4=精神統制法
「どうしました、天満さん。具合が悪そうに見えますが」
「え? ……いえ、特に問題ありません」
結局まともに寝ることはできなかった。考え事をしながら寝ようとするのはやはりよくない。寝る前に『ユートピア』を読むのを日課としているのは、心を落ち着けるためでもあるのだ。
私はまだ絶望捜査官という職に就いて間もない。昨日のように一人で街を歩き、対象を発見し次第殺処分に入ることもあるが、ほとんどの日は直属の上司と二人で行動する。その上司――巽ユノさんは本当に心配そうな顔をして私を気遣ってくれた。
「そうですか?」
「ええ。単なる寝不足ですので」
確か、巽さんは私より三歳年上。それなのに丁寧な言葉遣いで話しかけてくるのは、きっと私が名家の出身であるのを考えてのことなのだろう。違和感があるからやめてほしいと言ったのだが、巽さんにやめる様子はなかった。
「何か楽しいことでも?」
「……大方そんなところです」
巽さんには申し訳ないが、嘘をついた。まさか絶望に染められた人間と接触していたなどとは言えない。しかも実の姉となれば、話はもっと複雑になる。
さすがにあの女が本当に実の姉なのか、と疑いはした。底知れぬ闇を抱えているという点はもちろん、とても姉とは信じられないような風貌だった。しかし持つ雰囲気は、二十年ほど前に生き別れた時のままだった。あと少し油断していたなら、クレハ姉さま、と呼んでいたかもしれない。
「よかった。それならいいんです」
「え?」
「勝手な想像なんですけど。天満さんみたいな家の人って、あまりやりたいことをやりたいようにやらせてくれないような環境で育つのかな、と思っていて。天満さんが今楽しいことを存分にやれているというのは、いいことだと思います」
先生のような口ぶりだった。初等学校でちょうど巽さんのような担任に当たったことを思い出した。巽さんは艶やかな黒髪が額にかかっているのをかき上げて、それから私の方を向いて少し笑ってみせた。
違うんです、巽さん。
本当は楽しいことがあったとか、そういうわけではなくて。
そんなことは言えそうになかった。
「……そういえば。特別管理区がまた一つ、増えたみたいですね」
「そうなんですか?」
私の気持ちを察してかどうかは分からなかったが、巽さんが不意に話題を変えてきた。
「何でも今回で171番目らしいです。つい先日まで120もあったかどうか、というところだったと思うんですが」
「確かに……」
特別管理区とは、精神統制法の適用される街を指す。人の心の中に絶望が巣食うことさえなければ世界は救われる。そんな見解を元に、国に認可された者は絶望に染められた人間を殺してもよい、と定めるのが精神統制法だ。日本だけでなく、世界中にこの動きは広まっているが、精神統制法、絶望捜査官、特別管理区といったものを定義したのは日本が最初。政令指定都市から中核市へと、規模の大きい順番に特別管理区に指定されていっている。私たちのいるこの街は6番目。かつては政令指定都市・神戸と呼ばれた場所だ。
「特別管理区というと、少し違和感がありますね。なんだかこう、閉塞感があるというか」
「えっ」
巽さんの口からそんな言葉が出てくること自体驚きだった。この街自体にぼんやりとした閉塞感を抱いていたのは、私だけではないらしい。
「……でも、これでいいんですよ。息苦しいと感じるのは昔も今も同じだって話ですし、それにこの街をいったん出れば最後、戻ってくるときには殺される側になるんですから」
「そう、ですね」
だがその違和感は、具体的に結実することはない。私でさえ、クレハに何度も諭されて初めて、違和感を抱いているということに気づいたくらいなのだ。
6番目に特別管理区に指定されただけあって、閉塞的な街並みになってからもう何十年も経つらしい。人生で一度もこの街から出たことがない、という人も珍しくはない。私だってそうだ。
「息苦しくてもせめて幸せに暮らしていけるよう、私たちが頑張らねばなりません。そのための絶望捜査官です」
「はい」
特別管理区の外には今の人間には想像もつかないような絶望が数多くひしめいている。ほんのささいなことでも、人間は絶望を抱く。だからせめてこの街だけは、絶望を抱かせない仕組みでなければならないのだ。
「……あら」
特に問題がなければ、ただ街を歩き回り、食事をとるだけで済む。しかし今日はそうではないらしかった。
最初に気づいたのは巽さんの方だった。巽さんが足を止めて、辺りを見渡す。手にはアラート音を鳴らして震える端末が握られていた。
「……このレストランのようですね」
絶望に染められた人間は漂わせる空気からして異なる。絶望捜査官ともなれば、その邪悪な雰囲気を見抜くことは簡単だ。しかしあちこち逃げ隠れされては見つけようがないので、専用の端末でだいたいの位置まで特定し追跡できるようになっている。
巽さんの目線の先には、リーズナブルな値段で満足な量が食べられることで有名なイタリアンのお店があった。
「行きましょう」
ちょうどお昼時のレストランだ。店の外からでもお客さんがよく入っているのが見える。混乱は避けられないだろう。
「ええ」
だからといって職務を放棄することは許されない。無関係の人が巻き込まれないよう気をつけながら、確実に対象を殺す必要がある。
巽さんの後について、私もレストランの入口をくぐる。予想通り、絶望捜査官二人の突然の登場にお客さんのどよめきがあちこちで起こった。
「……!」
その中に、周りの様子をうかがいさえせずパスタをひたすらむさぼり食う中年の男が一人。私たちが近づくとさすがにこちらを向いた。クリームソースが口の周りにたくさんついていて、お世辞にもきれいな食べ方とは言えなかった。
「……ちょっと、待ってくれるかい」
男は少し間を置いて、私たちにそう伝えた。




