三
ジョンさんに連れられて歩き出したまでは良かったけれど、階段を下りて、曲がって、進んでまた曲がって、私は自分がどこを歩いているのかわからなくなった。
迷路のように広いこのお屋敷では、絶対に迷子になってしまうだろうと思い、遅れないように足を進める。
「こちらは客室です。お嬢様はこの部屋にいてくださいね」
客室というだけあって、その部屋は、高そうな家具が並んでいた。ピカピカに磨き上げられているだろう机は触ったら汚れそうで触れないし、私が座るには大きすぎる椅子も染み一つなく、綺麗すぎるものだった。
フカフカな絨毯さえ、私の綺麗とは言えない靴で踏むだけで申し訳ないと思うほどだ。
ジョンさんに言われなければ、私は入口から動くことさえしなかったかもしれないと思った。
フカフカすぎる椅子に腰かけて、妙に緊張した状態のまま、恐らく三十分ほどたった頃、メイドさんが、ティーセットを持ってきてくれた。
メイドさんは私のことをさりげなく見るのではなく、じっと見ているから、私は曖昧に笑ってやり過ごした。
そうして、しばらくするとメイドさんが部屋から出て行った。
一人になった部屋で私は息を吐く。
「私、何しに来たんだろう」
そんなことをポツリと呟いていれば、突然、ドアが開いた。
ジョンさんかなと思ってドアの方を見たら、そこにいたのは知らない人だ。
銀色の髪に、空色の瞳のその人は、伯爵様によく似た男の子だった。
確か、この家の男の子は二人、十八歳と十二歳だったはずだ。
目の前の男の子を観察して、私は恐らく十二歳の次男ではないかと予想した。
「……君が父上の、浮気相手の子供か?」
はいともいいえとも言いにくい質問である。
私は、困ったときは笑って誤魔化すしかないと、首を傾げて私にはわかりませんと言うように笑ってみた。
ハッと息をのんだ目の前の人は、私の顔を凝視していた。
「父上にそっくりだ」
その呟きにまたしても、何と言えばいいかわからずにいれば、ドアの近くにいたその人はズンズンとこちらに向かって歩いてくる。
「君は、なんでそんなに汚れているんだ? 臭うぞ」
そう言って鼻をつまんで、室内にある窓を開ける様子に私は、そんなに臭うかなと自分の服の臭いをかいでみた。
うん、ちょっとだけ臭う。
そういえばジェイドお母さんの家にお風呂はなかったように思う。この世界でまだ四年しか生きていないけれど、お風呂を見たことがない。いつも汚れたら水で濡らした布で体を拭いてはいたけれど、確かにところどころ汚れている。
そして、服も頻繁に洗うわけではなく、すごく汚れたら着替える感じだったから綺麗とはいえなかった。それでも、私が暮らしていた場所では、みんな似たような格好で、これが当たり前だった。
「こんなに汚れているなんて考えられない」
なぜか怒ってそう言われた時、慌てて入ってきたのはジョンさんだ。
「失礼いたします。オリバー坊ちゃま」
「ジョン、なぜこの子はこんなに汚れているのだ?」
「……着の身着のまま連れてきましたので、身を清める時間もなく、申し訳ございません」
「僕は、こんなに、こんなに汚れている人間がいるなんて許せない」
私が汚れた姿をこんなにと二回繰り返すほど、どうやらオリバー君は綺麗好きらしい。
とてもじゃないけれど、汚れたままの私が同じ空間にいることに耐えられないどころか、こんなに汚れている姿を目の前にして黙っていられないらしい。
「ジョン、すぐに風呂の用意を」
「かしこまりました」
数分後、オリバー君監視のもと、数名のメイドさんたちにゴシゴシと体を洗われる私。
あまりの汚れに、白いはずの泡が黒くなったのを見たオリバー君は叫んでいた。
「なんてことだ! 信じられない! こんなに汚れるまで体を清めていなかったなんて、一体どういうことだ!」
何やら大興奮のオリバー君は、メイドさんに指示を出している。
「そのスポンジでは無理だ、新しいものを」
「はい」
「爪の間はこのブラシを使うんだ」
「はい」
「髪はあと三回は洗え」
「はい」
メイドさんたちは忙しそうに私の周りを動き回っている。
私がちょっとでも手伝おうと、自分の頭に手をやっただけなのに、オリバー君は目敏かった。
「君は触るな。じっとだ、じっとしていろ」
体を洗われながら私は考える。
四歳児とは、どんなことまで理解できて、どんな風に喋るんだろうと。
前世の記憶のおかげで、私は脳内では立派な大人だ。
けれど、今の私は四歳児。
ジェイドお母さんの家の近所には私と同じ年頃の子供はいなかったし、前世では小さな子供と関わる機会もなかったから四歳児がどんなことができるのかがわからないのだ。だから当然四歳児らしく振舞うことが難しい。
今も体を洗われて、戸惑いはするものの、汚れが取れて嬉しいとしか思わない。
でも、普通の四歳児が大人に囲まれて泣きもせずに気持ちがいいと言うのはおかしいだろう。そう思って私は大人しく黙ったままでいた。
それから、頭のてっぺんからつま先までピカピカになった私は、オリバー君と向かい合って座っていた。オリバー君はきちんと汚れが取れていることを確認すると、やっと落ち着いたようだ。
「おい、お前のせいで母上が泣いていたんだぞ」
思いっきり睨まれた私は、何とも言えない気持ちになった。
目の前の子供の存在が原因で、自分の母が泣いて、夫婦の仲が危ういかもしれないとしたら、私を疎ましく思うのも仕方ないだろう。十二歳と言えば、日本では中学生ぐらいだから、思春期突入の時期である。
多感なお年頃な時期に、父親が外で子供を作っていたと知ったのなら余計に受け入れがたい現実だろう。
けれど四歳児が全てわかってますと言う顔もできないから、私は何を言っているのか分からないという顔をするしかないのだ。
「この子供を、もっと違う部屋、もっと小さくて、こんなにいい部屋じゃないところに連れていけ」
「しかし」
「父上が対応できない今、兄上が留守であれば、この屋敷での決定権は僕にある」
「……かしこまりました」
申し訳なさそうな顔で私を案内してくれるジョンさん。
広すぎる屋敷は歩いていても相変わらず道がさっぱりわからなかったけれど、ジョンさんは、私の歩幅に合わせてゆっくりと歩いてくれる。その後ろをソワソワしながらついてきているオリバー君。
「こちらです」
そう言って案内されたのは、さっきよりは小さな、けれど十分に大きな部屋だった。
「このようなお部屋で申し訳ないのですが」
「いえ」
うん、本当にいいお部屋だと思う。
そう思って小さく笑ったのがいけなかったのかもしれない。
「ジョン、もっと小さな部屋を用意しろ」
プンプン怒っているオリバー君が納得するようにジョンさんが次々に部屋を案内してくれるけれど、オリバー君のご機嫌はなかなか良くならない。
「……オリバー坊ちゃま、このお部屋より小さいお部屋となりますと、使用人の部屋しかございません」
「そこでいい」
「しかし、使用人の部屋は満室です」
「では、もっと、もっと小さい部屋だ」
ジョンさんが淡々と返事をするものだから、オリバー君も意地になってしまっている。引っ込みがつかなくなってしまったオリバー君は、ポンと手を叩いた。
「そうだ、あそこだ、子供部屋の隣の倉庫だ」
そこは薄暗くて、埃除けに布が被せてある物が所々に置かれている部屋だった。
オリバー君は、室内を見渡して、やっと満足したようだ。