3=理想郷の形
絶望捜査官。
私たちの暮らす街において、警察の役割を果たす公僕だ。治安を守る警察はおらず、代わりに絶望捜査官がその務めを担っている。その発祥は少々複雑と言える。
『犯罪は人間の心の中の闇と深く関連している。闇を抱えるとはすなわち、絶望の淵に突き落とされることを指す。よって人々から絶望や絶望を抱く原因となるものを取り除けば、犯罪のないユートピアに限りなく近づけるはずだ』
かつてある哲学者が、有名な著書の中でそう述べたという。彼が存命していたうちは、その主張が認められることはなかった。人間は感情に流されてばかりいる動物ではない。時に冷静になって理論的に考え、自身の行動を制することもあれば、感情を抜きにして突発的、衝動的に行動することもある。犯罪は必ずしも激情に伴った行為ではない。そう考える人が大多数だった。
しかし問題はこの狂人とも呼ばれ恐れられた哲学者がこの世を去った後に起きた。彼の子孫が遺品を整理する中で、この著書の没原稿が世に出たのだ。そこには、彼の本当の思いがつづられていたという。
『もちろんこれは理想論である。必ずしもこの主張が正しいとは、わたし自身も思ってはいない。しかし絶望に染められた人々に手を差し伸べ、救ってやるということは、世界情勢や人の心の持ちようがどうであれ、我々希望を抱いて生きる人間の義務と言っても過言ではないのではないか?』
私は時折、彼の遺言とも取れるこの言葉を思い出しては、閉塞的なこの街の今を振り返る。それは今日もまた例外ではなかった。私は窓の外で音を鳴らし始めた雨に少し気を取られてから、再び読みかけていた本の方へ目線を戻した。
「理想郷を描いた本を読む絶望捜査官とは。なかなか皮肉なものだな」
誰にも邪魔されないはずの私の部屋の中で、突然私のものとは別の声がした。私の背後にあるベッドに、あの女が腰かけていた。
「クレハ……!」
「寝つく前の読書か。なかなか風流な趣味だ」
「なぜここが」
「安心しろ。玄関は開けっ放しになっていない。アタシが勝手に入ってきたまでのことだ」
「……っ」
そんな答えを聞きたいのではない。より正確には、わざわざ私の前にもう一度姿を現した理由が知りたかった。私はすかさずそばに置いてあった拳銃の先をクレハに向ける。
「おっと、物騒だな。しかしいいのか? アタシに当たらないということは先ほど身をもって経験したはずだ。ただこの家を傷つけるだけだぞ」
「……何が目的なの」
冷静を装って私は問う。クレハは諦念を含んだ笑いを私に向けた。
「別にそんな大層な話をしにきたのではない。アタシが協力を持ちかけたのに対してどの程度動揺しているのか、様子を見に来ただけだ」
「ふざけないで」
「ふざけてなどいない。ヤヨイ、お前は昔から感情をすぐ表に出す子だったからな。冷静さを失うことが失敗につながる例は多い」
クレハはニヒルな笑みを浮かべるばかりで、本当はどんなことを考えているのかがまるで分からなかった。
「……この世界は歪んでいる」
かと思うと、クレハは急にもの悲しげな表情になってつぶやいた。
「確かに絶望の淵に突き落された者に手を差し伸べるのは重要なことだ。立ち直りのチャンスを与えるということであり、結果的に治安のいい、犯罪のない世界を作ることに役立つ。それはかの哲学者の言う通りだ。しかし今この街で行われている救済は、本当に絶望から人を救っているのか? 救えていると、お前は思うか?」
そうだ。
かの哲学者が本当に考えていたことは瞬く間に世界に広がり、そして世論となった。一部は過激派と化し、そんな理想の世界を作るためにはやむを得ないと暴力に訴えた者もいた。それを抑え込むために世界各地の政府が出した答えは。
「……精神、統制法」
「お前の違和感はそれだ。お前を含めた民衆は一つの明確な答えを与えられたことで麻痺して、何かがおかしいと分かっていながらそれを言葉に表せなくなっている。絶望を抱えたものをブラックリストに登録し殺すことが、本当に救済になっているのか? 犯罪らしい犯罪をしていない者を殺すことが間違っているとさえ思わない世界で、本当にいいのか?」
「……分からない」
私は混乱していた。人を殺すことは犯罪になる。そんなことは言われなくとも分かっている。だが絶望捜査官として、絶望に満ちた人を殺すことは? それが正しいと教え込まれてきた私にとっては、クレハの言い分こそ首をかしげるべきものだった。
「そんなことさえ分からない人間が一人でもいる。その時点で、この街の政治はすでに失敗している」
「……でも」
「すでに失敗したものに対して、わざわざ擁護をする必要はない。人を殺すことが常識的に悪であると判断できなくなったこの世界こそ、もはや未来は絶望的だ」
気づけば外の雨はより勢いを増していた。一瞬窓の外が光ったと思うと、遅れて雷鳴がとどろいた。比較的近いところに落ちたらしい。
「……ヤヨイ」
クレハが立ち上がり、私をじっと見つめて名を呼んだ。左目が私と同じ銀色の髪で隠れていたが、片目だけでもクレハを包む空気が伝わってくる。
「アタシが協力を申し出たのは何も気まぐれではない。すでに滅亡へと一歩ずつ進み始めているこの世界と、お前自身を守りたいと思ったからだ。何年かでも同じ環境で育ったヤヨイならばきっと、アタシのことを理解できると信じている」
それを言い残して、またクレハが姿を消した。どこからどうやって出て行って、どこへ行ったのか。クレハはカラスの羽らしきものを一枚残しただけで、私の疑問には何一つ答えなかった。
「この世界が、間違っている……」
私は本を読む気をなくして、ベッドに潜り込む。そしてクレハの言葉を反芻する。一生懸命目を閉じても、なかなか寝つけなかった。