駐車した車の周りが何かおかしかった
五連勤が、ようやく終わった。
しかも最終日はシステム導入にトラブって徹夜。夜中にはどうにか落ち着いて、先方に散々頭を下げてやっとのことで撤収したのだが、営業車を置いて自分の車で会社を出る頃にはラジオからすでに「おはようございます」の声が聴こえていた。
空は真っ赤な朝焼けだ。
俺は家に帰る前に、買い物に寄ることにした。
いっぺんに物が手に入るし、二十四時間営業だし、そんな思いで俺は帰路からやや外れたショッピングモールに車を走らせていった。
ヒゲがざらついて不快で仕方ない。まず一番安い電動シェイバーを買うか、そして三連休中の飯を全部揃えて、それから何かCDとDVDもまとめて借りて帰ろう、休み中は絶対家から出ないからな、そんな浮つく気持ちで半分くらい、脳も麻痺していたようだ。
―― アレの分も何か買った方がいいかな。
半分ぼんやりした中で、そのまま思いはうわ滑っていく。
―― まあいつもそんなにモノは必要ないし、いつもみたいに適当にスナック菓子とジュースでいいだろう。
それと、傷薬もそろそろ切れていた、それは、忘れないようにしないと。
傷薬?
いっしゅん浮かんだ疑念は、フロントガラスの水滴を目にしたとたん消え去った。
折悪しく、小雨がぱらつき出した。朝日は薄く見えているのに、そのまわりの雲はだんだんとぶ厚く、黒々と積み重なっていくところだった。
俺は左折して店外の駐車場に入っていった。店の前に停めようとした時、雷が轟いた。音はやや遠いし雨は降っていなかったが気になって、いつもならば避けるはずの立体駐車場にそのまま滑り込んでいった。
このモールの駐車場は、一台ごとのスペースがあまり広くない上に照明に乏しい。
だから、そこに入るのはよくよくの時くらいだった。疲れ切っていて雨に濡れたくない、まさにそんなどんぴしゃりな時とか。
ぼんやりしながら二階を素通りして、三階に入り、停めやすい場所が目に飛び込んだので俺は自然にその位置に車を入れた。
助手席側の一枠は空いていて、運転席側にはこじんまりした軽自動車が収まっている、そんな場所だった。
店内入口にほど近いとは言え、脇がごっつい車だったら、絶対そこには停めなかっただろう。
しかし隣の軽自動車が案外奥まできっちりと停めていたせいで、油断しきっていたのだと思う。
すんなりと車を駐車スペースに入れてエンジンを切り、ドアを開けて一歩踏み出した、と。
足先がじゃり、とかすかに鳴った気がした。
暗がりにようやく慣れた目をこらして足もとを見る。
白い粉のようなものが落ちていた。
積るほどではないが、かなりの量だ。その中にまともに足を降ろしてしまったらしい。
ちっ、と舌打ちして粉のない場所に足を踏みかえる。
駐車スペースのこちらと軽自動車の間、前の方まで線上に白い粉が所どころ途切れながらも残っているのが見えた。ふり向いてみると、後方も似たような感じで線上に白くなっている。
車から降りて前に出てみると、白い粉は、隣の軽自動車の前方地面にも線上にあるのに気づいた。
嫌だったが、薬物や毒物だとまずいかと思い、少し目を近づけて粉を観察する。踏んだ感じと見た目からして、やや粒が粗く、あまり硬過ぎないものようだった。
どこかで覚えがある。
急にそうだ、と気がついた。これは塩みたいだ。
俺は隣に停まる車をおそるおそる観察する。外側には前方に何ヵ所かの凹み、当て傷も多い。それほど新しい車でもなさそうだ。
車内も覗いてみるが、中には誰もいない、物もほとんど見られず、ダッシュボードもシートも奇麗だ。
今度はさりげない風を装って、その車の後方に回ってみた。
案の定、車の運転席側にもずっと塩らしき粉が撒かれていた。白い痕は、車体内側の地面とはきれいに直線状の境界をなしている。つまり、それは車体がそこに停められてから撒かれたのだろう、ボディには特に変わりはなかったがタイヤの下方、溝には所どころ、白い粒が残っていた。
後ろまで行った俺は運転席側の後ろ、車止めと駐車場の壁との間に、白い大きめのプラ袋がふたつ、捨てられているのを発見した。この店のもので、口は開きっ放し。
中に詰められた大量の空き袋でようやく、確信した。やっぱりこれは、塩だ。
誰かが停めた車に大量に塩を撒いたのだ。四方ぐるりと。
もちろん、車止めと車の隙間にも大量の塩が見えた。
誰がやったのか、何のために、何をやらかしたのか……すべてが頭の中でごっちゃになって、俺はしばし動作を止めた。
気づいたら、自分の車、運転席ドアの脇に戻っている。
買い物のことなぞすっかり頭から抜け落ちていた。
帰ろう、とにかく帰ろう。買い物は、必要最低限なものだけ、近くのコンビニで……
そう思ったせつな、どん、と音にならない衝撃を感じ、俺は軽自動車の方をみた。
助手席は、相変わらず何もない、きれいなシートだ。しかし、
後ろの窓に、小さな手形がついた。まっしろな、小さな。
それはすぐに消え、また、どん、という衝撃とともに手形。続けてどん、ともう片方の手。
そして、
まっしろな顔が窓に押し付けられた。
ただ白く、表情もなく。目の所だけなぜか、穴のあいたように丸く黒い。
まるで朝焼けにかぶる雲のように黒い……
顔はいっしゅんで消える。
しかし、俺は次に何が見えるかも確認せず、即行、自分の車の中に戻っていた。
心臓が壊れそうなくらい、動悸がはげしい。
俺は胸を両手で押さえ、ただ、しばらく目をつぶってハンドルに突っ伏していた。
どのくらいそうしていただろうか。
気づいたら、頬がこわばってハンドルカバーの縫い目が喰い込んでいた。
ばりばり、と音がしたような気がして、俺はそっと、頬を撫でる。
眠ってしまっていたのだろうか?
恥ずかしながら口の端からよだれも垂れていたようで、慌てて袖でぬぐい、先ほどまでの出来事を思い出してみる。
ショッピング・モールの駐車場に入った。
外に出た。
何かを、見た……見た?
そうだ。塩。隣の車に大量に、塩が撒かれていたんだった。
だから、何だ?
買い物がまだ全然済んでいなかったことを辛うじて思い出し、俺はドアを開けようと手をかけた。
開かない。
キーを操作してしまったのか、とポケットからキーを出して、ロックを外そうとする。
反応がない。
手動でいいじゃないか、と思い出し、半ば笑いながら俺はドアのロックをまさぐる。視えないのは暗いからだ、それは分かっている。いつもロックなんて見なくてもどこなのかはすぐ判る。しかし、
ドアは開かなかった。
どんどんどんどん、俺はドアを叩く。
窓を割ればいいのだろうか? しかし、窓は割れば高くつく。どうしたら?
黒い影が窓の外にさした。
かがむような格好で少しずつ動いて、何かをしている。
俺はいそいでドアを開け、何してんだバカヤロー、と叫びたい、のに叫べない。
その影がやっていることは、本能的に分かっていた。
そいつは塩を撒いているのだ、俺の車の周りに。
俺は更にどんどんどんどんとドアを、窓を叩く。
そうだ、エンジンをかければいいんだ。
焦る手は震えていたが、エンジンボタンはすぐに見つけられた。ブレーキを踏みながら押す、しかし、まったく反応はない。
黒い影は助手席の窓を通り過ぎ、更に後ろに回ったようだ。
「何すんだ! 止めろ!!」
大声で叫んだはずだった。しかし、自分の声すら、聴こえてこない。
どこかに連絡を、とスマホを出す。
ずっと以前からひびの入ったままの画面が、完全に崩れ落ちて、ぽっかりと穴が開いていた。
呆然としたまま、スマホを取り落とした。
なぜか遠雷だけがが耳の奥で轟いていた。
―― アパートに残していたアレのことを、急に思い出す。
離婚したアバズレから引き取って、家に置いてやったアレ。
家から、というか鍵のかけられる部屋から出したこともなく、ただエサと水だけ与えていたアレ。
雷が鳴ると泣き騒ぐのでその時は殴って黙らせた……それ以外でも腹いせに殴ったりもしていたかも、知れないが。
ソレはこの雷に、泣き騒ぐのだろうか?
それとも
俺がずっと、泣き騒ぐのだろうか?
未来永劫、この中で。
…………
どんどんどん、どんどんどんどん、連続する低い衝撃で意識が戻った。
「……ですか? だいじょうぶですか? 聴こえますか?」
搬送先の病院で、ようやくはっきりと意識が戻った。
枕元にいたのは、幼馴染の奈津実だった。
ナツは、笑うように口をほころばせていたが、目の中には涙をいっぱいにためて、俺をみていた。
「……よかった」
とにかく何か、ことばにしなくては、そう焦る俺は焦るほど、声を失っていく。いったいなぜオマエが? 何で俺は車に閉じ込められていた?
というか、ここはどこだ? それに……
「アレは……まだうちにいるのか?」しわがれてしまっている、自分の声ではないみたいだった。
「ねえ、あっちゃん」
ナツは泣きそうな声で言った。
「アレ、って子どものこと? それはもうだいじょうぶだから」
コドモ?
俺の記憶が錯綜する。子ども? 俺に子どもがいたのか? 独身だったはずでは?
何が起こったんだ?
それからまた、記憶は混濁する。俺は眠りに眠り続けた。退院できたのは、それから数日後だった。
後から追って知った事実。
俺は、買い物に寄ったショッピング・モールの立体駐車場、自分の車の中で意識を失くしていたらしい。
意識を失くす寸前に、俺は携帯を取り出し、ナツに連絡を取ろうとした。
すぐに電話は切れてしまったものの、切羽詰まったものを感じたナツが、救急に連絡したというのだが。
ナツはどうして、俺のいた場所が分かったんだろう?
それはさ……退院時に迎えに来てくれたナツは、彼女には珍しく、真っ赤になっている。
「あっちゃんがさ、とっさに居場所を」
「……」
すぐに、嘘だと分かった。いくら意識もうろうとしていたとは言え、そこまで記憶はあやふやではない。
俺はたぶん、電話すらしていなかったはずだ。
しかし、俺はようやく気づいた。
なぜ今まで、ナツが俺のところに来てくれたのかが。
せっかくの休みに、あんなにヤバい道の駅につき合ってくれたり、
ヤバそうじゃん? って言いながらセブンの大福持って来てくれたり、
そして今回も。
「ナツ……オマエさ何でここに」
次のことばは、のみ込まざるを得なかった。ナツが俺に、ぎゅーっと抱きついて来たからだ。
「ホント、鈍いにもホドがあるって」
巻き付いた指には、今日はまったく凝ったネイルはなかった。
後で聞いたところによると、隣の軽自動車の持ち主は妻と別れ、未就学の子どもを引き取って育てていた男性だったとのこと。
彼はアルコール依存症となり職も失い、子どもを持て余した末に虐待を繰り返し、挙句の果てに買い物途中に交差点で通行人を撥ね、車はショッピング・モールの駐車場に置き去りにしたまま、行方をくらましてしまったのだと言う。
俺がその車の横に駐車したのは、彼が消えて翌々日のことだったのだそうだ。
子どもはすんでのところで、やってきた救急隊員に保護され、一命を取りとめた。
それにしても、と俺はずいぶん経ってから、ふと思い出してナツに訊ねた。
「俺の車の周りに、塩を撒いたヤツはいったい誰だったんだろうな」
JAFに車を引き取りに行ってもらった時、彼らから確かに聞いたのだ。俺の車の周りもまっ白くなっていた、と。
「だからさ」
ナツは今では、すっかり屈託のない笑い方をする。わざとネイルを凝ることもなくなったすんなりした指で、風呂から上がった俺にバスタオルを運んできてくれた。
「だから、あっちゃん。知らなくていいことは、そのまんまにしておけばいいんだから」
「そうか」
「ああいったことなら、アタシが守ってやるから……任せといて」
「うん、ありがとう」
近ごろ、俺もようやく素直になったようだ。そのままの気持ちで、俺は奈津実に向き合ってこう告げた。
「その他のことで困ったら、いつでも俺が守るから……任せとけ」
ナツは、いっしゅん動作を止め、まん丸くした眼を急に泣きそうに細めた。
間もなく、俺はナツと籍を入れた。
それからというもの、俺も怪奇現象とはすっかり縁が切れた。
……ということに、してくれないか?
どうしても訊きたいというなら、また訪ねてきてくれよ、俺たちのうちへ。
(了)