異邦人
〈彼女〉が消えた。
いつ頃だっただろう。
数年…二、三年前のことじゃなかったろうか。
そんなに前のことじゃない。
〈彼女〉が消えた日を、〈彼〉は昨日のことのように鮮明におぼえている。おぼえているんだ。
いまでも夢に見ることだってある。
現実をくるりとひっくり返したような鮮明な夢。
その日を境に、〈彼女〉は〈彼〉の世界から忽然と消えてしまったんだよ。
あの日は寒かった。
二人で、カナダに来ていてね。
10月のはじめといえば、カナダでは日本の真冬のようなんだよ。
朝、外に出たら、車のウィンドウが凍っていて驚いたっけね。
そんなことはどうでもよくて、ええと、どこまで話したっけ。
そう、カナダに来たことまでだ。
旅行の最後の日、二人で夜景を見に行ったんだ。
州議事堂がイルミネーションで彩られてさ、そりゃあ綺麗なんだぜ。
二人でホテルから出て、黙って大通りを歩く。目的地までそんなにかからなかったよ。
なにがとは言えないが、ただならぬ空気が二人の間にあることを〈彼〉は敏感に察したねえ。でもね、そのわけはいくら頭を捻っても出て来なんだ。
そうこうするうちに波止場に着いた。
真っ暗な中、小さな屋台のようなガラス屋だけがぼわー、と光る。色とりどりのブローチなんかがきらきらと反射で光るんだ。
よくできた屋台だったよ。日本の祭りのような細いちゃちに見えるのじゃなくて、ちゃんと木でできた手押し車のようになっていてね。
引っ張っていった先がもうそれだけで簡易的な店になるんだ。
サイズは小さいし、全く持って嵩張るけれどもね。
「見て」
〈彼女〉が〈彼〉の腕を引く。
「きれい」
幻想的な景色だった。
光で彩られた州議事堂が海に写って、州議事堂が鏡合わせに二つあるようだった。
あの海の中の州議事堂は、本当は海の宮殿で、新月の時にだけ開くのだ…。〈彼〉は思った。
開いた扉から、先端にランタンを提げた金に輝く船に乗って天人たちがやってくる。赤、青、紫、色鮮やかな衣を纏って…。
「ねえ」
〈彼〉の妄想は〈彼女〉によって打ち切られた。
「 」
「 」
「 」
「 」
「 」
すっごく小さな声だったからさ、二人が何を喋ってるのかはよく聴こえなかった。
さっきの緊張が嘘みたいに、穏やかに笑いあってさ、幸せそうだったよ。
一通り喋って満足したんだろうね。
二人は来た道を戻り始めた。
帰りは行きと違って酷く混雑していたんだよ。
人に揉まれてあちらこちら揺らめいてるうちに、〈彼〉は〈彼女〉と引き離されてしまった。
追いかけようにも身動きが取れずに、〈彼女〉の黒髪と、白いきらきら光るベレー帽が、遠ざかっていくのを眺めることしかできなかった。
ホテルに戻っても〈彼女〉はいなかった。
〈彼〉はそんなに心配してなかったよ。
人波で進めなかったんだろう、きっとすぐに戻ってくるだろうと思ったんだ。
残念ながら予測は当たらなかった。
いつまで待っても〈彼女〉は帰ってこなかった。
当然、〈彼〉は慌てたよ。
いろいろ手を尽くして何とか探し出そうとした。
そのうちに、〈彼女〉が電車でどこかに向かったらしいということが分かった。
なぜ?
疑問に思ったけども、もちろん〈彼〉は追いかけたよ。
でもね、何千何百何万と人がいるなかで、たった一本の光る針を探せというのは無理な話だ。
それに、〈彼〉には〈彼女〉がそんな行動をする理由の検討もつかないわけだから、どこを探していいかもわからなかったしね。
1ヶ月、半年、一年。
知人の伝手は全部たどり、あらゆる場所を探し歩いた。
それでも〈彼女〉は見つからない。
とうとう〈彼〉は思ったよ。
きっと〈彼女〉は別世界から来た天人で、追手から必死に逃げたけれども、間に合わずに海の宮殿に連れて行かれてしまったんだ、ってね。
そうでなきゃ諦めもつかなかったんだろう。
これが〈彼女〉が消えた顛末さ。
悲しい話だろ?でも、もう少しだけ続きがあってね。
数年後、〈彼〉は街を歩いていてね。
人混みの中に〈彼女〉を見つけたんだ。
後ろ姿だけですぐ分かったよ。
〈彼〉と別れたときのままの格好で、白いきらきら光るベレー帽を被っている。
今度は必死に追いかけたよ。
持ってた鞄も放って、髪も、スーツも、ネクタイもくしゃくしゃにして人にぶつかりぶつかられしながら必死に追いかけて、とうとう追いついた。
〈彼〉が〈彼女〉の腕を掴む。
〈彼女〉はゆっくりと振り向いた…。
さあ、そしてどうなったと思う?
驚くなよ、振り向いた〈彼女〉には顔が無かったんだ!




