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08



 今日のアゼルの用事は本邸へ向かうことだったらしい。

 四年前にアゼルに連れ出されて以来、ほとんど戻る機会のなかった屋敷に向かっていることに道中の景色で気がついてから、ヘルミナは近付くごとに自分の中で緊張が増していることを自覚していた。

 ヘルミナ達の母は、四年前のあの日以来、精神に不調を来たして本邸から居を退き、遠方で療養していると聞いていた。丁度、体の弱かったカイルが一年のほとんどを別宅で過ごしていたように、今の母も滅多に本邸に戻ってはこないのだという。ヘルミナは、道中の場所の中でその彼女が今、本邸へ戻ってきていることをアゼルから聞いた。


「あの女への用向きだ」


 すぐ済む、とだけアゼルは素っ気なく続けた。後は何の用かも、どうしてヘルミナを連れてきたのかも語らなかったが、“あの女”とアゼルが呼ぶのは一人しかいない。かつてカイルがそう呼んでいたように、母上と呼びかけるのは人前でのみで、彼らは揃って母のことを他人のように呼び表した。

 ヘルミナは、アゼルの意図が掴めなかった。母が帰ってきているのならば、ヘルミナを連れて本邸へ戻るのは考え得る限りで最悪の事態に思えた。母はいまだに、カイルを奪ったヘルミナのことを深く憎悪している。カイルの死後、何度か互いにとっての不運として顔を合わせた時、そのいずれの機会でも彼女はヘルミナを罵倒し、散々に痛めつけた。もしやアゼルがヘルミナを連れて戻るのは、ヘルミナを母に献上して彼女の鬱憤を晴らさせるためなのだろうか、と鬱々とした思考に呑み込まれかける。

 だが、やがて馬車が止まり、本邸へと降り立つと、アゼルはヘルミナに屋敷の前で待っているように言いつけた。


「屋敷に入るな。私が戻ってくるまで、ここにいろ」


玄関に置き去りにされるような形になったヘルミナは、戸惑いながらも一人でそこに佇んで、玄関先から見える景色をぼんやりと眺めていた。

この日は朝から空模様が悪く、正午を過ぎた今では空は一面の灰色に覆われ、いつ崩れても可笑しくないように見えた。屋敷の扉を背にしながら、ヘルミナは四年前、自分がここを離れた時のことを思い返していた。あの時はまだ大勢の子ども達が家にいたが、今ではもうほとんどの兄達は家を出て自立しており、ヘルミナの上の姉達もまた多くがとっくに嫁いでいるのだろう。

 ――――かつて、この家で目撃したおぞましい光景を思い出す。

 アゼルに引き取られてしばらくした頃、ヘルミナは今のようにアゼルの用事に伴われ、久方振りにこの本邸に足を踏み入れた。その時のことを思い出す度、ヘルミナはかつてカイルと共にこの家に在った自分はなんて幸せな子どもだったのだろうかと郷愁に浸るように思う。あの頃のヘルミナにとって、世界とはカイルだけで成り立っていて、会えない長い間もヘルミナは彼のことを考えて孤独な日々を耐え忍んでいた。カイルと出会う以前のヘルミナはまだ幼く、カイルと出会ってからの日々のヘルミナは幸福だった。だから、屋敷の中で公然と行われていた兄姉達の爛れた関係についても、少しも気づくことがなかったのだろう。


『お前ほど迂闊で頭のめでたい者は見たことがない』


 扉の隙間から漏れ聞こえてきた嬌声に、つい近付いて行った先で隙間越しに目撃した光景。決して親しくはない、けれど、当然のように顔を見知っていた血を分けた兄姉達の腕が、絡み合う姿。

それを見て、棒立ちになったように立ち尽くしたヘルミナの背後に気がついたら立っていたアゼルは、今の今まで公然の秘密を知らなかったヘルミナに対して、眉を動かすこともなくそう称した。

アゼルが初めてヘルミナを穢したのは、その日の夜のことだった。


 恐れ戦き、無力に震え、嫌悪に泣き喚くヘルミナの拒絶を、アゼルは容易く封じ込めた。

無力な者の意思を省みるものなどいない。アゼルにとってヘルミナは尊厳を踏み躙っても許される彼の物であり、アゼルは事ある毎にヘルミナにそれを教え込むことで、ヘルミナの抵抗の意思を削いできた。

それに、どの道ヘルミナも諦めと共に理解していた。生まれてからほとんど、この屋敷の中から出ることのなかったヘルミナは、世情に疎く世慣れしていない。自由を求めて逃げ出したところで、自分の身一つで生計を立てて生きていく術など思いつくはずもなかった。何よりも、ヘルミナは自分が陥った境遇や仕打ちについて、半ば自分自身への罰なのだと捉えていた。

――――カイルを殺した罪。

母に糾弾されずとも、ヘルミナ自身が一番よくわかっていた。

体が弱く、将来を悲観されていたあの兄は、けれど誰より美しかった。ヘルミナなどのために失われて良い命ではなく、彼を奪った自分は購いのために生きているのだろうと感じる。同時に、自分にとっての世界だった彼を失ってしまったヘルミナは、四年前からずっとどうしたらいいのか分からないままだった。

今の自分に唯一確固たるものがあるとしたら、それはアゼルへの憎しみだろうと思った。ヘルミナにとってアゼルは、自分を虐げる存在であり、同時に唯一の自分の庇護者でもあった。アゼルに対する感情を一口に言い表すことは難しく、憎しみと恐れ、怒りと絶望、戸惑いと悲しみが常に渦巻いて、はっきりとした形を捉えることは困難だった。

それでも、どちらにせよ今のヘルミナには、アゼルの傍にいる以外に選択肢がない。

だから今もこうして、誰が見張っているわけでもないこの場所で、逃げ出すこともせずに大人しくアゼルの帰りを待っているのだ。


思わしくない空模様につられたのか、つらつらと詮のない思考に意識を取られかけていたヘルミナは、見つめていた景色にいつの間にか雨が降り始めたことに遅ればせながら気がついた。

ぽつぽつと降り始めた雨は、すぐに雨足を強めて滝のように流れ始める。幸いにもヘルミナのいる玄関の前は天井があったため、濡れる心配はなさそうだった。地面に跳ね返る雨と、急速に冷え込み始めた空気に、ヘルミナはひとつ身を震わせて――――。


「あら?」

「おや?」


 ――――不意に背後から聞こえてきた声に、背筋に別の震えが走った。

 男女で異なる、けれどよく似た声に、ほとんど反射的に嫌な予感を覚えながら、ヘルミナは背後を振り返った。願わくば、雨音の空耳であって欲しかったという思いも虚しく、そこにいたのは、やはり想像していた通りの二人だった。


「あ、アディ姉様……ハリィ兄様……」

「あら、あらあら。ヘルミナじゃない、久し振り。でもダメよ、お前はもうこの家の一員ではないのだから」

「おや、おやおや。久し振りだ、ヘルミナ。ああ、そうそう、姉様の言う通り。ただの様付けで呼ばないと」


 鏡合わせの双子の姉弟。姉のアディと弟のハリィ。意地悪な双子。屋敷の中に入らなければ会うことはないだろうと思い、密かに胸を撫で下ろしていた二人が突如として現れたことで、ヘルミナは一瞬動揺した。だが、にやにやと笑みを貼り付けた二人の言葉に、はっと我に返り、慌てて腰を折る。


「――――失礼いたしました、アディ様、ハリィ様」


 ヘルミナは実質的にこの家から放逐されている。アゼルに引き取られて以降、彼のことを兄と呼ぶ度に打たれていたが、それは他の血の繋がった家族相手でも同様だった。ヘルミナは罪を犯してこの家を追い出された身で、実質的な今の立場はアゼルの慈悲で生かされる下女のようなものだ。アゼルがそうと言ったわけではなかったが、どちらにせよ、既に家族の一員ではないから兄姉と呼ぶことは許されていない。


「これからハリィとお出かけするところだったのに、突然雨が降ってきてしまったからどうしようとかと思っていたのよ」

「ああ、だけど、ヘルミナが来ているならば丁度いいな。姉様、オペラ鑑賞はまたの機会に、ヘルミナで遊ぶのはどうだろう」


 不味い。

 くすくすと葉の囁きのような笑い声を聞きながら、ヘルミナはじりと一歩後退したが、その先は酷い雨だ。そもそもアゼルからここにいるようにと命じられたヘルミナが一歩でも場を動けば、理由があろうとなかろうと、後から仕置きを受けさせられるのは間違いない。

だが、この双子の〝遊び〟はとても恐ろしいのだ。それこそ、いつも悲鳴を我慢できないほどに。

ヘルミナが家を出てからも、何かの機会に顔を合わせる度、アゼルがいない時を見計らって双子はヘルミナを虐めた。二年程前に彼らの度を超した悪戯のせいでヘルミナが脚を折り、しばらく使用人として使い物にならなくなって以降、アゼルが何かを言ったのかしばらく顔を見ることはなかったが、彼らの性根は健在のようである。


「ああ、ヘルミナ。可愛いヘルミナ。お前が一番よく私達の遊びに素直に泣いてくれるのよ」

「そう、変わり者のヘルミナ。お前はまるで取り替え子のように、本当に誰にも似ていない」


 腕を絡ませあう双子の、よく似た赤い瞳がにんまりと三日月のようにしなってヘルミナを射貫く。時の経過と共に、よく似た彼らも性別の壁に隔たれて少しずつ変わった様子だったが、その内面の雰囲気だけは昔と何一つ変わらなかった。ヘルミナを階段から突き落とし、痛みに悲鳴を押し殺すヘルミナを見て愉しんでいたあの頃と同じ眼差しのまま、彼らはヘルミナに詰め寄ってくる。

 咄嗟に逃げの姿勢を取っていたヘルミナは、だが、双子の発した言葉に戸惑って彼らを見つめ返した。


「私が、変わり者……?」

「あら。知らなかったの?」

「おや。気づかなかった?」


 双子はわざとらしく互いに顔を見合わせると、口角を上げたまま交互に言う。

 ねっとりと絡みつくような甘い声で囁きながら、双子はヘルミナの両脇に猫のように滑り込んできた。


「ヘルミナはうちで一番の変わり者だったわよ」

「生まれたところを間違えたんだと思ってたよ」


 うちの血筋は揃いも揃って皆どこかしら歪んでいる。

 楽しい遊びに巻き込もうとしても後でやり返される。

 その点ヘルミナは泣き震え怯えるばかりの可愛い子。

 アゼルに取られなければ、貰おうと思っていたのに。


 謳うように左右から吹き込まれる言葉は、楽しげに跳ねている。彼ら自身の言う通り、久方振りにいじめる相手が現れて心から喜んでいるような雰囲気が伝わってきた。距離を詰めて顔を寄せてくる二人から仰け反るように離れながらも、ヘルミナの思考はまだ彼らの発した言葉に引っかかっていた。常ならば一も二もなく顔を青くして逃げようとするヘルミナが、困惑も露わにその場に立っていたからか、彼らもそのことに気づいたらしい。


「まあ、ヘルミナ。貴方ったら本当に自分のこと、この家の人間と同じだと思ってたの? 可笑しいと思ったことはなかったの?」

「本当に。そこまで鈍いと呆れてしまうね。幼い頃からお前にだけ番がいなかったのは、お前だけが異物だったからだというのに」

「……異物……?」


 この血のように赤い瞳と、黒髪さえ同じでなければ、母様の〝間違い〟の子かとも思ったのだけれどねぇ、と呟きながら、姉のアディのほうがヘルミナの髪に触れ、ぐっと強く掴む。髪を引っ張られたヘルミナは体勢を崩しかけ、痛みに喉奥から小さく悲鳴を上げた。もう反対側から、弟のハリィがヘルミナの髪を耳にかけ、直接耳朶に吹き込むように囁く。


「そう、姉様の言う通り。お前は生まれた時から異物だった。皆それを察していたから、誰もお前に近付かなかった」

「っつう……っ!」


 直接声を吹き込むように耳につけられていた口が、がりと耳の縁に噛み付いた。容赦なく歯を立てられた痛みに、痛みを堪えて固く目を瞑る。目尻に自然と浮かび上がってくる涙を溜めながら、ヘルミナは確かにこの家は異常だ、と心中で呟いた。

――――私達の先祖は繁栄の代わりに悪魔に魂を売った、なんて影で囁かれているのよ。

 いつだったか、どの姉だったのかも思い出せなかったが、誰かが他の兄妹相手に冗談交じりに脅かしの話をしているのを聞いたことがある。寝ない子どもを脅かすための夜話だと思っていたが、今思い出すと、それは如何にも馬鹿馬鹿しくも信憑性があった。

 確かに、この家の者は皆、聖書で語られる悪魔のように狡猾で残虐だ。

 兄妹の間でまぐわい、他者を蹴落とし、足蹴にし、人を人とも思わない。

 情の動かない、冷血な家の人間だと言われていることを、アゼルに家の外に連れ出されて初めて知った。

 それは間違いではなく、確かに真実その通りだったが、ヘルミナにとってはただ一人この家の中でも例外があった。


「なぜ……異物というのなら、私よりもカイルにいさまのほうが……あの人だけはっ、ずっと、この家のなかでもまともで……!」

「カイル? まさか!」

「まとも? あれが?」


 ヘルミナの言葉に、双子が示し合わせたように目を丸くする。

次いで吹き出すように彼らが放った言葉は、更にヘルミナの困惑を深めた。


「あれこそ一番、うちの血筋の業だったじゃないか」

「ヘルミナは、生まれたところを間違えたけれどね」

「あれはそもそも生まれてくることを間違えたんだ」

「だから気にすることないわ。死んで当然だったの」


 双子が何を言っているのかは何一つとして理解できなかったが、彼らがヘルミナを傷つけるためにカイルを貶めようとしていることを察した瞬間、ヘルミナは咄嗟に逃げの姿勢を取っていた。暴力を振るって抵抗しようとしなかったのは、身に染み付いた諦めがそんなことをしても無駄だとヘルミナに思わせていたのかもしれない。

 もうこれ以上は、一分一秒だったこの場にいることは不毛だ。迷わず土砂降りの雨の中に逃げ込もうとしていたヘルミナの動きは、けれど背後から髪を強く引っ張られたことで止められる。


「逃げちゃダメよ」

「僕らと遊ぼうよ」


 結んでいた髪が無残に引っ張られて解け、はらはらとこぼれ落ちる。

 顔が反るほどに髪を強く掴まれて、痛みを堪えきれずに微かな悲鳴を上げた時だった。


「――――やめろ!」


 どんっと鈍い音が響いたかと思うと、ヘルミナは解放されていた。前のめりに崩れかけた体が、少し固い感触に受け止められる。咄嗟についた手に、それが人の身体だとわかった。若木のようなしなやかな体。少年と青年の丁度中間のような、力強くも薄い銅に、はっと顔を上げたヘルミナの目に、予想通りの顔が映った。


「性悪双子が。か弱いヘルミナばかりを虐めるな」


 低く唸るような声が耳朶に触れたかと思うと、今度はその声の主に腕を取られ、ヘルミナは考える間も与えられず走り出していた。振り返った背後で、驚いたように目を丸くした双子が、状況を理解してほくそ笑んだ表情が見えた。それに、訳も分からずにその場を走り去りながら、ぞっとヘルミナの背筋に震えが走る。

 不味い。明らかに先程より不味い!

 双子は恐らく、アゼルに告げ口をするだろう。先程はヘルミナ自身咄嗟に逃げの姿勢を取ってしまったが、アゼルは「ここにいろ」と言ったのだ。その命を破ることになれば、双子達以上にどんなに酷い目に遭わされるかわからない。

 だが、彼らと違って、善意からヘルミナを助けてくれた手を振り解いてあの場に戻る気になれないこともまた事実だった。


 雨の中を息が続かなくなるほど走り続けて、じぐざぐに庭の奥深くに入っていった。

 やがて辿り着いたのは、庭の最深部にある東屋で、本邸を囲む森と隣接しているそこで、ようやく手が放される。

 普段ほとんど邸から出させられることのないヘルミナは、支えがなくなった瞬間に東屋の椅子に手をついてへたりこんだ。雨に濡れた髪を肌に貼り付けながら、大きく胸を上下させて呼吸を整えるヘルミナに、恐る恐るといった様子で声がかかる。


「だ、大丈夫か……?」


 言ってから、労るようにヘルミナの背を撫でようとして、一度触れた後に慌てて放す。何かと思えば雨で服が肌に張り付いていたようで、体の線がくっきりと浮かんでいる体に触れることを躊躇ったらしい。最近はついぞ与えられることのなかったごく真っ当な気遣いに、ヘルミナは体の緊張が解けていくのを感じた。


「はい……助けてくださり、ありがとうございました。ヴィンセント様」

「う、うん……」


 ――――ヴィンセント。

 上背こそあるものの、まだ幼い少年の面影を色濃く残す彼は、ヘルミナ達の従兄弟だった。確か、今年十四になったのだったか。生まれながらに体が弱く、当主を継げなかった母の兄の晩年の子であるヴィンセントは、入り婿である父の色が濃く出たヘルミナ達とは違い、直系の血筋が分かりやすい色素の薄い見目をしている。そう、丁度、カイルにいさまのように――と自然と思考が逸れかけて、ヘルミナは頭を振って考えを振り払った。


「……あの、ヘルミナ。前にも言ったけれど、俺には以前のようにしてくれて構わない」

「……ごめんなさい、どうかお許しを。アゼル様に叱られますので」

「……そ、そうか……」


 首を横に振って否を示すと、ヴィンセントは明らかにショックを受けたような表情をした。その反応に罪悪感を覚え、彼に対する親しみに胸が締め付けられる。

 ヴィンセントとは、ヘルミナがまだ本邸から追い出される以前から親交があった。一年のほとんどを遠方の別宅で過ごしているカイルが本邸にいない間、ヘルミナは常に針のむしろのような本邸で息を潜めて過ごしていたのだが、たまに訪れるこの年下の従兄弟はヘルミナを忌避することがなかった。本来ならば当主の直系筋である彼は、自身が生まれた歳に父を失ってはいたが、その病弱さを引き継ぐこともなく健やかに成長した。だが、夫を失った心労が祟ったのか体調を崩しがちな母君の元で、一人っ子であった彼は孤独な子ども時代を過ごしていたのだろう。子どもの多いこの本邸によく使用人達に連れられてきては、意地悪な兄姉達に気の弱さからよくいじめられていた。ヘルミナとは、それを見るに見かけて遊びに来ている間の彼を自室で匿うようになってからの付き合いである。

 ヘルミナが家を放逐され、兄姉達の中でも最も恐ろしいアゼルに引き取られたと知った際、唯一ヘルミナを心配してくれた存在でもあった。

 ヘルミナにとっても、ヴィンセントは弟のような存在だ。実際の弟もいるにはいたが、そちらは他の兄姉達同様に優秀で、彼らの中で劣るヘルミナに対しても当たりが強かった。


「だ、だが! 今ここにあの悪魔のアゼルはいない! 今くらいは、俺の言うことを聞いてくれても良いだろう!? いや、命令だ。ヘルミナ、今だけは俺に以前のように振る舞え!」

「えっ。いえ、でも……」

「……お、お願いだ。ヘルミナ……」


 命令だ、なんて強い言葉を使ったかと思えば、ヘルミナに躊躇うような顔をされて、途端に迷子になった子どものように眉を下げる。あまりにそのいたいけな様が哀れで、拒絶するのが居たたまれない気持ちになったヘルミナは、逡巡したが首を縦に振った。するとまた途端にヴィンセントは表情をぱっと明るくさせ、しかしその素直な表情を戒めるように取り繕うと、こほんと息をついてヘルミナの隣を指し示す。


「座っても?」

「……もちろん。もうすっかり紳士ね、ヴィンセント」

「! あ、ああ。当然だろう。俺とてもう十四だ」

「そうだった……」


 そっぽを向いた頬が照れたように赤くなっている。ふふ、とヘルミナは思わず表情を綻ばせて微笑んでいた。ヴィンセントは可愛い。ヘルミナの弟や、ましてや兄姉達の誰とも似ていない素直で実直な彼の性格はおおきな長所だ。ヘルミナも、カイルと会えない時期に会っていた彼との交遊でその純真さに何度心救われたか知れなかった。しかも、ヴィンセントはこんな境遇に陥ったヘルミナのことさえも、以前と全く変わらずに尊重してくれる。母が衰え、父が当主の座を退いた今、アゼルの権力に逆らえる者がいないこの家では、望めるべくもない対応だった。


「それで……その、ヘルミナ。大丈夫だったか」

「え?」

「先程、双子に髪を引っ張られていた」

「あ、ああ……平気よ。あの程度、普段のアゼル様に比べたら……」


 ヘルミナにとって安心できるヴィンセント相手だったからか、気が抜けていたのかつい口が滑ってしまった。慌てて口を噤んだが、既に言ってしまった言葉は戻らない。ヴィンセントはヘルミナの言葉に眉を顰めると、上半身をぐいと乗り出してきた。


「アゼルにはいつもあれ以上に酷いことをされているのか。また、鞭打たれたり、頬を張られたり?」

「え、ええと……」

「アゼルは冷酷な悪魔だ。この家の奴等はどいつもこいつも性根が腐っているが、アイツは一番酷い。何の罪もないヘルミナを我が物にして甚振っている。……こんなに綺麗な髪に、柔い頬なのに」


 かわいそうに、というヴィンセントの低い囁きがやけに近くで聞こえたのは、実際に彼の顔が近くにあったからだ。まだ少年を抜けきらない面立ちが、ヘルミナを思って顰められている。乱れて雨に濡れた髪を、ヴィンセントの指が梳き、露わになった頬にそっと指を這わせる。まるで、アゼルに打たれた痕がそこに見えるかのように、痛ましげに辿る手付きに、ヘルミナは自然と息を詰めていた。


「ヘルミナ」


 雨に打たれたせいか、空気が妙な重さを含んでいた。東屋の外ではまだ激しく雨が降り落ちている。名を呼ばれたけれど、この距離では返事をするにも近すぎて、代わりに目で応えたつもりだった。だが、瞳を瞬かせたその反応が、何か違うものを呼び覚ましてしまったのかもしれない。あっと思った時、既に違いの間に距離はなかった。目を閉じたヴィンセントが、ヘルミナに奪うような口付けをしていた。


「っ……は、ぁっ……」

「んんっ……! ヴ、ヴィンセ……ひゃっ」


 冷えた唇を割って、熱い舌がちろりと触れた。慣れたアゼルの口付けとは違い、ヴィンセントのそれは最初こそ強引だったものの、触れた後はヘルミナを気遣うように恐る恐ると角度を変える。顔を背けて口付けから逃れようとすると、舌を捻じ込む代わりに啄むような口付けに変わった。


「っヘルミナ、ああ、ヘルミナ……!」

「んっ、やっ、だ、だめ……っ」

「かわいい……ヘルミナ……どうしてアゼルのものなんだ……」


 熱に浮かされたような囁きを発しながら、何度も押し付けられる熱をやっとのことで引き剥がす。まだ少年から青年への過度期の若者とはいえ、既にヘルミナを易々と抑え込める力を持った男を引き剥がすのは苦労したが、ヴィンセントは存外素直に離れてくれた。はあはあと荒い呼吸をつきながら、潤んだ瞳で彼を見たヘルミナを、ヴィンセントが抱き締める。


「ヘルミナ……っ」

「……ヴィンセント……」


 とんでもないことをされたのは分かっていたが、ヘルミナにとってヴィンセントは可愛い弟のようなものだ。乞うような口付けの間、こちらに向けられていたはっきりとした熱情を見紛うことはなかったが、恐ろしいとは思わなかった。つい昔からの癖で、抱き締められたままその背をよしよしと撫でてしまう。ヴィンセントもそれを大人しく受け入れて、ヘルミナの肩口に顔を押し付けた。


「ヘルミナ、大好きなヘルミナ……俺が自由の利く歳になったら、アゼルからヘルミナを引き取るから」

「え?」

「本当はずっとそうしたかった。だが、何度俺がうちで引き取ると言っても、アゼルは了承しない。アイツに何の権利がある。ヘルミナがあんな奴のところで虐げられなければならない理由なんてないんだ」


 初耳の提案に、ヘルミナは驚きが先行してまともな反応を返せなかった。瞳を見開いたヘルミナの耳に、沸々とした怒りを感じさせるヴィンセントの声が残る。

 私が、アゼル兄様から、解放される―――。

 心臓がどくんと跳ね上がるような、喜びとも恐れともつかない奇妙な昂奮に襲われた。

 おもむろに顔を上げたヴィンセントが、長い睫を震わせながら、再びヘルミナに顔を寄せてくる間も、微動だにすることができない。

 ああ、だけど、とヘルミナはどこか茫然としながら思った。

 かつてヘルミナを可愛がってくれたカイルは、彼を溺愛していた母に見目がよく似ていた。繊細な美貌もそうだったが、何よりも、全体的な色素の薄さから母方の遺伝を強く感じさせた。父方の、赤い瞳と黒髪が統一された兄姉達の中で、唯一の白。誰よりも美しかった、ヘルミナの最愛の兄。

 ヴィンセントは、カイルの容姿によく似ていた。だからか、その瞳に見つめられて、魅入られたように動けなくなったヘルミナの唇に、再び熱い吐息が触れて――――。


「どちらに鞭を打ってほしい?」


 雨音が激しく、目の前の少年に注意を向けていたから、接近に気がつかなかった。

 すぐ近くで聞こえた声に、雨に濡れたことを今更思い出したように体温が急激に下がっていく。怖々と視線を向けた先、東屋の入り口に、アゼルが立っていた。雨の中を傘も差さずに来たのか、髪の先から雫が滴っている。鴉の濡れ場色の髪の間から、覗く暗く赤い瞳に、背筋が凍り付いた。


「アゼル、お前……! よくも平然と顔を出せたな!」

「こちらの台詞だが。それは私の所有物だ。盗人に鞭打ちがいいか?」

「いつもそうしてヘルミナを脅して縛り付けているのかっ!」


 濡れた髪を鬱陶しげに掻き上げて、いつも通りに淡々とした言葉を返すアゼルとは反対に、ヴィンセントは今にも飛びかかりそうな様子だった。自分に食ってかかる少年に、アゼルの蔭のある赤い瞳がじっと向けられる。その冷え冷えとした眼差しを見て取るや否や、ヘルミナの背筋に嫌な予感が走り抜けた。

 ――――ヴィンセントはまだ子どもだ。

だが、アゼルは子どもにも、容赦なく鞭を打つ。そう、かつて、十四のヘルミナを鞭打ったあの日のように。この子は、あの日のヘルミナと同い年だった。

恐怖と共に蘇った記憶は、ヘルミナに咄嗟の行動を取らせた。


「お、お許しください、アゼル様……! ヴィンセントは、私を助けてくれただけなのです」

「助ける?」


 アゼルの視線から遮るため、ヴィンセントの頭を抱え込むように抱き締めた。だが、見下ろすアゼルの圧はそれで和らぐことはなく、どころか急激に凍てつくように悪化していった。


「アディ様と、ハリィ様にお会いして……それで、お二方の……その、戯れから、ヴィンセント様に助け出していただいただけなのです」


 先程は咄嗟に口から言葉が出ていたせいで、ついヴィンセントの名を呼び捨てにしてしまっていたことに気づいて、訂正しながら言葉を紡ぐ。腕の中に抱え込んだヴィンセントが抵抗するような素振りを見せたが、彼のほうに矛先が向かないよう、ヘルミナは必死に彼を抱き締めていた。まさか自分のその行為が、相対するアゼルの機嫌をどこまでも下げているということになど少しも気づかずに。


「助け出して、その代償に唇を望んだのか。それともお前が誘い、許したのか。目を離せばすぐに誰彼構わず男を引き込む淫売が」


 投げつけられる言葉は常とそう変わらないものだったのに、ヘルミナを罵る男の姿は、何故か普段のそれよりも一段と迫力を増していた。何を言っても無駄だと理解させられる空気に、ヘルミナの血の気がどんどん引いていく。

 不味い。非常に不味いと、いくら普段からとろく鈍いと罵倒を受け続けているヘルミナとて理解できた。不機嫌という言葉では言い表せない。アゼルは端的に激怒していた。


「お、お慈悲を……ヴィンセントは、まだ、子どもです。罰ならば、私に……」

「どの立場から口を利いている。物の頼み方も忘れたか」


 冷たく睥睨され、ヘルミナは恐怖で震えながら、目を伏せた。慈悲を乞うやり方は、ヘルミナがアゼルの物になってから最初に教え込まれたことだった。ヘルミナがアゼルの不興を買った時、閨の中でもう許してほしいと解放を願う時、取り入るように媚びることを覚えさせられた。必ずしもそれで気難しいアゼルがヘルミナを許すわけではなかったが、少なくとも言いつけられた作法を守ることは恭順の態度を示すことに繋がる。

 ヴィンセントを庇うように背後にそっと押しやって、ヘルミナはアゼルに向き直った。伏し目がちに視線を逸らしながら、恐怖と寒さで蒼白になった頬に、屈辱と羞恥で朱が昇る。瞳が潤んで、縁からぽろりと涙が零れ落ちた。


「へ……ヘルミナに、どうかお仕置きをお与えください……お兄様」


ヴィンセントが愕然としている気配を感じたが、そちらに視線を向けられるわけもなかった。もう顔見せできないような気分でさえあった。こんな惨めな姿を晒して、どのような顔をして向き合えるというのだろう。


「あばずれが」


吐き捨てるように罵られる。淫売以外の呼び方をされたのは初めてだった。奇妙なことに、何故かそれで、アゼルが常よりも遙かに怒り狂っていることが伝わってきた。あるいは嫌悪か、不快だろうか。アゼルは常から表情に乏しかったが、今は完全に無表情だった。


「そのガキはお前の手管に骨抜きにされているようだが、もう印は見せてやったのか?」

「印……?」


 アゼルの言葉に、はっとなったのはヘルミナのほうだった。もうこれ以上下がらないだろうと思っていた血の気が引いて、卒倒しそうになる。名指しされて訝しげに尋ね返したヴィンセントは、何のことだかわからずに困惑している。近付いてきたアゼルに腕を取られて、有無を言わせぬ力で引き寄せられた。濡れたヘルミナの体を腕のなかに囲い込み、顎を掴んだアゼルが、ヘルミナの顔をヴィンセントに無理矢理向けさせる。


「見せてやればいい。これを見ても、お前を引き取りたいと言えるか」

「あ、アゼル様……っ!」


 制止の間などなかった。そのような猶予が与えられていたところで、聞いてくれていたとも思えなかったが、それでもそれほど一瞬の内に為されたことだった。背後からドレスの裾がたくし上げられ、脚から下腹部までもが露わにされる。女性が脚を見せることが顰蹙を買うほど不埒なこととされている世間において、この暴挙は信じ難いほどの辱めだった。だが、アゼルの意図もヘルミナの懸念もそこにはなく、顔を真っ赤にさせたヴィンセントも、現れたそれを見てみるみるうちに蒼白になった。

 恥ずかしい。耐えられない。罰せられることを理解していながらも抗議を発しようとした口が、察したアゼルの指を捻じ込まれて言葉を奪われる。ぴたりと身動きができないよう胸板に押し付けられながら、片方の手でドレスを捲り上げられ、もう片方の手を口に入れられている。あまりに惨めな現状に、目元が熱を持って、ヘルミナは耐えきれずに目を瞑った。


「この身体で、どの面を下げて他の男のもとに行くという」


 アゼルが捲り上げたシュミューズごと捲り上げたドレスの下。薄く白い下腹部の中央に鎮座する印は、家紋とも、貴族位とも違う、アゼルが作らせた個人を指す印だった。

アゼルには政敵が多い。ヘルミナに対するアゼルの扱いは酷いものだったが、たとえヘルミナの存在が公にされていなくとも、見る人が見れば二人の血の繋がりは明らかだ。彼が唯一、自分の手元に置いている血族の人間を、弱みと思って悪事を画策する人間もいる。ヘルミナがアゼルにとっての弱みとなり得るなどおよそ考えられない話ではあったが、これはそのためのものなのだろうとヘルミナは思っていた。

ヘルミナが自分の所有物だということを明らかにするため、痛みに耐えられるようになった年頃に、アゼル本人の印を肌に入れられた。特殊な染料を用いて、針で肌に彫り込まれた印は、一生消えないヘルミナが奴隷である証の烙印だった。


「誰にも晒せぬ醜い身体。だが、慈悲だ。顔を焼いてやろうかと思ったこともあった」

「ふ、う……っ」


 下腹部の印を長い指がなぞる。こそばゆいような肌が粟立つ感覚に、ふるりと背筋に震えが走り、発しかけた声は舌を摘ままれたせいでくぐもって消える。この印を入れられた時の記憶が、ヘルミナの脳裏に蘇る。

 痛くて熱くて意識が朦朧としていた。何度も泣いて懇願して、やめてほしいと願った。そのすべてを無下にされ、抑えつけられ刻まれて、それでもこれが慈悲だという。顔を焼いてやろうかと思ったこともあったという、その言葉を咄嗟に否定できるほど、ヘルミナはアゼルの良心を信じてはいなかった。

 ヘルミナの睫が震えて、ぽろりと涙が零れ落ちた。絶句していたヴィンセントが、はっとなったように動きかけたが、その前にアゼルの寒気を覚えるほどに低い声が落ちた。


「寄るな」


 ヴィンセントは聡く、優しい子だった。その言葉に彼が逆らった時に、ヘルミナが受ける仕打ちについて一瞬で想像が出来たのだろう。反射的に固まってしまったヴィンセントの目の前で、アゼルはヘルミナの後頭部を引き寄せたかと思うと、上向きに捧げられた唇に口付けを落とした。必死に顔を背けようとしても頭を固定する手は外れることはなく、ねっとりと割って入ってくる舌に絡め取られる隙間にちらりと見えたヴィンセントは、今にも泣き出しそうな顔をしていた。

 ヘルミナがようやく解放されたのは、息も絶え絶えになり、口の端から呑み込みきれなかった唾液が零れ落ち、足腰が砕けて立てなくなった頃のことである。赤い顔をして崩れ落ちたヘルミナの腰を浚って、アゼルは平然とその場を立ち去った。ヴィンセントが何かアゼルに言っていたようだったけれど、意識の朦朧としたヘルミナは聞き取れることはなかった。くったりと脱力したヘルミナの瞼の裏には、カイルと同じ灰色の瞳をしたヴィンセントの眼差しが焼きついていた。

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