恋人のフリ、始めます!
「ヴィオラ・ラルティエ! 婚約者がいるとは聞いていないぞ!」
舞踏会の中央。煌めくシャンデリアの下で、侯爵ガストンが怒声を上げた。注目を集めた伯爵令嬢ヴィオラ・ラルティエは、長い金髪を揺らしながら、涼やかな微笑を浮かべる。
「あら、ガストン侯爵。突然のことで驚かせてしまったなら、ごめんなさい?」
もちろん、嘘だ。ヴィオラに婚約者などいない。
だが彼女には切実な事情があった。ガストンはヴィオラの莫大な遺産を狙い、強引に後見人となろうとしている。ヴィオラはその野望を察し、自らの財産と名誉を守るため、一つの策を講じた。
(偽の恋人を立てて、彼を退けてみせる——!)
ただし、問題が一つ。ヴィオラには、演じてくれる相手がいなかった。
まだ十八歳の彼女は、数年前に両親を亡くして以来、伯爵家のすべてを一人で背負ってきた。日々の業務に追われ、舞踏会どころか人と語らう余裕すらなかった。寄ってくる男性は、彼女自身ではなく、その背後にある肩書きと資産しか見ていない。
それでも、笑っていなければ貴族社会では侮られる。だからこそ、今日もヴィオラは毅然とした態度を崩さない。嘘をまとい、誇りを守るために。
視線を巡らせた彼女の目に映ったのは、深緑の瞳に漆黒の髪を持つ青年だった。セドリック・ノエル。子爵家の騎士であり、二十歳の若者。剣の腕と軽妙な話術で名を馳せていて、女たらしとも言われているが、裏では貧しい村を密かに支援している——そんな話を、ヴィオラは耳にしていた。
「セドリック様!」
彼を見つけたヴィオラは、ドレスの裾を翻しながらまっすぐ彼のもとへ向かう。
「お願い、恋人のフリをして!」
小声で告げられた一言に、セドリックは思わず手にしたワインを吹き出しそうになった。
「……は? 令嬢、どこかぶつけた?」
「命がかかってるの」
ヴィオラが切実に囁けば、彼の唇がわずかに吊り上がる。
「命、ね。面白い。乗った」
そしてセドリックはためらいなくヴィオラの手を取り、会場中に響く声で告げた。
「この美しい令嬢は、僕の恋人です。……文句ある?」
言葉に凍りついたガストンは、すぐさま反論する。
「馬鹿な! 証拠を見せろ、証拠を!」
セドリックはニヤリと笑い、ヴィオラの腰に手を回した。
「どうする、姫さん?」
耳元で囁かれ、距離の近さにヴィオラの心臓が跳ね上がる。
(な、なにその顔の近さ……でも、怯んでられない!)
彼女は意を決し、彼の首に腕を回すとキスをした。正しくは、キスのフリ、であったが。
セドリックも応じて彼女の腰を持ち上げるように演出する。本当に情熱的な口づけを交わしているかのように。
(ちょっ!? そこまでしなくてもっ!?)
心の中で叫ぶも、芝居は続く。ようやく解放されたヴィオラは、心臓の鼓動を誤魔化しながらガストンに向き直り、笑みを浮かべた。
「これで、納得いただけたかしら?」
ガストンは怒りのうめき声を漏らし、舞踏会場を後にする。
残されたセドリックは、くすりと笑いながらヴィオラの肩を引き寄せ、額を軽く触れ合わせた。
「やりすぎよ……!」
「恋人の〝フリ〟だろ?」
軽やかな声が耳をくすぐる。ヴィオラはどうすればいいかわからず、眉をひそめた。言葉を返せないまま、彼の顔を見つめる。
「君、かわいいね」
さらりと囁かれ、ヴィオラは思わず目を見開く。
(……なにこの人。やけに自然に言うけど!?)
今度は彼の指先がふわりと彼女の髪に触れる。ほんの一瞬のことだったが、その温もりが首筋に伝わるような気がして、思わず息を呑んだ。
(えっ、偽の恋人が始まったばかりなのに、もう心臓がもたない……!)
と思ったが、後の祭りである。
***
翌日、ヴィオラはセドリックを自邸へ招き入れると、応接室で一枚の書類を突きつけた。
「偽の恋人契約、三ヶ月だけでいいわ。ガストンに遺産を諦めさせるために」
ソファに腰を下ろしたセドリックは、唇の端を上げる。
「報酬は? 姫さんのキス?」
「ふざけないで!」
頬を染めて立ち上がったヴィオラは、机の横に布袋を置く。その中には、ぎっしりと金貨が詰まっていた。
「これで十分でしょ」
だが目の前の金貨にも動じる様子はなく、セドリックは隣に立つヴィオラを見上げた。
「命が懸かってるって言ってたよな? まずは、事情を聞かせてくれないか」
もっともな要求だった。ヴィオラは一つ頷き、唇を引き結ぶ。
「……両親は数年前に立て続けに亡くなったわ。伯爵家の跡継ぎは、私だけ。でも正式な継承手続きは妨害されて、今も宙ぶらりなの」
「つまり、今の伯爵家は半分〝空席〟ってことか」
「ええ。ガストン侯爵は父の従兄で、爵位では上だけど、伯爵家の血筋としては分家。継承権なんてない人よ。事業があまりうまくいってないようで、目をつけられちゃったの」
ヴィオラの家──本家の伯爵家を狙うには、あまりに不自然な立場だ。それでも彼は堂々と後見人を名乗り、じわじわと周囲を固めていた。
「金目当てで、後見人面して乗っ取ろうとしてるわけか」
「そう。『若い娘がひとりで家を守るのは無理だ』って、あちこちに言い回ってる。後見人として認められたら、財産も家も彼のものになるわ」
「まあ、確かにやっかいだな。でも、命が危ないっていうのは大袈裟じゃないか?」
ヴィオラは小さく息を吸い、視線を落とした。
「……後見人になったあとに、私が静かに〝病死〟でもすれば、誰も疑わないわ。遺言も残せず、声も届かず……」
言葉を失ったセドリックは、しばし沈黙する。そして次第に、その眼差しに怒りの色が滲んでいった。
「……なるほど。〝可哀想な娘〟を保護する顔して、うまく取り込んだ後に始末する気か。女性の死因は、心労とか言っておけば疑われないしな」
「そういうこと。ガストンはそういう人間よ」
ヴィオラの言葉は冷ややかで、静かな怒りが宿っていた。
「まったく、性悪なやつだ。外面は上品ぶってたくせに」
「どこも一緒よ、貴族なんて」
「君も貴族だろ?」
「……そうね。でも私は、守るために動いてる。奪うためじゃない」
言い切るヴィオラの横顔を見て、セドリックは小さく笑った。
「なるほど。てっきり、気まぐれなお嬢様の戯れかと思ったけど……」
「本気よ。わりと、命が懸かってるの」
まっすぐに向けられたアメジストの瞳を、セドリックは静かに見つめ返す。そして、からかうような笑みを浮かべた。
「仕方ないな。こう見えて、女性の頼みは断れない性分でね」
「知ってるわ。有名だもの」
それが、彼を選んだ理由だった。無茶を頼んでも、受け入れてくれると信じていたから。
セドリックは机の上の布袋を手に取り、金貨の重みを確かめながら言った。
「契約成立だ。ただの恋人役のつもりだったけど……どうやら、それだけじゃ済まなそうだな?」
安堵の息をひとつ吐いたヴィオラは、だがすぐに表情を引き締めた。
「……嘘がバレたら終わりよ。だから、完璧に恋人として振る舞わなきゃ」
その言葉にセドリックは愉快そうに笑う。
「つまり僕と〝恋人ごっこ〟をしたいってことだな?」
「ち、違うわよ! 必要だから仕方なくってだけで……!」
「ふーん。じゃあどこまでやる? 手を繋ぐ? 呼び方を変える? それとも、キスの練習でも?」
「なっ……!」
ヴィオラの顔が一気に赤く染まる。セドリックはからかうように笑いながら、そっと手を伸ばした。
指先が触れ合い、やがて絡まる。温もりが静かに交換される。
「まずは、これくらいから。……恋人らしい、手の繋ぎ方」
心臓が跳ねる。けれど、動揺を見せまいと、ヴィオラは表情を整えた。
「……別に。手ぐらい、慣れてるわ」
「へえ。じゃあ名前で呼んでも平気だな、ヴィオラ?」
突然の呼びかけに、ヴィオラはびくりと肩を震わせる。
「ち、ちが……ただ、ちょっと驚いただけ!」
精一杯の反論も、真っ赤な耳では説得力がない。セドリックは目を細め、微笑を深くした。
「そんな可愛い反応されると、もっと試したくなる」
「や、やめなさいよ……っ!」
距離を詰めてくる彼に、ヴィオラは戸惑いを隠せない。遊びのようでいて、どこか真剣な光がその瞳に宿っていた。
「……ふざけないで。これは、ちゃんとした契約なのよ」
「もちろん。僕は真剣に〝君の恋人役〟を演じるつもりだよ?」
その声には、どこか含みがあった。真意が読めず、ヴィオラはますます混乱する。
(この男……何を考えてるのよ、本当に……!)
けれど──彼の手は、あたたかくて。
「ヴィオラ」
名前を呼ばれるたびに、胸がふわりと揺れる。
「……顔、赤いよ?」
「う、うるさいわね! ちょっと暑いだけよ!」
「暑いだけ、か?」
「そうよ。そうに決まってるじゃない」
そっぽを向きながら、息を整えようと深く吸い込む。だが、すぐ近くで笑う彼の顔が眩しくて、繋いだ手が熱くて、呼吸が上手くできない。
(……偽の恋人。たった三ヶ月だけの、お芝居なんだから)
自分に言い聞かせながら、ヴィオラは繋いだ手を、そっと握り直した。
***
恋人のふりを始めて、一ヶ月。
優秀な騎士でもあるセドリックは、ヴィオラを街や社交の場へ連れ出しては、人々の前であからさまに〝恋人〟として振る舞った。
世間に印象づけるための演技。けれど、いつしかその温もりが、ヴィオラの心に小さな揺らぎを残していた。
そして、決戦の日。
ヴィオラはセドリックを伴い、王宮の門をくぐる。ガストンの後見人申請を阻止するには、この〝偽りの恋人〟劇を貴族たちに信じ込ませ、ヴィオラ自身が一人の大人としてふさわしいと認めさせねばならない。
その紫の瞳には、確かな決意が宿っていた。
王宮の大広間は、黄金のシャンデリアと絹の衣擦れ、囁き合う貴族たちの声で満たされている。ヴィオラとセドリックが姿を現すと、さっと視線が集まった。セドリックは黒髪を無造作にかき上げ、鮮やかな緑の瞳で彼女に微笑みかける。
「姫さん、緊張してる?」
耳元でささやかれた声に、ヴィオラは肩をすくめた。
「してないわよ」
強がりを返しながらも、彼の手をぎゅっと握る。演技のはずなのに、その温かさにふと心が安らぐ自分が、少し悔しい。
そこへ、重々しい足音が響く。灰色の髪を撫でつけたガストンが、嫌味な笑みを浮かべながら近づいてきた。
「ヴィオラ嬢。子爵家の遊び人と恋人気取りとはな。伯爵家の名も地に落ちたものだ」
ヴィオラが口を開くより早く、セドリックが一歩、前へ出る。
「侯爵様。名誉を汚しているのは、どちらでしょうね。ヴィオラの財産を狙っていると、最近は宮廷でも噂ですよ?」
もちろん、その噂を広めたのは他ならぬ、この一ヶ月の〝恋人劇〟だった。
ざわ、と場が揺れる。貴族たちの視線がガストンに集まり、彼の顔が引きつる。
「戯言だ! 私はただ、彼女の未来を案じて……」
「未来、ですって?」
ヴィオラの声がぴんと空気を張りつめる。
「私の遺産を管理したがるのが、未来のため? 笑わせないで。私の人生は、私が決めるわ」
自分でも驚くほど凛とした声だった。セドリックの隣に立っているだけで、ヴィオラは自分の中に芽生えた変化を、はっきりと感じていた。
ざわめきが広がり始めると、セドリックはそっとヴィオラの肩を抱き寄せる。
「彼女は、僕のパートナーです。誰にも渡しませんし、財産目当てなど論外ですよ」
その声音は、静かで甘やかに毒を含みながら、会場の空気を塗り替えていく。
抱かれた肩から伝わる体温に、ヴィオラの心臓が高鳴った。
(演技よ……これはあくまで演技なんだから!)
貴族たちの視線が次第にガストンへと向き始める。だが、彼の瞳に諦めの色はない。
「恋人だというなら、愛の証を見せてもらおう。次の舞踏会で、ヴィオラと踊れ。子爵家の若造に、伯爵令嬢をリードする技量があるか……皆で見せてもらおうじゃないか」
挑発めいた言葉に、ヴィオラの胸は一瞬で凍りついた。
舞踏会。貴族の社交における、最も華やかで、最も注目される場面。
失敗すれば、セドリックが〝ただの遊び人〟であるという印象が定着し、この一ヶ月の努力が無駄になる──いや、それ以上の悪評が広がるかもしれない。
(それだけは……絶対に避けなきゃ……!)
ヴィオラの焦りをよそに、セドリックは涼しい顔で言い放った。
「受けて立ちましょう。──ねぇ、ヴィオラ?」
「もちろんよ!」
ヴィオラはふふんと鼻を鳴らして笑ってみせた。だが、心の中では──
(どうしよう、私、まともにダンスの練習なんてしたことないのに!)
内心、冷や汗を背中に感じていた。
***
その夜、ヴィオラの屋敷の広間には、数多の蝋燭が淡く灯り、揺れる光が床にさざ波のような影を落としていた。静けさの中に足音がひとつ。セドリックが手を差し出すと、ヴィオラはほんの一瞬ためらい──そして、そっとその手を取った。
「じゃあ、基本のステップからいこう。僕の足を踏んでも、怒らないよ」
「踏まれて無事でいられればいいわね」
軽口を交わすものの、ヴィオラの手のひらはうっすら汗ばんでいる。ぎこちなく踏み出したステップは、すぐにもつれ、彼の胸にぶつかりかけた。
「ひゃっ……ご、ごめんなさい!」
慌てて身を引こうとする彼女を、セドリックは軽やかに引き寄せる。
「踊れないなんて、意外だな。令嬢って、社交の申し子じゃなかった?」
「…… 本よりつまらない舞踏会に、熱心にはなれなかったのよ。ダンスより、戦史の本の方が面白いわ」
「それ、ヴィオラらしいな」
くすっと喉の奥で笑いながら、彼はそっと彼女の腰に手を添える。
「でもね、君が本を好むところ、僕はけっこう気に入ってるんだ」
そのひと言に、ヴィオラは思わず見上げた。まっすぐに向けられた緑の瞳が、深く澄んでいて──胸の奥が、どくん、と音を立てる。
(ち、違う。これは……ただの演技……!)
思わず目を逸らすと、セドリックはその顔を覗き込んできた。
「ねぇ、目を合わせてって言ってただろ? 恋人らしくしなきゃ」
彼の声は甘く、逃げ場を奪う。意を決して視線を戻すと、セドリックは優しく目を細めた。
「うん、そう。そのまま、僕から目をそらさないで」
静かな囁きに、薄紫の瞳は、彼の緑の光を深く映す。
「君が本気で戦ってるの、ちゃんと見てるよ。ヴィオラ」
その言葉が胸に落ちたとき、ヴィオラはふと、なにかが解けるような気がした。誰もが仮面をかぶるこの世界で、彼だけが自分の内側を見てくれている。そう、思えた。
(……なんで、こんなに胸が苦しいのよ)
その鼓動を誤魔化すように、ヴィオラは話題を逸らす。
「そういえば……あなた、前に東の村を助けたって聞いたわ。井戸を掘らせて、薪も配ったって」
セドリックは肩をすくめて笑った。
「どこからそんな話を?」
「知り合いから。偶然よ。でも、あのとき報酬もらってないんでしょ?」
セドリックはわずかに目を伏せて苦笑する。
「昔、あの村で少し世話になったことがあってね。ちょっとでも恩返しができたらいいなって。誰にも知られたくなかったけどなあ」
言葉とは裏腹に、彼の笑みは照れたように柔らかい。ヴィオラはその横顔を見つめ、ふと呟いた。
「……そんなふうに思える人、なかなかいないわよ」
この男は不思議な人だ。女たらしと噂され、軽薄に見えて、けれど人を見る目は澄んでいる。ふと、ヴィオラはあの契約金のことが気になった。
「契約金……私が渡したお金は、どうしたの?」
「ん? あれは楽団に寄付したよ。古楽器を保存してる団体があってさ、資金難で困ってたから」
「楽団?」
「うん。母が昔、歌を教えてた場所なんだ。今も子どもたちに演奏を聞かせてるらしくてね。少しでも助けになればと思って」
その瞳には、母を想う優しい光が宿っていた。ヴィオラの胸に、小さな痛みが走る。
(どうして、こんな人を〝偽の恋人〟に選んだのかしら……)
彼は利用されるような人じゃない。心のどこかに、罪悪感が芽生えていた。
「さ、そろそろスピンに挑戦してみようか」
沈黙を吹き飛ばすように、セドリックが笑う。彼の無邪気な笑顔に、ヴィオラは少し俯いてから、こくりと頷いた。
「……手加減してよね」
そして、胸がまたひとつ跳ねたのを隠すように、顔を上げてニッコリと微笑む。
「最高のダンスで、ガストンを黙らせてやりましょう」
「うん、いいね。その意気だ」
彼の言葉に、ヴィオラの胸の鼓動は、もう演技ではごまかせないほどに──響いていた。
***
そして、舞踏会の幕が上がった。
深紅のドレスを纏ったヴィオラは、まるで夜を裂いて灯る炎のように、会場の視線を一身に集めていた。煌びやかなシャンデリアの光を受けて揺れるその姿は、誰の目にも忘れがたい輝きを放っていた。
隣に立つのは、漆黒の礼装に身を包んだセドリック。静かに手を差し出し、やさしく言う。
「行こう」
「ええ」
震えを隠しきれないヴィオラの手を、彼はしっかりと包み込む。その温もりに、張り詰めていた神経が少しずつ緩んでいく。
やがて音楽が流れ始める。重なる旋律に導かれるように、ふたりは舞踏の中心へと足を踏み入れた。
胸の奥で、心臓が高鳴る。
しかし最初のステップを踏んだとき、不思議と恐れは消えていた。セドリックの腕がしっかりと支えてくれる。リードは自然で、動きは驚くほどなめらかだった。
まるで、ずっと前からそうしてきたかのように──ふたりの息は、すぐに完璧に合った。
彼の手のひらに、彼の視線に、身を委ねるたび、ヴィオラの中にあった不安は、少しずつ溶けていく。ドレスの裾が舞い、髪が揺れ、軽やかに回転するたび、会場にはざわめきと拍手が巻き起こった。
ヴィオラの心からは、知らぬ間に緊張が消えていた。
この瞬間だけは、ただ彼と踊っていたい──それだけを願いながら、彼女はセドリックの手に身を預けた。
「完璧だよ、ヴィオラ」
耳元で囁かれたそのひと言に、胸がふっと熱くなる。彼の言葉が、自信という名の光を与えてくれる。
いつの間にか、すべての視線はふたりに向けられていた。輪の中心で踊るたび、歓声が大きくなっていく。セドリックが軽やかに手を引けば、ヴィオラのドレスはまるで一輪の薔薇のように咲き誇った。
「こんなに目立つとは思わなかったわ」
「それは君のせいだよ。目が離せないくらい綺麗だから」
セドリックの軽やかな冗談に、ヴィオラは思わず頬を染める。けれどその視線は真っ直ぐで、どこまでもやさしい。
最後の旋律が響くと同時に、彼はヴィオラをふわりと抱き上げる。
まるで物語の幕引きを飾るワンシーンのように──。
拍手が鳴り響き、歓声があふれた。
ヴィオラは微かに息を弾ませながら、セドリックの胸元に身をあずける。
そのまま見上げれば、彼と視線が絡む。自然に、ふたりの口元に笑みが浮かぶ。
まるで、誰よりも互いを愛している恋人たちのように。
しかし、その幸福な空気を裂くように、ガストンの視線がヴィオラの背中を貫いた。
嫉妬と悔しさの混じったその目に、ヴィオラはわずかに眉を寄せる。
それでも。
彼の視線ひとつで、今日の夜を終わらせたくはなかった。
ヴィオラはあえて何も言わず、次の曲が始まると同時に、またステップを踏み出した。
隣には、あの手がある。
導いてくれる腕がある。
ただ、それが嬉しくてたまらなかった。
セドリックの笑顔が、
そのまなざしが、
ひとつひとつ、心に深く刻まれていく。
忘れられない夜の記憶として、永遠に──
***
舞踏会の成功は、ただの一夜の華やぎに留まらなかった。
ヴィオラとセドリックの見事なダンスは、貴族たちの間でたちまち話題を呼び、数日と経たぬうちに社交界の噂話の主役となった。
余波は意外なところにまで及び。ガストンが申請していた『ヴィオラの後見人となる計画』は、貴族たちの支持を失い、一時的に棚上げされることとなった。
その知らせを受けたヴィオラは、ひとまず胸を撫で下ろす。
けれど、それは完全な終息ではない。むしろ、あの夜の舞踏がヴィオラたちをさらに目立たせる結果となり、〝偽りの恋人芝居〟は、もはや火のついた灯のごとく視線を集める存在となっていた。
(まさか……ここまで騒がれるなんて)
『お似合いのふたり』『もう婚約間近に違いない』
貴族たちは口を揃えて噂し、祝福めいた視線を向けてくる。
それは嬉しさよりも、焦りを誘った。
(このままじゃ……偽装がバレる前に私の方が壊れそう! 絶対これ、心臓に悪いってば……!)
こうしてヴィオラは、ベッドの中で身悶えしながら眠れぬ夜を幾日も過ごすこととなる。
そんなある日の昼下がり。
緩やかな陽射しが静かに差し込むサロンで、ふたりは向かい合っていた。
テーブルの上では、美しい陶器のポットから湯気が立ちのぼり、優雅な紅茶の香りが室内をやさしく包み込む。
「ねえ、セドリック。……ガストンって、これから何を仕掛けてくると思う?」
ヴィオラがそっとカップを持ち上げ、問いかける。
セドリックは窓辺にもたれたまま、ぼんやりと外の景色に目をやっていたが、やがて緑の瞳を細め、静かに答えた。
「彼はプライドが高い。公衆の面前で恥をかかされたと思っているだろう。だから、きっと僕たちの関係に疑いの目を向けてくる。より確実で、派手な証拠を求めるはずだ」
「派手な証拠って……もしかして、公開プロポーズとか?」
ヴィオラが半ば冗談のつもりで言うと、セドリックは小さく笑い、ふと唇の端をつり上げた。
「悪くない案だね、姫さん。それか……本当のキスでも見せつける?」
「はあっ!? ふ、ふざけないで!」
驚きに跳ねるように、カップがソーサーにぶつかって音を立てる。
慌てるヴィオラに、セドリックはいたって真剣な表情で視線を向けた。
「ふざけてないよ。最初の舞踏会でのキスは、あくまで角度の錯覚だった。それを見抜いた誰かが、ガストンに話しているかもしれない。……そうなれば、疑われるのは時間の問題だ」
「だ、だからって……ほ、本当に……キ、キス……」
言葉に詰まり、ヴィオラの顔はたちまち真っ赤になる。
目も合わせられず、視線を彷徨わせる彼女の様子は、どこまでも初々しく、どこまでも可愛らしかった。
そんなヴィオラの反応に、セドリックは心底楽しそうに目を細める。
まるで、どんな敵よりも手強くて、愛おしい存在を目の前にした騎士のように。
***
数日後の夜、王宮では盛大な慈善晩餐会が開かれていた。
主催は別の貴族だが、その背後にガストン侯爵の影があることは、火を見るより明らかだった。
煌めくシャンデリアが光を滴らせ、貴族たちが豪奢なテーブルを囲む中──不意に場の空気を裂くような声が響いた。
「ヴィオラ嬢とセドリック殿の愛情とやら、本当に本物か? 恋人同士なら、その熱を今ここで証明してもらおうじゃないか。……ふん、どうせキスもできまい? 前回の舞踏会では結局、真似事だったとわかっているのだからな」
ガストンの挑発的な嘲笑が、会場の空気を凍らせる。キスのふりをしていたのだと、バレたのだ。
静寂が降り、銀器の触れる音さえ止んだその中で、ヴィオラの胸が激しく脈打つ。
だが、すぐそばにいたセドリックがそっと手を取り、低く囁いた。
「姫さん、どうする? 乗ってやるか」
「……やるしかないわよね」
震える指先を隠しながら、ヴィオラは小さく頷く。ゆっくりと立ち上がり、セドリックと向き合う。
幾百の視線を浴びながら、彼女は深く息を吸い込んだ。気持ちを整え、胸の奥にある何かを抑えつけながら、口を開く。
「セドリック。……私、あなたを愛しているわ」
その瞬間、ざわめきが会場を包み込む。
(言っちゃった……! 演技よ。そう、これは全部お芝居のはずなのに!)
血が一気に駆けのぼり、目の前がかすむ。
見えるのは、セドリックの顔だけだ。
彼は目を見開き、短く息を呑むと、静かに言った。
「ヴィオラ……僕もだ」
その声音はあまりにも優しく、まるで本当に恋人に想いを告げているかのようだった。
慈しむような微笑みを浮かべる彼に、ヴィオラは思わず唇を引き結ぶ。
そして──セドリックはそっと彼女の頬に手を添え、ゆっくりと顔を近づけた。
(これは演技。偽りの関係。ただのお芝居……なのに、どうしてこんなにも心が苦しいの)
唇が触れそうになった、その瞬間。
ヴィオラは反射的に目を閉じる。
しかしセドリックのキスが落ちたのは──唇ではなく、彼女の額だった。
そっと、熱く、しかしどこまでも優しい触れ方で。
驚いて目を開けたヴィオラの前で、セドリックは悠然と振り返る。
「これで十分だろう? 侯爵殿」
その言葉には、挑発に対する冷ややかな侮蔑が込められていた。
貴族たちの間に広がるのは、安堵と称賛の気配。
「見事な対応だ」
「情熱と節度を兼ね備えた、まさに紳士の振る舞いね」
「若いのに、なかなか肝が据わっている」
皮肉と賞賛が交錯する中、ひときわ響いたのは、貴族の一人の冷笑だった。
「なるほどな。侯爵殿は試すおつもりだったのだろうが……かえって二人の愛の深さを世に知らしめてしまったようだ」
「未婚の男女に公衆の面前でくちづけを強要するなど、品位を疑われかねん。……やり方を誤ったな、侯爵」
言葉の刃が次々にガストンを貫く。
顔をひきつらせた彼は、無言のまま席を立ち、背を向けた。
その背中を見送りながら、セドリックはそっとヴィオラの手を引いて椅子へと導いた。
「……下品な挑発に、真面目に応じるわけないだろ」
ヴィオラはぽかんとしながら、額にそっと手を当てる。
そこに残るのは、演技とは思えないほど優しく、熱い感触。
それは心に静かに焼きついて──決して、消えてはくれなかった。
***
晩餐会の帰り道。
揺れる馬車の中で、ようやく現実に引き戻されたヴィオラは、胸を押さえながら切実に声を上げた。
「心臓、止まるかと思ったわ……!」
隣に座るセドリックが肩をすくめて、くすりと笑う。
「もし本物のキスだったら、姫さん、たぶん気絶してたな」
「もう……そうやってからかわないで」
ぷいと顔を背け、ヴィオラは窓の外に視線を向ける。
けれど胸のざわめきは、夜風ではとても冷まらない。
──これは契約。恋人のふり。
それだけのはずなのに、彼の声色や仕草のひとつひとつが、本物に思えてしまう瞬間がある。
そんな自分を打ち消すように、ヴィオラは膝の上でドレスの布をぎゅっと握り締めた。
その頃──
ガストンは晩餐会での失態を思い返しながら、顔を引きつらせていた。
だがその目に宿っていたのは、恥ではない。静かな憤怒と、次こそ逃さぬという執念。
すでに彼は、新たな計略を動かし始めていた。
***
数日後。
仮初めの恋人関係を続けていたある日、セドリックはガストンのただならぬ動きに気づく。
ガストンは、ヴィオラの遠縁にあたる親戚を呼び寄せ、「彼女には財産を管理する器がない」と吹き込み、後見人として管理権を奪おうとしていた。
さらに、セドリックの過去を嗅ぎ回らせ、探偵を雇って〝女たらし〟という噂に信憑性を与える捏造工作まで企てていた。
このままではヴィオラに迷惑をかけるかもしれない──
そう悟ったセドリックは、街外れの小さな教会へ彼女を連れ出した。
そこには、彼が密かに支援している村の子どもたちがいる。
パンや古着を渡しながら、セドリックはあくまで自然な態度で、けれどどこか測るような目を向けて言った。
「……ガストンが、俺の過去を探ってる。恋人でいるつもりなら、それなりの覚悟がいるよ」
それは突き放す言葉ではなかった。
ただ、答えを試すような響きを孕んでいた。
ヴィオラは一瞬、返す言葉を失い──だが、まっすぐに顔を上げて告げる。
「セドリック、私はあなたを信じてる。契約をやめるつもりなんて、ないわ」
ヴィオラは彼の過去、すべてを知っているわけではない。
けれど今までの言動のひとつひとつが、彼の誠実さを物語っていた。
揺るぎないその言葉に、セドリックの瞳がふっと細められる。
「……そうか。なら、姫さん──」
いつも通りの笑顔で。
けれどどこか、音の低い声で囁く。
「〝恋人〟らしい距離、忘れないでくれよ?」
その言葉が、ヴィオラの胸に妙に鋭く刺さった。
演技だとわかっている。
契約の一部に過ぎないと、何度も自分に言い聞かせてきた。
(なのに、なぜこんなに心が痛むの?)
高鳴る鼓動の中に、つららのような冷たい痛みが混じる。
思わず目を伏せ、ヴィオラはただ、そっと頷くしかなかった。
彼の笑顔が演技であっても、その手を離したくない──
その想いが胸を突き刺す。
家督を継げば、それで終わる関係。
契約の三ヶ月は、もう目の前。
ガストンの罠は、すぐそこまで迫っているというのに──
ヴィオラが恐れていたのは、策略でも陰謀でもない。
この胸に芽吹き始めた想いに、いつか名前を与えてしまいそうな、自分自身だった。
***
ガストンの仕掛けた罠が、静かに、しかし確実に広がり始めていた。
王宮のサロン、街の酒場──噂は水面に広がる染みのように、少しずつ、けれど確実に広がっていく。
「セドリックは女たらしだ」
「複数の令嬢から金を巻き上げているらしい」
「ヴィオラも、騙されているだけだ」
どれも、ガストンが雇った探偵が仕立てた偽の手紙や証言によるものだった。作られた噂はまるで毒のように、じわじわと、ヴィオラとセドリックの立場を蝕んでいく。
ある日。
屋敷の書斎で、ヴィオラは匿名で届いた手紙を震える手で握りしめていた。
──セドリックが、別の女性と密会していた。
その証拠として、手紙には日時と場所が詳細に記されている。
「……こんなの、信じないわよ」
つぶやく声は、しかし震えていた。
ガストンの策略だと頭では理解している。それでも、心のどこかにあった不安を、この一枚の紙切れは見事に突いてきた。
もしかしたら、セドリックには本当に他に大切な人がいるのではないか。
こんな〝契約の関係〟ではなく、彼が心から求める相手が、すでにどこかにいるのではないか。
棘のような想いが、胸の奥を刺す。
信じていたはずだった。
けれど確かめずにはいられなかった。
「これ……ガストンの仕業よね? ……でも、本当のところ、どうなの?」
いつものように屋敷を訪れたセドリックに、ヴィオラは思わず問いかけていた。
差し出した手紙は、裏切りではなく、彼を信じたいがゆえの衝動だった。けれど、自分の中に芽生えた疑念が悔しくてたまらなかった。
セドリックは手紙を一瞥し、眉をわずかにひそめる。
「……姫さん、まさか僕のこと、疑ってる?」
穏やかな声が、却って胸に痛い。
「ちがうの。信じてる……信じてるつもりなの。だけど……」
言葉が詰まる。
言い訳のように重なる声が、どれも本心から滲んでいた。
「……こんな手紙ひとつに、心を揺らしてしまった自分が、情けなくて……悔しくて。あなたを疑いたいわけじゃないわ。けど、怖かったの」
(……もし本当に、他に誰かがいたら……って。そんなこと、考えたくなかったのに)
俯いたヴィオラの前で、セドリックはしばし黙っていた。
やがて、彼の声が静かに落ちてくる。
「……そうか。ヴィオラは、それでも信じようとして、こんなに揺れて、悩んでくれたんだな」
ふっと、彼が微笑んだ。
「ありがとう。話してくれて、嬉しいよ。……でも、この手紙も噂も、全部ガストンの仕業だ。僕が支援してきた村の女性たちを、勝手に〝愛人〟に仕立て上げただけ。都合よく〝証拠〟を作ったんだ。いかにも彼らしい、卑劣な手段だよ」
セドリックの目が、まっすぐにヴィオラを見据える。
その視線には、嘘も濁りもなかった。
「僕には、愛人なんていない。……たとえ契約でも、今、君の隣にいるのは僕なんだから」
「……じゃあ……恋人は?」
問いながら、ヴィオラの声はかすかに揺れた。
けれどセドリックは、柔らかく、けれど確かな口調で言った。
「恋人は──君だろ」
胸の奥が、そっと高鳴る。
愛人もいない、他の誰かでもない。
この瞬間だけでも〝選ばれている〟という事実が、ヴィオラの胸に、あたたかく灯った。
「……信じるわ。私はこれからも、あなたを信じる。疑って、ごめんなさい」
ヴィオラの謝罪に、セドリックは優しく笑って、少しだけ意地悪な声で囁いた。
「じゃあ、次の王宮の夜会。派手にやってみようか。僕たちの関係が本物だって、誰の目にも明らかになるくらいに」
それは、演技のはずの恋人が放つには、あまりに本気のように響く言葉だった。
ヴィオラの胸の奥で、名前のつかない感情が、またひとつ、息をした。
***
パーティの夜、王宮の大広間は、宝石のようにきらめくドレスと華やかな笑い声で満ちていた。
無数のシャンデリアが天井から光を注ぎ、床に反射したそれがまるで星のように輝く中——ヴィオラは、薄紫のドレスをまとって姿を現した。瞳と同じ色のそのドレスは、彼女の気品と静かな意志を際立たせている。
その隣には、セドリックが控えていた。彼は迷いなくヴィオラの手を取り、堂々とした足取りで会場の中心へと歩み出る。
二人が並んだ瞬間、ざわりと会場の空気が揺れた。
貴族たちの視線が、嫉妬、羨望、猜疑と入り混じって一斉に注がれる。
──まさか、本当に恋仲なのか?
──もし噂が本当なら、あの伯爵令嬢は愚かでしかないな。
そんな声があちこちで囁かれるなか、わざとらしい笑みを浮かべて歩み寄ってきたのは、ガストン侯爵だった。
その歩みには余裕があったが、どこか勝ち誇ったような影が滲んでいた。
「ヴィオラ嬢、まさかそんな女たらしの言葉を真に受けてはいないだろうな? 彼の素性を、もう少し精査するべきだ」
その声は、意図的に大きかった。
会場の喧騒が、ぴたりと止む。
視線と静寂がヴィオラに集中する中、彼女は小さく息を吸い、握られた手の温もりに支えられるように顔を上げた。
「ご忠告ありがとう、ガストン侯爵。でも……セドリックの過去を捏造するのに、どれほど費用がかかったのかしら。雇った探偵の腕前、少し残念だったようね?」
涼やかな笑みとともに放たれたその一言に、貴族たちがざわめく。
空気が一変し、会場に緊張が走る。
ガストンの顔が一瞬で赤らむも、すぐに取り繕うように嘲笑を浮かべた。
「証拠なら、ある。セドリックが女と密会していた記録だ。そちらに渡してもいいくらいだぞ?」
得意げに言い放つガストンに、セドリックは溜息まじりに小さく笑った。
「ああ、その日のことなら思い出した。村の子どもたちに食料と薬を届けに行った日だ。侯爵、まさか慈善活動を恋愛沙汰に仕立てあげるとは。あなたの創作力には脱帽するよ」
そう言って、セドリックは内ポケットから小さな帳面を取り出す。
それは支援物資の記録と、村の長老たちからの感謝状を綴じたものであった。
「これが、僕の〝密会〟の証拠です。皆さんの目でご確認を。ガストン侯爵の作り話と、どちらが真実か——お好きにご判断を」
彼の声は静かで、揺るぎない。
その目には驕りも虚勢もなく、ただ誠実さだけがあった。
貴族たちの視線が、ゆっくりとガストンへと向けられていく。
そのどれもが、疑念と軽蔑を含んでいた。
ヴィオラは一歩前に出て、落ち着いた声で言葉を添える。
「ガストン侯爵、私の財産が目当てなら、今後は別の方法をお考えください。私の名と家を侮辱するなら、しかるべき手を取らせていただきます」
毅然としたその言葉に、ガストンの表情が強張る。
口を開きかけたが、何も言えず、顔を引きつらせたまま舌打ち一つ。
踵を返して会場を去っていった。
静寂のあと、自然と拍手が湧き上がる。
それは祝福でも歓声でもなく、真実を見抜いた者たちが示す賛同だった。
ヴィオラとセドリック。二人の姿に、もはや疑う余地はなかった。
その夜の終わり。
二人は王宮の庭園で並んで立ち、月光に照らされていた。
花の香りと夜風が、静かに通り過ぎる。
「……もうすぐ契約、終わりね」
ヴィオラがぽつりと漏らす。
セドリックはその横顔を見て、少しだけ笑った。
「契約なんか関係ないさ。君が呼べば、いつだって僕は来るよ」
「本当に……?」
「もちろん」
その声には、どこかふざけたような軽さと、けれど確かな真心があった。
ヴィオラは、その言葉の裏を探ろうとしたが、先にセドリックが続ける。
「でも一応、あと二週間は契約期間中だ。最後まで、きっちり役目は果たすから」
淡々としたその言葉に、ヴィオラの胸がきゅっと痛んだ。
〝役目〟。つまり、あの言葉もこの手も、契約の範疇なのだと。
ヴィオラは唇を噛んで、何も言わずに俯いた。
(……それでも、今だけは、恋人でいたい。せめて、そのふりでも)
やがて、ヴィオラはそっと手を伸ばす。
自分から彼の手に触れたのは、これが初めてだった。
驚いたように見えたセドリックが、すぐに微笑みながらその手を握り返す。
夜の静けさの中で、二人は誰の目もなく、ただ隣り合っていた。
月光の下で、その距離は確かに〝恋人〟の距離だった。
けれど、ヴィオラの胸に広がる温もりと同じくらい、別れの予感は切実であった。
——あと、二週間。
契約が終われば、この関係も、終わる。
***
ヴィオラの周囲には、穏やかな風が吹いていた。
すべてが順調に見えた。味方は増え、未来への道もひらけている──誰もがそう信じて疑わなかった。
だが、油断の隙間を縫うように、一手を仕掛けてくる者がいた。
追い詰められたガストンが、最後の賭けに出たのだ。
ヴィオラの精神的不安定を理由に、彼女の財産管理権を自らに移すよう王宮に請願を提出した。
世間体を重んじる貴族たちの不安を煽り、彼女を孤立させて、すべてを奪うつもりで。
だがヴィオラは、すでに手を打っていた。
セドリックが行ってきた支援活動の記録を王に提出し、加えて、ガストンによる数々の捏造の証拠を綿密に揃えて告発した。
この一連の出来事を通じて得た貴族たちの信頼と支持を背に、ガストンの請願はあっさりと棄却された。
決着の場は、王宮の謁見室。
ヴィオラは、静かに、しかし凛とした態度でガストンと向き合った。
「ガストン侯爵。私の人生は、私のもの。あなたの欲望に、これ以上未来を踏みにじらせはしない。もう、二度と私の前に現れないで」
毅然としたその物言いに、ガストンは肩を落とし、黙り込む。
王の厳粛な裁定が下り、彼の請願は正式に却下された。加えて、その行為は名誉を損なうものとして、王命により公に咎められた。
そこから先の転落は、早かった。
社交界は手のひらを返し、ガストンが顔を出しても笑顔で迎える者は誰ひとりいない。
事業は失敗を重ね、商談は破談となり、投資家たちは次々と手を引いた。
築き上げた評判は音を立てて崩れ落ち、誰にも引き留められることなく、彼は王都の表舞台から姿を消した。
──ガストンが国を去った夜。
屋敷には、長い戦いのあとに訪れた静寂が広がっていた。
ヴィオラとセドリックは、深く沈み込むようなソファに並んで腰を下ろし、どちらからともなく微笑みを交わす。
そして静かに、グラスを傾けた。
すべてが、終わったのだ。
ヴィオラは伯爵家の家督を正式に継ぎ、未来への第一歩を踏み出した。
それは確かな喜びだったが、同時に、胸の奥にはひとつの区切りを告げる痛みもあった。
「契約も……今日でおしまいね」
これ以上、契約を続ける理由はもうない。すべてが丸く収まったのだから。
ヴィオラは、そっと唇を引き結ぶ。
だが、そんな彼女にセドリックはふっと微笑んだ。
「気づいてなかった? 契約は、昨日で切れてるよ」
言われてヴィオラが日付を確認すると、確かにその通りだった。
「……本当だわ。じゃあ、今日ここに来る必要なんてなかったはずよね?」
戸惑いを滲ませるヴィオラに、セドリックは目を細める。
「僕が君といたかったからに決まってる。契約なんて、もう関係ない」
その言葉に、不意にヴィオラの目に涙が浮かぶ。
〝僕が君と一緒にいたかった〟──それは、静かに胸に沁み渡る温かな言葉だった。
こみ上げるものを誤魔化すように、ヴィオラは笑う。
「……ずるいわね、そういうこと言うの」
「ずるくても、本当だから」
セドリックの声は、優しく、真っ直ぐで。
ヴィオラはゆっくりと顔を上げ、その瞳に映る彼の姿を見つめる。
もう、彼はただの契約相手ではない。
そのことを、自分の心が一番強く知っていた。
「ありがとう……そばにいてくれて」
震える声で紡がれたその言葉は、恐れではなく、安堵と感謝がこもるものだった。
セドリックは何も言わず、優しく微笑み。
ヴィオラは、彼にそっと手を伸ばす。
指先がセドリックの頬に触れた瞬間、その温もりに心がふっとほどけた。
セドリックは目を見開き──そして、ヴィオラの手にそっと自分の手を重ねる。
「……いいか?」
夢を確かめるような、柔らかな声。
ヴィオラは小さく頷いた。
セドリックは、そっと顔を寄せ、そして──
初めての、偽りのないキスを交わした。
その唇が語るのは、約束でも義務でもない。
ただ、確かな想いだけ。
「……ありがとう」
キスのあと、ヴィオラが小さく呟く。
「こちらこそ」
セドリックの声には照れくささが滲んでいたが、その笑顔は、言葉以上に幸福を物語っていた。
こうして、打算から始まった恋人契約は、静かに幕を下ろす。
そこに残ったのは、確かな絆と、真実の想いだった。
守りたかったのは、ただ両親の遺した財産だけではない。
差し伸べられた手のぬくもり、まっすぐに向けられる笑顔──そのすべてが、ヴィオラにとって愛おしく、かけがえのないものとなっていた。
もう契約はいらない。
これからは、ただ一緒にいたい。その気持ちだけで十分だった。
ヴィオラがセドリックに目を向けると、彼もまた彼女を見つめていた。
ふたりの視線がそっと重なり──そして、笑い合う。
契約から始まった関係が、誰よりも本物の愛に変わったのなら。
それはもう、運命だったのだと。
繋がれた手は、今後離されることはない。
これから先も、ずっと──ふたりで。
イラスト/澳 加純さん
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