第28話 おれのせいだ
初夏の風が、離れの障子をふっと押した。
港の方から届く潮の匂いと、山のほうの若い緑の匂いが、畳の間で混じり合う。
その日は土曜日で、今回は成田も含めた四人が集まっていた。
マリア先生は忙しいようである。
机の上にはノートPCが二台、スマホの光がちらちらと反射している。
「……なぁ、聞いてくれよ!」
ダイヤが勢いよく立ち上がった。
顔が汗で光っていて、まるで夏祭りの子どものようだ。
「クラファン、見たか!? 目標十万のはずが、もう五十万突破してっぞ!」
画面を差し出された小春が、思わず口元を押さえる。
「え……すご……ほんとに?」
「ほら! 旅館組合と漁協、あと“蒼護青年会”とかも出してる!」
小春は目を丸くして喜び、誠は呆然と画面を見つめた。
──数字が、現実だ。
昨日まで紙の上でしかなかった夢が、急に手触りを持ちはじめる。
だが、成田だけが違った。
彼はPCを覗き込み、みるみるうちに顔が青ざめていった。
息をのむように、声のトーンが変わる。
「すっすごいねダイヤ君……ごめん、俺、ちょっと帰る」
「え? どうしたの?」
小春が慌てて声をかけたが、成田は何も答えず、バッグを肩に掛けて出ていった。
引き戸が閉まる音だけが、ぽつんと部屋に残った。
しばしの沈黙。
そしてダイヤが、気まずそうに頭をかいた。
「……なんか、腹でも痛かったんじゃね?」
小春は心配そうに眉を寄せるが、すぐに笑顔を取り戻す。
「でも、五十万だよ!? これ、すごいよ!」
誠も笑ってうなずいた。
「ほんとに……想像以上だな」
外では、遠くの防波堤でカモメが鳴き、空が曇っていた。
ぽつぽつと降り始めた雨のなか、成田は一人、陰鬱な表情で帰っていた。
「俺が悪いわけじゃない……」
* * *
数日が過ぎた。
港町の空は梅雨の前触れみたいに曇りがちで、風はぬるく、湿気を含んでいた。
ダイヤの姿が、突然オンライン授業から消えた。
いつも一番に入ってきて、うるさいほど明るかった彼が、ログインしない。
チャットにも返事がない。LINEは既読すらつかない。
最初の一日は「寝坊だろ」と思った。
二日目には少しざわつき、三日目になると胸の奥で小さな焦りが膨らんでいった。
——どうしたんだ。まさか、事故でも。
リリアの声がかすかに割り込んだ。
『連絡不能期間が七十二時間を超えました。心理的ショック、もしくはトラブルの可能性があります』
「……放っとけよ」
そう言いながらも、誠はスマホを握りしめ、何度もダイヤの名前を開いては閉じた。
そして四日目の夕方。
玄関の引き戸が、音もなく開いた。
振り向くと、濡れた髪のままのダイヤが立っていた。
目は真っ赤に腫れ、唇が震えている。
「……誠」
それだけ言うと、ダイヤは靴も脱がずにその場に座り込んだ。
そして両手で顔を覆い、しゃくり上げた。
「ごめん……俺、やっちまった……おれっ、おれのせいで……!」
声が潰れ、のどの奥でひゅうひゅうと空気が漏れる。
ほんの少し過呼吸気味で、言葉が要領を得ない。
誠はゆっくり近づき、視線を合わせる。
「……どうしたんだよ。ちゃんと話さないと、わからないだろ」
ダイヤは震える手でスマホを差し出した。
クラウドファンディングの管理ページ。
そこにあったはずの数字が、空白になっていた。
「お金が……全部、消えたんだ……」
時間が止まったようだった。
誠は何度も画面をスクロールした。
支援履歴はある。だが、口座残高はゼロ。
表示されているのは、“取引先の接続エラー”という文字だけ。
「……サイトの管理、あの“Future-Link”ってやつ、だよな」
問いながら、誠は脳内でリリアにコンタクトする。
『通信経路を追跡中。サーバーは国外。複数の名義を転々としています。登録者情報は偽装。典型的な詐欺サイトです』
——こんなにも簡単に、人の想いは奪われるのか。
誠は歯を食いしばった。
——詐欺。
その言葉の重さが、じわりと身体の奥へ沈んでいく。
ダイヤは泣きじゃくりながら、何度も頭を下げた。
「ごめん、ごめん誠……ちゃんと確認しなかった……オレ、全部台無しにした……!」
誠はしばらく無言だった。
怒りは、不思議と湧かなかった。
ただ、いつもより小さく見えるダイヤが、ひたすら哀れで仕方なかった。
「……泣くなよ。大丈夫だ。俺がなんとかする」
そう言って、誠はそっとダイヤの肩に手を置いた。
リリアの声が小さく響く。
『損失総額は五十二万三千円。補填方法は——』
「……今はいらない」
誠の手のひらが優しくダイヤの背をさすった。
窓の外では、港の波が静かに崩れ、遠くでカモメが鳴いた。
その音が、やけに遠く感じられた。
* * *
ダイヤの泣き声が、少しずつ落ち着いていった。
テーブルの上には、使いかけのティッシュが山になっている。
誠は台所から麦茶を取り出し、無言で差し出した。
ダイヤは鼻をすすりながら受け取り、少しだけ笑った。
「……ごめん、マジで」
「いいって。もう終わったことだ」
誠はそう言って席につく。
ノートPCの画面はまだ開いたままで、“Future-Link”のロゴが虚しく光っていた。
しばらく沈黙が続いたのち、誠が口を開いた。
「このこと……先生には、まだ言わないでおこう」
ダイヤが驚いた顔で見上げる。
「え、でもマリア先生に相談すれば……」
「ダメだ。あの人に知られたら、絶対に“プロジェクト停止”だ。
そうなったら、今までの努力が全部無駄になる」
誠は腕を組み、深く息を吐いた。
「これは俺たちのチームで片づける。……成田にも今は言わない」
「なんで? 成田なら力になるかも——」
「たぶん、怒る。理屈で詰められて終わりだ」
言いながらも、誠の脳裏に小春の顔が浮かんだ。
彼女なら感情的にならず、ちゃんと話を聞いてくれる。
なぜか、そう確信できた。
誠はスマホを取り出し、短くメッセージを送る。
《少し相談がある。今、来れる?》
数分もしないうちに返事が来た。
《うん、すぐ行く》
誠は小さく息をついた。
港町の夕方、外はうっすらとオレンジ色に染まっていた。
* * *
やがて小春がやって来た。
ドアを開けると、心配そうに眉を寄せている。
誠は簡潔に事情を説明した。
詐欺に遭ったこと、集まった資金が消えたこと、そして先生にはまだ言っていないこと。
小春は何も言わず、しばらく黙って聞いていた。
そして、静かにうなずいた。
「……わかった。誠くんがそう言うなら、私も手伝う」
その一言で、部屋の空気が少しだけ軽くなった。
ダイヤは再び顔を上げ、声を震わせながら言う。
「でも、金はもう戻らねぇ。どうすりゃいいんだよ」
誠はしばらく考え、口を開いた。
「開発資金に全部使ったことにする。領収書は俺が作る。
それと……クラファンの返礼品は、チームでやろう。
釣り体験でも、宿泊券でも、できる範囲で返すんだ」
小春が小さく笑った。
「それなら、うちの宿も協力できると思う」
「マジで? 助かる!」とダイヤが声を上げる。
誠は二人の顔を見渡し、ゆっくりと頷いた。
「……よし。これで行こう」
その表情は不思議なほど晴れやかだった。
背中をまっすぐに伸ばし、どこかやる気に満ちていた。
失敗の痛みの奥で、何かが燃えはじめている。
「大丈夫だ、ダイヤ。俺がなんとかするよ」
その声は、嘘じゃなかった。
彼自身にも、その言葉が必要だったのだ。
誠はどうしても、そんな友人を見捨てられなかった。
どんなに愚かでも、どんなに失敗しても――
目の前で泣いている人間を、冷たく突き放すことだけはできなかった。
だからこそ、彼は背負うことを選んだ。
それが正しいかどうかなんて、まだわからない。
けれど、その夜、誠の胸の奥で何かが静かに形を変えはじめていた。
――それが“責任”という名の重さだと知るのは、もう少し先のことだった。
窓の外では、夕暮れの港に風が吹いていた。
二人を見送ったあと、部屋に静けさが戻る。
その静寂を破るように、スマホが震えた。
画面には――成田の名前。




