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海の底のメギド  作者: ノリマキトカゲ
第1章:バミューダ・トライアングル
4/5

フォスダイク文書

『わたしはこの件で多くの解説を書き残したが、これは怪しい物として捉えられた。』

ーーホセア書8章12節ーー

「だからさ、何回するんだよその話。」


 空になった酒瓶を累々(るいるい)と積み上げながら、『宵越(よいご)しの(ぜに)は持たねえ』を体現(たいげん)せし数名の男たちが、あれやこれやと話しては盛り上がる。


「何回聞いても面白いもんは面白いんだよ!」


 陽気で赤らめた(つら)を並べて、男たちは豪快に笑い合う。


 これは、なにもこのテーブルに限った話ではない。そこかしこで笑い声が響き、皆一様に酒を(あお)っている。次々と。煌々(こうこう)と照らされたこの酒場は、熱気で満ちている。冷たい外気と暗い屋外とは対照的に。かつて禁酒法なんて物が本当にあったのかが疑わしくなってくる。この辺りに住む者たちは、事あるごとに集っては酒を酌み交わす。特に働き盛りの男どもは。


 やがて、1つそしてまた1つと、男たちのグループが支払いを終えて帰って行く。既に出来上がっていびきをかきながら寝ている者もいる。未だ残っている者たちの話も、自ずとトーンダウンしていく。満席だったこの店も、残っているのは3つ4つのグループのみとなった。


 男が、まるで信じられないような打ち明け話を始めたのは、そんな頃合いだった。酒が男を饒舌(じょうぜつ)にさせたのか、この酒場の雰囲気に乗せられたのか、それは知る(よし)もない。真向いの席の男と右隣の男は、寝ているのか起きているのかわからないような状態で、この話を後日思い出すなんてことは恐らく無さそうだ。


 だが、アベル・フォスダイクは違った。未だ完全にアルコールは抜けてはいないが、彼の意識は素面(しらふ)へと戻る途中だったのだ。依然としてふわふわとした心地ではあるが、人の顔は判別出来るし、話もある程度ちゃんと聞き取ることが出来た。


「ここだけの話だ……」


 話す相手を指差そうとしたが、皆良い具合だ。話している本人もまだ呂律(ろれつ)が回っていないぐらいなのだから無理もない。


「っつってもお前ら、朝になったら覚えちゃいまいが……」


 むなしく空を切った人差し指の指先は、方向を変え、唯一目の開いていたアベルの方へと向いた。


「あの頃、このカイン様もまだまだ若かった……」


 そう言って、カイン・フォルスは若かりし頃の自身が体験した不思議な出来事を話し始めた。話が進むにつれ、カインはどんどんと熱弁を振るい始めた。今まで話したくても話せなかったその鬱屈(うっくつ)とした物を全て吐き出すかのように、一気にまくしたてる。それもその筈。セレスト号の怪奇は、時代が進むにつれ風化するどころか人々からの関心をなお一層高めていった。衝撃的で間抜けな事実を語ろうにも語れない状況へと、日に日に追い込まれていたのだ。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


 女好きだったカインは、数名の女に手を出し、求婚されそうになるとのらりくらりと交わす。そんな自堕落(じだらく)な暮らしを送っていた。だがある時、例のごとく一晩限りだと思って抱いた生娘(きむすめ)が、それなりの身分の家庭の一人娘だったと後から発覚した。激昂(げきこう)したその娘の父親が、息のかかった者たちに「カインという男を見つけだせ」と指令を出し、途端にカインは追われる身となった。しばらく逃げていればその内に父親の気も収まるだろうという目論見(もくろみ)は外れ、金で雇われた大勢の屈強な男たちに追い回されるようになり、カインの安住(あんじゅう)の地はもはや国内には存在しなくなった。


 かくして、カインはアメリカからの脱出を決心する。決めたはいいが、連日の逃亡生活で金は無い。さてどうしたものかと思い悩んでいた彼が目にしたのが船舶だった。逃れ逃れたどり着いた先が偶然にも港だった。その幸運が、彼の運命を大きく変えた。


ーー国外へと出港する船へと忍び込むーー


 カインはそう決めた。そして同時に、運良く2日後出港予定の船があることを突き止める。その船こそがあの『マリー・セレスト号』だったのだ。


 セレスト号がニューヨークを出てしばらく後、カインは耐えがたい空腹を覚え、忍び込んだ貨物室から抜け出した。もちろん、周囲の様子をこれでもかと(うかが)いながら。カインは細心の注意を払い、乗組員と鉢合わせることのないように船内を進んだ。時に止まり、時に息を潜め、時に身を隠して。キッチンを見つけた時は小躍りしたい程に嬉しかったそうだ。


 食材の幾つかを貪り、すっかり元気を取り戻した彼は、またあの暗くて密閉された貨物室に戻るのは嫌だと思った。今の立場ーー存在しない筈の乗客ーーを生かして更に船内を調べ、より快適な隠れ場所を確保しようと思い立った。


 甲板(かんぱん)に出ると、ちょうど乗組員たちが勢揃いで何やら騒いでいた。航行中の余暇(よか)だろうか。水泳コンテストをやるらしい。船長とその家族も、一緒になって(はや)し立てている。参加者たちは全員海へと飛び込んだ。


 勝手に楽しくやってれば良い。カインは船員たちの和気藹々(わきあいあい)とした日常風景を背にしてその場を後にすると、新たな隠れ場所探しに(いそ)しんだ。


 数分後、カインは先ほどの甲板が見える場所へと戻って来た。中々良さそうな隠れ場所は見つけられず、もうしばらく続けるにしろ諦めるにしろ今一度船員たちの位置を把握しようとしたのだ。


 だが、そこには誰もいなかった。乗組員たちの騒ぐ声も聞こえず、不気味なほどに静かだ。カインは胸騒ぎがした。つとめて冷静に現状を分析する。舳先(へさき)の手前にあった特製のウッドデッキのような物が無い。取り付けたその根元が折れたような跡がついている。だとすれば、さっきそこに居た船長やその家族は海へと落ちたに違いない。それにしては静かだ。悲鳴の1つも聞こえない。


 カインは駆け出した。手すりに手をかけて、海を見た。海水に血が混ざっていた。サメにでも食べられたのだと思った。背後から誰かに押された。なす(すべ)なくカインの体は赤い海水の中へと落ちて行った。


 沈んで行く最中(さなか)、海面を仰ぎ見た。濃い紫色のような得体の知れない物体が、セレスト号の回りを滑空(かっくう)していた。見間違いかもしれない。ラッパの音色のような音がした。聞き間違いかもしれない。辺りを見回したが、サメはいなかった。考え違いかもしれない。


 やがて、体は自然界の法則に(のっと)って浮上し始めた。大きめの木の板が見えた。特製デッキの残骸なのだろう。水面めがけて浮き上がろうと足をバタつかせた。息は苦しかったが、あの板の上にさえ行けば助かるという希望が体を突き動かしていた。


 その後、飲まず食わずの漂流を続け、アフリカ大陸へと流れ着いたカインは一命を取り留めた。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


 時は1913年。第1次世界大戦勃発(ぼっぱつ)の1年前。セレスト号が遭難船として救助されてから40年が経過していた。何が起こったのか詳細は依然として不明のままだった。時が進む間に、マリー・セレスト号の怪奇はどんどんと脚色され、海難事故史上最大の謎として広く知られるようになっていた。


 ある日、リンフォードという身分の確かな男が送った書状が、とあるマガジン誌の読者欄に掲載された。アベル・フォスダイクという名のリンフォード氏の使用人が、自身の今際(いまわ)(きわ)に託した手記を抜粋(ばっすい)した物だった。フォスダイクの独白(どくはく)は、ついにセレスト号の謎を解き明かした。少なくとも、この文書が公表された当時はそう思われた。


 アベルは、あの日カインから聞いた話を自身の体験談として(かた)ったのだ。しかし詰めが甘かった。未だアルコールが抜けきっていない状態で聞いた話だったし、ましてや瞬時にメモを取るだなんてことはしていない。記憶も曖昧(あいまい)な部分が多かった。抜け落ちた幾つかのピースを、アベルは自身の創作で埋めた。


 無論(むろん)、結果的に幾つかの矛盾点を含んだストーリーが出来上がった。乗組員の人数だとか、名前であるとか、話の辻褄(つじつま)が合わない箇所だとか、突っ込みどころは少なくなかった。セレスト号に何が起こったのか。それを解き明かす材料にはならない。人々は当然そのように判断した。これこそが、後世(こうせい)『フォスダイク文書』として知られるようになった手記である。

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