第13話 マリア先生が、うちに来る
夜。
布団に寝転んでラノベを読んでいた俺のスマホがふるえた。画面に浮かんだ名前を見た瞬間、心臓がぴょん、と跳ねる。
「マ、マリア先生!?」
慌てて通話ボタンを押すと、落ち着いた声が耳にやさしく触れた。
『工藤くん、明日、様子を見に行ってもいいかしら?』
「えっ、あ、明日ですか!? い、いえ、はい、だ、大丈夫です!」
『よかったわ。では夕方にね。寒いから、部屋を暖かくしておいてください』
「は、はい!」
通話が切れる。数秒遅れで、胸の奥にドンと波が来た。
「……ど、どうしよう。明日、先生が……俺の部屋に来る……!」
布団に顔をうずめてジタバタする。白衣の先生がソファに腰かけて微笑んでいる――そんな映像が勝手に脳内で再生され、心拍が勝手に加速した。
『心拍数が上昇しています。今夜は睡眠効率が低下するおそれがあります。深呼吸をおすすめします』
「黙れぇ! 今は落ち着けないだろ!」
布団を頭までかぶる。目を閉じてもまぶたの裏に先生の笑顔が浮かぶ。寝返り、ため息、そしてまた寝返り。結局その夜は、ほとんど眠れなかった。
翌日。
朝から俺は部屋をかき回していた。散らかった服は洗濯かごに突っ込み、机の上のコード類はまとめ、参考書は背表紙の高さをそろえて並べ直す。自分でも引くほどの必死さだ。
「よし、あとはベッドの下……」
のぞきこんだ瞬間、血の気がサッと引いた。
「や、やべぇ……!」
出てきたのは、よりによって“年上お姉さん系”の怪しいラノベ。サブタイトル『白衣の誘惑♡女医は診察後に微笑む』。イラストの微笑みが、今は生きた呪いに見える。
「なんでこんなときにコレが出てくんだよ!!」
俺は真っ赤になって布団の下にねじ込んだ。だが背表紙がちょろっとはみ出す。焦ってもう一押し――。
『医師と患者の関係を題材にした性的妄想作品……不合理ですが需要があるようです』
「説明すんなぁぁ!! 言語化するな!!」
『失礼いたしました。隠匿する場合は、視線の通り道から外すのが有効です』
「だから教えるなって!」
とにかく押し込む。念のため紙袋に入れて机の下へスライドさせ、上から雑誌を二冊かぶせた。これで……これで大丈夫。たぶん。
チャイムが鳴った。肩がビクンと跳ねる。深呼吸、深呼吸。ドアを開けると、コート姿のマリア先生が立っていた。白衣ではない、落ち着いた私服。やわらかな髪が頬をかすめ、冬の外気を連れて香りがふわっと広がる。
「こんばんは。急にごめんなさいね」
「い、いえ! どうぞ!」
視線を合わせるだけで目が泳ぐ。俺は通路を空け、先生を部屋に招き入れた。
* * *
テーブルに温かいお茶を置くと、先生は「ありがとう」と微笑んで腰を下ろした。白衣の時よりも近い“生活のにおい”がして、余計に落ち着かない。
「それで、最近はどう?」
「えっと……SNSの投稿を手伝って、ちょっと収入が入ったんです。友達と勉強会も始めて……なんか、自分でも少し変わってきた気がして」
言葉にしながら、自分で自分に驚いた。こんなふうに“変わってきた”なんて、誰かに言う日が来るなんて思っていなかった。
「それは素晴らしいことね。あなたが努力している証拠だわ」
マリア先生は目尻をやわらげて、まっすぐに言った。その優しさが、胸の奥のどこかを温める。
『心拍数が再上昇しています。落ち着いてください。吸って、吐いて、吸って――』
「だから今は喋るなって!」
小声で噛みつく俺に、先生が首を傾げる。やめてくれ……変な誤解を生むから。
ふと、先生がテーブルの下をのぞき込んだ。
「あら……これはあなたの?」
――紙袋。雑誌二冊がずれて、わずかに口が開いている。そこから、白衣のイラストが覗いていた。
「っ!? ち、違っ……いや違くないけど違うというか!」
俺の口が大渋滞を起こしている間に、先生は袋を取り上げ、ちらりと表紙を見て、ほんの少しだけ目を瞬かせた。次の瞬間、クスリと笑って、袋ごとテーブルにそっと戻した。
「ふふ。十代の男の子だもの。隠さなくていいのよ。健全だわ」
「健……全……?」
その余裕が逆に胃に来る。死にたい。
先生は顎に指をあて、ふと思いついたように真顔になる。
「ねえ、工藤くん。年上の女性の、どんなところが好きなの?」
「はあああああ!?」
「研究対象として、興味があるの。あなたの言葉で教えてくれる?」
研究対象て。そんな真顔で聞く? 俺は喉の奥がキュッとなるのを感じた。
「え、えっと……落ち着いてるところ、とか……その、頼れる感じ? 困ってる時に助けてくれると、なんか……」
「大人としての余裕、ね。ほかには?」
「ひ、ひかえめなのに、たまに近い距離で話されると、ドキッとする……みたいな……」
「なるほど。視線、距離、声の質。刺激の種類は多面的ということね」
『羞恥反応が高い値を示しています。体温が上昇しています。非常に興味深――』
「お前も黙れぇぇ!!」
耳まで燃えるように熱い。机に額をぶつけたくなる。
先生はそこで、ふっと息をゆるめて、いつもの医師の顔になった。
「でもね、工藤くん。現実には、ラノベみたいに“優しいお姉さんが急に迫ってくる”なんてことは起きないの」
「……はい」
「もし本当に誰かを好きになったら――きちんとエスコートしてあげて。相手を尊重して、大切に。緊張して言葉が出ない時ほど、丁寧にね。いい?」
言葉はやさしいのに、芯がある。胸の奥の、ぐらぐらしたところにすっと杭が打たれる感じがした。
「……わかりました」
「よろしい」
先生は微笑んで頷く。その笑顔を直視できなくて、俺は視線をテーブルに落とした。落としたその先に、またあの紙袋がいて、死にたくなる。
沈黙が落ちた。逃げ場のない静けさに耐えきれず、俺はつい、本音をこぼした。
「……でも、どうせ俺なんかじゃ、本当の成功なんて無理ですよ。友達と“法人ごっこ”とか、口にするだけで恥ずかしいし。あり得ないし、成功しない……」
言ってしまってから、後悔が波のように押し寄せる。けれど、先生は眉をひそめもせず、まっすぐ見つめ返した。
「工藤くん。あなたには私がいるわ」
「え?」
「成年後見人として、できる限りのことはする。法律や手続きやお金や大人の事情――あなたがつまずきそうなところは、私が一緒に考える。だから、挑戦しなさい。失敗してもいい。挑戦し続ける限り、それは前に進んでいるということよ」
その言葉は、胸の奥でぐらぐらしていたものを一気に支える杭みたいに響いた。
「……ありがとうございます」
俯いたまま絞り出すと、先生は小さくうなずいた。
帰り際、先生がスマホを取り出す。
「そうだ、これも交換しておきましょう」
「えっ?」
「電話番号だけじゃ不便でしょう? LINEもつないでおいた方がいいわ」
俺は慌ててスマホを取り出し、手が震える。数秒後、画面に「マリア先生」が友達追加されているのを見て、心臓がまた跳ねた。
「困ったときは、ここに連絡していいから」
コートを羽織り、先生は玄関で振り返り、やわらかく笑った。その笑顔をまともに見られないまま、ドアが閉まった。
静かな部屋にひとり残され、俺はベッドに突っ伏す。
「……死ぬかと思った。でも……悪くない」
耳まで真っ赤なまま、でも心の奥は妙にくすぐったく温かかった。




