02
都市部の中央にあるアゼルの邸宅に戻ってきても、早々に場を辞すことは許されなかった。他人を自分の領域に入れることを嫌悪するアゼルの性質から、本邸とは異なり、アゼルの私有するこちらの邸では必要最低限の使用人しか雇っていなかった。その必要最低限の範囲に、アゼルの身の回りの細々としたことをする侍女の存在は含まれていなかった。だからいつも、アゼルの支度の用意をするのはヘルミナの仕事だ。
常のように着替えから夜の支度まで手伝わされることは想像していたが、しかしヘルミナ自身、夜会用のこの服で動くことは難しい。着慣れた使用人用の服に着替えるため一度退出を申し出たところ、アゼルはこちらを見もせずに短く告げる。
「こちらへ」
氷を連想させる冷徹な響きの声は既に耳慣れたものだったが、それでもヘルミナはその声音だけで、彼の命に従った先に自身の身に降りかかるあらゆる不幸を連想して一瞬足が竦んだ。アゼルは明らかに機嫌が悪かった。この男の機嫌が麗しい時などないに等しかったが、こういう時は大抵酷い目に遭わされる。
だが、その一瞬の逡巡が不味かったのだろう。アゼルは自分の言う通りに従わない人間を唾棄すべき無能と捉える男であったし、たとえ血が繋がっていようといまいと、アゼルにとってヘルミナは自身の自由に使える奴隷以外のなにものでもない。
「ぁっ……!」
「一日に二度も、その耳は飾りかと言わせるつもりか。飾りなのは頭のほうだったか?」
こちらに歩み寄ってきたアゼルは、逃げることもできずに立ち竦んでいたヘルミナの腕を掴んで、乱暴に引いた。アゼルは決して屈強な体格というわけではなかったが、そもそも恵まれた長身体躯の男である。ヘルミナとは八つも歳が離れている彼は今年二十六になり、十八のヘルミナからすれば絶対的な君主だった。
抵抗の余地もなく長椅子の上に投げ出され、起き上がろうとしたところをのし掛かられる。黒手袋をつけたその指がヘルミナの背筋を伝い、ドレスの紐にかかった瞬間、ヘルミナはしてはいけないと知りながら拒絶の言葉を叫んでいた。
「い……嫌っ! 自分で出来ます、アゼル様……!」
「黙れ。鞭打たれたいか?」
アゼルの手が、彼が常から携帯している腰の鞭に打たれたのを見て、ヘルミナはぴたりと動きを止めた。体に覚え込まされた痛みに、反射的に体から血の気が引いていく。蒼白になって硬直したヘルミナの体に、アゼルの手が這った。しゅるり、と音の後、背中の締め付けが緩んで、ドレスの紐が解かれたことを知る。
ヘルミナは、目を瞑って時間が過ぎるのを待った。
やがて完全にドレスの締め付けが解けると「起きろ」と命じられて、のろのろと体を起こす。相手に背を向けるような姿勢になると、背後の男はそのまま無言でコルセットを取り外しはじめた。やがてそれもストンと落ちると、ヘルミナはただの布と化したドレスを肌に合わせながら震えていたが、頭上から降ってきた言葉はやはり無慈悲なものだった。
「それで、私の着替えの支度もできるだろう」
「……せ、せめて、代えの服を取りに行かせてくださ……」
「必要ない。それとも、裸に剥かれたいのか」
ヘルミナは反論を諦めた。アゼルの手に触れられた感覚の残る体はまだ震えていたが、脚を叱咤して立ち上がる。夜会服の下は薄い布地のドレスしか着ていない。下着と同じ姿を晒すのは年頃の娘にとっては耐え難いほどの羞恥で、ましてや貴族の娘にとっては嫁入りにも影響するほどだったが、ヘルミナの自由や尊厳はすべて目の前の男に握られていた。今更嫁入りなどを心配するだけの希望もヘルミナにはなかったが、羞恥心ばかりはどうにもならない。けれど既に脱げてしまった布地で体を隠したままでは着替えを手伝うことなどできるはずもなく、アゼルの視線を感じながらも、仕方なしにそれを手放した。
「早くしろ。今日はもう休む」
「…………はい」
命じられた通りに、服を脱がせていく。アゼルの着替えは、毎日朝も夜もヘルミナが手伝っていたため、既にその手付きは慣れたものだった。なるべく今の自分の惨めな状況から意識を逸らしながら、手早く着替えを勧めていく。ヘルミナの手によって夜会用の服を脱がされた後、アゼルは浴室へと移動して、ヘルミナに体を清めさせた。指の先まで丁寧に、しかし素早く手拭いで清め、夜着の軽装へと着替えさせる一連の動作も、毎夜繰り返していることである。今日は珍しくヘルミナを連れ立って出かけたため、湯の用意が出来ていなかったので簡易的なものになったが、アゼルもそれに文句は言わなかった。
アゼルは基本的に、ヘルミナが失敗をしない限りは無用に喋ることをしない。言葉を発する労力を自分に割かせる人間を疎んじている気配さえあるこの男の逆鱗に触れることが恐ろしく、ヘルミナもひたすらに黙々と作業を続けた。
乾いた手拭いで体を拭き終わり、夜着の軽装に袖を通すと、アゼルは宣言通り真っ直ぐに寝台へと向かった。脱いだ衣服を抱えたヘルミナが、夜の挨拶もそこそこに退室しようとすると、遮るように冷たい声がかかる。
「こちらへ」
ヘルミナは、ここに鏡があったら恐らく自分の顔色は今にも卒倒しそうに蒼白なのだろうと察しながらも、言う通りにした。流石に、二度目を破ったらどうなるのかはわかりきっていた。アゼルは、赤子でもそれよりは速いと思われるほどの速度で傍に寄ったヘルミナの腕を掴むと、強引にベッドの上に投げ出した。先程と同じだ。上等なベッドはまだスプリングが効いていて多少は衝撃が緩和してくれたが、体の痛みなどよりも余程恐ろしい魔物を前にして、ヘルミナは萎縮しきっていた。
「……ぁっ……や……っ!」
今までの経験から薄々とそうなることはわかっていたのに、組み伏せられて拒絶の声が出た。首を捻って顔を背けると、それを咎めるように顎を掴まれる。しなやかで美しいが、骨張って男性を感じさせる長い指が食い込む。今度は手袋越しではなく、直接触れた指が、ひやりとした冷たさを伝えてくる。まるでその体に流れる血の凍ったような冷たさを表すように、この男の体はいつも冷たい。
「あ、アゼル様っ、嫌です、やめて……っ」
首筋に熱い感触が這って、一拍遅れてそれが男の唇だと気づく。何度されても決して慣れることのない感覚にぞっと体中の血が下がったような気がした。だが、ヘルミナの希望と気持ちとは裏腹に、この男に触れられることに慣れた体は男の雰囲気を察知しただけで徐々に体温を上げ始めている。その事実がおぞましく、必死に体を捩っても、まるで猫の手を捻るように容易く抵抗をねじ伏せられる。
「何のためにお前を飼っていると思っている」
行為とは裏腹に、淡々とした声からは熱も興奮も感じ取れない。ぎり、と掴まれた掌に爪を立てられて、小さく上げた悲鳴が口付けに呑み込まれた。体の表面はどこもかしこも冷たい男なのに、逃げ惑う舌を容赦なく絡め取る口内は溶け落ちそうなほど熱い。上顎を舐められ、歯列をなぞられ、執拗なまでにしつこく舌を吸われた。特別に口付けを好んでいるほど情熱的な男でないことは理解している。これはヘルミナの気勢を削ぎ、文字通り口を塞ぐための行為だということも。
ようやく解放された時、ヘルミナは息も絶え絶えだった。目尻に涙を溜め、赤い顔をして、喘ぐように必死に呼吸を取り込む。体を縮こまらせて、震えながら、それでも言い募った。
「……こんな、ことは……ゆるされません……っ」
兄妹なのに……。
そうこぼした言葉に、ヘルミナと同じ赤い色をしたアゼルの目が眇められる。
血縁関係にある男女の、交わりに類似する行為は、道徳的観念からこの国でも法によって禁じられていた。ヘルミナは既に家を勘当された身も同然で、まだ目の前にいる兄と同じ性を持っていることも奇跡に等しい。どころか、ヘルミナが今こうして生きていることさえも、ひとえにアゼルの慈悲によるものだと言うことができるだろう。
だが、いかにヘルミナが見放された身であろうとも、血の繋がりまでは変えられない。
アゼルとヘルミナは、正真正銘、実の兄妹だ。
このような、世間一般から後ろ指を指されるような行為を許容できるような道徳を、ヘルミナは持ち合わせていなかった。
「なにを、今更。お前の言う、“こんなこと”を好んで行う者しか、この血筋にはいないだろうに」
虫でも観察するような眼差しを向けてくる男の言葉に、ヘルミナは息を詰めた。
ヘルミナはとうに実家から追放処分を受けたような身ではあったが、そのヘルミナの主のアゼルは今や一家の当主である。人嫌いで、家族さえも動揺に嫌悪する彼は滅多に本邸へは帰らなかったが、帰宅の際は必ずヘルミナも共に連れて行かれた。
ヘルミナとアゼルには、同様に同じ血を継いだ兄弟、姉妹が大勢いる。そこで、最初はいつの頃だっただろうか。ヘルミナはアゼルと共に本邸に帰宅した際、兄妹同士の睦み合いを見てしまったことがあった。それも、一度だけではなく、何度も。さらには他の兄妹、もしくは姉弟同士でも。それはいっそ、あの家の中ではありふれたこととして日常的に行われていた。
同じ血を分けた者同士の睦み合い。その倫理に反した光景を、ヘルミナは確かにこの瞳で目撃した。昔は知らなかった、爛れた生家の実情も今は知っている。だが、そのことと、ヘルミナが自分自身でもその行為を受け入れられるかという話は全くの別物だった。
「忌むべき邪悪。唾棄すべき不浄。この血は元々穢れている。道徳など今更だ」
「けれどっ……けれど、だからといって、貴方までそれに準ずる必要はないはずです……! 心の伴わない行為など、虚しいだけ。あ、貴方は、美しいのだから、いくらでも貴方を愛する人はいます……っ」
夜着の下、太腿を這っていたアゼルの手が止まった。相変わらず熱を宿さぬ瞳で、興味深そうな様子で眺められる。震えて舌をもつれさせながらも、やっとの思いでヘルミナが紡いだ言葉は嘘ではなかった。アゼルは確かに美しい男だ。彼自身が悪魔のような性質をしていながら、悪魔さえも魅入るような蠱惑的な姿は、その眼差し一つで意のままに女性を操ることさえできる。長い間この男の傍にいて、ヘルミナも魔性と呼ばれるこの男の特性については理解していた。たとえ中身が血も涙もない冷徹非道な極悪人だったとしても、この男は確かに、人の心を絡め取る麗人だった。
「…………アゼル様、そうです、貴方は美しい」
不思議とこの言葉にアゼルが興味を引かれている様子だったため、並外れた恐怖と怒りに体を小さく震えさせながらも、ヘルミナは繰り返した。おもねるためでも、媚びを売ろうというわけでもなかった。ヘルミナの内側には、先述したように目の前の男に対する恐怖と共に、腹の奥底でとぐろを巻く怒りがあった。あるいは憎悪だ。ヘルミナはこの男が恐ろしい。存在を、憎しみに近い感情で見つめている。
表情が変わらないまま、男の目元が僅かに緩む。それは意外な反応にも思えたが、振り返ればこの男は常からヘルミナから褒められることを好み、時折、意味も無く賛辞を所望した。他の誰が何を言っても表情一つ動かさないのに、ヘルミナを甚振り、嬲り、気紛れに触れる時だけは、微かに雰囲気を変える。
ヘルミナは、その意味を知りたくなどない。唯一ヘルミナの世界にいるこの男に、ヘルミナの世界から自分以外を切り取った男に、ヘルミナができる復讐は彼を省みないことだけだった。
「だけど、カイルにいさまは、もっと美しかったわ」
その名を口に出した瞬間、自分で発した癖に、ヘルミナの心臓は強く痛んだ。だが、その痛みに眉を下げるより先に、目の前の男の纏う空気が瞬時に変化する。威圧感にも近い、押し潰されそうな重みのある雰囲気。男の冷え切った眼差しの奥に、珍しく激情が渦巻いている。それは、視線だけで人を殺せたならば、即座にヘルミナを八つ裂きにしていたであろう眼力だった。ヘルミナの首を、アゼルの手が力を籠めて掴む。呼吸を塞がれる苦しさにヘルミナの口から喘ぐような声が漏れた。
「アレとて生きていれば、お前に私と同じことをした」
「……っカイル、にい、さまっ……はっ! わた、しに……こんなことはっ」
「した。ああ、お前はどこまでも愚かな女」
首を絞められて苦しさに潤むヘルミナの眼球を、あろうことかアゼルは舌先で一舐めした。乱れることもない落ち着き払った声音はいつもと変わらないが、やはりヘルミナに注がれる視線の奥には普段彼が決して見せないどろりとした暗い何かがある。
――――カイルにいさま。
ヘルミナは、普段この名を出すことをアゼルから禁じられていた。破ればいつも、酷い仕置きを受けた。この状況で口に出せばろくにならないことを知りながら尚、けれどそれを口にしたのは、これだけが唯一ヘルミナが目の前の男に切れる切り札だったからだ。
「血の繋がりがあろうがなかろうが、男と女が一対になれば、行き着く先は皆同じだ。原初の人でさえそうだった」
「そ……れは、でもっ畜生の行いです……っ」
「人が畜生でないと?」
何と言おうが無駄なのだろう。ヘルミナの言葉でアゼルの意思が揺らぐことなどない。今までもずっとそうだった。
それがわかっていながら、この状況を打破しようと時間稼ぎのように言葉を紡ぐいっそ健気とさえ言えるほど無力なヘルミナの意図を、アゼルは見抜いていたのだろう。ヘルミナが必死にもがけばもがく程に、冷静に強くなっていく手の戒めとは裏腹に、時間を経つごとにアゼルの視線は軟化していった。元通りの、冷たく冴え冴えとした、一切の情を映さない氷のような瞳へと。
「死人に何を縋る。死人がお前に何を答える。何をしてくれると言う」
耳朶に吹き込まれる低い囁きは、ヘルミナにとって正しく悪魔のものだった。ヘルミナの心を折り、何をしても無駄なのだと、どこまでも冷酷に諦めさせる、無情の言葉。そうして次いで放たれた声は、ヘルミナの抵抗の気力を根こそぎ奪い、心の柔い箇所にナイフを突き入れた。
「アレは、お前のせいで死んだというのに」
その言葉を聞いた途端、ヘルミナの体からすべての力が抜けた。呆然と見開いた瞳に絶望が過り、やがて、じわと涙が滲みはじめる。それを無感情に一瞥して、アゼルはまたヘルミナに口を寄せた。その手が脚を割り開く。それでもヘルミナは、人形になってしまったかのように為されるがまま、もう動くこともできずにベッドにぐったりと身を投げ出していた。