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04


「ヘルミナ」

「カイルにいさま……?」


 朝食の時間を終え、部屋にいたヘルミナのもとにカイルが自ら足を運んだのは、図書室での邂逅のすぐ翌日のことだった。普段この家では一同に介して食事を取ることは滅多にないことだったが、それも寄宿舎から兄達が戻ってくる期間だけは例外となる。多忙な父親とアゼル以外全員が集まった朝食の席には、当然カイルもいた。昨日会話を交わしたことが忘れられずヘルミナは何度もカイルのほうを見てしまったのだが、カイルは人形のような顔のままこちらに目をくれることもなかったので、やはりあれは夢だったのだろうかと思っていたところだった。


「おいで。散歩をしよう」


 相変わらずの無表情だったが、穏やかに声をかけられて、ヘルミナは一瞬固まった。今まで何の用もなくヘルミナに声をかけてくる兄姉などいなかったから、昨日に引き続き、何を言われたのかよくわかっていなかった。


「へ、ヘルミナも?」

「おかしなことを。おまえしかいないよ。おまえを迎えにきたのに」


 言いながらカイルは呆然としているヘルミナの部屋に入ってきた。特に何の個性もない、使用人が選んだ子ども用のベッドと机、それから少しの玩具があるだけの部屋を見回した。


「そう。ここがヘルミナの部屋なのか」


使い切れないほどの部屋を持つ貴族の家でも、子どもに個々の部屋を与えると目が行き届かないからと、幼少期の頃は他の兄姉達と同室を与えられることが多いと聞く。だが、家族であっても関わりの薄い個人主義のこの家では、子ども達は幼少の頃から一人部屋を与えられていた。不思議なことに、情の薄い家族間であっても、大抵の兄姉達は特別に仲の良い相手が必ず一人はいる。どこへ行くにも一緒という、一対の番のような関係の彼らはいつの間にか同室になっていたが、目下のところその『特別』もいないヘルミナは姉妹の末子でありながら一人部屋だった。


「ここは日当たりがあまり良くない。暗くて湿気があるし、居心地が悪いだろう」

「……えっ、えっと……」


 与えられたものに不満を抱く発想がなかったため、ヘルミナは返答に窮した。カイルは言葉が率直で、物怖じすることなく、思ったことを躊躇いなく口にする性質らしい。初めて話したのはまだ昨日のことだというのに、カイルは何も気にする素振りはなくヘルミナに話しかけてくる。


「散歩をしよう」

「は……はい……っ!」


 戸惑いが先行していたが、ずっと一人だったヘルミナはカイルに声をかけてもらえたことが嬉しかった。それに所詮七つの子どもの頭では、よく知らない兄の考えを察することはできなかったし、とにかく何の気紛れにしても彼が自分に目を向けてくれているこの状況を大事にしなければならない。

散歩といっても、まだ幼いヘルミナは屋敷の外に出ることは禁じられていたし、体の弱いカイルも同様だったため、庭に降りるだけだった。それでも、公爵家の敷地は王都にある邸宅の中では格別に広かった。郊外寄りの、どちらかといえば都会風というよりも、のどかな景観の中にある屋敷は、周囲をぐるりと森に囲まれて存在している。庭の広さだけでも相当あり、庭師が丹念に手を入れている庭園は、年中何かしらの季節の花々が咲き、よく整えられたトピアリーが道を作っていた。


「にいさま、カイルにいさま、お花が咲いています!」

「咲いているね」

「にいさま、カイルにいさま! 蝶々が!」

「飛んでいるね」


 自分で誘った割に、カイルはあまり庭の探索に熱心な様子ではなかった。庭に目を向ける代わりに、見つけた綺麗なものすべてをいちいち兄に報告する妹に、気があるのだかないのだかわからない相槌を打っている。それでもヘルミナは、カイルが自分を無視しないことがとても嬉しかった。今まで誰かがこんなふうに意味も無く自分と一緒にいてくれたことはなかったし、ましてや手を繋いで歩いたことなど両親とさえもない。

 カイルと共に見る庭の景色は、一人でぽつんと部屋の窓から眺めていた景色とは全く異なった。緑は陽の光を吸い込んで輝き、花々は芳しく、風の暖かく、何もかもが美しかった。たった一人、誰かが自分の傍にいてくれて、自分と一緒の景色を共有してくれているだけでこんなにも違うものかと、興奮気味に感じていた。


「にいさま、カイルにいさま!」


 意味もなく名前を呼ぶことが許されることが嬉しくて、何度も何度も振り返っては彼を呼んだ。カイルは散歩の間も口数が少なく、その感情の起伏は掴みづらかったが、私にとっては既にそのようなことは些事になっていた。不思議なことに、庭を二人で歩き回っているうちに、私はカイルが決して自分を害さないだろうことを本能的に理解したようだった。本当に不思議なことだった。たったそれだけの時間で、心のすべてを明け渡してしまいたくなるような気持ちになるほどに、私はこの兄が好きになっていた。


「カイルにいさま。別宅にお戻りになられるまで、また時々、ヘルミナと遊んでくださいますか」


 体の弱い兄をあまり振り回しすぎるのもいけないと、ほどほどで我に返って部屋に戻る時、ヘルミナは終わってしまった散歩に当然のようにこれでお別れなのだろうと思っていた。何の気紛れだったのかはわからなかったが、カイルは『またね』という言葉の通り、こうしてヘルミナに構ってくれた。だからもう終わりなのだろうと薄々と察しながらも、繋いだ手を離すのが寂しくてそう口にしてしまっていたヘルミナを、カイルは灰色の瞳で見下ろした。

今でも思い出す。庭を共に散歩する間、はしゃぐヘルミナの手を握っていた兄の視線はいつ振り返ってもヘルミナを見つめていた。


「それは違うよ、ヘルミナ」


 静かに否定され、予想はしていてもヘルミナはショックを受けた。絶望したと言っても過言ではない。ヘルミナにとって、初めて繋いでもらえた手を離されることは、それが当たり前のことなど分かっていても、あまりに悲しいことだった。欲しくて欲しくて堪らなかったものを、一度与えられてから取り上げられるのと、ずっと与えられないと諦めているのとでは、心の有り様も異なってくる。

 だが、カイルは、ヘルミナの手を離すことはしなかった。代わりに、もう片方の手をヘルミナに伸ばして、病弱とは思えないほど軽々と容易くヘルミナを抱き上げた。


「おまえは、これからずっと、ボクの傍においで」

「……ずっと……?」

「そう。ボクがおまえの手の届くところにいる限り」


 ヘルミナの、何一つとして優秀で美しい兄姉達には似なかった、けれど唯一彼らと同じ色合いを持った黒髪にカイルが触れ、赤い瞳を覗き込む。兄姉達の中で誰とも似ていない、けれどヘルミナが知る誰よりも美しい人形のような兄は、そうして固まったヘルミナの額に口付けた。それは親が子にするような軽い挨拶のような可愛らしい触れ方だったが、両親にもそんなことをされたことはなかったヘルミナは、ただただ驚いて近付いた灰色の瞳を見つめていた。


「おまえは煩くないし、ボクの気にも障らない。いいこだ。ボクがかわいがってあげようね」



 カイルの言葉は嘘ではなく、本邸に滞在している間、彼は年の離れた妹であるヘルミナを思いのほか構ってくれた。

 寄宿舎に通っている他の兄達が休暇で家に戻っている間は、既に別宅に拠点を置いている長男のアゼルを除き、他の家族達も大抵は本邸に揃っている。その中でカイルだけはいつも、付き合い程度に顔だけ見せると早々に保養地に戻っていたのだが、彼がヘルミナに声をかけたこの年は何の気紛れかそのまま滞在を選んだ。

このことに殊の外喜んだのは、普段あまり子ども達に関心を見せない母だった。カイルが母のお気に入りだというのは本当らしく、カイルはヘルミナと共にいない時は大抵母に呼びつけられていた。だが、裏を返せば、それ以外の時はほとんどずっとヘルミナと共に時間を過ごしてくれていたと言える。


「カイルにいさま! おはようございます!」

「……うん……はやい……」


 ヘルミナの挨拶に薄らと瞼を開いたカイルは、それだけ呟くとまた目を閉じてしまう。早いとは言っても既に時刻は朝食の二十分前で、充分に遅かったので、ヘルミナは既に勝手知ったる場所となったカイルの私室で着替えの用意をした。本来ならばこういったことは使用人がやるものなのだが、カイルが奇妙にもヘルミナを気に入って以来、彼は身の回りのことをなんでもヘルミナにやらせたがった。いや、その言い方は正しくないかもしれない。カイルがヘルミナに望んだのは、カイルが本邸に居を置いている間の部屋の移動だけだ。特別に仲の良い兄姉のいる妹弟達も互いの部屋の近くに自室を持っていたから、ヘルミナはカイルがそう望んだことで、ようやく彼が自分に他の兄姉達のような『特別』を望んでいることを理解した。


「カイルにいさま、朝食の時間に遅れてしまうと、かあさまが心配なされます」

「……はぁ……」


 カイルは母のお気に入りだったが、カイルはどうやら母のことがあまり好きではないようだった。朝に弱く目覚めてからもなかなか起き上がらないカイルだったが、ヘルミナが母の名を出すとようやく仕方なさそうに気怠げに体を起こす。前に一度、ヘルミナはカイルが朝食の時間に間に合うよう起きることについて、「面倒だが、アレの相手をすることのほうが面倒だ」と呟いているのを聞いてしまったことがあった。その時はまさか母に向かって『アレ』などと言っているとは夢にも思わなかったため流してしまったのだが、後々から考えるとどう考えてもそれは彼の母に対する心を表す言葉に他ならなかったのだろう。両親から関心も心配も向けられたことがなかったヘルミナは、カイルがどうして母をそのように厭うのか知らなかったが、なんだか聞いてはいけないことのような気がして尋ねはしなかった。


「カイルにいさま、お湯です。お顔を洗って」

「……ん」

「カイルにいさま、お手を。はい、ばんざーい」

「……うん……」


 まだ寝惚け眼のカイルの周りをせっせと回って朝の支度をするのが、ヘルミナのここしばらくの楽しみだった。使用人にもあまり構われないからと、ヘルミナは貴族にしては珍しく五つにもなる頃には身の回りのことは自分でできるようになった。それでも所詮十の子どものすることだ。ちまちまとしていて頼りなく、人によっては鬱陶しいとさえ思っただろうヘルミナのお節介を、けれどカイルは咎めることなく好きにさせていた。元々、母のお気に入りであるカイルは甲斐甲斐しく世話をされることにも慣れていたのかもしれない。ヘルミナを傍に寄らせるようになってから、カイルはヘルミナ以外の人間を傍に寄らせることはなくなったが、『特別』ができた兄妹間ではそれもさして珍しいことではなかった。


「ヘルミナ」

「はい、にいさま」

「おはようのキスを」

「はい、にいさま!」


 着替えが終わる頃になると、寝起きの悪いカイルの意識も覚醒しはじめる。そうすると、カイルはいつも頬にヘルミナからのキスをねだる。ヘルミナはそれがとても嬉しい。カイルの朝を手伝うようになってから、ヘルミナは初めて家族と家族らしい触れ合いをするようになった。ヘルミナの小さな口が、滑らかなカイルの頬に触れるか触れないかの口付けをする。そうすると、今度はカイルに視線で促されるままヘルミナが自分の頬を差し出して、カイルからの口付けを受けた。

 こそばゆいような、柔らかい気配が近付いて離れていく。カイルという『特別』が出来るまで、ヘルミナは他の兄姉達がこのようなことをしていることも知らなかった。カイルに見つけて貰うまではずっとひとりぼっちだったヘルミナにとって、自分を見つけ出してくれた兄は正しく世界の中心だった。

 カイルの朝の支度を手伝った後は、けれど、ヘルミナは彼と共に連れたって行くのではなく、一足先に朝食の席へと向かった。それはカイルの望みだった。直接カイルがそうするようにと言ったわけではなかったが、他の家族のいる前では、カイルはヘルミナに視線を向けない。幼い頃のヘルミナは彼に疎んじられるのを恐れて、その理由をはっきりと尋ねてみたことはなかったが、後から思えばカイルのそれは懸念だったのだろう。

誰も彼もが恐れる長兄のアゼルの存在を除けば、ヘルミナの上の兄姉達は皆、それぞれの『特別』の妹弟を持っていた。次兄であるカイルは既にこの時には十七だった。普段は遠く離れて暮らしており、他の家族と関係が疎遠だったとしても、彼に今まで『特別』がなかったことはそれなりに不思議なことでもあった。

だが、ヘルミナのその密やかな疑問は、カイルと過ごすうちに徐々に薄らとした理解へと至った。どうしてカイルが、人前ではヘルミナに目を向けないのかも。


 結論から言えば、それはヘルミナのためでもあった。

 カイルは母のお気に入りで――そしてそのカイルへの思い入れは、ヘルミナが思うよりも大きなものだった。

 如何にカイルが人前でヘルミナに構うことをせずとも、屋敷から出ることのない二人がいつも傍にいれば自ずと察する者は現れる。人の口に戸は立てられず、また唯一の『特別』以外には関心のない兄姉達もまた、母におもねるために積極的に告げ口を行った。

 その結果、ヘルミナはほとんど言葉をかけられた記憶もない母に初めて折檻され、身を以て彼女のカイルへの執着を知ることとなった。

 折檻といっても、母自らヘルミナに手を下したわけではない。事は母がカイルを連れて外出している時に起こった。

 母に言いつけられた兄姉達の一組が、ヘルミナを散々に打ち据えたのである。

母の命と言えども、使用人が家の子どもを傷つければ処罰される。元々、血の繋がりがあるだけの、限りなく情の薄い家族だった。実子であるヘルミナと同じ立場である兄姉達がその役目を負ったのも、理解はできる。だが、理解を示せるからといって、ヘルミナにとってその行為が恐ろしくなかったかと問われれば否だった。


「バカね。カイルに手を出すなんて」

「バカだ。あれは俺達とは違うのに」


 意地悪な双子達。生まれた時から互いが互いにとっての『特別』であったこの二人は、だからこそ自分達以外の他者のことを何とも思っておらず、その上に目敏くて残虐だった。他の兄姉達の失敗や不手際を見つけては、いつも両親に報告して甘い蜜を吸っていたので、兄姉達の仲でも一番冷ややかな目で見られていて、同時に彼らも自分達以外のすべてを見下しきっていた。この双子が特殊なわけではない。この家の人間は皆、外の世界では冷血非道と言われる類いの人間ばかりだったので、これは最早血筋であったのだろう。


「まあ、でも。カイルも変だけれど、貴方も充分変だからお似合いだったのかもね」

「姉様の言う通り。ヘルミナ、お前は生まれてくるところを間違えたような子だね」


 当時まだ十四歳だった双子は、まだ性差によって完全に分かたれる前の容姿をしていて、並んでいると揃いの天使のようだと言われていたが、その時ばかりは悪魔のようだった。双子の虐めは、単純な暴力だけに留まらないから性質が悪い。不意を突いてヘルミナを階段から落とした双子は、階下に転がり落ちて蹲るヘルミナの傍らに座り込み、ヘルミナの耳にヘルミナの心を折るようなことばかりを囁き続けた。


「痛い? ヘルミナ、かわいそうなヘルミナ」

「痛い? でも自業自得だからね、ヘルミナ」


 双子のほうでも大事に至るような怪我を負わせるつもりは最初からなかったのだろう。彼らは要領の良い子どもだった。階段からヘルミナが落ちても、床に敷かれた上質なカーペッドが受け止めてくれることを知っていたし、まだ十の体重の軽いヘルミナが落ちたところで、せいぜいが酷い打撲程度にしかならないことを把握していた。その状態で、身動きの取れなくなったヘルミナを散々蹴ったり打ち据えたりしたので、いまだにヘルミナは彼らを見るとその時の恐怖を思い出す。


「泣いてごらんなさい、ヘルミナ」

「泣き喚いてごらんよ、ヘルミナ」


 ヘルミナは声を上げて泣かなかったが、それは痛くなかったからではなく、逆に痛みが勝ちすぎて声も出なかっただけだった。ヘルミナが落ちた時の音は確かに屋敷の中に響いていただろうに、誰も踊り場に出てくる気配はない。皆知っているのだ、と幼いヘルミナは痛みに耐えながらもぼんやりと理解した。絶望など今更だった。わかりきっていたことだ。この家に、ヘルミナを気遣う者などいない。カイルが初めて、ヘルミナに関心を払った人間だったのだ。

 強打した身体の痛みよりも、責め苛まれる心の痛みがより強くヘルミナを悲しくさせた。時間が経って、衝撃よりも痛みの感覚がはっきりしてくると、その感情は余計に激しさを増した。心ない双子達の言葉を吹き込まれ続け、とうとう涙を溢れかけさせた時のことである。


「何をしている」


 唐突に真上から落ちた声に、即座に反応を示したのは双子のほうだった。彼らは同時に煩わしそうに頭上を振り仰ぎ、そしてその先の光景を目にすると、驚愕したように硬直した。そうしてそのまま、示し合わせたように即座に踵を返すと、ぱたぱたと駆けてあっという間に去って行った。

 しばらくは、何の音も聞こえなかった。ヘルミナは相変わらず痛みに起き上がることもできず、だからそのまま床に転がっていた。やがて、階段を下りてくる靴音が聞こえ、横たわるヘルミナの傍らで止まった。染み一つない、磨き抜かれた上質な靴が目の前にあり、ヘルミナはただ涙の膜が張った瞳でそれを見た。

 その時は打ち付けた体が、双子に踏まれた手が、無残に折られた心が酷く痛んでいたので、かえって目の前に立った人物に対する感情も沸かなかった。ただ、痛い、と思っていたことを覚えている。痛い、痛い、と小さく呟きながら、同時に助けを求めてカイルの名も呼んだ気がしたが、意識が朦朧としていたヘルミナにはそれも定かではなかった。


「――――……ヘルミナ」


 階下から、カイルの声が聞こえた気がして、ヘルミナは薄らと瞼を開けた。目の前にあった靴の爪先は踵を返して、そのまま去って行く。入れ替わりのように、それから時間も経たないうちに今度は違う靴の先が見えて、その人物が膝を落としたことで今度は顔を見ることができた。


「にい、さま……」


 ヘルミナが小さく呼びかけると、カイルは珍しくいつもの無表情とは異なる顔を見せた。冷え冷えとした眼差しが倒れ伏したヘルミナの小さな体に注がれていたが、それはヘルミナに向けられているというよりも、ヘルミナをこのような状態に追いやった者に対しての感情だと不思議と察せたから恐ろしくはなかった、カイルは動けないヘルミナを自ら抱え上げると、そのまま自室に連れ帰って、しばらくは医者以外は誰も自室に通さず、また自身も部屋から出ることはなかった。その時の記憶を、ヘルミナはよく覚えている。医者の処方が良かったのかヘルミナはすぐに起き上がれるようになったが、カイルは大事を取るようにとヘルミナに彼の部屋を出ることを禁じて、数日をふたりきりで過ごした。

カイルは、母が自分に向ける執着についてよくよく理解していたのだろう。

 カイルが目をかけるようになったヘルミナを排しようとしたのが母だったならば、カイルが自室に籠城したことに一番堪えた様子だったのも母だった。

 結局、我慢比べで早々に根を上げたのは母のほうで、泣きながら出てきてほしいと願った母にカイルはヘルミナの身の安全を引き換えに願い、それは渋々とだが受け入れられたらしかった。如何にカイル抜きでのヘルミナという存在が、今まで何とも思われていなかったかが分かる話だったが、その頃にはもうヘルミナも家族に期待を持たなくなっていた。ヘルミナにはカイルという兄があったし、少なくともその兄が自分を求めているのならば、それで充分だろうと思えた。


 カイルが母に釘を刺してくれたおかげで、ヘルミナはそれから表立って他の兄姉達からいじめられることはなくなった。

 だが、カイルが本邸に留まっていられるのは休暇中のみだ。休暇が明けて他の兄達が寄宿舎に戻る時期になれば、彼もここから離れた別宅へと戻らなくてはならない。それも元はいえば体の弱いカイルのためであったので、いくらカイルが望もうとも、また母が望もうとも、決して曲げられることはない決まり切った事実だった。


「おまえを連れて帰れればよかったのに」


 ヘルミナにとっての初めての兄は、ヘルミナが期待するよりも、もっとずっとヘルミナのことを可愛がってくれた。去り際、場所に乗り込む寸前までヘルミナのことを離さなかったカイルは、ヘルミナを別宅に連れて行くことを交渉までしたらしかった。ただ、時期が悪かったのだろう。まだ父のほうに了承を取れれば良かったのだろうが、貿易関係の仕事に手を広げていた父はこの頃は特に外国での仕事が忙しく、本邸に滞在しているのも年に数ヶ月程度だった。母はカイルを気に入っていたが、それは自分の人形に対するような執着であって、カイルが特別に目をかける人間の存在を快く思ってはいなかった。たとえそれが、どちらも実子であったとしてでもである。そのことを幼いヘルミナも薄々と察していたからこそ、別れる時も寂しがりこそすれ駄々を捏ねることはしなかった。ただ、カイルと離ればなれになった後、彼が自分のことを忘れてしまうのが恐ろしかった。次の休暇は半年後のことである。幼い妹を可愛がってくれた気持ちも、間が開けばどうなるかもわからない。


「泣かないで、ヘルミナ。でも、そうしてボクのことを覚えておいでね」


 けっして忘れてはいけないよ。

 おまじないのようにそう囁いて、カイルは最後にヘルミナを抱き締めた。滅多に表情を動かさないカイルの冷ややかで端麗な表情は最後までずっとそのままだったが、ヘルミナを見る彼の瞳は優しく、引き寄せられた腕の中はヘルミナが知るどの日溜まりよりも暖かった

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