国の竜の話を聞かせたとき、竜の声が変わりました。怒りではなく悲しみです。従えられた竜が意志を失っているということを、竜側は感知しています。その状態になることを、ヴリトラは絶対に許容しません」

 ユリア補佐官が少し間を置いた。

「……竜の感情を読んで、判断材料にしているのですか」

「料理を作るときに、相手の状態を読みます。それが私の方法です」

「三日以内に協定を正式化してください」とユリアは言った。「帝国大使の謁見が来週に入っています。その前に既成事実を作る必要があります」


 謁見の間。第二王子アルベルト・ヴェルトハイム、二十二歳とハルトマン公爵マクシミリアン、六十一歳がいた。

 公爵の隣に参謀のヴェルナー・カッツ大佐、四十二歳。女官のテレーザが書記として座り、宮廷薬師のミロ・ヒュネン、三十歳も壁際に控えていた。

「令嬢」とハルトマン公爵は言った。「協定の話は聞いた。だが問題がある」

「何ですか」

「この協定は人間側を助けすぎる」

 セレスが止まった。

「……どういう意味ですか」

「竜が縄張りに留まり、鱗を提供し、外に出ない。組合が管理し、王宮が利益を得る。竜側には何がある? 料理だけか?」

「そう見えますか」とセレスは言った。

「事実だろう」

「竜が得るのは料理だけではありません。孤立の終わりです。七百年、何も変わらなかったものが、変わる」

「それは竜の感傷だ。外交交渉ではない」

「公爵閣下」とアルベルト王子が静かに言った。「竜側の利益を低く見るのは危険です。対等でなければ、協定は長続きしません。長続きしない協定の上に国家安全を置くのは、軍事作戦より不安定です」

「殿下、竜と対等な協定とは」

「令嬢が作っているのはそういうものです」とアルベルトは続けた。「帝国が強制で竜を従えている間、この国が自発的な協定を持てば、外交上の優位が生まれます」

 ハルトマン公爵がゆっくりと座った。

「三日以内に正式化を。その間、シルバーウルフ隊は動かさない。四日目に協定が成立していなければ、軍が動く」とアルベルトは言った。「これが条件です」

 セレスは頷いた。

「わかりました。ただし一点」

「何ですか」

「三日のうちに、シルバーウルフ隊を含む全部隊を五層より下に入れないでください。竜は人間の気配を感知しています。軍が近づけば防衛を準備します。防衛準備を始めた竜の前で料理を作ることは、私にもできません」

「保証できません」とヴェルナー大佐が言った。

「大佐」とアルベルトが言った。「保証してください」

 大佐が黙った。


 翌日、セレスは材料の仕込みをしていた。

 鱗を削ぐとき、自分の指先を確認した。今日は昨日より少し鋭い気がする。回復しているのか、慣れているのか、区別がつかない。

 ライナが紅茶を持ってきた。

「セレス様、少し休んでください。昨日から寝ていない」

「寝ています。四時間」

「四時間は寝ていないと言います」

「十分です」とセレスは手を動かしながら言った。

「……竜鱗を使い続けるか、迷っていますか」

 セレスが手を止めた。

「なぜわかりましたか」

「目が違います。昨日から、何かを考え続けている目をしています」

 セレスはしばらく黙った。

「使い続ければ、能力が変化する可能性があります。使わなければ、竜の状態を正確に読めなくなる。どちらも、料理に影響します」

「どちらが大事ですか」

「両方です。だから迷っています」

「答えは」

「まだありません」とセレスは言った。「でも今日もダンジョンに行きます。答えが出る前に動く必要があります」

 ライナがため息をついた。

「帰ってきてください。本当に」


 三日目の早朝、組合に着いたとき、グレンが青い顔で立っていた。

「シルバーウルフ隊が動きました」

 セレスが止まった。

「いつ」

「一時間前。クレイン隊長が独断で。ハルトマン公爵に報告なし。五層まで確認に入ったと言っていますが──」

「五層より下に行ったか」

「……六層まで入った可能性があります。ポルが、という名のゴブリンが組合まで伝言を持ってきました。人間の大勢が下に来た、竜の気配が激しくなった、と」

 セレスは荷物袋を掴んだ。

「今日の仕込みはできていますか」

「え?」

「仕込みは済んでいます。火と鍋はここにあります。食材も全て。今すぐ行きます」

「一人は危険です。せめてマルクたちに──」

「マルクに連絡してください。五層で待機、七層には絶対に来ないよう伝えて。大人数で竜に近づくと逆効果になります」

「令嬢」

「グレン」とセレスは言った。「三十分です。三十分で仕上げます。それまで誰も七層に入れないでください」


 走った。

 一層、二層、三層。スライムを跨いだ。ゴブリンが道を開けた。四層の水場を抜けた。息が白くなる前に五層に入っていた。

「早いな」とベルナが言った。ゴブリンたちが全員立っていた。「わかっていた。来ると思っていた」

「時間がありません。竜の状態は」

「激しい。兵士が六層まで入ったとき、地響きがあった。七層の奥から。岩が少し崩れた」

「今は」

「止まっている。でも、また動く気配がある。兵士たちは五層まで退いた。怖くて動けない状態だ」

「わかりました。私が行きます」

「死ぬなよ」とベルナは言った。静かに。「今度は料理の話を聞けない」

「聞かせます」


 六層を抜けた。

 七層への入口に来たとき、空気が壁のように変わった。

 重い。圧力がある。息を吸うたびに、何か巨大なものの存在が肺に入ってくる感覚がある。前回とは全く違う。あのときの「張り詰めている」は、これの影に過ぎなかった。

 進んだ。

 最奥の大空洞。

 ヴリトラがいた。翼が半分開いていた。前回まで折り畳まれていた翼が、今日は広げようとしている。七百年、閉じたままだった翼が。岩盤に引っかかって、まだ完全には開いていない。金色の眼が、赤みがかっていた。

「来るな」とヴリトラは言った。

「来ました」

「来るなと言っている。今の我は、制御できていない」

「わかっています」

「なぜ来た」

 セレスは荷物袋を下ろして、火の準備を始めた。

「料理を作りに来ました」

 洞窟の岩盤が、遠くでぐうっと軋んだ。竜の体から、目に見えない何かが波のように広がっている。【食材調達】がそれを受け取っている。情報が多すぎる。量が前回の十倍以上ある。全身で受け取っている。

「今すぐ逃げろ」とヴリトラは言った。低く、苦しそうな声で。「我が今どういう状態か、わかるだろう」

「わかります」と火をつけながらセレスは言った。「腹が空いている。軍が入ってきた。防衛本能が上がっている。七百年間封じていた何かが、揺れている。全部わかります」

「わかるなら逃げろ」

「逃げません」

「なぜだ」

「料理が間に合えば、あなたは動かないからです」

 鍋に水を入れた。火をつけた。沸くまで二分。竜の気配が波打っている。

 ことこと、と。水が沸き始めた。

 セレスは鱗を取り出した。

 今日は量を変える。いつもより少し多く。【食材調達】が大量の情報を流し込んでくる。頭が痛い。情報量が多すぎる。でも手を動かす。内層を薄く、でも今日は少し厚めに。揮発成分を丁寧に抜く。一分待つ。二分待つ。

 洞窟の壁から、ぽろっと小さな石が落ちた。

「セレス」とヴリトラが言った。声が震えていた。古竜の声が震えていた。「我は、今すごく怒っている」

「知っています」

「あの兵士たちを、攻撃したかった」

「でも攻撃しなかった」

「お前が来るかもしれないと思ったから」

 セレスの手が、少しだけ止まった。

「……そうですか」

「だから逃げろと言っている。お前がいると、攻撃できない。でも怒りは消えない。これ以上怒りが積まれたら、制御が」

「三分待ってください」

「何」

「三分で仕上げます。それまで待ってください」

 ぐつぐつ、と。鱗から何かが立ち上る。魔力成分が揮発して、スープに溶け込んでいく。水が青みがかった色に変わった。でも今日は色が濃い。いつもより。

 薬草を引き上げた。根菜の甘みを確認した。茸を加えた。岩塩。

 【超味覚】が叫んでいる。情報が多すぎる。でも何かが見える。このスープの奥に、今まで見えなかった何かが。鱗の内層と外層が今日は混ざり合っている。揮発しきらなかった成分と、旨味の成分が、普段とは違う比率で残っている。

 これが今日の竜の状態に対応している。

「できました」


 大型の鍋を竜の前に置いた。湯気が細く立ち上る。

 ヴリトラが動かなかった。翼が半分開いたまま、眼が赤みがかったまま、固まっていた。

「食べてください」

「……今は、食べる状態ではない」

「食べてください」とセレスは繰り返した。「今日のは、今のあなたのために作りました」

「どういう意味だ」

「普段より揮発が少ない。竜の成分が多く残っています。あなたが今感じているものと、少し似た味がするはずです」

 ヴリトラが動いた。ゆっくり、ゆっくり、首を伸ばした。鍋に鼻先を近づけた。

 長い間、匂いを嗅いだ。

「……」

「食べてみてください」

 竜がゆっくりと口を開けた。

 一口。

 洞窟の空気が変わった。翼が、少し下がった。半分開いていたものが、四分の一になった。

 二口。

 金色の眼から、赤みが薄れた。

「……」とヴリトラは言った。長い沈黙の後。「これは」

「わかりますか」

「……我と同じ、重さがある。怒りの重さが。でも、それが収まるような」

「竜の成分を多めにしました。今のあなたの状態に、寄り添う味にしました」

「料理に、そんなことができるか」

「今日、初めてやりました。うまくいったかどうかは、あなたが判断してください」

 三口、四口。

 翼がゆっくりと折り畳まれていった。折り畳まれて、折り畳まれて、前回と同じ位置に戻った。

 岩盤が静かになった。


 自分の器に取り分けた。一口。

 目の前が白くなった。

 【超味覚】が、今まで受け取ったことのない情報の層に触れた。竜の怒り、竜の悲しみ、七百年の孤独が、今日は少し鮮明に流れ込んでくる。量が多すぎる。目を開けているのに、何も見えない。

 数秒。

 視界が戻った。

 手が震えていた。

「セレス」とヴリトラが言った。

「大丈夫です」

「今日のは、お前には強すぎた」

「強すぎましたが、届きました。今まで届かなかったものが、今日届きました」

「代償はあるか」

 セレスは自分の右手を見た。指先の感覚を確かめた。

「わかりません。今はまだ」

「正直に言え」

「……少し、増えているかもしれません。変化が」

「そうか」とヴリトラは言った。「我の言いたいことが、わかるか」

「来るな、ということですか」

「違う」

「では」

「来ることはいい。だが今日の料理は、もう作るな」

「なぜですか」

「今日の味は美味かった。だが代償が大きい。それは協定の条件にはならない」

 セレスは竜を見た。

「あなたは今、私の能力のために、料理の質を下げることを求めていますか」

「……そうだ」

「それは」とセレスは言った。少し間を置いた。「料理人として、受け入れられません」

「セレス」

「でも」と続けた。「今日わかったことがあります」

「何だ」

「今日の味は、私の能力が変化しているからこそ作れました。前の状態では、この比率には辿り着けなかった。変化した部分が、今日の竜鱗スープを可能にしました」

「……何が言いたい」

「失ったのではないかもしれません。変わったのだと思います。人間の領域と竜の領域の中間に、今私がいる。その位置から見えるものが、今日の料理でした」

 ヴリトラが長い間、黙った。

「……中間、か」

「あなたが千年近く孤独だったことで見えていたものがある、とあなたは言いました。欠けることで見えるものがある。今の私にも、変化することで見えるものがあります」

「中間にいることが、お前の場所か」

「そうかもしれません」

「……面白いな」と竜は言った。その声に、今日初めて、笑いが混じった。「千年生きて、料理人に存在論を教わるとは思わなかった」

「協定の話をしましょう」とセレスは言った。「時間がありません」


「条件を言え」とヴリトラは言った。

「あなたには縄張りの内側に留まることを求めます。ダンジョンの外に出ないこと。来訪者を理由なく攻撃しないこと。鱗を月十枚まで提供すること。その代わり、私が週に三回、料理を持参します。あなたが望まない来訪者があれば、私が間に立ちます」

「今日のように軍が入れば、どうする」

「今日のように、来ます」

「能力が壊れても?」

「能力が変化しても、料理は作れます」

「我の条件を言う」とヴリトラは言った。「一つだけ」

「何ですか」

「お前が変化に耐えられなくなったとき、正直に言え。来られなくなる前に知らせろ。それだけだ」

「……約束します」

「それと」と竜は続けた。「帝国の竜の件。我は協定の外で、できることがあるかもしれない」

 セレスが止まった。

「何ができますか」

「竜同士の声は、我が持っている。従えられた竜の声が聞こえる。その声に、まだ意志が残っているか確認できる。残っていれば──何かができるかもしれない。今はまだわからないが」

「それは」とセレスは言った。「協定の条件には入れません。でも、続けて話せますか」

「お前が来れば、話す」

「来ます。約束します」

 ヴリトラが息を吐いた。温かく、長い息が洞窟に広がった。

「では協定だ、セレス・ヴァールハイト」

「はい、ヴリトラ」


 組合に戻ったのは昼過ぎだった。

 マルク、ティア、ヤコブが五層の入口で待っていた。

「生きていた」とマルクが言った。

「言いました」

「竜は?」とヤコブが聞いた。

「協定が成立しました。それと──今日の軍の独断について、クレイン隊長をハルトマン公爵に報告してください。約束が破られました。それを記録に残す必要があります」

 ヤコブが頷いた。「わかった。こちらで動く」

 タウロが組合入口で待っていた。グレン、ユリア補佐官、それにミロ・ヒュネンもいた。

「どうだ」とタウロは言った。

「成立しました。追加事項が一点あります。竜が、帝国の竜との感知経路を持っている可能性があります。外交上の価値が生まれるかもしれません」

 ユリア補佐官が書類を取り出した。

「それは、王子殿下に直接報告すべき案件です」

「明日、王宮に行きます。今日は仕込みがあります」

 タウロが笑い声を上げた。

「いい仕事をした、令嬢」

「まだ途中です」


 翌日の謁見の間。

 ハルトマン公爵は協定書に署名したとき、一言だけ言った。

「……人間の食欲というのは、七百年の竜も動かすのか」

「動かしません」とセレスは言った。「腹が空いていれば、誰でも機嫌が悪くなります。それだけです」

 公爵がしばらく黙った。それから小さく笑った。

「まあ、軍事費よりは安い」


 アルベルト王子との面会は短かった。

「半年ぶりに味がわかった話を、またいつかさせてください」と王子は言った。「今日は帝国の件を聞かせてほしい」

 セレスは竜が言ったことを全て話した。感知経路のこと、従えられた竜の意志の話。王子は途中で何度かメモを取った。

「これは外交上、非常に重要です」とアルベルトは言った。「ヴリトラが情報の窓口になれるなら、帝国大使との交渉で使える」

「使い方は王宮が決めてください。ただし、竜に無理を強いる使い方は受け入れません」

「わかりました」と王子は言った。「令嬢がいなければ、この話は存在しなかった。礼を言います」

「まだ途中です。帝国の竜が食べているかどうか、まだわかりません」


 冬になる少し前、ミロの論文が学術誌に載った。

 「竜の魔力成分と感覚神経系への影響」という題目。弟子のエリク、二十歳が編集のマクシムに持ち込んで採録された。ヴリトラの名前も協力者として出ている。

「我が論文に載るのか」と竜は言った。

「あなたの協力があったので」

「我の名で」

「はい。学術誌に七百年生きた古竜の名前が載るのは、世界初だと思います」

「……千年生きて初めてだな」

「喜んでいますか」

「悪くない」とヴリトラは言った。「セレス。もう一つ聞いていいか」

「何ですか」

「帝国の竜の声が、昨日、少し変わった」

「どう変わりましたか」

「遠い。でも──何かを待っているような気配になった。以前は諦めていた。今は違う」

 セレスは手を止めた。

「何を待っていると思いますか」

「さあ」とヴリトラは言った。少し間を置いてから。「食い物じゃないかと、思うが」

 セレスは竜を見た。

 竜が鼻先を鍋に向けた。ことこと、と沸いている。今日は春の根菜と鱗を少し。ミロが来るので量が多い。

「もし」とセレスは言った。「帝国の竜に、いつか食べさせられるとしたら」

「その日が来たなら」とヴリトラは言った。「我もそこにいたい」

「なぜですか」

「一人で食べるより、誰かと食べる方がいい。それを、お前に教わった」


 春になった頃、セレスの【超味覚】は落ち着いた。

 完全に前と同じではない。でも中間の状態が安定した。人間の食材を食べれば人間の層が届く。竜鱗を少量使えば竜の層が届く。二つの窓が、使い方次第で開く。

 迷いは、続いていた。でも迷ったまま、料理は作れる。それがわかった。

「答えは出ましたか」とライナが言った。

「出ていません」

「でも迷っていない顔をしています」

「迷ったまま決める方法を覚えました」

 ライナが笑った。今日は諦めが混じっていなかった。


 七層。

「もう一つ、試していないことがあります」とセレスは鍋をかき混ぜながら言った。

「何だ」

「鱗を粉にして生地に練り込んだパンです。加熱温度が高い分、揮発が変わる。スープとは全く別の成分比率になるはずです」

「危なくないか」

「食べて確認します」

「お前は毎回そう言うな」

「毎回確かめます。料理人は自分の料理を食べます」

「それで能力が変化しても?」

「変化した分が、次の料理になります」

 ヴリトラが低く笑った。洞窟に響く、温かい声で。

「では次はパンか」

「来週、持ってきます」

「楽しみだ」と竜は言った。「七百年で初めて、来週が楽しみだと思っている」


 貴族でも冒険者でもない。悪食でも美食家でもない。

 人間と竜の中間にいる、料理人。

 ただ、食べる。ただ、作る。ただ、知ろうとする。

 それだけが、セレスの全てだった。

 そしてその全ては、世界を少しずつ、確かに変えていた。

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