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09


 ざあざあと激しく雨が降り続いていた。

 邸に戻ってきた途端、乱雑に床に投げ出されたヘルミナは痛みに呻いた。戻ってくる間中、逃亡防止のためか馬車の中でも抱き抱えられたままだったので、互いに服はびっしょりと濡れている。アゼルはヘルミナの部屋ではなく、アゼル自身の私室にヘルミナを投げ入れたので、ヘルミナには逃亡する機会も猶予も与えられなかった。

 雨に打たれたせいか、それともその後にアゼルに受けた辱めのせいか、身体が酷く冷え切っていた。だが、床に蹲るヘルミナを見下ろす冷酷な視線はこれ以上はないというほどに冷えた身体の温度を更に内側から下げていく。弁明の余地なく打たれるのだろうと予想して諦めていたが、アゼルはいつものようにすぐヘルミナに暴力を振るうことはなかった。


「アレの処分は何がいい」


 問うというよりも、詰問するような圧だった。起伏のない平坦な声の言う、あれ、という言葉に一瞬困惑しかけて、すぐにヴィンセントのことだと思い至る。

アゼルはヘルミナが、彼以外のことに心砕く様子を見せることを酷く厭っていた。この邸に極端に使用人がいないのもそのせいだ。どこまでもヘルミナを自分にとっての都合の良い、彼以外に目を向けることのない存在でいさせたいのか、アゼルはヘルミナの心の拠り所となり得る者を端から遠ざけていった。義務的なものであろうとヘルミナが他人と話すことを許可せず、悪い時は目が合っただけでも罰される。ヘルミナが連れてこられる四年前までは他に彼の傍に仕える者もいたはずなのに、アゼルはどこまでもヘルミナを孤独に追いやる。

――――ヘルミナがヴィンセントを庇ったことが気に入らないのだ。

まだ幼い子どもが理不尽に処罰される姿を思い浮かべ、ヘルミナの背筋にぞっとした震えが走った。


「あの子はまだ十四です! 罰は、どうか私だけに……っ」

「関係ない。お前は十四の時には既に男を誘った」

「……あっ貴方が、勝手に欲情しただけじゃない……っ!」


 無理矢理組み伏せられて花を散らされた時のことを言われているのだと理解して、ついカッとなってしまった。怒りに震えて言い返した後、瞬時に青くなる。だが、アゼルはそれには反応せずに、ヘルミナを見下ろしながら短く問うた。


「何故許した」


 アゼルは珍しく、まだ鞭に手をかけてもいなかった。まるで、そのことよりも重要なことがあるとでもいうように、どこか自分自身でその感情を抑えつけているような空気さえあった。今にもヘルミナを激情のまま嬲りたいのを、紙一重のところで留まっているような、触れれば切れるような恐ろしい雰囲気。

 常に一定の仄暗さを抱えた瞳で、ヘルミナを真っ直ぐに射貫いている。


「アレがカイルに似ているからか」


 そこまで言われて、先程のヴィンセントの口付けのことを言っているのだと気がついた。だが、そのことについて何かを思うより先に、ヘルミナは彼が発した名に固まっていた。

 アゼルは、滅多に人の名前を呼ばない。ヘルミナのことも、カイルのことも、名で呼んでいるのを聞いたのは片手の数で収まる回数だった。だが、名を呼んだことに驚いたわけではない。ヘルミナは、彼の口から――――他ならぬ、今のヘルミナが世界で誰よりも恐怖し、嫌悪し、忌避する彼の口から、死して尚自分にとって最愛の兄の名が出たことを許せなかった。何故か理由は分からない。とにかく、何かとても大切な心のうちに土足で踏み入ってこられたような、心の拠り所として守り続けた記憶を踏み躙られていようとしているような、燃え立つような怒りがあった。


「兄様、貴方の私への扱いは、カイルにいさまへの当てつけです……」


 アゼルの瞳の奥に訝しげな色が過った。ヘルミナが何を言うのか探るように、兄と呼んでいることにも黙っている。もしかしたら、今まで彼が折檻をする間、啜り泣く以外の反応をろくに返してこなかったヘルミナが言葉を返したことに驚きがあったのかもしれない。そう、ヘルミナだって、本当は喋れるのだ。意思を持った人間なのだから。この情を解さない非道な兄には、自分以外の人間に対する配慮を持たない兄には、絶対に分からないことなのだろうが。


「貴方はカイルにいさまが嫌いだった。だから私に辛く当たる。カイルにいさまのものだった私を奪おうとする。自分があの人が持っていたものを持たないことが、劣っているように思えて許せないから。ただそれだけです」

「違う」


 即答だった。また常と変わらずに淡々と冷えた口調で、口答えをしたことを罰せられるのだろうと予想していたヘルミナは、どことなく予想と違う反応に僅かに動揺を示してしまった。アゼルは眉を顰めて、普段は少しも動かない表情を珍しく不快げに歪めている。微かな変化だったが、常の傍若無人なアゼルのことを思えば、会話が成り立った時点で驚くべきことだった。


「お前に目をつけたのは私が先だった」

「えっ、え? い、いえ、でも、貴方は、カイルにいさまを嫌って……!」

「嫌い? 嫌いなどという感情ではない」


 一歩、一歩、上質なカーペットに吸い込まれて靴音はしないのに、威圧感のある歩に座り込んだまま後ずさる。ドレスの裾を踏みつけられて縫い止められ、見上げた先の無表情に、ひ、と喉奥から小さな悲鳴が零れ落ちる。先程までの怒りが瞬く間に萎んで、恐怖に塗り替えられていった。そもそもヘルミナは、あまり人に対して激しい怒りを持続させることが得意ではないのだ。


「そんな生易しいものじゃない。憎悪していた」

「……そ、それ、は……」

「だが、死後はどうでもいい。なにも思わない。お前がアレのことを思い出さない限りは。この家の血は皆そうだ。たった一人以外、どうでもいい」


 おかしい。先程から何か、会話が致命的なまでに噛み合っていない。薄らとした感覚はすぐに嫌な予感へと変じて、ヘルミナはドレスの裾を縫い止められたまま、座り込んだまま動けずにどこか茫然とした心地でアゼルを見上げていた。

 この男は、一体誰なのだろう。アゼルからこんな言葉を向けられたことはない。こんな、何か見てはいけないものを露わにされているような、狂おしくも激しい激情を湛えた暗い瞳で、見つめられたことはない。なかった、はずだ。


「お前は私の番になるはずだった。だから誰にも手を出させなかった。それを、家での立場を傘に奪い取ったのはアレのほうだ」


 常から抑揚がなく、平坦で淡々としているアゼルの声に、今は何故か僅かな感情が滲み出ていた。語気が極端に強くなっているわけでも、声が怒りで震えていたわけでもない。この男はこういうふうに話すようにしか作られていないのではないかというほど人形のような無機質さの裏に、背筋が総毛立つような何かがある。その、何か、をヘルミナは上手く言い表すことができない。


「だが、どちらにせよ、お前はもう私のもの。そう、正式に私のものとなる」

「な……なに、を……」


 心臓が激しく脈打っていた。何を言っているのかわからなくて泣きそうになる。吐息のように弱々しい音で、ヘルミナが喘ぐように問いかけると、アゼルが不意にドレスの上から足を退けた。そのままいなくなってくれたら良かったのに、ヘルミナの内なる希望はいつも叶えられることはなく、アゼルは無理矢理ヘルミナを立たせると真っ直ぐに寝室へと向かっていく。


「い、嫌! いやぁっ……!」


 その先に良い思い出は一つもない。必死に足を突っ張って拒絶したが、当然のように無駄だった。常にないほど乱暴に寝室の扉を蹴り開けたアゼルは、だがそこで常とは異なりヘルミナを放した。その瞬間、急いでアゼルから離れて部屋の反対側の壁に寄ったヘルミナをアゼルは追わなかった。どこか苛立たしげに雨に濡れた外套を脱ぐ男を、ヘルミナはガタガタと震えながら為す術もなく見つめていたが、やがて振り返ったアゼルが一枚の紙を投げて寄越した。


「……?」

「読んでみろ」


 ひらりと目の前に落ちた一枚の紙。怖々と警戒しつつも、床に落ちたそれを拾い上げて視線を落としたヘルミナは、最初、何が書かれているのかよくわからなかった。文字が読めなかったというわけではない。自分の名とアゼルの名を記したその紙の示す内容が、何かとても現実離れした悪夢にしか思えなかったからだった。


「な、なんで……」


紙には、『結婚証明書』とあった。何度見返しても変わらない。

アゼルと、そして見慣れたヘルミナ自身の名前。ただし、ヘルミナの性だけは、本来ならアゼルと同じであるはずのものが知らない家名に変わっていた。

それは間違いなく、ヘルミナと、アゼルの婚姻を王の名において正式に認めるものだった。混乱に拍車をかけたのは、その王の名だ。それは、今代の王ではなかった。今はまだ皇太子である王子の名が、王として騙られている。

 あり得ないことだった。何もかもが、あり得ざるべきことだった。アゼルの意図がわからない。それに、だって、ヘルミナとアゼルは、実の兄妹なのに――――。


「お前を同行させた、先日の淫宴」


 ヘルミナの混乱を極めた思考を止めたのは、アゼルの静かな声だった。壁に背を貼り付けんばかりに後退して、恐慌を湛えた瞳で彼を見るヘルミナに、アゼルが何気ない所作で近付いてくる。ヘルミナが取り落とした紙を拾って、回収していく。それをただ見ていることしかできない。


「あの場に入り浸っている放蕩皇太子の認可を得た。王の位に私が就けてやることと引き換えに、お前に新しい身分と、私との婚姻を、と。そういう取引だった」


 許容外の情報を立て続けに得て、今にも思考停止しそうだった。

 アゼルの言葉自体は単純だ。あの夜、アゼルはお忍びで訪れている王子との密会のためにあの場に行った。王子を王位に就けることへの見返りに、ヘルミナの籍を生家から抜き、情報を書き換え、正式に自分の妻とできるよう取り計らってもらった。そう言っている。それはわかる。いや、わからない。どうしてアゼルがそんなことをしたのか少しもわからなかった。

 アゼルは特別に野心家というわけではなかったが、才ある者の避け難い運命のように、政治に関わる立場にあった。若さ故に出世のための功に逸ることもなく、飛び抜けた優秀さで内政権を掌握しはじめた有力貴族の青年。その肩書きは決して間違いというわけではなかったが、アゼルはただ優秀なだけではない。彼の優秀さは、何ら執着する希望を持たず、自身に敵対する政敵を排することに容赦せず、必要とあらば何であれ即断のもとに切り捨てることのできるその非人間的な合理性にある。

 そのアゼルが、たかが紙切れ一枚に?

 たったそれだけのために、公になれば王位簒奪の疑念すら抱かれる取引をするなど、信じがたいことだった。それに。


「な、なぜ……なぜですか……? そんな……だって……」


 ヘルミナは混乱しきっていた。頭を抱えて蹲りたくなる。

 アゼルがヘルミナを妻に据える理由などない。何の利点もなければ、実の兄妹という本来の立場から考えれば、公になった時に大きすぎる醜聞だった。ヘルミナが社交界にさえ出ていない、実際の姿を知る者がほとんど存在しない影のような存在だとしても、血の繋がりは真実だ。本邸で密やかに公然の秘密であった、兄妹達の交じり合いとは決定的に異なる。ああやって、腕と脚を絡ませ合っていた彼らも、そのほとんどが既に家を出て、妻を娶るか嫁へ出ている。あんなことは、立場を考えれば、外で続けられることではないのだ。


 アゼルは、顔色を完全に失い、譫言のように彼に問いかけるヘルミナに、だがもう何も言わなかった。

 まるで、ヘルミナ自身がその答えに辿り着くのを静観しているかのように、ただ黙って見下ろしている。なんで、どうして、そんな、と泣きそうになりながら小さく呟き続けるヘルミナの腕を取り、引き寄せる。恐怖と混乱に瞳を彷徨わせるヘルミナの赤い瞳に――他ならぬ彼との繋がりを示す証であるその瞳――美しい悪魔のような、アゼルの姿が映る。そっと触れるように唇を押し付けられたかと思ったら、何度か角度を変えて吸われ、腫れぼったくなってきた頃に、唐突に下唇を噛まれた。痛みに迸りかけた悲鳴も、合わさった口の中に吸い込まれていく。

 散々に舐められ、噛まれ、弄ばれた唇は、血色良く色づいている。やっとの思いで口付けから逃れたヘルミナは、喘ぐように息をしながら、潤った瞳で兄を強く睨んだ。だが、やはり、唇から零れ落ちた言葉は震えていた。


「神がお許しにはなりません……お母様だって……」


 アゼルは答えない。ただ、ヘルミナの言葉に静かに目を眇めてみせて、その後は無言でヘルミナを自身の寝台へと押し倒した。



ヘルミナ達の母が急死したという報せが届いたのは、その翌日の朝のことだった。

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