01
憂い苦しみ死に絶えよ
その血は呪われている
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“酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみ”
音にはせず口の中で呟いたそれは、聖書の一節だった。現実逃避のように、どこか夢の中の出来事を眺めるような心持ちで、ヘルミナは乾いた目を目の前の光景に向けていた。
人が唾棄すべき悪、捨てるべき悪徳について述べられた言葉に、真っ向から反するような爛れた狂宴は、もう数時間も続けられている。人を惑わせる妖しい酒と香が充満した部屋の中の光景は、まるで地獄の底に落とされた亡者達が絡み合っているかのようだ。至るところで聞こえる嬌声と、幻惑を見ている譫言は、さながら悪夢を体現しているようにも思える。
「噂に伝え聞いた通りの浅ましさだな。恥知らずの馬鹿共ばかり」
不意に背後から伸びてきた腕を引かれた。いつの間に背後に現れたのか、耳元に触れた聞き慣れた低く冷たい声に、何も返さずに目を伏せる。その態度が気に食わなかったのか、背後の男の纏う空気が下がるのが背中越しにもわかった。背筋に寒気が走ったかと思うと、掴まれたままの腕を乱暴に捻り上げられて、後ろを向かされた。
「手は出されていないな?」
ヘルミナの目に映るのは、冷え冷えとした美貌の男だった。自分と同じガーネットの瞳は、その情熱的な色とは裏腹に凍りついている。社交界の令嬢達はこの男の瞳を真紅の薔薇のようだと褒めそやすらしいが、ヘルミナにとってはいっそ血よりも禍々しく不吉なものとしか思えない。自分で鏡を覗く時は暗く冴えない色だと感じるだけなのに、自分とは似ても似つかないほど美しい目の前の男の顔に嵌め込まれているだけで、それは魔性のような色を放つ。
「はい、兄様」
「名前で呼べと何度言わせたら気が済む。つくづく不出来な奴だと思っていたが、お前のその耳は飾りか?」
「……申し訳ございません、アゼル様」
「目的は果たした。帰る」
「はい」
アゼルの声が一段低くなって肩が跳ねかけたが、寸でのところでヘルミナは恐怖を抑え込んで冷静に謝罪をした。恐らく、その態度は取るべきものとして正解だったのだろう。アゼルは酷薄な目でヘルミナを一瞥した後、踵を返した。
何の為に、この潔癖にも近い男が普段蛇蝎の如く嫌悪しているこの狂宴に足を運んだのかヘルミナは知らない。常々お前は家の恥だと罵り、使用人のような扱いを強要して、滅多なことではヘルミナを家の外には出さないというのに、珍しく連れ出された先に待っていたのが今夜の夜会だった。よもや余興としてここに混ざれと言われるのではと内心怯えるヘルミナの予想を裏切り、目立たぬように大人しくしているようにと言いつけられ、アゼルはヘルミナを一人置いて先程までどこかへと消えてしまっていた。恐らく、ヘルミナには考えの及ばない政治的な目的でもあったのだろう。
生まれてから今までの年月のほとんどを家の外に出ることの叶わなかったヘルミナは、貴族として相応しい振る舞いや充分な教育を受けていないため、長兄であり今や一族の当主であるアゼルの考えなど察することもできない。そのため、ただひたすらに、自分が戻ってきた際にこの場にいなければ鞭打ちの罰だと脅されていたのを破らずに済んだことに安堵する気持ちしかない。
どうやら今日はそこまでアゼルの機嫌を損ねなかったようだと、狂宴に背を向けて歩き出す男の姿にほっと息を吐いて一瞬気が緩んだのが不味かったのだろうか。男の後を追いかけて、突然横からふらつくように出てきた見知らぬ男とぶつかった。
「あっ…!」
「おおっと。失礼、お嬢さん。おや、これはこれは。可愛らしい小鳥だ。良かったら私の今宵のお相手をしてくれないか」
酒に酔っているのか、幻惑の薬でも使っているのか、男の呂律は頼りなかった。無遠慮に腰を抱かれて、酒臭い息を顔に吐きかけられた。咄嗟に体が動かず、体よりも先に事態を把握した意識によって、さああと音を立てるように顔から血の気が引いていく。
それは明確な恐怖だった。ヘルミナの視線は、顔を近づけてくる見知らぬ男ではなく、真っ先に兄であるアゼルのほうを向く。決して助けを求めたわけではなく、むしろヘルミナは、その視線を向けた先の男をこそ恐怖していた。気づかれずにそのまま先に歩き去ってくれていることを期待して見つめた先で、だがアゼルは足を止めてこちらを見つめていた。
その、何の感情も浮かんでいない、凍りついたような赤い瞳に射竦められる。
上質な靴底が音を立てて白亜の床を打つ音と共に、ヘルミナの心臓は激しく脈打った。そうして、その足音が目の前で止まった瞬間、ヘルミナは予想していたように、強く頬を打たれて地面に倒れた。
「っ…!」
「この淫売が」
吐き捨てるよう、と表現するほどの情も感じられなかった。路傍に打ち捨てられた塵を見る時の方がよっぽど温かい眼差しだろうと思えるほどの感情の消え失せた声で、ヘルミナを罵倒した男は、ヘルミナに絡んでいた傍らの男のほうには一瞥もくれない。唐突に頬を張られて倒れた女に、酔った男は何が起こったのかわからなかったのか、戸惑うように立ち竦んでいた。
「立て。帰るぞ」
「……はい、アゼル様」
今までの経験則からこういう時はみだりに顔を上げないほうがいいとわかっている。怯えて表情を窺うように顔を上げたが最後、もう一度殴り飛ばされることはわかっていた。お前のその瞳が生意気だ、とただ癇に触ったというだけの理由で鞭打たれた時の痛みも同時に思い出して、ふらつきながらヘルミナは立ち上がった。
男は厄介事の気配を感じたのか既に消えていた。酩酊しているようだったが、案外思考力は残っていたのかもしれない。元々この夜会に訪れる者達の中には事情があり素性を隠している者も多いようだったから、流石にそういった嗅覚は鋭いようだった。
正しい判断だ。後少しヘルミナが立ち上がるのが遅くて、アゼルが男のほうに意識を向ける間があったら、それはそれで面倒なことになっていただろう。ヘルミナの、正真正銘血の繋がった実の兄であるアゼルは、政治の場でこそ自他共に認める類い稀な才覚を発揮するが、その人格は破綻している。気が立っている時にそこにいたという理由だけで、何人の使用人が暇を出されたか。ヘルミナも何度折檻されたかしれない。
倒れた際にドレスを汚していないかだけを気にしながら、ヘルミナはなるべく気配を殺して今度こそアゼルに従って歩き始めた。普段自分が身に纏っているものものとは比べものにならないほど上等なドレスのコルセットに締め付けられて、酷く気分が悪かった。それともこれは打たれ時の痛みが尾を引いているのだろうか。どちらにせよ自分には安楽を覚える時などないのだと知らしめるような鈍い痛みに、ヘルミナは最早飽きるほど覚えた絶望を密やかに繰り返して胸のうちで葬った。