デジャヴ
『神は光を昼と名付け、闇を夜と呼んだ。そして夕刻となり、朝を迎えた。第一の日である。』
ーー創世記1章5節ーー
夕暮れは、人を感傷的にさせる。少なくともボクはそうだ。赤い空が特別なのだろうか。人々の帰路につく様がそうさせるのか。あるいは、誰そ彼時の神秘性故か。
単に好きなのだろう。ボクは。夕暮れ時が。
電車通学のボクには、夕暮れの車窓を眺める習性がある。別に何か考え込んでいるわけではない。移動して行く四角風景の中に、人々の暮らしを垣間見る。見たところで何をどうする事はない。音楽を聞き流すのと同じだと思ってくれていい。
♪今日の業を成し終えて~♪の曲が自治体のスピーカーを介して辺り一帯に流れる頃、平日のボクは駅から自宅までの距離を歩いている。往々にして。
駅を出て、商店街を通り、大通りを突き抜け、スーパーを横切り、住宅街へと差し掛かった少し先に自宅のマンションがある。この帰路がまた夕暮れの人々の営みを漫然と眺めるには最適なのだ。
まず駅だ。ボクのような学生や、スーツを着たサラリーマンやOLが大勢行き交うその様は、まさしく現代日本の社会を表現するのに相応しい風景だ。時には、身分不詳の者が揉めていたり、宗教の勧誘のために熱心な会員が立っていたり、別れ際の恋人たちが互いの想いを熱く交換していたり、多少の刺激要素的な非日常があったりもする。いや、あれは恋人どうしに見えて不倫カップルなのかもしれない。
ーー目に見えるものが真実とは限らない。カインは本当にアベルを妬んだのか。頼朝と義経は本当は仲が良かったのか。史実は果たして真実なのか。コンフィデンスマンの世界へようこそ。ーー
おっと、思考が脱線した。閑話休題。
そして商店街だ。店の種類はもちろんの事その客層も興味深い。何をどのように幾つ購入するかである程度の家族構成が分かる。自転車の漕ぎ方には、奥さま方の性格が投影されがちだ。
車通りの絶えない大通りは、マイカー通勤と思しき乗用車の群れが左右に通過する。信号が赤になると、特に先頭車両の様子などは窺い知るに容易い。窓から犬や子どもが顔を出し、その行動を運転席から咎められて引っ込んで行くなんて光景は、土日では多いのかもしれないが、ボクがこの交差点を通る機会がほとんど平日の為あまり目にしない。今日の先頭車両は、けっこうハードめな曲に縦ノリしているサラリーマンだ。
住宅街に近づくと、ほぼ毎日この時間帯に同じ老夫婦とすれ違う。今日もまた軽く会釈をする。夕食後のウォーキングだろうか。体型維持のために走っておられるお美しいマダムや、散歩に連れ出してもらえてハッスル中の犬ともよく出会す。赤い屋根の家の前では、今日も怒声と大きな物音がする。ボクは幼児虐待を疑っている。確証はないけれど。
そんないつもの帰宅時の筈だった。
何も超自然的なことが起きたとかではない。だけど、なんとなく違和感を覚えた。突然だった。三叉路の坂の上の大きな家から、今日は珍しくピアノの音色が聞こえてきた。ピアノ教室を開いているそのお家の奥さまか、その奥さま直伝の指使いを娘さんが披露していたのか、とにかく音楽に対して特に造詣が深いわけでもないのに、ボクは今聞こえているのがギロックの曲だと分かったのだ。
そう、ギロックなのだ。ベートーベンでもチャイコフスキーでもない。ギロックなのだ。こういう言い方をすると語弊があるだろうが、ギロックなのだ。後はお察しいただきたい。かくいうボク自身も、『これはウィリアム・ギロックの曲だ』と自認したその僅か数刻後に、『ウィリアム・ギロックって誰?』と自問している。そして、意識の深淵が顔を覗かせる。
坂の下に立ち尽くすボクの頭の中に、遠い昔どこかで見たような風景が流れ込む。月光の下、鍵盤を叩いてメロディーを作り出して行く。あまり没頭していては良くない。何か気分転換をしようと思い立つ。ふと窓の外に視線をやると、カンテラを持った友人がこちらへと歩を進めている。
意識の深淵がその場を後にする。現実世界のボクがボクを取り戻す。今のはなんだろう。前世の記憶? 偽記憶? なにかで見た誰かのドキュメンタリー映像?
既視感ーー人はこれをそう呼ぶ。
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朝焼けは、人を感傷的にさせる。少なくとも私はそうだ。紅い空が特別なのだろうか。人々が労働に向かう様がそうさせるのか。あるいは、彼は誰時の神秘性故か。
単に好きなのだろう。私は。朝焼けが。
バス通学の私は、よく朝焼けに照らされる街並を眺める。別に何か考え込んでいるわけではない。移動して行く四角風景の中に、人々の暮らしを垣間見る。見たところで何をどうする事はない。音楽を聞き流すのと同じだと思ってくれていい。
黒と赤のランドセルを背負った子ども達が通りにちらほらと出てくる頃、平日の私は最寄りのバス停から学校までの距離を乗車している。否が応にでも。
バス停を出て、商店街を横切り、高速道路をくぐり抜け、大型商業施設を素通りし、団地群を抜けた少し先に私の通う高校がある。この通学路がまた朝を迎える人々の営みを漫然と眺めるには最適なのだ。
まずは商店街だ。通りの広さや店舗数からして、最盛期はかなり栄えていたであろう。残念ながら現在は、店舗の多くのシャッターが閉じられている。その中でもまだ営業を続けている稀少な店舗の多くは、老夫婦が切り盛りしている。バスがここを通る頃、シャッターを上げて暖簾を出す。経営の難しさに反比例した穏やかな笑顔を湛えて。
高速道路の下では、早朝からゲートボールをプレイする音が響く。快活な老人たちの姿は微笑ましいが、その一方で、フェンス沿いの少し先の所には、そこを仮住まいとする集団が暮らしている。表札無き複数のブルーシートテントが軒を連ねるその場所は、いつ頃から出来上がったのかはっきりとは私は知らないが、この街の隆盛に終焉が訪れた頃に一軒また一軒と形成されて行ったらしい。
大型商業施設は、その外観と面積を保持したままこの頃その名称だけを変えた。私がバスから眺める時間帯は、そのだだっ広い駐車場はほとんど空車である。うらぶれたこの街に居場所が見出だせなかった若者たちが夜な夜な屯し、酒なのか薬なのか自分なのかに酔ったまま、コンクリートに大の字に寝転がって朝を迎えている。
私だって、あの中に混ざって現実逃避のモラトリアムを貪る生活をしていたかもしれない。現在の私は優等生だけど、人間、何かの選択を少し違えば、その後の生き方なんて簡単に変わってしまう。偶々生物種のヒエラルキーで頂点を手に入れることに成功しているだけで、その実は強く儚いものたちに過ぎないのだ。
♪だから飛び魚のアーチをくぐ……おっと、思考が脱線した。閑話休題。
私を乗せたバスが団地郡に差し掛かる頃、小学生や中学生たちがゾロゾロと現れる。その集団にはスーツを着た男性たちも一定数含まれる。中には、恐らく奥さまから託されたゴミ袋を両脇に抱えて小走りに学生達の間を縫って行く方々もいる。サッカーのドリブルの如く。
そんないつもの登校時の筈だった。
何も超自然的なことが起きたとかではない。だけど、なんとなく違和感を覚えた。突然だった。高校の正門へと続くなだらかな坂道の途中、主張の強い花の香りがした。何の花かは分からない。金木犀だったりラベンダーだったりあるいは薔薇であれば、すぐにその香りの正体を突き止めたことだろう。
そんな香りが、何かを呼び覚ました。幼い自分の娘たちの手を引いて家を後にする。8年間の結婚生活に終わりを告げる。そんなドラマのワンシーンのような情景に飲み込まれて行く。姉のアンは、何かを悟っているのか、夫の方を振り返って寂しげな笑顔を向けた。まるで小さな女優のように。「ああ、この子もやはり女優なんだわ。」なんてことを考えた。庭に植わった花の香りが、鼻腔を刺激した。
花の香りが薄れたのと同時に、私は私を取り戻し、そしてすぐ今のは何だったのかと自問する。私は高校生だ。そして未だこの身体は男性を知らない。この学校の特異性もあるし、両親と共に持つ信仰の結果でもある。当然、妊娠も出産も経験していない。
だったらさっきのは前世の記憶? 偽記憶? どこかで見た何かの映画? ドラマ?
既視感ーー人はこれをそう呼ぶ。
Cocco好きでした(世代バレ)