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03


 こうなった最初のきっかけについては、よく覚えている。

 ヘルミナは由緒正しい公爵家の六女として生まれた。

 歴史が長く格式を重んじる家によくあることで、家同士の政略結婚で契約同然に結ばれていた両親の冷え切った仲にも関わらず、兄弟や姉妹は多かった。そうは言っても家名を重んじる家が、不慮の事態のために世継ぎの子供以外の“保険”として子を多く作ることもまた珍しいことではなかったため、彼らは高貴なる者としての義務に従っただけだったのだろう。特に、遺伝的に早世する者が多い家系だったらしいので、家系断絶の危機を防ぐために嫌が応でも“保険”は増えた。

幼い子供の目から見ても、両親の間に互いへの気遣いや親愛の情といったものは一切存在せず、そうしてその両親の姿に倣うように、数多くいる兄弟姉妹同士の仲もまた冷たいものだった。皆それぞれ例外的に仲の良い兄弟や姉妹が一人ずつはいたが、それ以外は儀礼的な挨拶のみで共に遊ぶことはおろか、会話をすることもほとんどない。

社交のため外に出る時は家名に相応しい外面を被り、にこやかに仲を演じることはあったようだったが、それもいまだ日々の大半を屋敷の敷地内で過ごす子供達には関係のない話だった。ヘルミナもまた幼い頃は一日の大半をほとんど屋敷の中で過ごしていたが、他の兄弟や姉妹達と異なり、ヘルミナには特に仲の良い特別な兄弟はいなかった。

容姿の良し悪しが社交界での生き残りや処世術に繋がる貴族の習わしから、名家の子どもに目見の良いものが多いように、ヘルミナの姉妹や兄弟達もまたほとんどが人形のように美しかった。しかしその中で、姉妹の末子として生まれたヘルミナは例外的に平凡な容姿をしており、そのため両親は早々にヘルミナから関心を失った。他の貴族の家でもそう珍しい話ではないが、ヘルミナの家は年功序列が厳しく、家の主人である両親のどちらもから半ば見離されたようなヘルミナに、他の姉妹、兄弟達が構うことがなかったのはごく自然な成り行きだったのだろう。

ヘルミナはいつも、他の兄弟や姉妹達がそれぞれのパートナーと仲良くしているのを、遠くから眺めて、ぽつんと一人で過ごしていることが多かった。兄弟、姉妹達がたくさんいれば、自ずと優先度は将来の期待度の高い子どものほうに向かったため、容姿だけでなく能力自体も取り立てて特筆するところのなかった凡庸なヘルミナには、ろくろく侍女や家庭教師も着けられることはなく、ヘルミナはいつも孤独だった。それでも、食事の場には同席できたし、完全に存在を無視をされるようなこともなく、公爵家はゆうに十人を越える兄弟や姉妹達に充分な教育を与えられる程度には裕福だったため、衣食住に事欠くこともなく、関心の無さから死ぬようなことはなかった。

ヘルミナはただ孤独で、物心ついた頃にはもう両親の関心を得ることは諦めざるを得なくとも、仲の良い兄弟や姉妹達を眺めては、いつも羨ましいような気分になって、それでもどうしようもなく一人でいた。いつかまだ幼い弟が大きくなって、自分の遊びの相手になってくれるか、そうでないのならば新しい妹が増えればいいのにといつも夢想していたことを覚えている。


 転機が訪れたのは、ヘルミナが十になった頃。寄宿舎に入っていた幾人かの兄達が長期休みのために本邸に帰宅した時のことである。

 久方振りの上の兄達を迎えるため、普段は氷のような冷えた屋敷の中にもどこかしら浮き足だったような、慌ただしい雰囲気があった。特別に仲の良い兄達が帰ってくると上の姉達は胸を弾ませていて、下の姉妹や兄弟達も、そこまでの関心はなくとも自分達よりも立場が上である兄達の帰宅を気にしていた。普段は屋敷の中では透明な存在のようになっているヘルミナも、上の兄達が帰ってくる時は、彼らから家族の一員として自分のための土産を与えられて、それを楽しみにしていた。機嫌が良ければ、気紛れな兄のうちの誰かが、久方振りに会った妹に対して、一言二言言葉をかけてくれることもある。

 ほとんど関心を払われず、期待をされることもなく、ただいつか厄介払いをされる時を待つかのように放置されているヘルミナは、家族の情というものに飢えていて、家族のうちの誰から向けられる言葉であっても、それが優しいものであれば舞い上がるほどに喜んだ。と言うのも大抵普段ヘルミナに向けられる言葉といえば、儀礼的な挨拶の言葉や、何かしらの連絡事項のみで、会話らしい会話もなかったためだった。だが、兄達が帰ってきて、すぐさま彼らがそれぞれの仲の良い姉達に取られてしまった光景を眺めて、ヘルミナの淡い期待は萎んだ。


 元々家にいた他の兄弟や姉妹達は、普段通りヘルミナに関心を払うことはない。今年こそは誰かに声をかけてもらえるのではないかと期待していたヘルミナは、結局誰から関心を向けられることもなく、とぼとぼと屋敷の中を歩き回っていた。自分が惨めで、とても悲しいような気分だった。これから先も私は、お嫁に行くまで誰からも関心を抱かれず、この家で一人で孤独に耐え忍んでいなければいけないのだろうか、と悲嘆に暮れて涙さえ滲んできて、手短なところにあった図書室に飛び込んだ。

 日の当たらない奥まった場所にある図書室には大抵兄弟や姉妹達はあまり近寄らず、何かあっても入ってくるのは用を頼まれた侍女ばかりだということを知っていたので、ソファーに伏して一人で泣き濡れようと思ったのだ。自室よりも近かったという理由で入ったその場所には、けれど普段はいない先客がいた。


「――――泣いてるの」


 唐突に降った男の声に、ヘルミナは目を見開いた。

 慌てて周囲を見渡したが、声はどこから聞こえてきたのか判然としない。声は低くも高くもない若い男のものだった。この屋敷には、ヘルミナより年下の男はまだ物を明瞭に話せない弟くらいしかいない。屋敷で雇っている使用人達の中にも若い男はいなかったため、それは兄達のうちの誰かの声に違いなかった。耳馴染みのない声に言葉を返せないで、入り口に立ち竦んでいるヘルミナに、どこから見ているのか再び声がかかる。


「そんなところに立っていないで、おいでよ」


 声の主が誰かはわからなかったが、てっきり追い出されるものだと思って身を固くしていたヘルミナは、招くような言葉をかけられて驚いた。恐る恐る一歩を踏み出し、慎重に本棚の間を歩く。

自分よりも背の高い本棚が天井近くまで空間を圧迫しているこの場所は、本の保存のために窓がなく、光が差さないためいつも薄暗かった。勉強の時くらいしか兄弟や姉妹達は近づかず、ヘルミナも自室で他の子ども達が楽しそうに遊んでいる声を聞くのが辛くなった時くらいにしか訪れることはなかったため、この場に満ちる重厚な気配には余所余所しさを感じた。

部屋の中をぐるりと見て回っても、声の主はどこにも見当たらなかった。困惑してしきりに本棚と本棚の間の通路を覗き込むヘルミナに、また声が降ってきた。


「おちびさん。そんなところにいるわけないだろ」


そう、降ってきたのだ。今度は思いのほか近いところからかけられた声に、はっとなって顔を上げる。

ヘルミナが首を目一杯逸らして見上げた真上、高いところにある本を取る時に使われる梯子の一番上に腰掛けて、本に視線を落としている青年がいた。本の上に落ちていた視線がが、おもむろにこちらへ一瞥を向ける。その灰に近い薄い色の瞳に見据えられて、ヘルミナは思わず息を呑んだ。


「――――おまえは、ボクのことは知ってるのかな」


 ぱたん、と本が閉じられる音が沈黙に満ちた静謐な図書室に響いた。どこかひんやりとした冷たさを感じさせる、それでいて不思議と人の心にするりと入り込んでくるような声に問われ、ヘルミナは我に返って恐る恐ると頷く。

 確かに、ヘルミナはこの青年のことを知っていた。しかし同時に、名前以外はほとんど知らないとも言えた。

彼は、ヘルミナの兄のうちの一人だった。兄弟達の中では上から数えて二番目の次男に当たる。生まれつき体の色素が薄く、体も強くはないため、兄弟達の中でも一人だけ普段寄宿舎ではなく、遠方の保養地にある別宅で暮らしている兄だった。この本宅に帰ってくるのは年に数回あるかないかで、王都の空気はあまり体に良くないからと、長い間滞在することもない。ヘルミナが彼のことで知っているのは、長くは生きられないだろうと生まれてすぐに医者に告げられた彼の、その生まれついての儚さがより一層拍車をかける端正な容姿が、見目麗しい兄弟姉妹達の中でも飛び抜けていたことと、彼が母の一等お気に入りの兄であるということだけで、個人的に話をしたこともなかった。

他の兄達の帰宅と合わせて、彼も呼び寄せられたのだろう。ヘルミナが彼の声に聞き覚えがなくて、けれどその存在だけは認識していたことには、そのような理由があった。

カイルという名の兄は、ヘルミナが首肯したのを視界に収めて、そう、と呟いた。何の興味も関心もなさそうな、その身に纏う色素と同じく、どこか冷え冷えとしたような印象を与える声だった。何か言われたわけではなかったが、一度も話をしたことのない上の兄という存在と、その声の調子から既に及び腰になっていたヘルミナは酷く緊張していた。それでもそこから逃げ出さなかったのは、逃げ出して後で難癖をつけられて折檻をされることが怖かったのではなく、彼がヘルミナを呼び寄せたからだった。両親からも、兄弟姉妹達からも、どころか他の誰からも、滅多に名前を呼ばれて呼び止められることのないヘルミナは、珍しく自分自身に誰かが向き合ってくれている現実に緊張と共に胸を高鳴らせていた。


「丁度良かった。寒かったんだ」


 カイルは、よくわからないことを言った。ヘルミナは戸惑い、数秒間固まって、もしや毛布を持ってくるようにという意味だろうかと思い至った。年が離れていて普段は別の場所に暮らしているカイルの体がどれほど弱いのかヘルミナはよく知らなかったが、図書室には日の光が届かないため確かに日中でも冷え込むことはある。毛布を取りに慌てて踵を返そうとしたヘルミナに、しかし引き留めるように「どこに行くの」という声が降った。


「も、毛布を取りに……」

「いいよ、そんなことは。湯たんぽがきたじゃないか」


 戸惑うヘルミナを王者のように見下ろしながら、カイルは「おいで」と先程聞いたのと同じ言葉をもう一度囁いた。どういう意味かわからず真意を問うように見つめ返すと、カイルが片手をひらりとこちらへ向けた。温度のない灰色の瞳で、ヘルミナを真っ直ぐに見据えながら、梯子の一番上に座ったまま囁く。


「ここまでおいで」


 ボクのいる、ここまでおいで。

 そうはっきりと皆まで言われて、ようやくヘルミナは彼の意図を察した。それと同時に、目を丸くして戸惑いを深くする。カイルの腰掛けている梯子は大きなものだったが、どう考えても二人座れるだけの横幅はなかったし、何よりとても高かった。あんな高く不安定な場所に座っていて怖くないのかと十歳のヘルミナには足が竦みそうなほどで、そもそも普通この家の者は皆、高いところにある本は使用人に取らせるもなのでヘルミナはそこが座って良い場所だとも知らなかった。


「……に、にいさま。そこは危ないのでは」

「危なくないよ。ボクがいるのだもの」


 だからおいで、と噛んで含めるようにゆっくりとカイルは言った。相変わらず声は起伏がなく淡々としていて冷たい印象を与えられるのに、すぐに命令に従わないヘルミナに苛立つような雰囲気も、怒っているような気配もない。自分と接する時には常に強迫的か素っ気ない兄弟姉妹達の態度しか知らなかったヘルミナは、それと比べれば随分と穏やかなカイルの声に、だから怯えることこそなかったものの、それでも言われた通りにするべきかしばし逡巡した。

 しかし結局、話しかけてくれたばかりか、鈍間なヘルミナに苛立つこともなく、自分に傍にくるように、と望んだ兄の言葉を嬉しく思う気持ちがあったのだろう。実を言うとヘルミナは高いところはあまり得意ではなかったのだが、恐怖を押し留めて梯子に足をかけた。一歩、二歩、とそろそろと慎重に足をかける。ヘルミナが梯子を登ってくる間、カイルは閉じた本の上に肘をついてそれを眺めていた。

 ヘルミナが幼かったこともあるが、梯子が大きかったこともあって、カイルの座っている一番上に辿り着くまでには時間を要した。やっとのことでヘルミナは後一歩でカイルの座っている場所に届くというところまできたが、そこで目の前の板と板の隙間から下の景色を視界に入れてしまったことで、必死に押し込めていた恐怖がぶわりと迫り上がった。動揺して体が傾き、手が離れかける。あっと目を見開いて思った時、伸びてきた手に腕を掴まれて一気に引き上げられた。

 気づけば、ヘルミナはカイルの腕の中にいた。細身の、けれど病弱という割には痩せすぎているわけでもない、確かに青年だということがわかる体がぴったりと自分を抱え込んでいる。


「ね、怖くなかったでしょう」


低くも高くもない、冷たい声が耳朶に吹き込まれた。ヘルミナが呆然として顔を上げると、人形のように端正な顔をした男の長い睫が見えた。伏し目がちに灰色の瞳を隠しているその睫までも、色素が抜けた薄い色をしている。他の兄弟や姉妹達は皆、黒髪か茶髪で、当主である父と揃いの珍しい赤目をしているため、この家にあっては逆に珍しいその色に、ヘルミナは束の間魅入られたように動けなくなった。


「決めた。ボクはおまえにしよう」


 その時、腕の中に捕まえたヘルミナを見つめてそう言った兄の言葉の意味を、ヘルミナはすぐには理解できなかった。後になってようやく、この時、この瞬間、この兄弟達の中で一等美しかった兄が、どうしてか傍に置く存在として自分を選んだのだということを理解したが、しかしそれにしたところで「何故」という理由についてはずっとわからないままだった。

 カイルは、彼の腕の中で固まってしまった幼い妹を、やはり病弱で滅多に宛がわれた屋敷から出ることもないという印象を裏切るようなしっかりとした力で抱き上げて梯子を降りた。床に下ろされて見下ろされると、カイルとヘルミナの年の隔たりによる身長差が目に見えて際立った。カイルはこの時十七で、姉妹達の末子で十のヘルミナとは七つも年が離れていた。カイルは取り立てて長身というわけでもなかったが、それでも子どもであるヘルミナから見れば充分に大きく、大人だった。


「ヘルミナ。おまえ、他に仲の良い兄や姉はいないね」


 そこで初めて名前を呼ばれて、ヘルミナはカイルが自分のことを認識していたことを知った。驚いてろくに口も利けずに無言でなんとか首を横に振れば、灰色の瞳が眇められる。ヘルミナの否定に満足したような仕草だった。話をしたのはこれが初めてだったが、カイルはこの時から既に、年に似合わない老練したような落ち着き払った態度を身につけていた。それが生来のものだったのか、生まれてすぐに将来を諦められて本宅から遠ざけられた彼の環境に影響されていたのか、どちらか真実はわからなかったが、ヘルミナは恐らく前者なのではないかと思う。カイルの静かで動くことのない眼差しに、ヘルミナはいつもどこか投げやりな諦観に似た何かを感じ取っていたが、冴え冴えとした冷たい空気を纏う彼は、同時にこの世界から浮かび上がった異物のようだった。

実際、カイルはこの家では異物だったのだろう。兄弟や姉妹達の中で唯一共通することのない色を持った彼は、だからこそ、気紛れのようにヘルミナに目を留めたのかもしれない。彼とは違って、家族と同じ色彩を持ってはいても、誰からも見えないように扱われていたヘルミナに。

 ヘルミナは、何かを言おうとした。何を言おうとしたのか正確なところはわからず、また、恐らく何か意味のあることを言おうとしたわけでもなかったのだろう。ただ、目の前で今までヘルミナが向けられたことのない眼差しを逸らすことなく向けてくれている兄に対して、何か言わなければと思った。魚が息継ぎをするようにはくりと口を開けて、しかし、そこから声が発せられることはなかった。その前に、横から別の声が響いたからだった。


「カイル」


 背筋に寒気が駆け上がるほど、美しい低音だった。その、明確に聞き覚えのある声を耳に入れた瞬間、ヘルミナは自分の心臓が止まったかと思ったことを覚えている。

 呼びかけられたカイルのほうは、目だけをそちらに向けるという薄い反応だったが、傍にいたヘルミナのほうはほとんど反射的に体を震わせていた。振り返れば、そこにいたのはやはり予想と違わない男で、思いのほか近い距離にヘルミナの体中から音を立てて血が引いていくような錯覚に陥る。


「母上がお前を探している」


 夜闇を凝縮したような深い黒の髪に、血のように赤い目をした男は、長兄であるアゼルだった。情念といったものを欠片も持ち合わせていないような、カイルよりも余程冷え冷えとした凍るような雰囲気を纏っている。こちらもカイル同様、ヘルミナにはほとんど関わりのない兄ではあったが、流石に一族の時期当主である長兄についてはカイルについてよりは知っている。だから、彼がどんなに冷酷で、血も涙もない性格をしているかについても、よくよく理解していた。

 アゼルは、端的に言って非人間だった。美しいのは見た目だけだ。長兄の責任や重圧に対して一切動じるようなことはなく、求められることを求められる以上にこなし、誰にも口を挟ませないだけの政治的手腕を持って生まれた彼は、引き換えに人間的な情を母親の腹の中に忘れてきたのだと影で揶揄されるほど他者に対する心を持っていなかった。

 この家の兄弟や姉妹達の中で、恐らく、彼に打たれたことのない者はいないだろう。常から暴力的であるというわけではなかったが、彼の視界を不用意に穢すようなことがあれば、アゼルは血の繋がった弟や妹であろうと容赦なく鞭打った。それも、それに対して悦びや感慨を持っているふうでもなく、小蠅に苛立って眉をひそめる程度のごく自然な態度でそうする。兄弟や姉妹の中で、長兄であるアゼルに逆らえる者はいなかったし、両親達も飛び抜けて優秀な跡継ぎであるアゼルに対しては、ヘルミナが記憶している限り一度も苦言を呈したことはない。ヘルミナはいつも家族の誰かに構って貰うことを望んでいたが、アゼルだけは別だった。実を言うと、ヘルミナはあまりに幼かったからか、それとも家での存在感が希薄であったためか、アゼルに鞭で打たれたことはまだなかったのだが、それでも彼が同じ空間にいる時は常に張り詰めたような緊張感を感じていた。常から無表情のアゼルの感情の起伏は読み取りづらく、いつ何時どのような気紛れで彼の不快に触れるのかは予想しづらい。こちらから関わろうとせずとも、基本的には関わる機会のない兄だったが、その恐怖は一種刷り込みのようにヘルミナの中に植え付けられていた。

アゼルはこの頃には既に本邸を出ていて、自らの所有する邸宅から王宮へと出仕していたのだが、カイルと同様に一族の集まるこの機会に呼び戻されていたようだった。兄妹達の中では筆頭の影響力を持つ長兄も、現当主とその妻である両親に刃向かうことはなかった。常ならば使用人を介さず彼自ら動くなど考えられないことだったが、母の言付けを伝えるためにカイルを探していたのだろう。


 カイルは、アゼルに対して「わかった」と返事をした。端的なその言葉に、アゼルに対してそのような言葉遣いをする人間を見たことがなかったヘルミナは驚いて思わず息を詰めたが、アゼルはすぐにカイルから視線を逸らして咎めることはなかった。だが、次いでふとカイルの横にいたヘルミナに視線が向くと、それは何故だかすぐには逸らされず、自分と同じ赤い目がじっとこちらに向けられる姿に、ヘルミナはにわかに硬直する。

 動いてはいけない、と本能的に思ったことを覚えている。それはまるで、敵わないと一目見てわかる大きな獣を前にして微動だにせず息を殺すように、ヘルミナは僅かにも動けなかった。頭を下げなければ、と思ったが、同時に目を逸らせば自分は殺されてしまうのではないかという多大な恐怖を感じていた。アゼルの酷薄な色を湛えた冷たい眼差しは逸らされない。後数秒でもそのような状態が続いていたら、恐らくヘルミナは明らかにそれが悪手だとわかっていながら、堪えきれずに泣き出していた自信があった。しかし、ヘルミナが泣き出すよりも先。そしてアゼルが目を逸らすよりも先に、透き通った水のような声が場の空気を霧散させた。


「アゼル。ヘルミナが怖がっているよ」


 伸びてきた腕に抱き寄せられて、ヘルミナの彫刻に変わったように動けなくなっていた体に自由が戻った。呆然と顔を上げた先に、ヘルミナの頭に触れるカイルの姿がある。急な接触とアゼルへの口の利き方にヘルミナが驚きを隠せないでいるのと同様に、アゼルもこの状況に―正確には何についてだったのかはわからないが―驚きを覚えたようだった。常に仄暗い陰を孕んだような深い赤の瞳が、珍しく見開かれ、一拍も間を置かずに眇められる。

 この時、ヘルミナは自分と同じ色をしたアゼルのその瞳に、何か本能的に不穏なものを感じ取った。それは獣を前にして震える小動物が命の危険を察するように、ほとんど意味も根拠もないものだったが、同時にその瞳から感じ取れることのすべてが事実としてそう感じさせずにはいられない類いのものだった。


「おや、ふふ」

「…………」


 真正面から放たれる威圧感に真っ青になって、思わずこの日に至るまで一度も関わったことのなかった隣の兄に縋り付くと、カイルは何が愉快なのか緊張感なくそこで初めて小さく笑ったが、逆にアゼルの瞳は底冷えするような酷薄な光を湛えた。

 しかし結局、ヘルミナが危惧したようにアゼルがカイルを咎めるようなことはなく、この長兄に意識を向けられるという危機的状況に陥ったヘルミナのほうもまた、この場では何の言葉もかけられることはなかった。


 カイルはアゼルと共に図書室を出る際、ヘルミナにだけ見えるように口を動かして、またね、と音もなく言葉を形作った。二人が去った後、ヘルミナはしばらく立ち竦んだままでいたが、しかし徐々に現実が頭に浸透してくると、崩れ落ちるようにして床に座り込んだ。

 たった一日で、人生の半分以上の驚きを費やしたような疲労感が幼い肩にのし掛ってくる。このような日は二度と来ないだろうとさえ思った。アゼルが恐ろしい悪魔なら、今日初めて話したカイルはまるで天使のようだった、とぼうとなりながらヘルミナは夢見心地で先程起きた記憶を反芻する。

天使と悪魔。それは心中に自然と浮かんだ考えだったが、二人の色の対比も相まって、実にそれらしく思えた。実際、それからの日々において、ヘルミナの頭には何度もその言葉が過ることとなった。

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