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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
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復讐のために婚約破棄を仕組んだ愚かな令嬢のお話

「私は男爵令嬢アミレイティアとの間に真実の愛を見つけた! 伯爵令嬢レタリヴィア! 君との婚約は破棄させてもらう!」


 卒業式の夜に執り行われた学園の夜会。朗々と響いた声に、参席者の誰もがその声の元へと目を向けた。向けざるを得なかった。ただでさえ人の関心を呼ぶ婚約破棄の宣言。しかもそれが王族の発したものとなれば、無視することなどできるはずもなかった。

 

 宣言を告げたのはトレムブルト王国の第三王子セイクラルド。

 さらりとした金髪に秀麗な面差し。凛と輝く瞳の色は碧。王家の血筋に恥じない凛とした美青年である。

 その傍らに寄り添うのは男爵令嬢アミレイティア。ブラウンのショートヘアに、理知的な緑の瞳の令嬢だ。

 

 セイクラルド王子はその聡明さで知られており、将来は王家の治世を支える人物として多くの者から期待されていた。

 男爵令嬢アミレイティアにしても優秀な成績を修めた才媛であり、既に魔法省への就職も内定している。彼女は特に防御魔法に長けており、将来は国の防衛を担う一人になると噂されている。

 

 二人が懇意にしているという噂は学園内では有名だった。だが誰もが深刻にとらえてはいなかった。

 セイクラルド王子には正式な婚約者がいる。優秀な生徒二人が、己の立場を忘れて道から外れた深い付き合いをするはずがない。一時の火遊びに過ぎないと、学園の生徒たちの誰もが思っていたのだ。

 だから今、卒業式後の夜会で婚約破棄を宣言するなど、誰も予想していないことだった。

 

 予想外の婚約破棄の宣言に驚く生徒たちは、王子たちから宣言を受けた令嬢へと目を移した。

 伯爵令嬢レタリヴィア・コンクォート。

 腰まで伸びる艶やかなプラチナブロンドの髪。切れ長の瞳の色は紅。楚々とした美しい令嬢だった。

 コンクォート伯爵家は、ここ10数年でいくつもの新事業を立ち上げ、その多くを成功させた勢いのある家だ。彼女はそんな隆盛を誇る家に相応しい気品と美しさを供えており、第三王子の婚約者として申し分のない令嬢だった。

 彼女の美しい顔は見えない。彼女は顔を伏せており、その長い髪に阻まれ表情が読み取れない。

 俯き震えるその姿には、この婚約破棄の宣言が相当ショックだったと読み取れる。その弱々しい姿に、生徒たちは胸を痛めた。

 

 しかし違った。彼女の中にあるのは、周囲の生徒たちが想像するような絶望や悲しみではなかった。

 

 達成感と、歓喜。

 罪悪感と、後悔。

 それらがないまぜになった感情が渦巻いていた。そんな気持ちを表に出すわけにはいかず、だから彼女は顔を伏せているのだ。

 レタリヴィアはこの婚約破棄を受けねばならなかった。絶縁を突きつけられた令嬢の姿を保たなければならなかった。婚約破棄の宣言が滞りなく行われるよう、場の空気を保たねばならなかった。

 なぜならこの婚約破棄は、彼女が望み、彼女自身が仕組んだものだったからだ。

 



 夜会より約6年前。伯爵令嬢レタリヴィア・コンクォートが12歳の時、彼女に縁談の話がやって来た。

 

 レタリヴィアのコンクォート伯爵家は、この数年でいくつかの新事業を立ち上げに成功した勢いのある家だ。対してファルディスタン伯爵家は長い歴史を持つ名家だった。

 勢力を増すコンクォート伯爵家と歴史あるファルディスタン伯爵家。この婚姻は両家の繁栄のために極めて重要な意味を持つものだった。

 

 レタリヴィアはこの縁談に対し、冷めた態度で臨んでいた。コンクォート伯爵家は権謀術数に長けた家であり、近年の発展も裏工作の成功によるものだ。そんな伯爵家で幼い頃から厳しい教育を受けた彼女は、この縁談が利害関係に基づくものだときちんと理解していた。期待も不安もなく、ただ貴族令嬢としての義務を胸に、初の顔合わせに臨んだ。

 

 縁談の相手は伯爵子息イーディアルト・ファルディスタン。黒髪にくりくりとした蒼い瞳の、無邪気な少年だった。

 その澄んだ瞳は、婚約者との初めての顔合わせというイベントにきらきらと輝いていた。

 

 挨拶が済むと、イーディアルトは待ちかねたかのように自分の趣味について語り始めた。

 彼は絵画や音楽といった芸術全般を好んでいた。自分の大好きな絵や曲について実に楽しそうにどんどんと語っていた。その様は貴族の優雅な歓談といった感じではなく、無邪気な子供そのものだった。

 レタリヴィアはこの顔合わせに備えて彼の趣味については知っていたし、一通りの知識も予習してあった。しかしそれはほとんど役に立たなかった。一方的に語り続ける彼に対して相槌を打つばかりだった。

 

 貴族社会の裏に通じた伯爵家に生きてきたレタリヴィアにとって、世界は常に曇り空の下にあるような薄暗いものだった。しかし彼の語る世界は色鮮やかで光に満ちていた。

 見えている物が違う。彼の語る世界はレタリヴィアにとってはまぶしすぎた。ここまで価値観の違う人間を伴侶にしなくてはならないかと思うと、憂鬱なものを感じた。


 週に一度、お茶の席で会うことになった。冷めた態度のレタリヴィアに対して、イーディアルトはいつも楽し気に話した。最近読んだ小説や、絵画展に行ったこと、新しく知った音楽について、身振り手振りを交えて実に楽しそうに語った。レタリヴィアは聞き役に回るばかりだった。

 

 ある日のお茶会で、イーディアルトは自分で描いた絵を持ってきた。鉛筆書きのざっと描かれた絵。絵の中では一人の令嬢が幸せそうに微笑んでいる。

 あまりうまいとは言えない稚拙な絵だった。イーディアルトは芸術を深く理解する心はあっても、それを表現する技術は持ち合わせていないようだった。

 レタリヴィアの芸術的感性は乏しい。芸術品の価値を知識として理解はしていても、感情を揺り動かされたことはなかった。この絵は間違いなく金額的な価値は低い。それなのに、この絵の中の笑顔から、なぜだか目が離せなかった。

 

「この令嬢は誰ですか?」


 適当な感想でも言って話を合わせればいい。そう考えていたはずなのに、口から出たのは問いかけだった。

 イーディアルトはにっこり笑って答えた。


「君のことを描いたんだよ」


 レタリヴィアは首を傾げた。言われてみれば絵の中の令嬢は髪型や顔かたちは自分の特徴と一致している。だが表情のせいで気づかなかった。


「私はこんな風に笑ったことはありません」

「そうだね。でも僕は、こんな風に笑って欲しい。君の笑顔はとっても素敵だと思うんだ」


 その言葉はレタリヴィアの心に響いた。

 権謀術数の伯爵家に生まれた。貴族の裏側を知らされた。世界はどこまでも灰色だと思っていた。笑顔は相手の警戒を解くための道具だと教えられてきた。

 だが、この絵の笑顔は違った。温かで幸せな顔だった。自分がこんな顔するところなんて想像したことすらなかった。それなのにイーディアルトは、レタリヴィアの中にこんなにも温かな笑顔を見出したのだ。

 芸術のことはわからない。彼にどうしてそんなものが見えたのか想像もつかない。それなのに、イーディアルトの言葉をただの戯言と流すことができない。その絵から目が離せなかった。

 そしてレタリヴィアは気づいた。こんな風に笑うことを、自分の心が望んでいるということに。

 

 この婚約が利害関係によるものだとわかっている。自分に与えられた役目が、相手に取り入り自分の家の繁栄に貢献することだと理解している。婚約などただの契約に過ぎないと承知している。

 でも、この婚約はレタリヴィアの心の中でその意味を変えていった。この婚約は、何よりも大切な絆となった。うっそうとした暗い森の中。開けた一角にできた、光にあふれた花畑。レタリヴィアにとって、イーディアルトはそんな存在だった。

 次第にお茶会の日が待ち遠しくなった。彼と過ごす時間は幸せだった。彼との時間を重ねるうちに、レタリヴィアは少しずつ、形だけではない自然な笑顔を見せるようになった。

 胸の中にある温かな彼への想い。これが恋なのだと知った。一生大切にしようと思った。

 

 だが、この縁談は解消となった。

 婚約してから約4年後。二人が貴族の学園に入学して、二年生を迎えようとした頃。

 トレムブルト王国第三王子セイクラルドが、レタリヴィアを配偶者として欲したためである。




 王家の者であろうと、既に婚約の決まった貴族令嬢を婚約者にしようとすることは通常はありえない。だがこれには少々込み入った事情があった。

 もともとセイクラルド王子は、コートラープ侯爵家の令嬢と婚約していた。だがコートラープ侯爵家は不祥事が発覚し、失脚した。王子の婚約相手としては不適格とみなされ、その婚約は解消となった。

 

 このような事態は王家の威光に影を差す。早急に新しい婚約を結び、暗い雰囲気を払拭する必要があった。

 そこで白羽の矢が立ったのは、新事業をいくつも成功させ勢いのあるコンクォート伯爵家であり、その令嬢レタリヴィアだったのだ。

 レタリヴィアとイーディアルトの婚約解消については、王家が十分な補償をすると約束してくれた。両家は受け入れることとなった。王家の決定に従い力を尽くすことは王国に生きる貴族の義務だった。

 

「イーディアルト様。こうしてお話するのも最後となります。これまでありがとうざいました」

「君が第三王子の妃と選ばれたことを光栄だと思う。私も伯爵家の人間として、王国を支えることを誓おう」


 最後のお茶会で交わしたのはそれだけだった。今までの温かな時間とは異なる、寒々としたやりとりだった。

 レタリヴィアは本当は彼の胸に飛び込みたかった。別れたくないと泣き叫びたかった。いっそ二人で駆け落ちしようとまで考えた。

 だが彼女はそこまで愚かになれなかった。駆け落ちなど夢物語に過ぎないとわかっていた。


 もし王族からの誘いを拒絶して逃げ出したりすれば不敬罪となる。この王国に安住の地は無くなるだろう。王家の追求を逃れて隠れ住むなどおよそ不可能だ。

 かと言って他国に逃げることも難しい。このトレムブルト王国は周辺国家の中でも最大の国家だ。その王族からにらまれる覚悟で、恋に溺れた貴族を受け入れる国などあるはずもない。

 王国の目の届かない遠く離れた地なら、あるいは暮らせる場所もあるかもしれない。しかし何の伝手もなしそんな遠くまで逃げ延び、新しい生活を築くなどまるで現実的ではない。

 

 第三王子からの婚約は受け入れるしかなかった。

 だから最後のお茶の席では、二人は愛を語らなかった。

 愛を語れば離れられなくなる。それは相手を苦しめることになる。

 イーディアルトは夢見る少年から穏やかで繊細な青年へと成長した。芸術を愛する心は変わらない。それでも貴族としての分別をわきまえるようになっていた。

 愛し合うからこそ、静かに別れることにしたのだ。

 

 

 

 そして、レタリヴィアは第三王子の婚約者となった。

 セイクラルド王子は優しかった。週に一度のお茶の席では、常に微笑みを絶やさず楽しい話題を振ってくれている。レタリヴィアの言葉に耳を傾けてくれる。彼女の望むことなら可能な限り叶えてくれる。言葉の一つ、所作の一つからも、レタリヴィアへの気遣いが感じられる。

 休日には美術館や観劇に連れて行ってくれる。

 かといってなれなれしく距離を詰めることはなく、節度のある付き合いをしてくれる。


 セイクラルド王子の人は聡明で計算高い人物と聞いていた。この婚約にしても、婚約解消という不名誉な出来事から国民の目をそらすために義務的なものであるはずだった。

 それなのにセイクラルド王子は、まるで他国の姫君をもてなすように優しくしてくれる。それがどうにも不審に思えて、レタリヴィアは不敬を承知で問いかけてみた。

 

「王子はいつも優しくしてくださいます。王家の婚約者として、伯爵令嬢という身分はそこまで相応しいとは言えません。それなのに、どうしてこんなに優しくしてくださるのですか?」


 王子は爽やかな微笑みを浮かべ、レタリヴィアの目をまっすぐに見つめて答えた。


「学園に入学して、初めて目にしたときから君に惹かれていた。新しい婚約相手にはいくつか候補があったが、私は自分の意思で君を選んだのだ」


 レタリヴィアは目を見開いた。

 セイクラルド王子の視線にも声にも、燃えるような熱さがあった。

 それはまっすぐな愛の告白だった。


「それは……とても光栄なことです」


 にこやかな笑みを返していながら、レタリヴィアの内心は乱れていた。告白に心ときめかされたのではない。今の彼女を支配するのは、「怒り」だった。

 

 家のため、国のために、その身を差し出す。それが貴族令嬢の義務だった。幼い頃からそうあるように育てられた。だからこそ、初めての恋を諦めて王子との婚約を受け入れたのだ。

 だが、ただの横恋慕で愛する人と引き離されたと言うのなら、到底受け入れることなどできなかった。

 

 もしかしたら嘘なのかもしれない。婚約相手の気を引こうという芝居だったのかもしれない。だがあの瞳の奥に見えた情熱は、とても演技とは思えない。

 それに、もしセイクラルド王子がレタリヴィアを狙って動いたとしたら……タイミングの良すぎるコートラープ侯爵家の失墜に説明がついてしまうのだ。

 

 ある時、冒険者パーティーがギルドの依頼に従い盗賊団を壊滅した時、違法薬物が見つかった。ギルドに報告し、王国が調査した結果、コートラープ侯爵家とのつながりが浮かび上がった。それを契機に侯爵家の様々な違法行為が明らかになり、侯爵家はその勢力を失うこととなった。

 一見自然な流れに見える。だが、その自然さこそが異常だった。

 

 有力貴族と言うものは大なり小なり法を犯しているものである。ひとつ法も侵さずに上位貴族に昇りつめる家などほとんどない。貴族の裏事情に通じるコンクォート伯爵家の令嬢レタリヴィアはそのことをよく知っていた。

 そうした有力貴族が違法行為を摘発されることは稀だ。なぜならそうなる前に、彼らはその強権で握り潰してしまうからである。

 

 レタリヴィアは伯爵家の配下を使い、コートラープ侯爵家の失墜について調べさせた。

 調査結果を見たが、目立って不審な点はない。ただ気にかかるのは、重要な局面において必ず王家直轄の機関が関わっていることだ。そのせいでコートラープ侯爵家は不祥事をもみ消すことができなかったらしい。

 ひとつひとつの事象におかしな点はない。だが全体を俯瞰して見れば異常さが浮かび上がる。まるでチェスで追い詰められるように、コートラープ侯爵家は逃げ道を着実に潰されている。そしてその重要場面に関わる機関のいくつかに、セイクラルド王子の影が見え隠れしているのだ。

 

 レタリヴィアは確信した。

 セイクラルド王子は自分の恋を成就させるために、意図的にコートラープ侯爵家を陥れたのだ。

 彼がレタリヴィアに恋したならば、婚約者が邪魔だ。恋に溺れて一方的な婚約破棄をすれば、セイクラルド王子の名が傷つくことになる。だが、コートラープ侯爵家が失脚して婚約解消となれば、セイクラルド王子は綺麗なままで恋に邁進することができる。

 

 自分の恋を成就させるために侯爵家を陥れ、愛する二人の仲を裂く……そんな人間と一生を共にすることなど到底受け入れられることではなかった。

 彼は悪だ。しかるべき報いを受けさせなくてはならない。この婚約を破談にしてやると、レタリヴィアは心に決めた。

 

 

 

 破談になるために何をすべきか。レタリヴィアは考えを巡らせた。

 理想的なのはセイクラルド王子の瑕疵を指摘して、婚約を破棄することだ。

 しかし彼には目立った欠点はない。学園の成績は優秀で、レタリヴィアに接する態度もいつも丁寧なものだ。

 コートラープ侯爵家の失脚はセイクラルド王子の画策と見て間違いないが、その罪を告発できるほどの証拠はない。

 

 この婚約は、王国の有力貴族の大半が賛同している。この不自然なまでに整えられた状況は、あるいはセイクラルド王子の作ったものかもしれない。前の婚約を解消するために侯爵家を一つ失墜させたのだ。そのくらいしていてもおかしくはない。

 そんな状況で王子を非難したとして、破談に持ち込むことなどほとんど無理と言っていいだろう。

 

 なら、冷たい態度を取って嫌われるようにして、破談されることを目指すか。

 セイクラルド王子はレタリヴィアにご執心のようだ。それでも冷たくし続ければ、その恋心もいずれは冷めることだろう。

 だが、それで破談になるとは限らない。既に有力貴族たちが賛同している婚姻だ。当人たちの仲が少々こじれたところで、今さらやめることなど許されないだろう。

 嫌われたまま結婚すれば、レタリヴィアは冷遇される。なんの実権も与えられれず、空虚で惨めな生活を送ることになるだろう。

 そんな夫婦関係となれば、セイクラルド王子は不幸になったと言えるだろう。だが愛する人と引き離され、虐げられるだけのレタリヴィアの方が、どう考えてもずっと不幸だ。

 そんなことをするくらいなら、結婚式の儀式の最中、自殺でもした方がましだ。そうすればセイクラルド王子の心に深い傷を刻むことができ、自らの純潔を守ることもできる。


 そこまで考えたところでレタリヴィアは一旦休憩を取ることにした。

 学園寮の自室の中。夕方から考えを巡らせていたら、いつの間にか日が暮れていた。夕食を食べ損ねてしまった。おかしな考えに囚われたのは空腹のせいもあるだろう。

 こんなことで命を断つなどバカバカしい。レタリヴィアはこの婚約を破談にすることで復讐したいのだ。復讐は相手が苦しむ姿を生きてこの目で見なければ意味がない。

 だが、時間は限られている。学園卒業後すぐに結婚することになっている。それまであと二年足らずだ。その前になんとかしなくてはならない。

 

 

 

 ある日、セイクラルド王子から誘われて演劇を観に行くことになった。このところ、うかない様子のレタリヴィアのことを気遣って、元気づけようという意図らしい。要らないお世話だったが、突っぱねたところで一時の気晴らしにしかならない。王子に不審の念を抱かせては動きづらくなる。素直に観に行くことにした。

 

 演劇は『婚約破棄』がテーマのものだった。今、王国ではこの種の演劇や小説が流行っている。長らく大きな事件が無かったせいか、国民は刺激を求めているらしい。

 筋書きはシンプルなものだった。婚約者から婚約破棄を告げられた男爵令嬢のヒロインが、その有能さで新しい土地で自分の立場を築き、素敵な男性と出会って幸せになるというものだった。

 

「私は真実の愛を見つけた! 残念だが、君との婚約は破棄させてもらう!」


 演劇の中の伯爵子息は愚かで無能だった。ヒロインの優秀さに目を向けることすらせず、ただ色恋にかまけて婚約破棄を宣言してしまう。

 貴族社会の裏に通ずるレタリヴィアからすればお笑い種だ。色恋の相手が欲しければ愛人にでもすればいい。それが無理な状況なら、婚約相手を失脚させればいい。劇中の婚約者はヒロインよりも高位の貴族だ。それならやりようはいくらでもある。

 

 だがしかし、婚約破棄の宣言には可能性を感じた。

 もしセイクラルド王子が他に女を作り、演劇のように公の場で婚約破棄を堂々と宣言すればどうなるだろうか。

 無分別で愚かな行いをしたセイクラルド王子はその名に深い傷を負うことになるだろう。婚約破棄されたレタリヴィアも無傷では済まない。王族に見限られた令嬢として貴族社会での立場は落ちることになる。

 だがそんなことはどうでもよかった。この方法ならセイクラルド王子の方がずっと損害が大きい。なによりこの不本意な婚約から解放される。自由の身となれば、想い人であるイーディアルトと再び結ばれるという可能性も見えてくるかもしれない。彼との結婚が叶わなくとも、憎いセイクラルド王子の伴侶でいるよりはずっとマジだ。

 

 だがしかし、セイクラルド王子はその行動のきっかけこそ愚かだったが、その能力は優秀だ。有力貴族の一つであるコートラープ侯爵家を失墜させ、多くの有力貴族から支持を得ている。まだ学生にしてその手腕は驚くべきものだ。

 

 セイクラルド王子は有能だ。だから婚約破棄の宣言などせずに婚約解消した。

 だがそれは裏を返せば、無能だったら婚約破棄の宣言をしていたかもしれないということだ。

 

 レタリヴィアは閃いた。前提を変えてしまえばいい。まずは彼は無能にしてしまおう。もともと彼は恋のために侯爵家を失墜させた愚か者だ。ならばもっと愚か者になってもらう。そして婚約破棄を宣言させて、自由の身になるのだ。レタリヴィアはほくそ笑む。彼女の恋を引き裂いたあの男には、そういう結末が相応しい。

 

 

 

 婚約破棄の演劇を観てから一月後の放課後。学園内の会議室のひとつの中、レタリヴィアは席に着き待っていた。

 この会議室は学園の生徒なら誰でも申請すれば借りることができる。勉強会と言う名目で予約していた場所だった。

 会議室に備え付けられた時計の針が待ち合わせの時間になると同時に、会議室のドアが控えめにノックされた。入室を促すと、一人の令嬢が入ってきた。

 

 ブラウンのショートヘアに、瞳の色は緑。整った顔の落ち着いた美人で、どこか冷めた印象を受ける。それに反してスタイルはよく、特にその胸元は豊かだ。

 男爵令嬢アミレイティア・インフォルス。

 レタリヴィアと同じ学園二年生だ。成績優秀で、特に魔法学を得意としている。特に防御魔法を得意としており、彼女の張った防御結界を突破できる生徒は学園内にはいないと言われている。卒業は2年近く先だが、既に魔法省から誘いを受けているとの噂がある才媛だ。

 いつもは冷静で余裕のある態度を崩さない彼女だが、今はひどく緊張している。

 

 彼女が席に着くと、レタリヴィアは会議室に備え付けられた防音の魔道具を起動させた。こうした会議室では内密な話をすることが多く、必要なものなのだ。

 魔道具が正常に機能することを確認すると、レタリヴィアは令嬢らしい微笑みを浮かべ話を切り出した。

 

「よく来てくださいましたね」

「こんな手紙をいただいて、来ないわけがないではありませんか……!」


 そう言ってアミレイティアはテーブルの上に手紙を出した。

 彼女にはハーディアルという弟がいる。彼は病気にかかり、この王都内の療養施設で治療を受けている。

 その手紙には病床の弟の病状が書かれていた。いつ発作を起こし、熱が何度まで上がるか。一週間分の容体について、事細かに記されていた。

 この手紙がアミレイティアの下に届いたのは一週間前。つまりこの手紙は、弟の容体を詳細に予測していたことになる。

 

「弟の容体はこの手紙に書かれていた通りになりました。いったいこれはどういうことなんですか?」

「私はただ、あなたの弟君の健康が心配なのです。彼の治療に一助となると思い、こうして手紙を出させていただきました。その手紙でおわかりのように、私には弟君の健康のために協力できることがあると思うのです。代わりにあなたに手伝ってもらいたいことがあります。今日はそのお話がしたくてお呼び立てしました」

「……ありがたいお申し出ですね。もしそれを断ったらどうなるのでしょう?」

「あなたは断らないはずです。だって弟君のことを大切に思っているのでしょう?」


 アミレイティアはギリリと奥歯を噛んだ。さすが才媛と噂高い令嬢だ。彼女は全てを理解したうえでこの場に臨んでいる。実にやりやすくて助かる。レタリヴィアは笑みを深めた。


 病状がどう変化するなど、どんな名医であろうと正確に予測できるはずがない。

 この手紙は『予測』ではなく『予告』だ。レタリヴィアは伯爵家に伝わる秘法によってアミレイティアの弟の病状を操って見せたのである。

 

 伯爵家に伝わる秘法『弱り目を(ビート・ザ・)祟る呪い(ウィーク)』。何らかの疾病を患った者に対して使用可能な呪いの魔法だ。その効果は病気の進行を操ることだ。ただの軽い風邪を死に至る重病に変えることもできる。逆に、死に至る重病を大幅に緩和することもできる。

 この呪いの特徴は秘匿性の高さだ。あくまで対象者を害するのは疾病であり、魔法でコントロールするのはその進行のみだ。使用する魔力も小さく、その痕跡を見つけるのは極めて難しい。並の神官や僧侶では呪いの可能性に思い至ることすらできない。

 コンクォート伯爵家はかつてこの魔法を巧みに使い、敵対貴族を退け勢力を伸ばしてきたのだ。


 つまり、先ほどのレタリヴィアの言葉は脅しだ。言うことに従えば、弟の身の安全は保障する。逆らうならば、命の保証はしない――アミレイティアの弟を人質とした脅迫なのだ。

 

 鋭い目を向けるアミレイティアに対し、レタリヴィアは笑顔を崩さない。

 そんなにらみ合いがしばらく続いたが、やがてアミレイティアは諦めたようにため息を吐いた。


「……わかりました。どうやらあなたと協力した方がいいようです。それで、手伝ってもらいたいこととは何なのですか?」

「あなたにはセイクラルド王子を誘惑していただきたいのです」

「誘惑……?」

「実は私とセイクラルド王子との婚約は、陰謀によるものなのです。このまま結婚してしまえば、王国に災いをもたらすものとなるでしょう。この婚約をなくさなくてはならないのです。そのためにご協力いただきたいのです」


 レタリヴィアは嘘を言っていない。二人の婚約はセイクラルド王子の陰謀の結果であり、このまま結婚をすればレタリヴィアは復讐のために王国に災いをなす存在となるだろう。

 いきなり王家に関わる陰謀の話をされて、アミレイティアは息を呑んだ。


「王子の身の安全のため、陰謀について直接王子に知らせることはできません。あなたにも陰謀の内容自体は教えられません。この婚約を破談にして陰謀を阻むには、王子自らに断っていただくほかにない。あなたには王子の新しい恋人になっていただき、王子自らが私に絶縁を突きつける……それが最も穏便で効果的な解決方法なのです」

「まっ、待ってください! わたしはただの男爵令嬢ですよ!? 王子にはもっと相応しい方がいるでしょう!?」

「いいえ、貴女が最も適しているのです。王子に相応しい爵位の貴族を秘密裏に動かすことは難しい。あなたは男爵令嬢でありながら、王子の伴侶となってもおかしくない優秀な成績を修めています」

「わたしのような目立たない令嬢が王子のおそばにいるなど畏れ多いです……!」

「そうでしょうか? あなたの器量なら、申し分ありません」


 そう言って彼女の胸元に目を向けると、アミレイティアは恥ずかし気にそこを隠した。

 その仕草から、普段から異性の目が向けられていることが伺える。


 婚約破棄の宣言をさせるには、浮気相手が必要だ。物語のように色気と愛想しかない令嬢を使うという手もある。だがそれでは有能なセイクラルド王子を篭絡することは困難だ。

 こちらの指示を正確に理解し、必要とあらば自分の意思で知恵を巡らし対応する……そんな有能な令嬢が必要だ。


 アミレイティアはその条件を満たす稀有な令嬢だった。魔法省から誘いがかかるほど優秀でありながら、男の目を引く容姿をしている。

 

 だがそれほど優秀な令嬢が、爵位の差だけでこちらに従うことはないだろう。協力するふりをして王子に暴露して取り入る可能性が高い。だから人質を取る必要があった。

 彼女の弟、ハーディアルが病弱であることは幸運だった。事前の調査でアミレイティアが血のつながりのない義理の弟をとても大切にしていることを知っていた。弟を人質にすれば逆らえないはずだ。

 

 人質を取って無理矢理人を従わせる……レタリヴィアはその非道な手段に対して、さほど抵抗を感じていない。謀略の家に生まれた彼女は幼い頃からこうした人の使い方を教えられてきた。それに上位貴族が目的を達成するために下位貴族を犠牲にすることなど珍しいことではない。

 だがなにより彼女は復讐に心を燃やしていた。どんな手段を取ろうとも、かならずセイクラルド王子を陥れると覚悟を決めていたのである。

 

「ご協力いただけますね?」


 不幸なアミレイティアに、もはや逃げ道はなかった。

 

 

 

「初めまして、男爵令嬢アミレイティアと申します!」

「初めまして。王国第三王子セイクラルド・トレムブルトだ。よろしくお願いする」


 レタリヴィアがアミレイティアと『交渉』してから一週間ほど後の事。再び学園の会議室に集まった。今回はレタリヴィアとアミレイティアだけでなく、セイクラルド王子も同席している。

 今回は勉強会をするということで集まった。しかし実際にはセイクラルド王子にアミレイティアを紹介するのが目的だった。


「魔法学に長けた才媛が、こんなにも美しい令嬢だとは知らなかった」

「恐縮です……」


 セイクラルド王子の称賛を受け。アミレイティアは謙遜する。事実、今の彼女はひときわ美しい。この一週間は人を手配して彼女に化粧の手ほどきを受けさせた。直接教えてもよかったが、後々のことを考えれば接触は避けなければならない。

 彼女は社交界での立ち振る舞いより学業を重視していたので、化粧の腕は並程度だった。だが、もともと学習能力の高い彼女はすぐに化粧の技術を身に着けていった。もともとの素材の良さもあり高位貴族にもそうそう引けを取らない美しさを見せている。


 それに加えていくつかの魔道具を装備している。肌をきれいに見せるブレスレット。髪の色つやを増す髪留め。瞳の輝きを増すイヤリング。

 

 これらの魔道具のひとつひとつは平民でも少し奮発すれば手が届く一般品であり、性能も値段相応のものだ。姿かたちを変える魔道具は校則で禁止されている。だがこれらは大した効果はなく、教師に見とがめられても軽く注意されるだけで済む程度のものだ。

 王族がこの程度の魔道具で作られる美しさに惑わされることはない。

 だが、セイクラルド王子は今、アミレイティアから目が離せない。その頬は仄かに赤く染まっている。

 

 これらの外見を変える魔道具は、原則として複数の装備はできない。それぞれの効果が干渉して、効果が消えてしまうのだ。干渉の仕方によっては逆効果になってしまうことすらある。

 だが一般には知られていないが、魔道具の干渉をうまく利用すれば意外な効果を生み出せる。特定の組み合わせで一定の配置で装備し、ちょっとした魔法で調整すれば別な効果が出ることを、レタリヴィアは知っていた。

 

 現在、これらの魔道具の相互干渉によって発揮された効果は『魅了』である。

 

 見ただけで男を虜にするほどの強力な効果はない。効果範囲も狭い。だがそれで十分だった。

 アミレイティアは学園でもトップクラスの才媛だ。その顔の作りも整っている上に、化粧でその美しさに磨きがをかけえている。加えて、彼女は男性が好む胸の豊かな体つきをしている。

 最初に『魅了』によって強く興味を引きさえすれば、男を虜にするなど造作もないのだ。

 

 勉強会はアミレイティア主導で行われた。彼女の語る魔法学は極めて興味深く、意義のあるものだった。

 アミレイティアが語れば彼女を注視することになる。すると必然的に『魅了』にかかりやすくなる。

 

 レタリヴィアは魔法学について教えてもらうことを口実に、週に一度は勉強会を開いた。また、昼休みの昼食時やお茶会の席でもアミレイティアを呼びつけて接する時間を増やすようにした。

 加えてセイクラルド王子の飲み物には、折を見ては判断力や自制心を弱める薬を仕込んだ。

 更にアミレイティアには男の興味を引く話術や催眠術を教授し、それを適宜使わせた。

 

 頭が良くて見た目も美しく、胸も豊か。しかも男爵令嬢でその気になればいくらでも言うことを聞かせられる。そんな令嬢が近くにいて色欲を抑えられる男などいるはずもなかった。セイクラルド王子の陥落は時間の問題だった。

 

 

 

 夜も更けたころ。学園寮の自室の中。レタリヴィアは机に向かい、計画の進捗について確認していた。

 アミレイティアはこちらの指示に従いうまくやってくれている。叛意は見られない。秘密を洩らせば自動的に呪いの魔法が弟を死に至らしめると言ってある。裏切ることはないだろう

 

 セイクラルド王子はすっかり彼女に骨抜きだ。

 今日、アミレイティアとセイクラルド王子は夕方から始まる演劇を観に行っている。セイクラルド王子から誘ったものだ。わざわざ遅い時間に始まる演劇に男の方から誘ったのならば、その意図は明白だ。今夜、彼はついにアミレイティアを抱くつもりなのだ。

 

 計画を開始してから約半年。レタリヴィアからすればようやくといった印象だ。化粧に魔道具、投薬に話術に催眠術。様々な手段でセイクラルド王子の色欲を煽り、自制心を削っていった。やりすぎれば周囲に覚られるから慎重に段階を重ねたが、それでも一か月持てばいい方だと思っていた。

 だが、それにも限界がきた。抱いてしまえば後戻りはできなくなる。後は堕落の道を一直線だ。

 

 アミレイティアには念のために媚薬を持たせた。今頃はどこかの宿で、セイクラルド王子は彼女を抱いていることだろう。

 その光景を思い浮かべた時、レタリヴィアは突然に気分が悪くなった。耐えきれなくなってトイレに駆け込むと、嘔吐した。胃の中が空っぽになるまで吐いても、胸からこみあげるものはおさまらなかった。

 夕食に食べた物が何か悪かったのだろうか。これまで体に異常はなかった。

 ただ、少し。セイクラルド王子がアミレイティアと一夜を共にすることを想像しただけのことだ。そこまで考えが至ると、また吐き気がこみあげてきた。

 

「何を今さら善人ぶっているんですかっ……!」


 病床にある弟を人質にとって、アミレイティアを無理やり従わせた。彼女は今夜、セイクラルド王子に抱かれる。

 初めから分かっていたことだ。謀略の伯爵家に生まれた彼女にとって、そんなことは全然大したことではない。世界ではもっとおぞましいことが今も行われていると子供のころから知っている。

 セイクラルド王子は彼女の恋を引き裂いた憎むべき相手なのだ。その復讐を今さら諦めることなどできるはずがない。


「しっかりしなさい……! ぜったい最後まで、やり遂げるんですっ……!」


 自分を叱咤しながら、よろよろと立ち上がった。

 復讐のことで頭がいっぱいで、レタリヴィアには余裕がなかった。だから思いつかなかった。


 なぜ、セイクラルド王子が半年間も手を出さずに耐えることができたのか。

 なぜ、弟を人質に取られたとはいえ、アミレイティアがここまで従順に指示に従い、純潔を散らすことすら不平も言わずに受け入れるのか。

 レタリヴィアはそんな当たり前の疑問に行きつくことができなかった。

 

 

 

 その後、計画は順調に進んでいった。

 セイクラルド王子とアミレイティアは親密さを増していった。その進行に比例して、レタリヴィアとの関係は冷めていった。

 お茶会で同席しても、セイクラルド王子はほとんどの時間、アミレイティアばかりに目を向けていた。レタリヴィアに対しては義務以上のやりとりはなかった。

 

 そしてついに卒業式を迎えた。このまま何もしなければ、明日からレタリヴィアとセイクラルド王子との結婚について本格的に話が進むことになる。ここが最後の境界線だった。

 

 卒業式の後の夜会。本来ならエスコートに来るはずのセイクラルド王子が来なかった。

 レタリヴィアは一人で夜会の会場に入っていった。普段の夜会よりにぎやかに思えた。学園での最後の夜会と言うことで、誰もが思い出話に耽っている。

 

 レタリヴィアはその空気にまるでなじめなかった。入学して1年間は前の婚約者、伯爵子息イーディアルトのことばかり見ていた。セイクラルド王子との婚約後は、復讐の計画に集中していた。思えば積極的に友達を作ろうとしなかった。この穏やかでにぎやかな空気の中、自分だけがその外にいると感じた。

 でも、そんなことはどうてもよかった。もうすぐ目的が果たされる。そのために二年近く努力してきたのだ。

 

 そしてついにセイクラルド王子が現れた。

 国家的な式典に出席でもできそうな立派な式服に身を包んでいた。整った顔は決意にみなぎっている。まるで竜を退治した騎士のように精悍で自信に満ちた姿だった。あまりに力の入りすぎた表情はどこか歪さがある。それが投薬と催眠によるものであると、レタリヴィアは知っている。

 

 その腕にはアミレイティアがまとわりついている。

 彼女が身に纏うのは胸元の開いたベージュのドレスだ。理知的な才媛が、その豊かな胸を惜しげもなくさらしている。そのアンバランスさによって、彼女は匂い立つような妖しい色香を放っていた。

 いつもとまるで違う二人の様子に、生徒たちは何が起きるのかと、固唾を呑んで見守った。

 

 そしてレタリヴィアの前に立つと、セイクラルド王子は朗々と宣言した。


「私は男爵令嬢アミレイティアとの間に真実の愛を見つけた! 伯爵令嬢レタリヴィア! 君との婚約は破棄させてもらう!」


 計画通りの芝居がかったセリフだった。

 その宣言を受けて、レタリヴィアは顔を伏せた。

 絶望と悲しみの表情を見せるべきだとわかっていた。それでも、感情も表情も制御できなかった。

 

 達成感と、歓喜があった。

 2年弱の計画がようやく成し遂げられた。不本意な婚約から解放される。そのことに対する昏い喜びがあった。

 

 罪悪感と、後悔があった。

 何の罪のない令嬢を、肉親を人質に取り、男に抱かせる。謀略の伯爵家の令嬢としては当たり前の、しかし人の道を外れた手段。その成果を目の前にし、レタリヴィアは今さら恐ろしさを覚えた。

 

 それらがないまぜになった感情が渦巻いていた。それを表に出したら、自分がどんな顔をしてしまうかわからなかった。だから顔を伏せた。

 周囲からはレタリヴィアを憐れむ声が聞こえる。どうやら周りは、絶縁を叩きつけられ傷ついた令嬢の姿と受け取ってくれたらしい。

 それなら問題ない。婚約破棄の宣言は、無事になされた。ならば会場にとどまる理由はない。

 会場のざわめきを背に、レタリヴィアはその場を立ち去った。

 計画通りの行動だ。彼女は勝利したのだ。それなのに、なぜだか自分が何かから逃げているようだと思った。

 

 

 

 あの夜会から2週間ほど過ぎた。

 レタリヴィアは夜会の後、すぐに伯爵家に戻った。そして自室に引きこもった。表向きはセイクラルド王子に絶縁を叩きつけられ、悲しみに暮れる令嬢を装った。

 あくまで偽装だ。自室に引きこもってからは配下の者を使って情報を集めた。第三王子が恋愛感情で婚約を一方的に破棄したという不祥事は貴族社会で大きな問題になっており、王家はその対応に追われているようだ。

 

 前の婚約者、イーディアルトは未だ新しい婚約者を迎えていない。落ち着いたら手紙を書こう。彼の愛がまだ失われていないなら、再び婚約することもできるかもしれない。

 自室に備え付けられた机。鍵付きの引き出しを開けると、そこには絵が入っている。鉛筆書きの稚拙な絵。婚約したばかりの頃、イーディアルトが描いてくれた絵だ。

 絵の中では、幸せそうに笑う幼いレタリヴィアがいた。

 彼の傍に行ければ、こんな風に笑えるようになるだろうか。

 なぜだかそれが、ひどく難しいことに思えた。

 もう王子との婚約は破棄された。イーディアルトのそばに行ける。それなのに、どうしてそう思ってしまうのだろう。レタリヴィアにはわからなかった。なぜだか、わかってはいけないという気がした。

 その疑問に考えをめぐらされていると、ノックの音に中断された。入室を促すと、この伯爵家に長年仕える執事が扉を開いた。

 

「お嬢様。男爵令嬢アミレイティア・インフォルスが、面会を求めてやってきました。いかがいたしましょうか?」


 予想外の人物の来訪を知り、レタリヴィアは目を見開いた。




「いったい何の御用かしら? あなたは自由に動ける立場ではないでしょう?」


 伯爵家の応接室にアミレイティアを招くと、レタリヴィアはそう切り出した。

 あの夜会を終えてからまだ2週間ほどしか経っていない。彼女は未だ渦中の人物であるはずだ。あの婚約破棄をどう処理するか決まるまでは、自宅に軟禁されているはずだ。

 本来ならば追い返すべきだろう。婚約破棄の宣言から間もないこの時期に、傷心の令嬢と浮気相手が会えば周囲の余計な注目を浴びることになる。

 

 現時点で、あの婚約破棄の宣言を画策したのがレタリヴィアだとバレてはいないはずだ。指示や情報の提供、魔道具の購入は全て複数の人を介しておこなった。容易には覚られないはずだ。

 弟を人質に取られている以上、アミレイティアが秘密を漏らす事はない。もし秘密を洩らせば、その時点で死に至る呪いが降りかかるようようにしてある。そのことはアミレイティアにも説明済みだ。

 会う必要はない。会うべきではない。だが、それでもアミレイティアとの面談を拒めない。彼女ほどの才媛が、この状況下においてわざわざ会いに来る。無視する方が危険に思えたのだ。


「ええ、おっしゃる通りです。わたしは男爵家に軟禁されていました。警備の目をかいくぐって抜け出すのには苦労しました。もうとっくに気づいて捜索の手はかかっているでしょう。一時間もしないうちに騎士団が連れ戻しに来ると思います」


 レタリヴィアは眉をひそめた。軟禁されていたとはいえ、隙を見て手紙を出すことくらいはできただろう。そんな危険を冒して直接会いに来る理由がまるで思いつかない。

 そんな状況なのにアミレイティアは落ち着いている。その静かな態度が不気味なものに思えた。


「それにしては随分と落ち着いていますね。時間が無いのでしょう?」

「はい。だから手短にお伝えします。あなたがわたしに指示したことを詳細に記した手紙を、関係各所に送りました。もうじき開封されるはずです」

「は?」


 レタリヴィアは思わず間の抜けた声を出してしまった。

 アミレイティアはこれまでの企みを全て暴露すると言っているのだ。まるで信じられないことだった。

 

「……どういう冗談ですか? そんなことをすれば呪いが発動してあなたも弟も死ぬことになります」

「いいえ、死ぬのはわたしだけです」


 その声があまりに穏やか過ぎて、レタリヴィアは一瞬、その言葉の意味が分からなかった。

 レタリヴィアが戸惑う中、アミレイティアの話は続いた。

 

「魔法学には自信がありましたが、弟にかけられた呪いを解呪することはできませんでした。呪いのせいで人に相談することもできませんでした。でもわたしは防御魔法には自信があります。呪いを解くことはできなくても、逸らす程度のことはできます」

「逸らす? 一体どこに?」

「わたしに、です。弟へ向かうはずの呪いを、わたしの命で受け止めるのです。防御魔法では呪いそのものを防ぐことはできませんが、そのくらいのことはできました。ここに来たのも術式の一部。呪いが確実にわたしに向かうよう、あなたの前で企みを暴露したと告げる必要があったのです」


 レタリヴィアの背筋が凍った。

 アミレイティアの瞳は揺らぎもしない。嘘やハッタリではない。彼女は本気で死ぬ覚悟をしてここに来たのだ。

 

「な、なんてバカなことを! 正気とは思えません! あなたが秘密を守ってくれれば、誰も死ぬことはなかったのに……!」

「それは嘘です。あなたは事が終わったら、わたしたちを生かしておくつもりなどなかったのでしょう?」


 そう問われてレタリヴィアは言葉に詰まる。弟を人質に取っている以上、アミレイティアが秘密を漏らすことはないだろう。だがそれは絶対ではない。たとえ彼女自身が秘密を洩らさなかったとしても、意図しない偶然で企みが発覚する可能性はありうる。

 それに彼女の弟は病弱だ。呪いと関係なしに命を落としたら、アミレイティアを縛るものは無くなる。

 事が済んだら頃合いを見て、事故に見せかけて命を奪う。それが確実な手段だった。

 レタリヴィアもそのことはわかっていた。だがそこまでの非道を行う覚悟はまだできていなかった。

 

「だ、だからと言って自分だけが全ての呪いを受けて死ぬだなんて……! 死ぬのが怖くないんですか!?」

「怖いですよ。もう弟と会えなくなるのです。それは本当に怖いです。悲しくてたまりません。でも……弟を失うことの方が、ずっと恐ろしい。ハーディアルを守るために死ねるのなら、本望です」


 驚きに震えるレタリヴィアに対して、アミレイティアは落ち着いていた。死を前にした令嬢の姿ではなかった。まるで眠る幼子を抱く聖母のように清らかで静かだった。

 その姿を前に、レタリヴィアは問わずにはいられなかった。


「そんなに……あなたはそこまで弟のことを愛していると言うのですか!?」

「わたしはあの人のことを、世界の誰より愛しています」


 アミレイティアは微笑んだ。レタリヴィアはその姿に言葉を失った。彼女の笑顔はあまりにも幸せそうで、温かで、美しかった。

 その時。レタリヴィアは呪いの魔法が発動するのを感じた。全ての魔力がアミレイティアに向かうのを感じた。

 そして、アミレイティアは椅子から崩れ落ちた。悲鳴すら上げることなく絨毯に倒れ伏した。

 レタリヴィアは慌てて彼女の下に駆け寄る。首筋に手を当てて脈を確かめる。脈は完全に止まっていた。男爵令嬢アミレイティア・インフォルスは、たった今、呪いの魔法によって死んだのだ。


 レタリヴィアは荒い息を吐いた。嫌な汗が体中から噴き出た。

 見誤った。彼女の弟への愛の深さを見誤った。まさか弟のために自ら死を選ぶとは予想だにしなかった。

 企みを暴露したのもただの報復ではない。弟を守るためだ。この状況になってはレタリヴィアに弟に構っている暇などない。


 逃げなければならない。企みは全て暴露された。すぐに捜査の手は回ってくる。状況の推移によっては国外への逃亡も考えていた。その準備も整えていた。だがここまでの事態の急変は予想していなかった。今から逃げ出したとして、逃げ切ることができるだろうか。

 逃げるにしても、まず何から手をつけなければならないのか。目の前にはアミレイティアの死体がある。どこかに隠さなければならない。だが、どこに……。

 

 その時、応接室のドアを叩く音が聞こえた。その声にどう答えようか迷っていると、切羽詰まった執事の声が響いた。

 

「お話し中に申し訳ありません! 騎士団の方々がやってきて、アミレイティア嬢の身柄を引き渡してほしいと言うのです! どのようにいたしましょう!?」


 どうやら逃げる時間はないようだった。




 踏み込んできた騎士団にアミレイティアの死体を見られ、レタリヴィアは速やかに捕らえられ、投獄された。

 貴人用の牢獄だった。伯爵家の私室よりずっと狭いが、ベッドもトイレもちゃんとある。部屋の中には最低限の生活用品は揃えられている。だが牢獄に変わりはない。武器になり得る金属製品は無く、厳重な結界が張られ魔法の行使はできない。部屋の外には常に警備の兵士がいる。脱出はまず不可能だった。

 

 形だけの裁判が行われ、レタリヴィアは様々な罪状をつけられた。最も大きな罪は国家反逆罪だ。王族との婚姻を不服とし、王子を操り他の令嬢と関係を持たせた。それだけでも死に値する。ましてその結果、アミレイティアが死に至っている。情状酌量の余地などなかった。

 

 裁判の後、一度だけ両親がやって来た。会話は父の一言だけで終わった。

 

「お前は失敗した。伯爵令嬢として、裁きに従って潔く散りなさい」


 その一言でレタリヴィアは全てを察した。

 父はおそらく、既に王家と交渉している。貴族社会の裏に通じるコンクォート伯爵家を潰せば、貴族の暗部が明るみに出る。王家としても容易には処断できない。だが罪を問わないわけにもいかない。

 だから父は娘の命を差し出し、譲歩を引き出したのだろう。それで家は存続する。コンクォート伯爵家はこうしたことを繰り返し生き残ってきた家なのだ。

 

 レタリヴィアの行動をとがめなかったのは、おそらく彼女の力量を量るためだ。もし企みが成功し、第三王子を意のままに操るのなら、伯爵家の娘として利用価値がある。失敗したなら切り捨てる。そういう腹積もりだったのだろう。

 薄情だとは思わない。幼い頃から利用価値のない人間を切り捨てるよう教えられてきた。今回は自分が切り捨てられる側になった。ただそれだけのことだった。


 

 裁判の後、刑の執行までは一か月の猶予が与えられた。これは慈悲ではない。レタリヴィアは公開処刑されることになったのだ。国内に公布し諸々の準備を整えるためにそれだけの時間が必要だったのだ。

 

 

 

 牢獄の中でレタリヴィアは考える。

 父は「お前は失敗した」と言った。なぜ失敗したのだろうか。

 答えは明白だった。アミレイティアの愛の深さを見誤ったことだ。

 溺愛しているとは聞いていた。だが、自分の命と引き換えに救おうとするほど深く愛しているとは思わなかった。

 セイクラルド王子に抱かれろと指示した時も不平一つ口にしなかった。弟のために全てを捧げると、最初から覚悟していたのだ。

 その覚悟にレタリヴィアは破れたのだ。

 

 本来ならレタリヴィアはアミレイティア自身にも何らかの呪いの魔法をかけておくべきだった。行動を束縛し、反撃の機会を完全に潰しておくべきだった。

 だが、そこまではできなかった。過度の束縛は行動を鈍らせる。だが、レタリヴィアもここに至ってようやくわかった。

 理不尽に恋を引き裂かれた。セイクラルド王子に復讐したかった。そのためならどんな汚い手段をとることもためらわないつもりだった。

 復讐に目がくらんでいた。だから見えなかった。気づきかけても目をそらした。

 

 最後に聞いたアミレイティアの言葉が脳裏に甦る。

 

「わたしはあの人のことを、世界の誰より愛しています」


 あれは家族に向ける愛情ではなかった。一人の異性に対する愛情だった。血のつながりがないとはいえ、アミレイティアと弟のハーディアルは、愛し合うことが許されない間柄だ。彼女がどんな想いを抱き、命がけでで弟を守ろうとしたのか、今となっては知るすべもない。

 そんな愛情を踏みにじった。自分の復讐のために愛する二人を引き裂いた。それではセイクラルド王子のしたことと変わらない。心のどこかでその罪深さにおびえて、だから徹底的な手段をとれなかった。

 

 恋する乙女としてはその手が汚れすぎている。

 謀略の伯爵家の令嬢としては甘すぎる。

 

 そんな中途半端な愚か者だったから失敗したのだ。


 そもそも婚約破棄の宣言をさせるなどという計画が間違っていたのだ。

 復讐するだけなら、結婚することを受け入れるべきだった。妃となって力を蓄える。そしてここぞというタイミングで裏切る。それならば復讐は成功しただろう。

 愛を貫くのなら、後先考えずにイーディアルトに駆け落ちを持ちかけるべきだった。彼に断られれば諦めがついただろう。彼が受け入れてくれたたら共に逃げよう。途中で力尽きたとしても、後悔はなかったはずだ。

 婚約破棄されれば自由の身になれる。そうすればイーディアルトと再び結ばれるかもしれない……そんな夢みたいなことに目がくらみ、結局全てを失うことになった。

 死刑になるのも当然だ。

 そう納得してもなお、レタリヴィアは死にたくなかった。せめてもう一度イーディアルトに会いたいと思った。だが王家に歯向かった重罪人に面会が許されるはずもない。そもそも、レタリヴィアの罪を知った彼が、会おうと思うはずはない。

 

 頭ではわかっている。でもイーディアルトは、それでも自分のことを愛してくれているのではないか……そんな愚かな期待を消すことができない。何て浅ましいことだろう。レタリヴィアはそんな自分を嫌悪した。




 一か月の悔恨の日々は終わりを告げた。いよいよ公開処刑の日が訪れた。

 手に枷をつけられ、兵士たちに囲まれて部屋を出た。馬車に乗せられ公開処刑場へと向かった。道中は目隠しをされていたので、どこをどう走ったのかレタリヴィアにはわからなかった。

 

「ここで一時間待機しろ」


 そう言われて、テーブルと椅子しかない殺風景な部屋に通された。ようやく終わりが来る。この一か月、自分の死について考えてきた。アミレイティアの愛を踏みにじった自分は死んで当然だという気持ちと、生きてイーディアルトともう一度会いたいという気持ちもある。その二つの間を揺らいでばかりだった。

 その時、唐突にドアが開かれると、兵士によって一人の男が連れてこられた。

 

「ここで一時間待機しろ」


 先ほどと同じ言葉を告げると、兵士は立ち去った。

 死刑を待つ囚人の令嬢のいる部屋に男を一人置いて去るなど異常なことだ。だがレタリヴィアはそのおかしさに考えを巡らせる余裕などなかった。

 

「イ、イーディアルト様!?」


 見間違うはずもない。最愛の人がそこにいた。

 王家を害した囚人相手に、家族でもない者が会いに来れるはずもない。もう二度と会えないものと覚悟していた。

 胸が満たされた。どうしようもなく喜びが湧き上がった。


「イーディアルト様、どうしてここ、に……」


 問いかける声は途中で途切れた。歓喜が絶望に代わった。イーディアルトの手に、自分と同じように手枷がつけられていることに気づいたのだ。

 彼は面談に訪れたのではない。囚人として連れてこられたのだ。

 

「僕は君と共に処刑されることになった」


 イーディアルトはそう告げた。それだけでレタリヴィアの心臓は止まりそうになった。


「な、なぜですか!? あなたがいったい何の罪で殺されなくてはならないのですか!?」

「君をたぶらかし、王家に仇をなしたという罪だ」


 固い声でイーディアルトは答えた。

 レタリヴィアは頭が真っ白になり、膝から崩れ落ちた。

 なぜ、どうしてこんなことに。混乱する思考の中、それでもレタリヴィアは想像がついてしまった。

 すべての真相を知ったセイクラルド王子は誰を憎むだろうか?

 もちろん、自分の愛を受け入れずに、無理矢理他の女と結び付けたレタリヴィアのことを憎むだろう。

 そしてレタリヴィアがなぜ婚約破棄の宣言を画策したのかと疑問に思うことだろう。すると浮かび上がるのは、前の婚約者であるイーディアルトだ。彼を忘れられずにレタリヴィアが愚行に走ったという結論にたどり着く。そして、イーディアルトもまた憎悪の対象になる。

 

 結果、イーディアルトが生贄になる。実際に罪があるかどうかなど関係ない。王家に逆らった者が一族郎党皆殺しになったことだってある。関係者と言うことで処刑されることもある。それが王国における国家反逆罪だ。


 絶望に苛まれる中、更なる疑問がレタリヴィアを襲う。

 どうしてわざわざ死刑執行の一時間前にわざわざ同室に入れられたのか。

 それによってもたらされる結果を考え、レタリヴィアは恐ろしさのあまり震えだした。

 

 レタリヴィアは自分が死刑に処されることについて、ある程度納得はしている。

 だがイーディアルトからしてみれば、巻き込まれただけの理不尽な死だ。

 いかに彼が心優しい人だとしても、レタリヴィアを憎まずにはいられないだろう。この与えられた一時間の間に、彼はレタリヴィアのことを罵るだろう。暴力を振るうかもしれない。この部屋には見張りの兵士もいない。止める者はいない。

 これは刑罰の一部だ。処刑の前に与えられる刑罰だ。

 

 だが、セイクラルド王子は正気なのだろうか。自分の状況がわかっていないのか。レタリヴィアの計略に乗せられていただけでも、臣下の信頼を大きく損なう不祥事であったはずだ。この上、直接的に関わっていないイーディアルトまで手にかけては、国民の信頼すら失うことになる。そうなれば彼に待つのは実権を与えられない日陰者としての一生だ。

 

 自分の未来と引き換えにしてまで、こんなにも苛烈な罰を与えたいのか。そこまで憎いのか。彼女のことを愛していたのではなかったのか。

 違う。レタリヴィアはすぐにその考えを打ち消した。彼は確かにレタリヴィアの事を愛していたのだろう。愛と憎しみは表裏一体。深く愛していたからこそ、裏切られたことで深く憎むようになったのだ。

 

 そして今さらになって気づいた。

 なぜ、セイクラルド王子はアミレイティアの誘惑に半年も耐えられたのか。それはレタリヴィアのことを、深く愛していたからではないだろうか。

 彼の愛を一方的で迷惑なものだと思っていた。だからと言って、あんな風に踏みにじっていいものではなかったのだ。

 そんなことに今さら気づくなんて、自分はどれだけ愚かなのだろう。

 

 あの優しかったイーディアルトからどんな恐ろしい怨嗟の言葉が出てくるのだろう。とても耐えられないと思った。レタリヴィアにはもう、床に伏せたまま泣くことしかできなかった。

 

「どうか泣かないでおくれ、レタリヴィア」


 この場にまるで相応しくない、穏やかで優しい声が聞こえた。

 レタリヴィアは疑問に思ったが、顔を上げて確かめる勇気はなかった。


「イーディアルト様、お怒りでしょう? 私の愚かな行いで、あなたまで死ぬことになってしまいました……! 愚かな私のことを、どうか気のすむまで罵ってください! 蔑んで、殴って、蹴って! 少しでも気を晴らしてください! 私にはもう……そのくらいのことしかできないのです……!」

「レタリヴィア。どうかそんなに自分のことを卑下しないでくれ。僕はちっとも怒っていない。むしろ嬉しいんだ」

「うれしい……ですって……?」

「ああそうだ。セイクラルド王子との婚約が決まって、僕は君のことを諦めてしまった。だが君は諦めず、婚約破棄の宣言を仕組んでまで王子との関係を断とうとした。そのことが嬉しいんだ。そんな君と一緒に死ぬことができて、幸せだと思っているんだ」


 驚きのあまり涙すら止まった。イーディアルトの言葉は正気とは思えないものだった。しかし愛する人の優しい言葉は、この絶望の中でレタリヴィアの中に染み渡った。そのぬくもりに抵抗などできなかった。

 なんて優しい人なのだろう。こんなにも深い愛があるのだろうか。

 レタリヴィアはおそるおそる顔を上げた。彼と目が合った。

 

 そして、真の絶望を知った。

 

 

 伯爵子息イーディアルト・ファルディスタンは芸術を愛する穏やかで繊細な男だった。

 そんな彼が、王家の権力で愛する人と引き離されて、傷つかないでいられるだろうか。

 かつての婚約者が、その愛ゆえに王家に害をなしたと知り、正常でいられるだろうか。

 その罪により愛する人だけでなく自分までもが死ぬこととなり、果たして正気を保っていられるだろうか。

 イーディアルトは、耐えられなかった。

 

 

 

 愛する人の顔は歪んでいた。

 その目はどこか焦点が合わず、目を合わせてもどこを見ているのかわからない。口元は歪つな笑みを浮かべている。頬の肉は削げ落ち、病的なまでに痩せていた。

 大切な何かが欠けていた。明らかに正常な精神状態ではなかった。

 

「ああ、レタリヴィア。ようやく顔を上げてくれたね、愛しい人よ。君と最後を迎えることができて、僕は幸せだ」


 その声だけがかつての記憶のままで、それがなおさら怖気を誘った。

 

 恋を諦めた。愛を失った。そのことは受け入れたつもりだった。それより悲しいことなど無いと思っていた。

 だが、違った。もっとつらくて悲しいことがあった。

 自分の愚かな行いで、愛する人が壊れてしまった。その姿を見ることは、レタリヴィアの胸を深くえぐった。

 

 アミレイティアの弟への愛を踏みにじった。セイクラルド王子から向けられた愛を裏切った。

 死刑になることも仕方ないと思った。受け入れたつもりだった。だが、これは受け止めきれない。これほどの惨い罰を受けることになるなんて、想像もしなかった。

 

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめん……なさい……!」


 レタリヴィアは謝罪の言葉を繰り返した。

 ただ、愛する人の近くにいたかった。彼の描いた絵のように笑いたかった。ちっぽけで当たり前な夢を胸に抱き、しかしレタリヴィアはやり方を間違えた。

 その謝罪の言葉はあまりに遅すぎた。アミレイティアにはもう届かない。セイクラルド王子は耳を貸さないだろう。イーディアルトは理解すらしてくれない。

 涙があふれて止まらなかった。言葉を続けることができなくなり、レタリヴィアはただただ泣きじゃくった。


「君が謝ることなんてない。泣く必要もない。だって、僕たちは幸せだ。愛し合う者たちが一緒に死ねることは、とても幸せなことなんだ。だからどうか、笑って欲しい。かつて描いたあの絵のように、君には笑って欲しいんだ」


 レタリヴィアの耳にイーディアルトの優しい声が、ひどく空しく響いた。



終わり

2024/10/30

 誤字指摘ありがとうございました! 読み返して気になった細かなところもいくつか修正しました。


2024/11/1

 感想でご指摘いただいて、セイクラルド王子の未来が暗いものであることを示唆する描写をちょっと足しました。


2024/11/8、11/21

 誤字指摘ありがとうございました! 修正しました!

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― 新着の感想 ―
 確かに絶望的でバッドエンドな作品で、ズンと来ました。  悲劇を面白がるのもアレですが、王子が結局誰からも愛されなくなる(最初の婚約者は分かりませんが既に王子自身が始末済み)所などは良かったです。 …
不祥事元婚約者から数えておそらく3人全員王子のことなどその辺の塵屑ほども好きじゃなかった、というだけでもう王子にとって呪いみたいなものですよね。
第三王子の今後が暗いと追記される前に一度読みましたが、追記された今のほうが明らかに良いです。追記前は舞台設定に無理がありすぎないかと思いましたが、追記後はきちんと理解できる設定に落ち着いたと思います。…
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