お富士さんのおいしい水 〜 弐 〜
水を金払って買うなんて馬鹿らしいと思ったが、仕方がなかった。2リットルで100円ならまぁ、安いほうだ。俺は深夜のコンビニで、おにぎりと煙草と一緒に、そのペットボトルの水を買った。
しかしうっかりしていた。運転席の後ろのベッドスペースにそれを放ると、そのまま大型トラックを発進させちまった。
「……まぁ、いいか」
呟くと、誰もいないはずの助手席から、女性の声で質問された。
「何がいいのかしら?」
いや、俺は花の長距離トラックドライバー……。男一人旅だったはずだぜ?
驚いて助手席を見ると、いつの間にかそこに女が乗っていた。白い和服姿の、昭和の女優みたいな女だった。といっても美人女優というよりはイロモノ俳優といった感じだが……。ゴツゴツした感じの幽霊役とかに似合いそうな感じだ。
うーん……。買い物に行く間、鍵をかけ忘れていたか? ヒッチハイカーに無断で便乗されちまったか?
俺は穏やかな口調で言ってやった。
「悪りィな、おばさん。俺のトラックはヒッチハイク禁止だぜ」
すると女は無表情に俺のほうを向き、口から白い息をハアぁ……と吐きながら、言った。
「わたし、お富士さん」
「お富士さん?」
「今、あなたの隣にいるの」
「わかるよ。視りゃわかる」
「視えるものがすべてとは限らないわ。本当に大切なものは目に視えないのよ」
「どっかで聞いたようなセリフだな、それ。パクリかい?」
「オマージュよ」
女はそう言うと、顔を前に戻し、遠くのあの世を見つめるように言った。
「星の王子さま……。わたし、生前好きだった」
俺は少し考えてから、冗談のつもりだと思いながらも、聞いてみた。
「するってェと……、あんたは幽霊なのかい?」
「わたしのお水を買ってくれてありがとう」
俺の質問には答えず、トラックがギャップを踏んだ勢いでガタンと上におおきく跳ねながら、女は言った。
「飲んでいいのよ」
何を言ってんだコイツと思いながら、さっき買ったペットボトルのラベルを見る。
『富士山のおいしい水』だと思ってたら、『お富士さんのおいしい水』と書いてあった、確かに。
「そのお水はわたし自身なの」
女に視線を戻すと、座ったまま、またギャップでおおきく跳ねた。
「よく怪談話で、幽霊を乗せた自動車の座席がびしょびしょに濡れてたっていうの、あるでしょう? あれ、なぜだか知ってる?」
「さァな?」
「幽霊の身体は100%水分なの。それでよ」
「するってェと、この水はあんたの身体と同じものってことかい?」
「是非あなたに飲んでほしい。大丈夫よ、呪われたりしないから」
なんだろう。
よくわからんが、この『お富士さんのおいしい水』を買ったら、サービスでこの女がついてくるということなのだろうか。
しかし──
「悪りィな。じつはこの水、飲むために買ったんじゃねェんだ」
フロントガラスに虫が当たってくる。
もうすぐ夜が明けるとはいえ、まだまだ光に吸い寄せられる虫たちは飛び回り、フロントガラスで潰れて体液だけを残して消える。
視界が悪くなるので、ワイパーを動かし、除去する必要がある。
もちろん空拭きではなく、ウォッシャー液を吹きかけ、洗い流すのだ。
サービスエリアにトラックを停め、キャビンの前を開いて、ウォッシャー液の注入口をぱかっと開けた。
そこへさっきコンビニで買った『お富士さんのおいしい水』を注ぎ込む。
トクトクトクトク……
お富士さんが横で、恐ろしいものを見るように、それを見ていた。
「あぁっ……! わたしのお水を……そんなところに入れるなんて……!」
「すまねェ。ウォッシャー液が切れてたんで、さっきの水はここに入れるために買ったんだ」
「おいしいのに……」
お富士さんが子どものように泣き出した。
「わたしのお水はおいしいのに……!」
「すまねェ」
俺にはそれしか言えなかった。
「おいしいのにーーっ!」
傷ついたように小さな雲みたいになると、お富士さんはピューッと飛んでいった。曙光に照らされる青い富士山のほうへ飛んでいき、やがて小さく見えなくなった。
悪いことしたかな……。
祟られちまうかな?
後日、あのコンビニに再び立ち寄ると、それはまだあった。
扉を開けて取り出したそいつはよく冷えていた。ラベルがちゃんと『お富士さんのおいしい水』なのを確認すると、100円を払ってそれだけ買った。
大型トラックに乗り込み、助手席を見たが、お富士さんはもう現れてくれなかった。
キャップを開け、ごくごくと喉を鳴らして『お富士さんのおいしい水』を飲んだ。
「うめェ……」
ただの天然水とは思えなかった。よく冷えてるのになんだかあったかくて、人情味のある味がした。
それからというもの、前を走る富士山ナンバーが『お富士さんナンバー』に視えるようになっちまったんだ。
どうしたんだろう?
俺、取り憑かれちまったかもしれねェ……。
こびりついた虫の体液を除けるため、ウォッシャー液を出すと、大型トラックのおおきなフロントガラスいっぱいに、お富士さんのおいしい水が広がり、それはまるで子どものような泣き顔に見えた。