第25話 もう一度、同期を
夜の湿気が、風呂上がりの肌に少しだけ重かった。
会議が終わり、薄暗い中庭をぬけ、駐輪場へ向かう。港からの湿った風が、提灯の紐をかすかにゆらした。離れと俺の下宿は、自転車で十五分ほど。緩い上り坂を一本越えるだけの道だけど、今日はその十五分が、やけに長く感じた。頭の中で、議論の余熱がまだ燻っていたからだ。
下宿に着き、玄関の引き戸をそっと閉める。二階の自室にあがり、机の上、古びたスタンドの灯りだけを点ける。ベッドに倒れ込むと、天井板の木目がゆっくりと視界の端から流れていった。
『本日の議論を総括します』
耳ではなく、頭の奥のほうで、いつもの声が水滴みたいに落ちてくる。
『成田俊の指摘は正しいですが、貴方の提案も間違いではありません』
『ただし“数字”を持たない理想は、社会では無価値と見なされます』
重しを胸の上に置かれたみたいだ。わかっている。わかってはいるのに、息苦しい。
「やっぱり数字か……」
天井に向けて小さな声が漏れた。指先に残った石鹸の匂いと、畳のい草の匂いが混じる。窓の外では、港のほうから潮の響きが低く続いていた。
「うぅ……ん……」
言語にすらならない、困ったときに動物が発するような声しか出なかった。リリアは間髪入れずに答える。
『満足度アンケート。主観評価ですが、前後比較を用いれば変化が見えます』
『まずは定量化です。感覚や情緒では、説得力を持ちません』
「これで小春や大哉の“あったかさ”を……数字に変えられるのか?」
『可能にするのが、わたくしです』
その言い方は、いつも通りの淡々とした敬語だった。なのに、心臓の裏側をつままれたようなひやりとした感覚が走る。
身体を起こし、机に移る。中古のノートPCをおもむろに開いた。ファンが弱く回り、スタンドライトの傘に小さな影が揺れた。
ペンと紙を引き寄せる。頭の中に、マリア先生の言葉が蘇った。
「観察シートと満足度指標を作りましょう」
紙に縦線を引き、欄を三つ作る。
【日付】【場所】【困りごと】。
「たとえば——」と口に出しながら、ペン先を走らせる。
・「買い物で荷物を持てない」
・「病院までの道順を忘れてしまう」
・「人に話しかけるきっかけがつかめない」
『自由記述形式にすることで、潜在的ニーズを可視化できます。後の分析はわたくしが補助します』
***
誠が一人悩んでいたその頃——離れの広間には、まだ光がともっていた。さっきまでの会議の温度が、空気にうっすら貼りついている。
卓上にはノートPCが二台、指先ほどの角度で開かれて、画面の白が畳を照らしていた。大哉は座布団に膝を立てて、身を乗り出す。
「ここは百マンだろ! でっかく行こうぜ!」
「現実的には目標十万から二十万程度が妥当です」
成田は眼鏡のブリッジを指で押し上げ、淡々と数字を並べる。
「露出は出ますが、未達のリスクも高い。心理的ハードルと初動の勢い、どちらを優先するか」
「勢いだろ! 夢はでかく!」
大哉は笑って、勢いのまま返礼品を次々と投げてくる。
「旅館宿泊券!」「漁師体験!」「オリジナルグッズ!」
「それはどうやって協力を得るんですか?」
「え……わかんねえけど、そこは何とか!」
「“何とか”ではなく見積もりが要ります。ですが——」
成田はすっと口角を上げた。褒める声色は自然で、押しつけがましくない。
「インパクトがある案は強い。注目は集めやすいです。返礼の設計は後で詰めるとして、まず枠を作りましょう」
「だよな! だよな!」
大哉がPCの画面を指で叩く。成田は別のタブを開く。見慣れないクラウドファンディングのサイトが映った。大哉が覗き込み、その肩に光が落ちる。
「ここ、使いやすいです。小規模でも注目を集めやすい設計になっています。初心者の方でも扱いやすい」
「おお、マジで? フォーム、わかりやす……!」
大哉の声は素直に弾んだ。成田は横で静かに頷く。光の角度がふっと変わって、彼の口元がほんのわずかに歪んだように見えた。大哉は気づかない。畳の隙間の埃だけが、光の形をゆっくり飲み込んだ。
***
眠気はあるはずなのに、頭だけが冴える。二重窓の向こうで、バイクが一台、ゆっくりと通り過ぎた。離れまで自転車で十五分。離れでは、まだ話しているだろうか。
『提案があります』
リリアの声は、変わらず静かだった。
『知識同期を、今夜、実施しますか? 困りごとアンケートの設計、質問文の言い回し、回答の分類方法。さらに、将来的なスマートフォンアプリ化に必要な基礎知識、マネタイズの初歩的な仕組み、そして効率的な作業環境を整えるためのPC周りの権限設定も含められます。貴方が明朝から“すでに形にできる”状態で動けるようにできます』
「……今夜?」
『はい。身体への影響は比較的軽微です。軽度の頭痛が一時的に見られるだけです。安全性は過去の同期において確認済みです』
「……でも、この間の同期で気持ち悪くなったの、忘れてないぞ!頭の奥が軋んで、吐き気までした……」
一瞬、言葉が喉でつかえた。だが、その先に見える景色が、どうしても手放せない。
「それでも……今回はやりたい。絶対に成功させたいんだ。だから、もう一度だけ——頼むよ」
『承知しました。同期の準備を開始します』
声が、少しだけ近づいた気がした。耳の奥で、蚊が飛ぶような高い音が一瞬鳴って、すぐに消える。
『同期を開始します。姿勢はそのままで構いません。呼吸を整えてください』
目を閉じる。まぶたの裏に、薄い透過光が広がる。耳鳴り。こめかみの内側を指で撫でられたような違和感。それがふっと消えて、代わりに、何かが整列する。規則。順序。枝分かれ。知らないはずの道筋が、知っていた散歩道みたいに足に馴染む。
『一次同期、完了です。認知負荷を軽減するため、段階的に適用します。痛みはありますか』
「……ない。いや、ほんのちょっと、こめかみが重いだけ」
『問題ありません。貴方の反応は良好です』
ゆっくりと目を開ける。スタンドの灯りの周りに、小さな光の粒が漂って見えた。気のせいだ。昨日までの俺より、少しだけ先に手が届く。
「……よし、リリア」
自分でも驚くほど口が軽く動いた。迷いは、ある。けれど今は、その先にある明日を、掴まないといけない。
「もう一度、知識の同期をしてくれ。これなら、行けそうな気がする」
『承知しました。最適化を開始します』
同期が再び始まる。耳の奥に、今度は微かな拍動が重なる。遠い船のエンジンみたいな一定のリズム。視界の端に白い細線が編み目を作り、すぐほどける。ほどけた糸は消えるのではなく、どこかへ吸い込まれていく。俺の中へ。俺のもののようで、そうでないものが、静かに重なっていく。
——やれる。——やる。
そう呟いたかどうかは、もう思い出せない。眠りに沈む直前、何かが俺の中で、静かに位置を変えた。それは希望に似ていて、依存にも似ていた。そして、どちらにも名前をつけないまま、夜はゆっくりと、朝のほうへ滑っていった。




