2=彼女は知っている
特に何か催し事があるわけでもない日の昼下がり、活気のある市場の音が少し遠くに聞こえる中、一方的な銃声が響く。この街で銃声が聞こえるとすれば、先ほどの男のように絶望を抱え込んだ者の命が散る瞬間でしかありえない。しかし、この時ばかりは普通ではなかった。
「……なかなかの判断力だ。人を殺すのにこうもためらいがないとは。さすがの天満家の教育だ」
「おかしい……今のは、当たったはず」
銃の腕には自信があった。これまで絶望に染まった人間を何人も殺してきたが、心臓や脳天を撃ち抜き即死させるということに関して失敗したことはなかった。それが今私の目の前にいる女――姉のクレハには、命中しなかった。いや、正確には当たりはした。当たるはずの位置に撃っていながら、当たったような実感は全くなかった。
「言っただろう、アタシに敵うはずはないと」
クレハの背中から生える翼が変形し、私の首をつかんだ。何とか息はできる程度の締まり方だったが、身動きは取れなかった。
「どう……して……あんたみたいな人は全員、……私たちに殺されるのを、待つだけだというのに」
「それは絶望した末に生きるのを諦めたからだ。アタシは確かに全てを知り絶望し、もはやまばゆい光は見出せないと諦めた。だが、生きることまで諦めたつもりはない」
ふとそこまで言ったクレハが、私の首にかける力を緩めないまま私たちの周りを見た。この街では圧倒的優位であるはずの絶望捜査官が、闇に堕ちた人間に殺されかけている。その珍しい光景を前にして、幾人か集まってきていた。
「場所が悪いな。お前の名誉のためにも、少し移動してやろう」
クレハは私にだけ聞こえるようにつぶやくと、もう片方の翼で飛び上がった。突然のことで私は目をつぶってしまい、次に目を開けた時には全く人気のない場所にいた。
「残念だが、いかに絶望捜査官に任命されて以降日を追うごとに強くなっているお前でも、アタシに勝てはしない。だが、あいにくお前を殺すつもりもない」
「……どういうこと」
屈辱的だった。ここまで辱めを受けるくらいなら死んだ方がましだ、とまでは思わなかったが、身のこなしや力の強さにおいて圧倒的な相手にわざわざ譲歩されているという事実は、私のプライドが受け入れることを拒んでいた。
「ヤヨイ。アタシと協力する気は、ないか?」
「……!?」
私は絶句する。戸惑いを隠せない私の反応は予想通りだったのか、クレハは口角を上げてみせた。
「不幸なことに、お前は家柄のせいで人間らしい教育を施されていない。だが気づいているはずだ。この街に対して言い表しようのない違和感を、心のどこかで抱いている。しかし周りが何も言わずに暮らしているがゆえに、お前もその違和感を無理に抑え込んでいる」
「違和感……」
そんなものはない、と言えば嘘になる。確かに私は時々、自分のしていることが正しいのかと確かめたくなって、振り返ることがあった。その気持ちの正体が何かは見当もつかない。しかしどうしてそれを、何年も会っていないはずのクレハが知っているのか。
「……ふざけないで」
「ほう」
「いったん絶望を抱え込んだ人間に同情の余地はない。ましてや、協力なんてありえない。仮にそこで同盟を結んだとして、私にどんなメリットがあるというの」
「さあな。だが一つ言えるとすれば、アタシはお前を救うことができる。かたやこの世界は、お前を守ってくれるほどよくはできていない」
私は何も言い返せなかった。クレハの言葉を戯言だと切り捨てることができなかったからだ。少し、ほんの少しその意味が気になって、頭から離れなくなった。
「まあ、今すぐに返事をする必要はない。いずれ嫌でも、お前はアタシに協力せざるを得なくなる」
クレハは一方的にそう言うと、一瞬で姿をくらませた。どの方向に逃げたのかも私には分からなかった。
残された私の手には、ぱっくり半分に割れて使い物にならなくなった拳銃が収まっていた。
この街は遺体処理施設を囲むようにして、環状にレンガ造りの家が立ち並んでいる。街の作りからして、外から入ってこようとする人間を拒絶しているようだ。
そしておおよそそのレンガの壁の外側の方に、私たち絶望捜査官の家が並んでいる。私の家はその中でも最も外側、街の境界近くに位置している。クレハを取り逃がし、のこのこ帰ってくるほかなかった私は力なく自分の家のドアを開けた。
「シリアルナンバー74332、岡崎トウヤ」
この街において、絶望捜査官に殺された人間は順番にリストアップされる。どこで生まれ育ち、どこでどんな出来事を経験し、この街に流れ込んできたのか。それを記録として残しておくことによって、例えばその仲間がこの街に来た時にすばやく対処できるようにするための策だ。私が今日殺した岡崎トウヤという男は、この街における74332人目の犠牲者ということになる。絶望捜査官に支給される、リストにアクセスするための端末に映し出された情報を、私はぼんやりと眺めていた。
「クレハ……」
気づけばその名前を口にしていた。二十年近く、その名前を聞くことさえなかった。本当ならあいつは今頃、74333人目の犠牲者になっていたはずなのに。逆に私のほうが殺されそうになったことを思い出して、私は忘れようと首を横に振った。しかしクレハの声はなおも頭に残る。
”この街に対して言い表しようのない違和感を、心のどこかで抱いている”
私は生まれてこのかた、この街を出たことがない。どこもかしこもレンガ造りの同じような外装の建物ばかりで、住んでいる人さえ同じような顔ばかりに思えてくる。そんなこの街に時折息苦しさを抱くことはあった。しかし、それでこの街を出ようという気にはならなかった。
「協力? ……ありえない」
クレハのあの揺さぶりを思い出して、私は改めて首を横に振った。それから端末の電源を落とし、寝室のベッドのそばに備え付けてある机に向かって、読みかけの本を開いた。
『ユートピア 著:トマス・モア』