06
その一件によってヘルミナの心にはアゼルに対する深い恐怖心が植え付けられたが、引き換えに縁談の話はなくなった。
アゼルは、ヘルミナが縁談相手に粗相を働いた結果、相手は帰り、自分はヘルミナに罰を与えたのだと言ったらしい。何故アゼルがそのような嘘をついたのかはわからない。カイルのほうはヘルミナから真実を聞かされて「そう」と目を伏せて、何やら把握していたような雰囲気があったが、ヘルミナに教えてくれることはなかったから、結局わからないままだった。
実を言えば、ヘルミナにはわからないことだらけなのだ。
すべての転機となったあの日。カイルを永遠に失った、あの時。
どうしてあんなことが起きたのかも、実のところヘルミナはよくわかっていない。あるいは、わかりたくなかったのかもしれない。
思えば、ヘルミナがカイルに見出された出会いは何の前触れもない唐突なものだった。
だからこそ、残酷なほどに別れも唐突だったのは、ある意味で必然のことだったのかもしれない。
ヘルミナがアゼルに鞭打たれた日以来、カイルは四六時中ヘルミナを自身の側に置いた。
また同じようなことが起こることを懸念していたのかもしれないし、もしくはもっと他の理由もあったのかもしれないが、どちらにせよカイルは常のように多くを語らなかったので、ヘルミナにはあずかり知らぬことだった。だから、怒り狂った母がヘルミナのもとを訪れた時、カイルが予想していたのがそのことだったのか、それともそうではなかったのかも、ヘルミナにはわからなかった。
「――誰も! 何人たりとも! 私からあの子を奪うことは許さないわ!」
母がどうしてそこまで激高していたのかもヘルミナは知らない。
ただ、カイルがヘルミナに構うようになってから、ヘルミナの存在をほとんど黙殺していたといってもいい彼女が唐突に現れたかと思うと、つい最近アゼルがそうしたようにヘルミナを鞭打ち始めた事実しかわからなかった。
本当に、あまりに、呆気ないほどに現実味がなかった。
カイルは、彼がヘルミナを傍に置くことによってヘルミナが母の目の敵にされていることを把握していたが、実際にヘルミナが仕置きを受けている場に居合わせたことはなかった。常は本邸のほうに居を置いていないカイルが帰ってくる休暇中、母は目障りなヘルミナをなるべく視界から追い出していたし、母におもねる他の兄姉達もまたカイルの目を掻い潜ってヘルミナをいじめた。だから、唐突としか言いようのない凶行に出た母がヘルミナを罰しているところを、偶然カイルが目撃してしまったのは、不運としか言いようがなかった。
――――突如として腕のなかに抱き寄せられたヘルミナも、既に激情のまま鞭を振るっていた母も、咄嗟には反応できなかった。
鞭がしなる音の後、空気が切り裂かれ、バシンッと強かに肌に打ち付けられる。だが、暖かい腕のなかにしっかりと囲われたヘルミナの肌には、新しいミミズ腫れが這うことはなかった。目を見開いて顔を上げたヘルミナの視界に、自分と同様、愕然としたように固まっている母の姿が映る。
「母上」
カイルは、このような時でも落ち着き払っていた。何者も、最後の最後までカイルの泰然とした態度を崩すことはできなかった。彼の色素の薄い、精巧な人形のような灰色の瞳が、母を見据える。次いでカイルの口から放たれた言葉に、母の体が何らかの激情で戦くのを、ヘルミナは見た。
「ヘルミナは私のものです。そして私も、ヘルミナのものです」
母の、口紅を塗った唇が戦慄き、音もなく声を零す。
――――いいえ、あなたは私のものだわ。
その唇が、確かにそう形作るのを、振り上げられた鞭を、ヘルミナは何も出来ずに見つめていた。
そこから先のことを、ヘルミナはよく覚えていない。
覚えているのは、そう。それがヘルミナがカイルを見た最後だということだけであり、母から妹を庇った兄が決して退かなかったことに苛立った母が、ヘルミナの腕を無理矢理掴んで、そして―――――。
気がつけば、頭から血を流して倒れる兄の姿と、金切り声で絶叫を上げている母の足下で、ヘルミナは呆然と座り込んでいた。
医者は、当たり所が悪かったのだろうと言ったらしい。ヘルミナを庇おうとしたカイルの頭上に、母の振り上げた鞭にぶつかって倒れてきた陶器の花瓶が落ちた。当たり所が悪く、カイルはそのまま意識を失い、そして、そして。
我に返った後、泣きじゃくってカイルに縋ったヘルミナは、他の家人達の手によって自室に軟禁された。そうでもしなくては収拾が付かなかったということもあったのだろうが、一番は、そのままそこにいたら母の手によってヘルミナが殺されていたであろうことは誰の目にも明らかだったからだった。だが、沙汰が後回しにされたところで、母がいる限りは同じことだった。母は決してヘルミナを許さない。
ヘルミナは、カイルの葬式にも出させてはもらえなかった。
食事を抜かれ、誰も訪れない鍵のかかった部屋の中で、三日三晩閉じ込められて、ようやく出ることを許されたのも、最後の判決を申し渡される以外の理由などなかった。
「あの子どもをこの世から消して!」
カイルを失い、悲嘆する母の嘆きと激高は凄まじかった。
間接的なカイルの死因は、どちらかといえばヘルミナよりも母の行動にある。だが、誰も母を相手にそのようなことが言えるわけもなかったし、ヘルミナを庇ってくれるような人間もいなかった。家長である父は、家のことに何ら関心を持たない。元より将来的な利益をもたらす存在でなかったカイルにも情はなく、また出来の悪いヘルミナについても、ならばどこか遠く余所へやろうと宥める程度で庇うことはなかった。
しかし結局のところ、遠方にヘルミナを追いやるという父の提案ですら、母は撥ね除けて拒絶した。彼女にとって、ヘルミナは自分の愛しいカイルを奪い取り、挙句に殺した人間だった。彼女が自身の精神の均衡を保つためには、到底存在を許しておくわけにはいかなかったのだろう。
将来に期待を持たれていなかったヘルミナは詳しくは知らなかったことだが、代々家族にさえ情の薄いこの家は、貴族社会の闇とも言える後ろ暗い役割を生業としている面もあった。子ども一人、それも自分達でどうとでも処理できる子ども一人を処分することくらい、何の不都合も動作もない。
だから、ヘルミナは本来ならば殺されるはずだったのだ。
カイルを殺した、その責任を負わされて。
周囲もそうと信じ、ヘルミナもまた諦めて受け入れる気でいた。何故ならばヘルミナにとっては、亡くなったカイルだけがヘルミナの生を願う者であったので、彼がいなくなった今、これ以上誰からも望まれない命を愛惜しむ必要は少しもなかったからだった。
だが、誰もがそうなるだろうと予想していたにもかかわらず、そうはならなかった。
いよいよ死ぬのだと自らの運命を受け入れ、カイルを失った絶望の底にいたヘルミナの命を拾い上げたものがいたからだった。
「処分するくらいなら、死んだほうがましだと思う境遇へ身を落とせばいい」
地べたに座り込み、断罪を待つばかりだったヘルミナに降ったのは、抑揚のない静かな悪魔の声だった。怒り狂った母に髪を掴まれ、地べたを引き摺られ、ひたすらに泣きながら謝罪を繰り返していたヘルミナは、彼が何と言ったのか最初はよく理解できなかった。今ならばわかる。
「私にこれをくだされば、そうなることをお約束いたしましょう」
この時、ヘルミナの下賜を求めた悪魔のような男―――アゼルの言葉は、確かに真実だった。
両親とアゼルの間で、どのような取り決めが為されたのか、詳しいことをヘルミナは知らない。
だが、確かにその日から、ヘルミナはアゼルの物となった。人ではない、正しく彼に使われ、好きに消費され、一方的に搾取される“物”だ。
「泣いて縋れ。お前が今助けを求められるのは死人ではない、この私だ」
ヘルミナを自分の邸に連れ帰ったアゼルが言い放ったその言葉を、今でも時折思い出す。
深い血の色をした酷薄な眼差しは、何もかもを失ったヘルミナを無慈悲に見下していた。
その日から、ヘルミナは家族の一員ではなくなった。他の兄姉達のことも様付けで呼ぶようになり、持ち物は奪われ、日常的に何か失敗をすれば鞭で叩かれ、折檻をされる、アゼルの慈悲で生かされる存在となった。アゼルの許可がなければ、死ぬことも許されない。笑うことも泣くこともない。その資格もない。
あの日から四年間。十八となった今まで、ヘルミナはずっとそのように、表向きはアゼルの従者―――そうして実際は、体の良い奴隷として生きてきた。