07
アゼルは社交用の外面こそ抜群に良かったものの、基本的にその根底は無表情の冷血漢だった。他に類を見ないほどに優秀であり、恵まれた容姿を持ち合わせていても、アゼルは非人間であるとヘルミナは常々思っていた。アゼルはその家柄と性質から多くの熱烈な信奉者を抱えていたが、同時に敵も数多く、それもあってか人嫌いで周囲に人を寄せ付けない。彼が命を狙われるのは大抵彼自身の非道が周り巡って返ってきているだけのことだったので、ヘルミナはそれを不憫に思うことはなかったが、不便には思っていた。他に従者や侍女を持たないアゼルは、邸では常にヘルミナを傍らに置いて仕事をした。ヘルミナだけは、彼を裏切れないことをわかっているのだろう。あるいは、ヘルミナが彼を裏切ったところで、何も出来ないと思っていたのかもしれない。それは確かに、紛れもない真実だった。アゼルの庇護なくては生きていけないヘルミナは、どんなに酷く扱われようとも、アゼルに付き従う以外に道はなかった。
「……アゼル様。外套です、お腕を……」
散々に酷使された翌朝も、変わらずに朝日は昇り、一日は訪れる。ヘルミナは実際精神的にも体力的にも疲労していたが、それを理由に今や使用人同然の身分であるヘルミナが主人であるアゼルより遅く起きるわけにはいかなかったし、多忙なアゼルには今日も予定が入っていた。
身支度を整え終え、床に付きそうなほど丈のある黒い外套着を手にアゼルの背後へ回る。上背が圧倒的に異なるアゼルとヘルミナでは、後ろからでは彼のほうが体を屈めてくれば外套に袖を通すことは不可能だったが、アゼルは頑なにヘルミナにこのような細々とした支度を手伝わせる。その広い背中を眺めながら、ヘルミナは漠然と、こんなふうに無防備に背中を見せてもこの男はヘルミナが自分をどうにかできるとは思っていないのだろう、と考えてしまい意味もなく暗い気持ちになった。
「お前の支度は」
振り返ったアゼルに冷めた目で頭から爪先まで一瞥され、ヘルミナは反射的に体を強張らせながら「終わっております……」と蚊の鳴くような声で答える。アゼルはヘルミナの返事に、もう一度ヘルミナの全身を眺めた。
「――――貧相だな」
いつも通りの落ち着き払った冷たい声音ではあったが、いっそ感心したような響きがあった。言外に、それで出るつもりなのかと問われていることを知りながらも、ヘルミナは答えられない。確かにヘルミナの常の服装は誰がどう見ても貴族の生まれには思えない、下働きの中でも更に雑用等を主に任される人間の着る、汚れても良いものだ。だが、それはアゼルが身の回りのことを何でもヘルミナにやらせるからで、服も使い回せばくたびれる。ヘルミナの持ち物は、昨夜着させられたドレスも含め、すべてアゼルが用意したものだ。質こそ貴族の屋敷で着るに相応しい上質なものだったが、そもそもアゼルが外出する時は邸に留め置かれるヘルミナは、外出用の服を持っていない。
「ご不満なら、私は邸でお待ちしておりますが……」
「別にいい。昨夜とは違い、弁えねばならない場でもなし。それに、お前を余計に着飾らせると、すぐに見境なく男を誘惑すると昨夜学んだばかりだしな」
「……ゆ、誘惑……?」
何のことを言っているのか一瞬わからず固まってしまったが、それはまさか昨夜ぶつかった男性のことを言っているのかと悟り、あまりに暴論に怒りを通り超して戸惑いを覚えた。目を丸くしたヘルミナに対し、しかしアゼルは至って真面目な様子でいるからそれ以上何か言うこともできない。ヘルミナからしてみれば当然それは言いがかり以外のなにものでもなかったが、余計な口答えをすれば酷い目に遭わされることだけは身に染みて学んでいた。
「―――今年、十八だったか」
「……あ。……は、はい」
何のことかと眉を顰めかけて、自分の歳のことだと一拍置いて気づき、戸惑いながらも返事をする。アゼルは既にこちらに視線を向けていなかった。
「余計な虫を誘うようになった」
またも内容が判然としない言葉だったが、流れからしてまたヘルミナのことについて言いがかりを付けられているのだろうということは理解できた。戸惑いで黙り込んだヘルミナに構わず、最後の支度を済ませたのだろうアゼルがこちらに歩み寄る。逃げる許可を与えられていないヘルミナは、目の前まで来た恐ろしい男に見下ろされても、危険を察知した小動物のように震えながらもじっと動かずにいるしかできなかった。
「粗末な衣服に身をやつさせようと、何度鞭打ち、醜く肌を腫らさせようと」
真上から注がれる視線の圧に負けて、ヘルミナは視線を俯かせた。けれど、自分の爪先を一心に見つめることでやり過ごそうとした思惑を打ち砕くように、ヘルミナの顎に手袋を付けた指がかかる。優しい、とさえ言い表せるほどそっと添えられた指が、しかし、次の瞬間ぐいと強引に顎を持ち上げた。
「っぁ……!」
「どうしてかお前は苛立たしいほどに男の気を引く」
媚びるな、笑うな、へつらうな。
温度のない、低い囁きの命令が吹き込まれる。
「私以外の者には、視線の一瞥さえ向けることは許さない」
そのようなことは不可能だと言い出せるような空気では、とてもなかった。
返事を待つように注がれる視線に、見目麗しい顔が離れていって、ようやくヘルミナは小さく頷いて見せた。アゼルは何も言わなかったが、何も言われないということは、つまるところそのヘルミナの対応が間違いではなかったということだ。出かける前に鞭打たれなかったことにほっとしながら、ヘルミナは今にも崩れ落ちそうに震えていた脚を叱咤して、出かけるために動き出した。