足跡
タケはいつも俺たちの後ろにいた。
まるで頭から上には景色がないように、頭を下げ、俺たちの歩いた道だけを見てトボトボとついてきていた。
「タケはいつも下ばかり見ているな」
そう言うと、タケは恥ずかしそうでも困ったような表情をするわけでもなく、歪な困り顔を上げ、またすぐに下を向いた。俺らの後ろにいつも必ずいるのがタケだったし、それがタケの癖だと思っていた。
タケと知り合ったのは、高校に入学して2週間が過ぎた辺りであった。ちょうど、高校の遊歩道に植えられている葉桜が見える窓辺の席にタケは座っており、これは、同じ部活に所属しているユウジの席の隣だ。
高校に入ったばかりの友人関係は、同じ部活から始まることがほとんどだと思うが、そのほとんどの内に俺も含まれている。ユウジとは昼の弁当を一緒に食べる関係になっていた。
4限目の終わりを告げるチャイムが鳴り、俺はいつものように2リットルのタッパーを持ってユウジの席へと足を運んだ。この2リットルタッパーを弁当箱にしているのはユウジも一緒で、ラグビー部の特徴でもある。体力をつけるにはまずは食事からと、1年生は特に食わされるのだ。
「思うんだけどさ、授業中に飯食うのって、あれ、都市伝説だよな」
ユウジがおもむろにアホな話を繰り出してきた。
「実際臭いでバレるしな」
「それな。てか、自分が腹へってるの我慢できませんって周りにアピールしてるようなもんだしな」
「恥ずかしいが勝つよな。普通に考えれば」
「バレて怒られることと天秤にかければ、まあしないな」
アホな話でもなんとなく続けられる。高校生男子の友達ってこういうところあると思う。
すると、
「さっき・・・」
という、ぼそっとした声が、左から聞こえてきた。
なんということか、今まで一度も話したことのないクラスメートAが話しかけてきたのである。そのときの面を喰らった俺の顔は、ひどく間抜けであったに違いない。
けれど、チラッと見たユウジの顔も、それはそれはひどく間抜けだったことを覚えている。
しかも、
「さっき・・・西谷くんが早弁してたよ」
などとクラスメートAは、あろうことか密告をしてきたのだ!
「まじで?」とユウジが尋ねる。
「うん、さっきおにぎり食べてた」
西谷というのは野球部に所属しているのだが、それはもう4番を打つ助っ人外国人のような肩幅と胸板と腹をしており、しかも坊主でおにぎり顔ときたものだから、俺ら2人は口に入れていた弁当の具を吹き出さずにはいられなかった。
「ぶあはっ!」という不細工な音をたててユウジはゲラゲラと笑い出した。
俺は俺でユウジの机に飛んでった米粒を震えながら回収していた。
「キャラに合った行動しすぎだろ・・・ぶふっ」
ユウジはまた不細工な笑い方をして肩を揺らしている。1つ空いた隣の席で女子会のごとく飯を食っていた女子たちのアホを見る視線に気づかないとこは、こいつのいいとこである。
「いやぁ~教えてくれてありがとう。お前、後ろの席の武田だよな?今度そういう情報あったら教えてくれよ!」
「うん・・・いいよ」
なんと俺らは了承を得られた。
これがきっかけとなり、クラスメートAは武田の時期を通過し、俺らはタケ呼ぶようになっていった。
タケはなんとなく俺らと一緒に行動し、別教室の移動やトイレに行くときなどは、いつも俺らの後ろをついてきており、先頭どころか並列に並ぶこともせずにいた。その時は「こいつは後ろにいるのが好きだな」としか思わなかったのだが、ある日を境にして、それがタケの異常行動であることを認識した。というより、認識せざるをえなかった。
7月は上旬のことである。1学期期末のテストが行われることによって、部活は2週間のテスト休み期間に入った。いつもは部活で下校時間が19時ぐらいになるが、テスト休み期間に入ると17時に帰ることができる。部活に入っていなかったタケと初めて下校時間が重なった。
「タケ、一緒に帰ろうぜ」
誘われたタケは、「うん」とだけ返事をし、3人で一緒に帰ることになった。
その日は、梅雨の忘れ物が空に残っていたのか、薄暗い曇天と傘をさすほどでもない、水分子が目に見えるかのような、粒の水滴が空中に浮遊しているかのような日であった。
俺ら2人は傘をさしてはいなかったが、タケは藍色の折り畳み傘をしっかりと頭上にかかげていた。
「じゃあ、僕こっちだから」
タケは学校の近くに家があるらしく、バス通だった俺とユウジは最寄りのバス停でタケと離れることになった。
「こっちだから」と足を進めたタケはバス停から遠ざかっていったが、どうも様子がおかしい。
そのおかしさにユウジも気が付いたようだった。
「おい、タケを見てみろよ」
ユウジがタケの歩いた方向を指さす。
「あれ、前のやつらについて行ってるように見えね?」
タケの前には3人の女子が、歩きながら楽しそうに雑談をしているようだった。
しかし、女子の歩くスピードというのはあまりに遅く、それがおしゃべりをしながらとなると、当然、もはや立ち話とでもいわんばかりの歩行速度になる。
いつも俺らについてきているタケなら、そんな女子たちを追い越してもいいはずだ。
それなのに―――
「あいつ、あの女子たち追い越さないのな」
俺はそう言った。多分、ユウジもそれに気が付いたからこそ、まさしくタケが女子たちについて行ってるように思えたのだろう。
「まるでストーカーだな。いつも後ろをついてくるから、そういう性だとは思っていたけど、まさか仲間内でもない集団にもそうとは思わなかったぜ」
ユウジは少し怒っているのか、それとも呆れているのか、どちらにせよ、このタケの行動にポジティブな感情は湧き上がらなかったみたいだ。
しかし、俺はユウジとは違う、あからさまに異常な行動に気が付いていた。
タケは―――前を歩く人の歩いた後を、一寸の狂いもなく自分の足と重ねて歩いていたのである。それはまるで、その足跡を自分のものにするかのような行動であり、完璧な踏襲であるともいえる。前の女子が歩いた一歩に合わせ、タケも歩く。女子が止まればタケも止まり、また歩き出せばタケも歩く。その異常行動が、今まで俺らにもされてきたのかと考えると、なんとなく畏れおののくような気分になった。
次の日の昼休み、いつものように弁当箱を開いたユウジがタケに向かって言った。
「タケさ、ああいうのは止めたほうがいいぜ。普通に気持ち悪い」
「ああいうの」とユウジは言ったが、それがなんのことかタケはすぐに分かったらしい。
「うん―――そうだよね。気をつけるよ」
気をつける―――とは一体どういうことだろうか。
少なくとも、気を付けるといった類の話ではないと俺は思ったが、タケの行動をここでユウジに話してしまうのは気が引けた。なんとなく、言ってはいけないことのような気がしたのだ。だから、俺はタケと2人になれるように工作した。
「ユウジ、今日俺、部活休むわ。先生には体調不良だって言ってくれないか?」
「は?なんで」
「用事があるんだよ、用事が。ちと言いにくいからぼかしてる」
「んだよそれ。わけわかんね」
「頼むよ。ただ単に部活サボったと思われるのもヤダし」
ユウジは、はぁー、とため息をついて、「別にいいけど。お前がこんなこと言うの初めてだし」と俺の抽象的なお願いをきいてくれた。
「サンキュな」
ユウジはその後、特に何の用事なのかを追求することなく、「なんでピカチュウは黄色なのか」ということについて話を始めた。こういうのが、こいつのいいとこである。
昼休みが終わりに近づいたころ、自分の席に帰る間際に、俺はタケに耳打ちした。
「今日、一緒に帰れるか?」
タケが何を考えているのか分からなかったが、下に向いていた顔をさらに下に動かしたので、了解してくれたのだろう。
俺は席に戻ると、弁当をバッグに戻し、数学の教科書を机の上に出して、次の授業の準備をした。すると、教科書の上を一匹の蟻がちょこまかとしていたので、右手の中指でピンと弾こうと思ったが、一発目は空振りを決めてしまった。不甲斐ない。
その日の放課後、俺はタケと2人で教室を出て、2人で靴箱に向かい、2人で校門を出た。タケは相変わらず並列歩行をする様子が無いので、顧問に見つからない壁をつくるのは諦めたが、それでもそそくさと周りを警戒しながら俺は歩いた。その時、そそくさに紛れてタケの方を向いたりもしたが、やはりそうだった。俺の足跡をこれでもかと踏みしめるようにしてタケは歩いていた。
俺とタケは最寄りのバス停ではなく、1つ先のバス停まで歩いた。
タケは何も言わずに俺の後ろをついてきていた。
その間、会話らしい会話はなかった。ただ、ローファーが道を叩く音と時折通る車の音だけが耳を貫いていた。
バス停に着き、「まあ、座れよ」と言って俺はベンチの右横を叩いた。ところがタケはその言葉に反応するわけでもなく、ぼうっと左横に立っていた。聞こえていないはずはないと思った俺は、「これなら座れるか?」と言って、その体を右へとズラした。
その行動にどんな意味があるのか、それを知っていることに驚いた様子のタケであったが、タケは素直に俺の元いた場所に腰をおろし、タオルで汗をふいた。
そういえば俺も大分汗をかいていたと気づき、バッグからタオルを取り出すと、額と首にタオルを当て、タケを見ないようにしながら話を切り出した。
「今日はさ、タケと話がしたくてさ」
一呼吸置くために、部活で飲むはずだったアクエリで喉を潤す。
「タケさ、俺らの後ろをついてきてるんじゃなくて、俺らの足跡の上を歩いてるだろ?」
そう言うとタケは、持っていたタオルを首にかけ、口の周りを拭うと、
「やっぱり気持ち悪いって思うよね。お昼にユウジにも言われたし―――」
いや、あいつはそこまで気が付いていないぞ、と口に出しそうになったが別に言わなくてもいいことに思えたので言わなかった。
「なんか訳でもあるのか?癖?だとした難儀な癖だとも思うけど」
「癖・・・なのかな。でもこれは意識的にやっているから、多分癖じゃないと思う」
そう言うと、タケは数秒黙ってしまったが、何か言いたそうな、でも言いたくなさそうな、そんな葛藤をしているようにも見えたので、俺も一緒に黙りこくってやった。
しびれを切らしたのか、決心をしたのか、口を開いたのはタケの方であった。
「最初はさ、僕も普通に歩けていたんだ。それこそ、ちゃんと顔を上げて。けど、小学6年生になってすぐ、急に人の後ろを歩くようになったんだ。それまではさ、自分が先頭に立って歩いていても何も感じなかったのに、急にだよ―――急に怖くなったんだ。目の前に何もないことに」
ああ、なんとなく分かるな。
俺はそう思った。例えば、高校初日の通学路。あるいは、ピアノ発表会の1番手。
模倣するものがない、分からない。そういったことに不安を感じるのはよくあることなのだろう。俺だってそういった不安を感じたことはある。だから、タケがいった先頭の不安っていうのもなんとなく分かる。けれども・・・
「けれど、それなら誰かの背中をみながら歩けばいい。わざわざ誰かの足跡まで模倣しなくてもいいんじゃないか?」
そうなのだ。わざわざ誰かを完璧に模倣する必要はない。誰かを完全に踏襲する必要はない。目の前に何かあればいいのだ。自分の前にある何かを追えばいいだけなのだ。
タケは自分の足先か、その辺りから視線を外さないまま話を続けた。
「うん。僕もそう思う。だけど、それだけじゃダメだったんだ。目の前に誰かの背中があるだけじゃ、どうしてもこの怖さが消えなかったんだよ。誰かの足跡を踏み外すと、そのまま落ちてしまいそうな気分になる。僕にとって誰かの足跡は、きっと向こうまでを歩かせてくれる橋みたいなものなんだ。だから、今度は僕の前を歩く人の歩いた所を、1ミリも狂いなく同じところを歩くんだ。するとね、安心するんだよ。分からない、得体のしれない、そんな恐怖が頭の中からスッと消えるんだ。目の前が晴れたようだった」
さっきまで強烈だった西日がだんだんと色濃くなり、オレンジ色をした学生鞄にまた一粒の汗が垂れた。タオルで汗を拭くのを忘れていたらしい。それほどタケの話は俺の中では異端だった。(ああ、なんとなく分かるな)と先程まで思っていた自分が、一瞬でどこかへ行ってしまったようだ。
唖然。そんな表現が的を射ているかどうかは分からないが、少なくともタケの語りに何と反応していいのか、俺には分からなかった。
タケの視線につられて下げていた俺の視線の先に、蟻の行列ができていた。蟻たちは、アクエリの周りを一心不乱に目指していて、辿り着いた一匹の後ろにまた一匹、また一匹とどこから沸いたのか不思議なほどに行列をなしていた。
それを見た俺は、まるでタケだなと思った。
蟻の行列の先頭ではなく、それについていく蟻は、まさしく俺の隣に座っているクラスメートAであった。最初のペンギンになるには勇気がいるが、それでも後ろのペンギンは最初のペンギンの泳いだ航路を完璧には泳がない。クラスメートAは、最初のペンギンにも後ろのペンギンにも先頭の蟻にもなれない。ただ、足跡を完璧に模倣する蟻なのだ。
そう思うと、今まで感じたことない嫌悪を左から感じてしまっていった。
友達からは感じてはならないその情緒は、俺を我へと引き換えさせた。
「タケ、お前生きづらい蟻みたいだな」
一応、冗談っぽく、からかうように笑いながら発してみたものの、実際にどんな顔をしていたかは分からない。ただ、なんとなく、真に受けてはいけないような気がした。
「そうか蟻か―――うん、そうなのかもしれないね」
そう言ってクラスメートAは、立ち上がり、
「話聞いてくれてありがとう。僕はもう帰るよ。ちょうど同じ方向に向かう集団がこちらへ歩いてきたから」
と、またも前の集団の後ろをついていって、バス停を後にした。
「はあ~~」
大きなため息をして、俺は俯いていた顔をゆっくりと上にあげた。
心がなんとなく軽くなった気がしないでもないが、それがあいつの話を聞けたからなのか、あるいは嫌悪が消えたからなのかは定かではない。
ただなんとなく、夏の空気が体を突き抜けた感じがした。
そろそろ帰るかな。
俺は自分の足元に置いてあった学生鞄と部活用のリュックとアクエリを持って立ち上がり、蟻の行列を踏んでバス停を後にした。