俺の名はジャスティス・カケル
|THE DEATH OF GOD《神は死んだ》
昔、どこかの誰かが書いた本で、そんな一文を読んだ気がする。
それは産業や医療、あらゆる分野での技術が発達して、神の助けなどがなくても、人類が発展するようになった。〝神は死んだ=用済みになった〟という方程式だと、俺は勝手に理解していた。
しかし、いま、俺の中でまた、新たな方程式が生まれようとしていた。
〝神は死んだ=悪人を裁かなくなった〟というモノだ。
突然だが、俺はこの世に生を受けて、まだ14年しか経っていないガキだ。
だが、そんなガキにも理解るものがある。
それは、この世の中には無数の悪人がいるという事だ。その悪人たちは善人を食い物にし、誰に裁かれる事なく、素知らぬ顔で善人に混じり、息をひそめ、腹が減ればまた善人を喰らい、生きている。
ならなぜ、善人は悪人を裁かないのか?
それは、善人が善人であるからだ。
善人は他人に危害を加えない。善人は他人を食い物にしない。善人は他人と共存しようとしている。
ゆえに、善人は悪人を裁かないのだ。ゆえに、善人は善人足り得るのだ。
ならば、善人が悪人を裁けないのなら、どうするのか?
ただ黙って、他人が、自分が、自分の愛する者たちが喰われ、迫害され、殺されることを黙って見ているしかないのか?
──否。
否である。
この長い、永い、人類史において、人類はこれについての対処法を大まかに2パターンほど用意している。それゆえに人類は滅びることなく、今日まで堂々と悪人をのさばらせているのだ。
まず2パターンあるうちのひとつめ。
神に祈るという事だ。
〝神〟という不定形で、男なのか女なのかもわからない、単数なのか複数なのか、背は高いのか低いのか、人種、出身、人なのか人でなしなのか、有機物なのか無機物なのか、主義主張、趣味嗜好、好きな音楽、映画、漫画、ゲームすら知らないモノに縋るというアレだ。正直な話、この手段に関しては俺も失笑を禁じ得ない。
なぜなら神とかいうヤツは往々にして、人の願いを無視する不逞な輩であると相場は決まっているからだ。
気まぐれに人の願いをかなえ、気まぐれに人心を惑わし、気まぐれに人の信仰を集め、気まぐれに人を殺す。
なぜこのような不確かなモノに人は縋るのか。
それは、神とかいうヤツが悪戯に、人智を超える力を持っているからだ。
例えば、神がそこら辺を歩いているオッサンだったとしよう。
そして俺はおっさんにこう願うわけだ。
『今日の体育がマラソンだから雨を降らせてください』と。
しかし、おそらく、そのオッサンは俺に対してこう答えるだろう。
『誰だおまえ?』と。
つまりはそういう事だ。
つまり〝神〟とは、人智を超えた力を身に着けたモノの事であり、その辺のおっさんでは神足り得ないのだ。だから人は天を仰ぎ、あらぬ方向を見て、神に願う。
なぜなら神を見たことがないから。なぜなら神などどこにもいないから。
BECAUSE, |THE DEATH OF GOD《神は死んだから》
したがって、我々善人が現実的に採れる対処法は〝神に願う〟以外の事になってくる。
それは善人が悪人になる事だ。
善人とは〝善〟い〝人〟と書く。
善い人というのは、他人を食い物にしたり、他人を蔑んだり、他人に危害を加えたりはしない。そんな事をしてしまえば、善人はたちまち悪人の烙印を押されてしまう。他人に危害を加えた時点で、善人は善人でなくなるのだ。さらにこれは不可逆的でもあり、悪人は決して善人にはなれないのだ。
なぜなら罪は罪であり、その量刑の軽重に関係なく、罪を犯した時点で悪人となるからだ。そこから如何に善行を積もうが、その罪を赦す存在である神は、すでに死んでいるのだから。
だが、さきほども言った通り、この世には悪に身をやつさねば、打倒できない悪もいる。人は善人のまま、悪人を裁けないのだ。
それが必要悪。
つまり人は──善人は、そのとき初めて悪人となり、悪人を罰することが出来る。
例えば、人が死ぬほどの重税を、圧政を敷く領主を征伐するため──
例えば、他人の生命を脅かす暴力を働く、凶悪犯を征伐するため──
例えば、今も善人ヅラをしているバカ共を、徹底的に征伐するため──
人は。
善人は。
俺は。
その時、初めて悪人となるのだ。
その時、初めて悪人にとっての悪人──必要悪となるのだ。
勧善懲悪ではなく完全超悪。
それが俺の出した結論。14年と数か月の間、考えに考え抜いた真理。
ただその為にはすこしだけ、ほんのすこしだけ、羞恥を覚悟しなければならないのがツライところだ。
おい、覚悟はいいか、俺。
正義を成す覚悟でも、悪を成す覚悟でもない。
悪を以て、悪を滅する覚悟だ。
「へ~んしん! ジャスティス・カケル!!」