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凡人の俺にだけ“声”が聞こえるようになった件 ―地方創生チート始動―  作者: バグ製造機
高校生出会い編

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外伝:夜の差し入れ♡マリア先生の“あーん”


 俺たちは港町にある小春の実家——古いが手入れの行き届いた温泉旅館の一室を借りて、アプリの開発合宿をしていた。


 四畳半を二間ぶち抜いた和室の真ん中に、座卓代わりの長机。ノートPC、スケッチブック、付箋、コードが這う電源タップ、エナジードリンクの空き缶。

 開け放した障子の先にはほの暗い廊下。夜番の番頭さんの足音が、時折きしむ床を鳴らす。


 気がつけば、俺はタイピングの手を止め、天井の木目を数えていた。集中力の限界は、とっくに通り過ぎている。


「……腹、減ったな」


 ぽつりとつぶやいた俺に、左手から冷たい声が滑り込む。


『カロリーが足りていません。作業効率が落ちています。摂取を推奨いたします』


 いつもの“声”——リリア。穏やかな敬語なのに、言っていることは容赦がない。


「推奨だけされてもなぁ……」


 俺は空き缶の底を覗いて、ため息をひとつ。反対側では、小春が膝にノートを抱えて、線の細い眉を困ったように下げている。


「……お夜食、どうしよう。うちの厨房、もう火落としちゃったんだ……」


 旅館の娘という肩書きは万能ではない。すると、入口の方でスライドドアの音がして、ぴたりと止まった。


「——こんばんは。皆さん、頑張ってますね」


 柔らかく、よく通る大人の声。反射的に姿勢を正す。小春も、ダイヤも顔を上げた。


 十来塚マリア先生。白衣ではなく、落ち着いた紺のカーディガンにゆるめのパンツ。肩に下げた大きな風呂敷包みをするりと畳の上に置くと、眼鏡の奥の目がほころんだ。


「お夜食を持ってきました。長くなると聞いて、少し張り切ってしまって」


「せ、先生! 神か!?」


 隣のダイヤが、椅子もないのに立ち上がる勢いで身を乗り出した。漁師の息子で、声がでかい。俺も、うっかり“救われた”気持ちになる。


「ありがとうございます……!」


 小春が丁寧に頭を下げる。マリア先生は、まるで実験器具を取り出すかのような手際で風呂敷を解いた。出てきたのは、艶のある曲げわっぱが三段——いや、四段。二段重ねの弁当箱が二組。ふたを開けた瞬間、部屋の空気が変わった。


 ふわりと立ち上る甘じょっぱい香り。山椒のような清涼感、醤油の深み、そして——なにか、土の記憶を思わせる匂い。


「——東北の寒い地域では、昔から貴重なタンパク源として親しまれてきました。鉄分、亜鉛、カルシウムが豊富で、必須アミノ酸のバランスも良好です」


 先生がさらりと解説する。俺は、ただ、目を見開いた。


 最上段——炊き込みご飯。きれいな茶色に染まった米の間に、黒褐色の小さな粒々が艶やかに混ざっている。


「……あ、あの先生、これは……」


 小春が声を震わせる。先生は嬉しそうに頷いた。


「はい。はちのこの炊き込みご飯。甘露煮にしてから一緒に炊きました。こちらがトノサマバッタの素揚げ、塩だけでシンプルに。……それから、少し変化球ですが——」


 そう言って白い紙箱を開ける先生。中には、薄い衣をまとってからりと揚がった何かが、ぎゅうぎゅうに詰められている。細い脚、つやつやした翅、丸っこい胴。黒と金のコントラストが、見事に食欲を——いや、食欲をどうにかしてくれる。


「コオロギのから揚げ。香りが飛ばないよう、温度管理に気を遣いました」


 俺とダイヤと小春は、同時に固まった。時間が一拍ずれる。


「せ、先生にはいつも驚かされるなぁ……はは」


「わ、わたし……すこし、お腹が……そういえば今日は、もう旅館でご飯食べたんでした」


 小春が小声でお腹を押さえる。顔色は悪くないが、目が泳いでいる。


「小春ちゃん?」


「す、すみません先生……せっかくなんですけど、今日はもうお腹いっぱいなんです……」


 丁寧に、やんわり、しかし揺るぎない拒否。偉い。俺もそうしたい。いや、したいが——


「——おっと。そういや俺、親父の漁、手伝い頼まれてたんだった! ちょっと行ってきます!」


 ダイヤが突然のけぞるような声を上げ、すべるように立ち上がった。動きが速い。彼は笑いながら、靴下のまま廊下を「すいませんすいません」と抜けていく。


「ちょ、おま——!」


 言い終わる前に、ダイヤの背中は曲がり角の向こうに消えた。部屋に残ったのは、俺と、小春と、そして満面の笑みのマリア先生。やばい。この三人構成、やばい。


『現在、回避可能な選択肢は減少しました』


 リリア。言い方。


「誠くんも、食べてくれないの?」


 先生の消え入るような声。今にもどこかへ行ってしまいそうだ。いけない。なんとかしなければ……ひっ、一口だけならいけるか! 額に汗が浮かぶ。


 先生が箸を二膳、すっと取って俺の前に置いた。微笑みはやさしい。圧はない。ないのに、逃げられない。俺は喉を鳴らした。


「……せ、先生。俺、そういうの、ちょっと、慣れてなくて」


「しょうがないですね、見た目があれですから。やっぱり受け付けないですか……先生一人でいただきます……」


「えーっと、いやぁ……おいしそうだな。食べてみます」


 小春はそのとき、偉人でも見るように俺を驚愕の目で見つめた。先生は、からっと揚がったコオロギをひとつ、箸先でつまみ上げる。小ぶりな唐揚げのように衣がはぜ、羽が光る。俺は思わず座布団の端を握りしめた。


「はい、あーん」


 眼鏡の奥で、先生のまつ毛がすこし揺れる。白く細い指先。柔らかな笑み。——これは、罠だ。


『咀嚼は二十回以上を目安に。丸呑みは窒息のリスクが——』


「うるさい! わかった! ……あー……」


 自分で言って、自分で恥ずかしくなる。でも、口は開いた。先生は迷いなく、俺の口元へコオロギを運ぶ。


 ——衣の香ばしさ。

 ——羽のバリ、脚のガリ。

 ——胴のむに。

 喉の奥に、何かの気配が渦を巻く。


「……っっっっっ!!」


 目の奥が滲む。頬が勝手に引きつる。


『水分で流し込むのは逆効果です。しっかり——』


「——美味しいです」


 俺は泣きながら言っていた。言葉が先に出た。口の中の異物感と、先生の期待に満ちた視線と、部屋の温度と、いろんなものがいっぺんに押し寄せて、俺の脳は最適化とやらの末に、ありえない出力を選んだ。


 沈黙。それから、ぱあっと先生の顔が明るくなる。心底安堵したように胸に手を当てるマリア先生。やめて、そんなに喜ばないで。俺、いま、涙と汗と、なんかもう、いろいろで大変なんです。


『発話内容と表情筋の動きが一致していません』


「空気読め!」


 俺は心のなかでリリアに半泣きの肘鉄を食らわせる。もちろん、届かない。


「本当に? よかった……! じゃあ誠くんには特別にスズメバチの成虫あげちゃいます! カリっとしてておいしいんですよ。はい、あーん」


 俺は涙ながらに、また口に運ぶ。……これは! ご褒美だ。年上に“あーん”してもらえる機会なんて、もう一生ないかもしれない……。


「そんなにおいしそうに食べるなら……もっと美味しいものを作ってあげたいですね」


 先生が、ぽつりと呟いた。嫌な予感がする。“もっと美味しい”の定義が、俺たちと一致している保証はない。


「ちょうど旅館の厨房をお借りできますか? ひと手間加えれば、香りと旨味が段違いになります」


 先生はすっと立ち上がると、小春に向き直る。


「厨房、少しだけ火をお借りしても?」


「えっ、えっと……夜番に聞いてきます。たぶん大丈夫だと……」


 小春が走る。俺は座布団の上で放心したまま、から揚げの箱を見つめていた。まだ半分以上、残っている。


『二口目、行きますか? 慣れの問題です』


「やめろ、やめろやめろ!」


 しばらくして、廊下の向こうで足音が弾んだ。


「ただいま戻りましたーっ! 親父、船具の件で知り合いの家に寄るって。……って、なにその箱?」


 ダイヤが、けろっと戻ってきた。この野郎。俺は反射的に睨む。が、ダイヤはまったく悪びれない。


「誠、顔が死んでるぞ。どうした、虫でも食ったか?」


「虫を食ったんだよ!」


「マジか!」


 ダイヤは箱を覗き込み、目を丸くする。そして一瞬だけ顔をしかめ——すぐに、いつもの笑いに戻った。


「……ちょっと興味あるな」


「お前、今すぐその興味、海に捨ててこい」


「ははっ。まあまあ。先生は?」


「厨房。なんか“もっと美味しい”の作るって」


「もっと美味しいもの……?」


 ダイヤが遠い目をした。俺も遠い目をした。


     ※


 旅館の厨房は、夜の匂いがした。落とされた火に、再びガスの青が灯る。換気扇が低く唸る音。吊り下げられた銅鍋、研ぎ澄まされた包丁、丁寧に拭かれた調理台。その真ん中に、白いエプロン姿のマリア先生。髪を後ろでひとつにまとめ、眼鏡を押し上げる仕草がやけに板についている。


「——まずは、香味油を」


 フライパンに薄く油を引き、低温でニンニクと生姜をゆっくり泳がせる。香りが立ち上ったところで、先生は密閉容器を開けた。コオロギ。さっき食べたものより少し大ぶりだ。それを、下処理済みとでも言うように、ためらいなく投入する。


「火は弱め。香りを逃がさないように」


 木べらでやさしく返すと、はぜるような小さな音が弾けた。生姜とコオロギの香りが、意外にも調和している。俺は、廊下から見えるガラス越しの厨房に釘付けになっていた。


「スープは——鶏ガラと昆布です。昆布は水出しで」


 先生は別鍋の澄んだスープに、先ほどの香味油を少し落とした。香味が湯気に乗って、廊下まで滑ってくる。鼻孔の奥の食欲スイッチが勝手に入る。やめろ。俺は、学んだばかりだ。スイッチを入れてはいけないと。


 そして、どこからともなく用意した少し茶色い麺を取り出す。


「麺は細めが合います。スープに負けないよう、短時間で茹で上げましょう」


 やや高めの温度で湯が踊る。先生は無駄がない。盛り付け用の丼を温め、タレを用意し、スープを張る。香味油をひと筋、さらりと垂らす。白髪ねぎ、少量の青ねぎ、糸唐辛子。そして——


「コオロギのから揚げを、最後に香味として」


 さきほどの箱から、サクサクに揚がったコオロギを、丼の縁に沿って美しく並べる。視覚的ダメージはたしかに強い。だが、香りは——正直、悪くない。それがまた、余計に俺の精神を追い込む。


「お待たせしました」


 先生が両手で丼を抱えて戻ってきた。湯気。コオロギ。湯気。俺は、その丼を凝視しながら、ふらふらと座布団に正座した。


「誠くん、どうぞ。熱いので気をつけて」


「……」


『温度は適温です。まずはスープから。脂の層と旨味の拡散を確認してください』


「お前はどっちの味方だ!」


 ツッコミながらもレンゲは動いた。旨味が舌にしみる。鶏の甘み、昆布の旨味、香味油の輪郭——その中に、たしかに“何か”がある。さっきのむにとは違う、香りの“芯”みたいなものが、スープの奥行きを作っている。


「……あれ?」


 思わず声が漏れた。いや、違う。うまい、と言ってはいけない。これをうまいと言ってしまったら、俺はもう——


「誠くん?」


 先生が嬉しそうに身を乗り出す。俺は、必死に顔を引き締めた。


「せ、先生。これ、香りが、すごく……」


 言葉を選ぶ。褒めすぎない。けなさない。中庸。バランス。——しかし、先生は、もう勝手に受け止めてしまっている。


「よかった……! では、あーん」


 まただ。箸で、縁に寄せたコオロギのから揚げをひとつつまみ、俺の口元に差し出す。これを拒む術を、俺は知らない。いちど目をつぶり、覚悟を決めた。


 ——サク。

——バリ。

——ふわ。


 衣のサクサクと翅のバリバリの間に、香味油のふわりが混じる。単体で食べたときのむにが、スープと油で“輪郭”を得て、別のものになっている。脳が情報を整理する。口が、再び、裏切る。


「……せんしぇ、美味しいです」


 また言ってしまった。涙目で、鼻の奥がツンとする。


『適切なフィードバックです。次は麺を——』


「うるさい!」


 俺がレンゲを置いた瞬間、すっと脇から手が出て、丼をさらっていく。


「ちょっと、ひと口!」


 戻ってきたダイヤだ。彼は箸を構えると、ためらいなく麺をすすった。——そして、固まる。


「……」


「どうだ?」


「……これ……」


 緊張が走る。ダイヤの顔にいろんな感情が同時に浮かんでは消える。その末に——彼は、ぼそりと笑った。


「気になるけど、うまい」


 肩の力が抜けた。笑ってしまう。気になるけど、うまい。それだ。まさにそれだ。お前、天才か。


「そ、そう? 嬉しいです」


 マリア先生が照れくさそうに笑った。小春は、少し離れたところで、まるで人間じゃないものを見るようにこちらを見つめてくる。


     ※


 そのあと、作業は妙に順調に進んだ。軽口が増え、アイデアの通りも良くなった。虫を食べたからか? いや、たぶん違う。誰かが自分たちのために何かを作ってくれる——その行為が、思っている以上に効くのだ。それが、たとえコオロギでも。


『糖と脂質とアミノ酸の同時摂取により、脳内の報酬系が——』


「ロマンも混ぜろ、リリア」


『承知しました。ロマンは、重要です』


 いつになく柔らかい返事に、俺は苦笑した。


 作業がひと段落した頃、廊下の影からひょいと顔を出したダイヤが、空になった丼を名残惜しそうに見た。


「コオロギってさ」


「うん」


「意外にうまいよな」


「……二度は言わせるな」


 外は、もうすぐ朝の色に変わる。湯気の記憶と、からりとした衣の食感だけが、いつまでも舌の上に残っていた。上に残っていた。

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