九
ここ数日は王都の宿屋でゆっくり過ごしていたから、今日もてっきり宿屋に泊まると思っていたけれど、向かったのは大きな屋敷だった。
馬車を降りてポカンと口を開けた私は、王都で過ごすためだけにあるというミドルトンの屋敷の大きさに驚いていた。
ミドルトン家のお金持ちレベルに圧倒されていれば、正面玄関からオリビアさんが私の名前を呼びながら走ってくるではないか。
「トリー」
相変わらず美しいオリビアさん。
近くに来ただけで、とてもいい匂いがして思わずクンクンと匂いを嗅ぐ私に、オリビアさんは首を傾げている。
「どうかしたかしら?」
「オリビアさんお花みたいないい匂い」
「先ほどまでお花の水やりをしていたからかしら」
フフフと笑うオリビアさんの上品なこと。
「顔も見ずに出発してしまったからトリーのことが気がかりだったのよ。ジョンは屋敷の皆にきちんと指示を出したと言っていたけれど、大丈夫だったかしら?」
いろいろあったけれど、説明が面倒な私がコクンと頷けば、オリビアさんはホッとした様子だった。
「母上、お久しぶりです」
馬車から一緒に降りたオリバー君とブライアン君とハグをするオリビアさん。
そして遅れて馬車がもう一台到着。
「おかえりなさいませ。旦那様」
「ああ、ただいまオリビア」
こっちはハグどころではなく、ただいまのキスまでしている。
目を丸くする私の手を引いてくれたのはブライアン君だ。
「あの二人はいつもああだから、気にしない方がいいよ」
苦笑しながらそう言ったブライアン君に続いて屋敷に入れば、出迎えてくれたのはジョンさんだ。
「おかえりなさいませ、ブライアン坊ちゃま」
「ああ」
ニコリと笑うジョンさんに軽く会釈をすれば、なぜか繋いだブライアン君の手に力が入った。
どうしたのだろうかとブライアン君を見れば、いつもと変わらない顔だった。
「トリーは僕と同じ部屋を使おう」
「え?」
「嫌かい?」
ブンブンと首を振る私に、ブライアン君はじゃあ一緒だねと言って、私を抱き上げた。
「母上は父上と一緒に過ごされるから、ジョンはオリバーの風呂の手伝いを頼む」
「かしこまりました」
私を抱いたままブライアン君は足早に階段を上り、青い扉の部屋に入っていく。
「ここが僕の部屋だよ。自分の部屋だと思ってゆっくりしていいからね」
人様の部屋でゆっくりなんてできないと思っていた私だけど、旅の疲れもあってか、いつの間にかぐっすり眠っていた。起きたときに、寝癖のついた髪を笑いながら整えてくれるブライアン君。
「トリー、今日は僕から離れたらだめだよ」
「え?」
「約束できるかい?」
ブライアン君の側を離れたらダメな理由が何かあるのだろうかと疑問に思ったけれど、説明してくれないのは言いたくないからか、言えない理由があるからだろう。
そう思った私は真剣な表情のブライアン君に小さく頷いた。
「よし、いい子だ。じゃあ、そろそろ夕ご飯だから、食堂に向かおう」
しっかりと手を握って歩いてくれるから私はついて行くだけだ。
食堂にはミドルトン家が集合していた。
ポールさんだけいないのは、騎士団に顔を出しに行っているかららしい。
だからここには、伯爵様一家が揃っている。
私の席はブライアン君とオリバー君の間のようで、紳士なブライアン君が椅子まで引いてエスコートしてくれる。
食事が始まって思ったのは、みんな貴族なだけあって食べ方が綺麗だということだ。
私も見よう見まねでなんとか食事をしているけれど、やはり四歳児の手は不器用で上手に食べられない。お肉を切るのが難しくて困っていれば、面倒見のいいブライアン君はお肉を小さく切ってくれるし、口元が汚れたらオリバー君が拭ってくれる。
「フフフ、オリバーはまるでトリーのお兄さんみたいね」
「トリーはすぐ汚すから、僕がいないとダメなんです」
得意げな顔でそう言ったオリバー君が素直で可愛いと、ここにいるみんな思っているだろう。
伯爵家はとても仲がいいようで、幸せな家族団らん風景である。
和気あいあいとした食事に、和む私。
そう、さっきまではほのぼのとした空気の中、美味しいお肉を噛みしめていたのに。
なぜか、またしても修羅場に遭遇。
「ナイフを置け、ジョン」
そう。
驚くべきことに、食事の給仕をしていたジョンさんが何を思ったか急にナイフを手にオリバー君を人質に取っているのだ。
「せっかく、俺と奥様が」
何やらブツブツと言っているジョンさんは、はっきり言って怖かった。
「落ち着きなさい」
そう言った伯爵様の言葉にジョンさんはさらに怒り出す。
「うるさい。うるさい。うるさい」
「ジョンいったいどうしたの?」
オリビアさんのその言葉に一瞬動きがとまるジョンさん。
「俺は奥様のことを愛し……グフッ」
何やらジョンさんが語りだしていたけれど、人質のはずのオリバー君が、ジョンさんの腕を掴んだと思ったらそのまま投げたのだ。
倒れるジョンさんを取り押さえるブライアン君と伯爵様。
そしてオリバー君はというと。
「さっきからナイフについた肉汁が僕に飛んでたんだ! 汚すぎて我慢できない」
飛んだ肉汁をナフキンで綺麗に拭っていた。さすがオリバー君である。
後で聞いた話だけど、ジョンさんはオリビアさんのことを愛していたそうだ。ジョンさんはただオリビアさんが幸せそうに笑っていてくれたらそれでよかった。でもある日、旦那様が浮気をしたと泣く奥様を見て、奥様を泣かせる原因全部が悪いとその時強く思ったそうだ。
浮気をしたかもしれない伯爵様も、その浮気相手も、その子供も。
「トリーが屋敷に初めて来たとき、僕にトリーのことをあの子供は遺産を狙っている、伯爵家を内部から壊そうとしていると言ったのはジョンだったんだよ」
そう言ったブライアン君に続いてオリバー君も口を開く。
「僕だって、ジョンにトリーのせいで母上が泣いているって聞いた。それにメイドたちもみんな、ジョンから噂を聞いたと言っていたんだ」
オリビアさんはこの件で、ひどくショックを受けたようだ。
長年信頼していたジョンさんに裏切られる形になったのだから、ショックを隠し切れないのも無理はない。そしてオリビアさんは私に起こったことを聞いて、わざわざ謝罪しにきてくれたのだ。
「トリーには辛い思いをさせたようで、ごめんなさいね」
「いえ、あの私、全然大丈夫だったのです」
「何が大丈夫なものですか、物置部屋に寝泊まりさせられたのでしょう」
ウルウルと瞳を潤ませた美女に私は慌てた。
「えーと、お布団フカフカ、それにご飯たくさん温かくて美味しかったです」
だから問題ないんだとアピールしているのに、涙が零れ落ちるではないか。
「あ、それに、オリバー君にお風呂に入れてもらいました。ツルツルピカピカいい匂いにしてくれて、とても嬉しかったです」
「オリバーがトリーをお風呂にですって?」
あれ?
なんだか私まずいことを言ったかもと思ったのは、笑いながら怒るという器用なことをしたオリビアさんがオリバー君の名前を呼びながら出て行った後だった。