二
オリビアさんとはぐれないように必死に足を進めていた私は、オリビアさんが突然足を止めたから立ち止まった。
「困ったわ。怒りに任せて馬車から飛び降りたものだから、馬車の方向がさっぱりわからないわ」
まさかの迷子とは思わず、口をポカンと開けてしまう。
「本当はトリーを迎えに来るのは別の人の役割なの。今日はわたくしあなたの様子を見たら帰ろうと思っていたのだけど、あの人の浮気相手が目の前にいると思うと、我慢できなくなっちゃってね。実際はわたくしの早とちりでしたけどね」
フフフと品が良さそうに笑うオリビアさんは、美しかった。お母さんも美人の部類に入るけれど、お母さんは色気のある美人で、オリビアさんは清楚な感じの美人だ。
平民ばかりいるこの場所では、オリビアさんはとにかく目立っていた。醸し出すオーラが高貴なのはもちろん、今は汚れてしまったけれど明らかに高そうな服を纏う奥様がキョロキョロしながら歩いていればそれは目立つ。
でも、目立ったおかげか、騎士のお兄さんがオリビアさんを見つけてくれた。
「奥様ー、ご無事でし……」
オリビアさんの服の汚れや髪の乱れに気づいたのか、お兄さんの言葉が止まる。
「ジョンわたくしは無事よ、急いでトリーも連れて帰るわ」
「奥様いったい何が?」
目を丸くした騎士のお兄さんは私を信じられないものを見るような目で見ている。
「……これは、旦那様に瓜二つですね」
「そうでしょう。あの人の血を濃く感じるわ」
どうやら、伯爵様と私は似ているようだ。
馬車に乗り込んでからも、二人は私の顔を見ては、ハッとするから、伯爵様は思ったよりも私に似た人なのかもしれない。
私はあまりにもじっと見られるので、困ったように笑うしかなかった。
「これは、また表情までそっくりで」
「そうでしょう、この笑い方、双子と言われても信じるわ」
二人がたまにこそこそと話しているけれど、内容まではわからず首を傾げる私が馬車で揺られること、一時間ほど。
私は馬車の中で、ジョンさんとオリビアさんの会話を聞いて、少しでも情報を集めようと必死である。
どうやら伯爵家には十八歳と十二歳の男兄弟がいるらしい。伯爵様が私のお父さんなら、私には兄が二人もいることになる。
前世の記憶が蘇った今、私は普通の四歳児ではないのだ。
前世で社会人をしていた記憶があるから、私は大人だったはずだ。どうも前世の記憶は曖昧でいくつまで生きたとか、結婚はしていたのかとか、大事なことは思い出せない。今のところ、鮮明に思い出せるのは会社のロビーで見た修羅場というのも悲しいものである。
私はこの時、妙に大人びた子供というのも変に思われるだろうから、できるだけ大人しくしようと決めた。
「トリーはいくつになったのかしら?」
「四歳です」
私は子供らしさを心がけて、指を四本出した。
「奥様、旦那様は奥様一筋です。俺が保証します」
「……わたくしだって、昨日まではそう信じておりました。でも」
そう言って私を見るオリビアさんは瞳を潤ませていた。
「これから旦那様と話し合います」
真剣な顔をしてそう言ったオリビアさんに、ジョンさんは何も言えなくなったようで、諦めたように首を振り押し黙っていた。
私は、これからもしかしてまた修羅場が待っているんじゃないかと思うと気が気じゃない。
しかも、原因は私の存在だろうから、父親の顔を見てみたいと思うものの、少し憂鬱である。
馬車が静かに停止した瞬間、オリビアさんは頬を叩いて気合いを入れている。
「行くわよ」
「はい」
思わず元気よく返事をしてしまった。
馬車を降りて、颯爽と歩くオリビアさんに遅れないように足を進める。
「おかえりなさいませ。奥様」
これぞ執事といった制服を着たおじいさんを先頭に、メイドさんがたくさんきっちりと並んで頭を下げているのが見える。
「旦那様は?」
「執務室におられます」
「行くわよ。トリー」
多分ここにいる人みんなが、オリビアさんの後ろにいる私に、今気づいたと思う。
ざわめきが広がり、視線が突き刺さる。
私は目立たないように、小さく頷いて、小さな体をさらに小さくして歩いた。
目を丸くする執事のおじいさんの前を通り過ぎるときには、なんとなく会釈をしておいた。
「奥様ー、お待ちください」
後ろから走ってきたのは、ジョンさんだ。顔見知りの登場に少しだけホッとしてしまった。
「お供いたします」
「来なくていいわ」
「いいえ、奥様を一人で行かせたら旦那様に叱られます」
「邪魔はしないでね」
「もちろんです」
それからオリビアさんは、ズンズンと階段を上がっていく。
私は精一杯、短い足を動かして、置いて行かれないように必死だったけれど、そこは大人と子供、どんどん差が離れていく。
その時、脇の下をヒョイと持ち上げてくれたのはジョンさんだった。
「ゼェゼェ……ぁ、ありがとう、ございます」
ペコリと頭を下げたら、なぜだか驚かれた。
私はジョンさんが運んでくれたおかげで、オリビアさんから遅れることなくなんとか階段を登り切った。
オリビアさんは大きな扉の前で立ち止まると、深呼吸していた。
私はゴクリと唾を飲み込み、これから訪れるであろう修羅場を想像して、回れ右したくなった。
その時、気づいたのだ。
あれ?
私は別にいなくてもいいのではと。
「旦那様、失礼いたします」
しかし、気づくのが遅かった。
バンと大きな音を立てて開けた扉の中に入るオリビアさん。
そして一歩が出ない私を置いて、勢いをつけて開けた扉が閉まった。
そこで私は、この期に及んで往生際悪く思うのだ。
この中には、しばらく入らない方がいい気がすると。
そうだ。
夫婦には話し合いが必要だ。
スッと前に出す予定だった足を下げれば、何かにぶつかった。
「入りませんか?」
ぶつかったのはジョンさんの足だったようで、私はジョンさんの問いにコクンと頷いたけれど、ジョンさんは私をかわいそうなものを見るような目で見るのだ。
さらに、無言で首を振るジョンさん。
「トリー、トリー、入ってちょうだい」
私を呼ぶ声に、肩が跳ねる。
ジョンさんは、私の肩をポンと叩いた。
これは、行けってことだ。
親切にもジョンさんが大きな扉を開けてくれる。
それでも一歩が出ない私だったけれど、ジョンさんを見れば早くと言わんばかりだ。
「俺も一緒に行きますから」
その言葉にやっと、前に進む。
扉の向こうには、正面に大きな机があった。机の前にはオリビアさんがいて、恐らくその向こうに伯爵様が座っているんだろう。
「旦那様、この子がトリーです。トリーを見ても、まだ白を切るつもりですか?」
スッとオリビアさんが横にずれたことで、私の正面に一人の男の人の姿が目に入った。
一番に目に入ったのは銀色の綺麗な髪だ。
私の汚れた灰色の髪とは違いとても綺麗だった。
そして大きく見開かれた、空色の瞳が私を見つめていた。
髪の色は多少違っても、その目の前の人は、確かに私とそっくりだった。
私を大人の男にしたら、あの顔になるだろう。
きっと似ていることに驚いたのは向こうも同じ。
視線が合ったまま、時が止まったように感じた。
「君は一体……」
「一体じゃございません、この子を見ても旦那様と赤の他人と言えますか?」
「落ち着きなさい、オリビア」
「これが落ち着いていられますか、わたくしというものがありながら」
「誤解だ」
「それでは、トリーのことはどう説明するのですか」
たたみかけるように伯爵様を責め立てるオリビアさんは、誰が見ても冷静ではなかった。
「オリビア、僕には誓って君だけだ」
「でも」
「本当だ。今も昔も君だけを愛している」
その言葉に、我慢していた涙が出たオリビアさんは、本格的に泣き出してしまった。
伯爵様はいつの間にか、オリビアさんを抱きしめて、私に鋭い視線を送る。
その視線の冷たさといったら、凍えるのではないかと思ったほどだ。
どう見ても幼児に向ける視線ではない。
けれど、私は何もわからないふりをする。
困ったときは笑って誤魔化すのだ。
伯爵様は私の顔からジョンさんに視線を向けて、出ていくようにと合図を送っていた。
私は、ジョンさんにポンと肩を叩かれて、そっと退室する。
静かに閉めた扉から数歩離れて、私は無意識に詰めていた息を吐きだした。
またしても修羅場に遭遇してしまった。