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春花(はるはな)を嫌いな俺は、人として間違っているのだろうか

作者: 帰初心

 清く、正しく、美しく。

 優しく、可憐で、情深く。

 人として素晴らしい。

 明野春花あけのはるはなを表現するあいつらの定型句だ。


 そしておまけのように俺に向けられる敵意。

「人として素晴らしい」人間に共感する人間は心が清く。逆に毛嫌いする人間は、死んだ方が良いくらいのクズらしい。


 この町の連中は明野春花あけのはるはなという少女を過大評価していると思う。


 たかが十にも満たない少女の言動。

 誰かが踏んだ花を見て「可哀想」、落とし物を拾ってもらって「ありがとう」、しまいには笑顔であいさつされただけで、『人として素晴らしい』?


 取り巻きの仕事はこいつの全てを肯定し感激すること。

 それだけで「人として素晴らしい」範疇に、自分も入れたと錯覚できるらしい。


 あほらしい。

 ばからしい。

 おろかしすぎる。


 ――――お前らこそ、一度死んで春花にでも生まれ変わればいいんじゃないのか?






 ……だから俺は。

 校庭の片隅で。

 初咲きの桜をむしり取りとり。

 こいつ(春花)の前で踏みにじる。


冬理とうり!おまえ最低だぞ!」


 小学校の同級生(取り巻き)どもが自分を糾弾する声を聞きながら、念入りによれよれの靴のかかとですりつぶした。

 礼儀悪く座り込み、鼻で笑って見上げてみせる。

 そこには少しだけ戸惑ったような「風」を装う従姉妹の顔があった。


 整った品の良い顔。

 黒目の多い大きな瞳。

 透き通るような象牙の肌。

 ふんわりと笑って見える曲線を描く形の良い唇を、人は愛らしいという。心優しい彼女の心が現れているようだと。

 しかしそれは錯覚だと知っている。


 可憐な唇が開かれた。

「どうしてトーリくんは、桜を踏むの?」

 少しだけ滑舌が悪い、鈴が鳴るような声。


 取り巻きたちは背を押されたかのように嬉色を浮かべて、一斉に俺を攻撃した。

「桜が可哀想じゃない!」

「おまえはひどいやつだな!」

「冬理最低!」

 春花はるはなの友人を自称する同級生は、あくまで優しき少女・春花と同意見なのだと主張する。


 純粋な正義への渇望。

 人として優れない<他者>への優越感。

 学校社会での自己保身。

 日々湧き上がる欲望に悩む中学生たちにとって、祭り上げた「正しく純粋なお姫さま」のお言葉は、共感するだけで自身を肯定できる、よすがとなる。

 流石、俺が心から軽蔑する連中だ。


 立ち上がり、敵意に満ち溢れた卑劣感どもの顔を憮然と眺めた。

「俺が桜を嫌いだからだ。だから潰して何が悪い」

「ひどい! 春花ちゃんの好きな花なのに!」

「はあ? 他人が桜を好きなのと、俺が桜を嫌いなのは、別の問題だろ」


 そもそも、春花こいつは俺に理由を聞いただけだ。

 なぜ花を踏み潰したのかと。

 あいつに他意はない。本当に何も感じていないのだ。


 眼鏡をかけたガリガリ女がもう許せない、と一歩前に出る。

 春花そっくりの髪形にしているあの眼鏡。

 確かあいつの家は分家の中でも先代当主の弟のひ孫くらいの遠い分家だったはず。名前は忘れたけど。

 ……まあ眼鏡でいいや。


「春花ちゃんが優しいからって、たかが従兄弟の分際で図々しくない!?」

「それはおまえらのことだろう? ただの遠い親戚だけのくせに。勝手に付きまとって親友宣言して恥ずかしくないのか?」 

「それはっ」

 眼鏡は羞恥で顔を赤くする。

 本当はコバンザメと言ってやろうかと思ったが、あまりにも哀れなので口を閉じた。


 必死に春花を振り返り、縋るように視線を送る眼鏡。

 春花は微笑む。

 太陽の下の花びらのような透明感すら感じさせる、美しい造作だ。

 張りぼての美しさに自分のアイデンティテイーを取り戻した取り巻きは、ほう、とため息をついた。

「春花ちゃん! 私たちはお友達よね!」

「ええ、お友達よ」

 返答する春花。


 春花はいつも優しく言葉を返す。

 その人の欲する言葉をそのままに。


「ほら! 冬理あんたは何でもバカにしてばかり。人として心がねじ曲がっているのよ! この明野の恥さらし! みんな帰りましょう!」

 勝ち誇る眼鏡。

 陽光に煌めく分厚いレンズ。

 彼女は春花の細い両肩をむんずと掴んだ。

 俺を指さし、下賤な人間から離れるように催促する。

 分家といえども眼鏡だって明野家の縁者。取り巻きたちは頷き合って去っていった。


 校庭に一人。

 俺は埋め尽くすように咲き誇る桜の並木を見上げ、ひらひらと散る花びらを眺めていた。


「春の花は嫌いだよ。特に桜なんて最悪だね」

 人の目を楽しませるだけに品種改良された花木。

 一気に美しく咲かせた途端に力尽き、散っていく。

 桜なんて。

 どんなに華やかな花と謳われても、所詮の他人のために咲く、自分のかけらもない花だと思う。

 まるで自分の父親のような――――。






 明野春花あけのはるはなは正真正銘のお姫様である。

 この町の有力者である明野家本家の一粒種。


 明野は遡れば旧華族の血筋にたどり着く。

 父は次期当主。母は地元銀行の頭取の娘。何不自由なく育った彼女は外見の愛らしさもあり、一部おれを除いて全ての人から愛されている。

 特に現当主である祖父の溺愛が半端ない。


 ちなみに街の名前は明野町である。

 都市からは遠い、過疎が進む小さな山間の町だ。

 特産は明野織という伝統織物である。独特な絣模様を持っていて、国の重要無形文化財にも指定されている。

 儲かるものではない。

 だがアパレルの世界での評価は高く、赤字にもならない。

 太客と地方の狭い商習慣の中で、細く長く、連綿と続いてきた。

 まるで明野一族の支配のように。


 明野家とは明野織の職人を取りまとめる明野紡績を経営する一族でもある。海外や国内からの受注を受け、町中の下請け工場に仕事を発注する。

 一族経営にしては珍しく、代々優れた経営者を輩出することができた。おかげで、戦前戦後や不況の折でも生産を減らしたことはない。


 ……彼らは今でも、町の支配者なのである。

 そして、春花への期待は半端なかった。





 一方の明野冬理あけのとうり――――俺の立場はかなり微妙だ。


 半分隠居しているような現当主には、息子が二人いる。

 一人が長男である次期当主。春花の父親だ。

 次男は俺の父親であり、俺の血筋は直系に近い。

 ただし次男である父は……この一族において前科持ちだった。


 罪名は駆け落ち。

 しかも大学生の時だ。身元不詳(自称芸術家だったそうだ)の年上女性との間に子供ができ、父母の反対の末に逃亡。

 しかし生活能力の低い坊ちゃんだった父は、貧困生活の末に駆け落ち相手に子供ごと捨てられ、最後には体を壊して実家に頭を下げて戻った。


 手遅れになるまで悪化した病気をかかえた父。

 辛うじて少ない財産と小さな息子を連れて実家に戻ると、そこには「明野の恥さらし」という称号が待っていた。


 だがもう安心しろ、親父。

 恥さらしの称号は俺のものだ。

 安心して眠ってほしい。

 夢見るように笑っている、学生の頃の写真の父親の遺影に手を合わせ、小さな離れから外に出た。


 夕暮れ時は、太陽が死にかけているような暗い赤を世界に醸す。

 歩きながら首のネクタイを締め直した。

 当初着慣れなかったスーツもやけに多い行事に強制参加させられるようになるたびに着こなせるようになった。

 今日は濃灰のスーツ。

 祖父から「明野の男として恥ずかしくないように」といただいた紺色の明野織のネクタイを合わせ、首輪をつけられた気分になる。

 足取り重く、たどり着いた先は明野本家の庭園だ。


 歴史ある桜の大木が数多く咲き誇る日本庭園。

 五歳の頃に来てから八回目の満開の桜だ。

 そこには一族と、一族に縁の深い関係者が集められていた。桜咲く時期に行われる本家主催の園遊会が行われている。


 当主の伴侶は鬼籍に入って久しい。

 だから現在は長男の嫁、つまり俺の伯母が取り仕切っている。


 緋色の織物で飾られた茶席の数々。

 金・銀・赤の派手な和装を纏った、目鼻立ちのはっきりとした迫力美人が、人々の中心になっている。化粧の濃いあの伯母は、本日も目立ちたがりである。


 周囲に侍るのは分家や明野紡績取引先の妻たちだ。

 自分の家のために必死にお追従をしている。

 中には眼鏡の母親も混じっていた。


「奥様、今年の桜も見事に咲きましたね!」

「皆様が明野のために頑張ってくださるおかげかしら。のんびりと楽しんでくださいね。うちはこれくらいしかおもてなしできませんけど」

 言葉と裏腹に、伯母の目は笑っていない。

 常に敵と味方を区別しようという零度の視線。

 とうに気がついている女性たちは、空気を張り詰めさせながらもへこへこと必死にお辞儀を繰り返していた。


 案の定。

 伯母の旦那――――次期当主はこの場にいない。

 仕事にかこつけて愛人たちのところにでも行っているのだろう。テーブルの上を見ると並べられた洋酒が有名ブランドばかりだった。

 伯母の鬱憤は、今日も見栄と同性へのマウンティングで晴らされる。


 俺は近くにいた穏健派の親戚に一声かける、会場の端に逃げることにした。


 ふと。背中にねとりとした視線を感じる。

 ああ、またか。じっとりとした嫌な汗が流れる。

 伯母に『あの人の若い頃に似てきたわね』と言われて以来、まとわりつく不快感が消えることはない。


「あ、冬理! あんたも手伝いなさいよ!」

 眼鏡のヒステリックな叫び声が聞こえたが、無視だ。

 





 庭園の奥に逃げ込む。

 ひときわ大きな桜の古木が乱れ咲く、隠れた場所。

 うねる古木の腕はどこまでに執拗に天を求め、絡み合い、複雑な幹を形成している。花は濃密に咲き誇り、空気を圧縮するかのように花びらを散らしていた。

 木々の間からは、うっすらと星明りが見え始めていた。


 明野の先祖は、この古木に魅入られたがゆえに定住を決め、屋敷を構えたそうだ。

 あまりの花の美しさを、子々孫々永遠に見つめていられるようにと。


 古木の根元には小さな池がある。

 池の鯉でも眺めて居ようかと立ち寄ったそこには、春花がいた。






 彼女は背中を丸め、膝を抱えるように池をのぞき込んでいる。

 明野織で仕立てられた薄藍色の着物。白に近い古風な柄だ。確か春花は祖母の愛用の品を祖父に譲られていると聞く。

 桜に合わせた明るい縹色の羽織を肩に掛けているが、あまりにも大人向けの色合いすぎて、とても「明るくて優しいと評判な」女子中学生向けの着物には見えなかった。


 赤、白、黄色。

 色とりどりの錦鯉が泳ぐ水面に、彼女は自分の顔を映している。

 表情は、ない。

 近づこうとして枯れ枝を踏んだ。

 だけど彼女は振り向かない。


「じいさんの世話をしなくていいのかよ」

「おじいさまは銀行の対応で忙しいわ。少し抜けさせてもらったの」

襟元が少し乱れていた。俺は見なかったふりをして、春花に訊ねる。

「なあ春花。おまえ、本当は桜が嫌いだろ」

「……」

「ばあさんが好きだった花だしな。そしてじいさんは頭がおかしいほどばあさんが好きだった。お前が見た目だけ若い頃のばあさんに似ちまったのは、気の毒だと思うけどさ」

「……」

「マザコンの伯父さんといい、ばあさんは桜の精だったのではと思う時があるよ。どっちかというと、魔性の」

「……」

 伯父の愛人は全員、生前の祖母に顔が似ている。

 町では有名な話だ。

「俺の親父も思い込みが激しいタイプでさ。恋に恋したというか、一途すぎたというか。本当にみんな馬鹿だよな」


 明野家の連中は外面がとにかく良い。

 だけど人としてはどうなのだろう。

 (母親は、本当に自分と父を捨てたのだろうか)

 なぜか幸せそうにさっさと死んだ親父の真意は謎のままだ。

 

 この世にないものに恋狂い。

 人の道をあっさり踏み外す。


 俺は池に自分の顔を映した。

 狐目のきつい顔立ち。伯父にも似ているが、まだ母親の面影を残している。

 ……だからこそ、明野にずっといるつもりはない。

 早く大人になって自由を手に入れる。

 俺は、俺の思う「人としての」生きざまを信じているのだ。


 黙ったままの春花。

 水面は淡い桜色のゴミが浮かんでいた。

 椋鳥に根本ごとちぎられた桜の花。死んでしまえば、どこまでも醜いゴミに過ぎない。


 俺は呟いた。

「おまえ自分の意見を絶対言わないよな。他人に勘違いさせて、いつも安全圏にいてさ。そういうとこが大嫌いなんだよね」

「そう」

「俺の父さんは馬鹿だったけど、正直だった。できない人間なりに強権のじいさんに反発して、初恋に殉じて騙されて。しょうもない子供育てて。でも心からやりたいようにやってた」

「そう」

「おまえさ、一体何したいの? ずっとばあさんみたいな女を目指して、このままじいさんに手を出されるつもりか? 母方のじいさんばあさんはおまえの味方だろう? さっさと逃げろよ」


 春花は答えない。


「それとも何。おまえが助けを求めないのは、助けてくれる人をえり好みでもしている訳? 王子様は素敵じゃないとー、とか」

「春花」


 太い枯れ枝を踏みぬいた音と共に、低音の美声が下りてくる。

 現れたのは四十をとうに超えているというのに、今だ三十を少し過ぎただけにしか見えない、長身の男性だった。


 ……娘を探しに来たのだろう。

 伯父は俺を視界に入れると、繊細で整った美貌を顰めさせた。あえて俺を空気にして春花に声を掛けた。

「父さんが呼んでいる。そろそろ茶会の席に戻ってくれ」

「はい、お父様!」


 春花の雰囲気が変わる。

 桜の鼻緒を直しながら立ち上がり、嫋やかに父親に笑いかけた。

 その瞳は潤み、まるで夜露に濡れた桜の花弁が開くかのように、艶麗だった。


 褪せた花びらが、唐突に色を帯びた。

 俺は肌が粟だった。

 彼女が横を過ぎ去り際にふと、濃厚な夜の香りにあてられた。鼻を刺激するものではない。多分それは、本能が危険だと察知したのだ。


 自分のことしか興味のない父親は、義務的に我が子を連れて行く。

 しかし、しずしずと付いていく娘の背中は、恋というには重すぎる何かが纏わりついていた。


 ……ああそうか。

 そういうことか。

 春花はこれからも、親の元で、理想の花であり続けるつもりなのだろう。

 だけど。


 ……俺は満開の花の下で、まったく動けなくなってしまった。






 互いに十五歳となり、春花は町立の女子高に、俺は男子高に進んだ。

 地方では男女共学校を格下と考える。

 男女の役割に対する古い価値観は、偏差値にも如実に現れていた。


 春花はさらに美しくなった。

 桜の花もかすむような清楚な雰囲気をまとい、異性の取り巻きも増えていった。 眼鏡は相変わらず眼鏡だ。まごうことなき眼鏡だ。

 そう指摘する度にいちいち噛みついてくるのが面白い。


 俺といえばますます目つきが悪くなった。

 勉学は元々得意だ。だけど気に障ることがあれば誰にでも噛みついていくので、「明野の恥さらし」はやがて「明野の狂犬」と変化した。

 意見が間違っていると思えばだれであろうと盾突くし、論破する。

 感情を害された大人により、冤罪に陥れられそうになったことは数限りない。

 夜の街でヤクザにスカウトされたこともある。


 祖父は問題を起こしても全国模試で一桁をたたき出す孫には、何も言わなくなっていた。

一方、伯父からの心象は悪化した。

 伯父は昔は神童として有名だったらしい。しかし自分より劣っていた弟の息子が、自分よりも才能があると知ると冷たく当たるようになった。

 伯父は祖母に成績で褒められるのが生きがいだったそうだから。


 一方で伯母はご機嫌だった。

 俺を何度も母屋に呼びだした後では、お手伝いの人たちに優しいとなぜか俺が感謝された。


 そんな折。

 祖父は体調を崩しがちになった。

 気弱になったのか、春花を平日でも呼び出すようになる。

 しかし春花は断らない。学校では「おじい様思いの素晴らしい方」とお墨付きをもらいながら、粛々と祖父の元に赴いていた。


 母屋の廊下でばったり春花に出くわした。互いに学生服だ。

「春花」

「トーリ君?」

「じいさんはもう寝た。伯母さんも体調が悪いみたいだから、もう学校に戻って良いってよ。さっさと帰れよ」

 俺が乱れた学生服のボタンを直しながら真正面から春花を見つめると、普段感情を見せない彼女の目の奥が、少し動揺したようにも見えた。

「だから、帰れよ」

「うん……」

 逡巡したのち、去り行く黒髪。

 俺は微かに残った残り香を感じながら、遠く桜が散った庭園を眺める。

 花びらが一面を覆い、地面が汚くなっている。


 ああ、ゴミだな。

 本当に、みんな、ゴミだ。


 でもようやく来年が来る。大学受験ができる。家を出ていける。

 それだけが救いだった。






「ちょっと冬理! どういうことよ。あんたの進学先、医学部じゃなかったの!?」

「……なんでおまえが動揺するんだよ」

 眼鏡が離れに飛び込んできた。

 一人暮らしとはいえ、この建物は一応本家の敷地内に建っているのだが。

 ちゃぶ台の上で参考書を開いていた俺に、眼鏡はずかずかと敷居をまたぐ。

 ずずいと近づく眼鏡のフチ。

 ガリガリなのも眼鏡なのも、春花の髪と同じ長さにしているのも変わらない。少しだけ前髪が短くなったところが、やつの成長と言えるだろうか。


「だって私の進学先看護学部だし! 親戚で同じ医療系で心強かったのにー! しかも医者! 医者って食いはぐれがなくて美味しいって言っていたじゃない!」

「そんなことも言っていたな」

 しかし……こいつのパーソナルスペースの読めなさはむしろ天才だ。

 将来の仕事にも役立つだろう。

「なんで理学部なの!?」

「別に興味あることができただけだから。それに生活費全部出してもらえる特待生だからね。ようやくここを出られるよ」

「あ……」

 気まずそうに黙る眼鏡。

 昔分家としてさんざん虐めた自覚はあるらしい。

「でも。春花さんは、地元で進学するよ……?」

 最近春花を「さん」付けし始めた眼鏡は地元の看護大学に入学する。

 多分明野の関係者が多い総合病院にでも就職するだろう。

 それにしても……同級生たちの、俺と春花に対して気を使っている感はなんだ。

 訳が分からん。

「知っているよ。春花が決めたことだ。そして俺は自分がしたいことをするだけだからな。そもそも俺は医者には向いてない」






 再び桜が咲き、大学の合格通知が届く。

 祖父は鬼籍となった。

 しかもなぜか伯母が後を追うように寝込むようになった。

 四肢が思うように動かず、流動食の日々だそうだ。


 そして伯父は、順当に明野の当主となった。

 彼の当主としての最初の命は、俺の縁を切ることだ。


「【山田やまだ冬理とうり。おまえは明野の出来損ないですらない。異物だ。弟の遺言で仕方なくおまえを養っていたが、もう義理はなくなった。DNA鑑定もクロ……分かっているな? 明野から出て行ってもらおう」

「ありがとうございます」


 広間の上座にいるのは町の権力者。

 会社は順調に業績を伸ばし、地元で逆らうものはいない。

 どこまでも狭く暗い、淡い花びらのゴミに埋もれた明野という世界の支配者だ。


 俺は頭を下げた。

 そして明野を追放された。


 ……まあ、父が惚れた母親は、真のクズだったということだ。

 他の男の子をはらんだまま、純粋なカモと、ついでに明野の財産も狙っていた。

 しかしこうして生きながらえて育ち、勉強もさせてもらい、将来の見通しまでできるようになったのだから、祖父や伯父たちには感謝するほかない。


 俺は本家の門を出る。

 角を曲がると、電柱の横に春花が立っていた。

 明野織で作られた白いワンピースが、すんなり伸びた足によく似合っている。


 俺は皮肉気に笑いかけた。

「羨ましいだろう。俺は親父の息子じゃなかったんだ」

「……」

「まあ、それでも親父に<子供>として愛されていただけ良かったけどな」

 春花は黙ったままだ。

「じゃあな春花。やりたいようにやれよ。俺もそうする」

 何も言わない視線を背に、駅へ向かっていく。


 そして三日後。

 <食中毒>で伯母は死んだ。


 大学院を卒業し、就職にこぎつけて五年。

 ようやく面倒な人間関係に慣れてきた職場で、俺は染料の研究を進めていた。

 近年急増しているアレルギー疾患に合った会社の化学染料は、天然染料を中心に使っている伝統繊維産業の中でも引き合いが多い。

 アメリカの国立研究所からも協力要請が来るほどだ。

 残業三昧だが、給料もそれなりに多くて満足だった。


 明るい夕日の春めく陽気の中で、珍しく定時退社して自宅マンションに帰ると、エントランスの前に見知らぬ女が立っていた。

 短い黒髪に、明るい山吹色のワンピース。かかとの高いミュールに、真っ赤なマニキュア。

 大きな涙袋が特徴的なたれ目の女。


 訝し気に見つめていると、彼女はずずいと顔を近づけて甲高く叫ぶ。

「冬理! ようやく見つけたわよ!」

 この不快な声と他人のパーソナルスペースを一切無視する感じは……。

 まさか、眼鏡か!


「いい加減名前を覚えなさいよ! 私にはちゃんと夏芽なつめって名前があるのよ! 本当~に人としてどうかと思う発言のオンパレード男よね! そもそも人を身体的特徴で呼ぶのはセクハラよ!」

 相変わらず意味なく偉そうな夏芽は、俺に早く明野の本家に向かうよう急かしてきた。

「当主様が急病で亡くなったのよ」

「……へえ。俺はもう関係ないが」

「それが大いに関係あるのよ。遺言書を見たら明野紡績の後継者が後妻さんじゃなくてあなたになっていたの」

「はあ!?」


 晴天の霹靂だった。

 俺を無理やり派手なスポーツカーの助手席に乗せ、車を速やかに走らせる夏芽。

 看護師として隣町の診療所に勤めているという彼女は、長い爪でカツカツとハンドルを叩きながら状況を丁寧に説明してくれた。

 なんとも納得のいかない内容だったが。


「後妻と愛人の容姿が老けたら、母親の面影がなくなったから嫌いになって? それが原因で夫婦仲が悪化して、むしろ仕事のできる他人の方がましだと思ったあ!?」

「明野の本家は大混乱よ」

「保険に俺を養子にしておくって、おいおいおい」

 本当に母親以外はどうでも良かったのか、伯父さん。

 頭が痛くなってきた。


「それにしても、なんでまた桜の季節に……」

「あんたは桜を嫌いだものね」

「ああ嫌いだよ。桜にはろくな思い出がない」

「私も嫌いよ」


 思わず夏芽の横顔を見た。

 眼鏡はもうない。髪も濃茶色だった。


「あの町も。一族も。春花さんも。みんな嫌い」


 明野の町にたどり着く。

 十年ほど離れている間に、また過疎化が進んだようだった。シャッターの下りた商店街は閑散としている。

 本家の門をくぐり、不安と怒りを浮かべた分家の連中に迎え入れられた俺は、当主の座に座る後妻と愛人と、その子供たちを見た。

 般若の表情を浮かべて俺を視線で射殺そうとしている。それはそうだよな。

 後妻たちのそばには白い服を着た春花。変わらずの清楚な美しさのまま、静かに後妻に従うように座っていた。


 分家筋の、眼鏡が光る弁護士から差し出される戸籍謄本。

 俺は祖父の養子に入らされていた。いつのまに……と頭がさらに痛くなる。


 当然この問題は夜遅くまで紛糾した。

 後妻と愛人のつかみ合いを何度も治めて、継承放棄の依頼をすると後妻に権利を分けたくない親戚どもが怒りだす。

 あまりにも混乱した場は、弁護士の仕切りにより明日再議まで持ち越された。


 金の亡者からひたすら逃げ、俺は庭園奥の池に逃げ込んだ。

 誰も来ていない。

 座り込んで深い息をつく。

 数は減ったが悠々と泳ぐ錦鯉たちを眺め、古木に背を持たれて眉間の皺を伸ばしていた。


「冬理君」

 後ろから聞こえたのは、人とは思えないような、微かな声。


 振り向くと春花がいた。

 満開の夜桜の下に立っている。

 透明感のある美しさはさらに艶を増していた。

 肌をなでるような濃厚な香りが、桜から降りてくる。

「ごめんね。面倒に巻き込んで」

「あ、いえ……いや! いやいやいや。本当に面倒だよ。さっさと俺を解放してくれよ」

「うん。後妻さんを落ち着かせたらすぐに弁護士さんと対処するから。……その前に、少し私の話を聞いてほしいの」


 彼女は俺の横に座った。

 すると小さなつむじが見下ろせた。

 あれ。

 こんなに彼女は小さかったっけ。

 ふと、隣にいるのは桜の精ではなく――――生身の女性なのだと気が付く。 

 そんなことを考えていたら、沈黙が相当長くなっていることに気が付かなかった。

 彼女はなんども口を開き、閉じ。

 やがて少し荒れた唇から、吐き出すように告白をした。


「私ね。汚いの」


 伯父は家庭を顧みない男だった。

 唯一の存在は美しかった母親だけ。それ以外の女は自分に尽くすためにある。

 伯母は、そんな伯父に女として受け入れられたくて、姑に似た子供と距離を置いて荒れていた。

 そして娘は、母のあがきに同情することはなかった。

 あるのは同性に対する嫌悪感だけ。父親の愛が欲しい彼女には、鏡を見るように、愛を求める母の姿が醜く見えた。


「愛されたいの」


 ……だから自分こそは、どんな手を使ってでも、愛されたかった。

 だから唯一である祖母を追った。桜を追い、言動を真似し、年々頭がおかしくなっていく祖父に狙われると知っても、それ以上に。

 父親に執着されたかった。

「これは恋だと思っていたの」

「……」

「……恋って何なのかしらね。執着との違いが分からないわ。私は本当に恋をしていたのかしら」


 春花はいつしか母親を嫌った。

 桜を嫌った。

 やがて自分を嫌っていった。


「春花」

「私は、私の欲望を暴こうとする冬理君が嫌いだった。正直で、素直で、馬鹿で。身勝手な私の行動のために、体を張ってまで私を救おうとした……知っているのよ。冬理君が私のためにしてくれたこと」


 夜桜が散る。

 水面に落ちる花が池を埋め尽くしていく。

「冬理君なら……。お医者さん。なって欲しかったわ」

「無理だよ。医者は人を生かす仕事だからね」

「……なんで染色の研究をしていたの?」

「なぜだろうね。研究室で先生に薦められて、断らなかった」


 月が花霞に隠れていった。


「……多分、君の着ていた明野織が綺麗だったから、だろうな」


 夜桜が散り足元を埋め尽くす。


「お父さんの死因も、食中毒だったの。夏芽さんに聞いた?」

「聞いたよ。たぶん伯母さんと同じ食事だったのだろうね」


 艶を帯びた、清楚をかなぐり捨てた花びらが、二人の男女を覆っていく。


 春はあけぼの。

 桜は春花はるはな

 

 そして春花が好きな俺は……たぶん。






 人として間違っているのだと思う。

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― 新着の感想 ―
[一言] 主人公と伯母の関係って当て付けでいいの?
[一言] とても面白かったです。 少し疑問に思ったのは、主人公が春花を好きになった理由ですかね。描写をふやかして想像を掻き立てられる所が多かったのですが、主人公だけが物語の外側にいる感じが付き纏いまし…
[良い点] 人間の怖くて汚い部分を拒否感なく読めたとこ [気になる点] お馬鹿なので 矢鎖の意味が検索してもわからんとでした たぶん本編に何の影響もない部分ですが…… 食中毒も、どこまでの範囲になる…
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