18=遠い意識の底で
もう、何日経ったのだろうか。
窓もない小さな部屋にずっと吊り下げられているせいで、時間の感覚が消え去っていた。食事も水一滴さえ与えられなかった。いや、正確に言えば水はいくらか飲めた。何時間かおきに巽さんがやってきて、私にバケツの水を浴びせることによって、ではあるが。意識は飛んでいる時間の方が多く、それが見つかるたびに水をかけられた。
「……意外ともちますね。ろくにしゃべらない廃人になるまでは、案外早かったですが」
「……う」
まともな文章を発する気力は、とうになくなっていた。口を開け、声帯を震わせることさえ、何とかやっているという程度だった。だから何とか一音だけでも発して、お前の拷問には屈しない、という意思表示をしているつもりだった。
「まあ、いいんですけどね。どうせあなたが今回したことは全て分かっていますし、拷問してまで聞き出さなければならない情報はもはやない。天満家の人間でもなくなったあなたに、もはや価値はないんですよね」
そう吐き捨てて、心底楽しそうにする巽さん。そんな彼女の姿が、私にはぼやけて映る。巽さんは笑っているのか?かすんだ視界からの情報だけでは、自信が持てなかった。
「……ほら、そうやってぼやぼやしてる。わたしはね、そんなあなたなんて見たくないんですよ!」
巽さんはそう言って、ムチを何度もでたらめに打ちつけ、痛みに声を発することさえなくなった私に追い打ちをかけるように、バケツの水を私にぶつけた。
「もっと苦しんでよ……ほら! ほらほらほらほら……!!」
死にたい。
ふと、そんな言葉が脳裏をよぎった。私の身体が、精神が、悲鳴を上げていた。
「あ……」
ほんの数日前には、こんな拷問に屈してなるものかと思っていたのに。極度の飢餓状態に置かれるだけで、こうも変わるものなのか。自分自身がそう思うまで追い詰められているという事実に、私は驚いた。
「苦しめないなら、さっさと死になさい」
巽さんは忌々しげに吐き捨てて、部屋を出て行った。
「……んぐ」
涙も出なかった。涙が出れば、このぐちゃぐちゃな心の中もいくらか整理がつくのではないかと思ったのに。ろくに声も発せないようなこの状態でなお生きることは、私の全てが否定していた。死にたい、という四文字が、いやに私の頭の中で反響する。
クレハとノノカちゃんさえ生きていれば。私はもう死んでもいい。
「う……」
死ぬ時の痛みはきっと一瞬だ。そしてその痛みさえ乗り越えれば、永遠に苦しむことはなくなる。それでいい。もはや絶望や希望なんて、どうでもよかった。私には絶望を抱え込む余裕さえなかった。
この次はもう目が覚めなくてもいい。
そんなことを考えながら、私は目を閉じた。
* * *
「……クレハ姉さま!」
「心配ないよ。ちょっと、旅行に行って来るだけだから」
全く別の光景が、目の前に浮かび上がる。現実ではない。きっと幻を見ているか、そうでなければ夢だろう、とすぐに分かった。
私もクレハもまだ幼くて、それがしばらくの生き別れになるとは知る由もなかった頃。私は当時クレハに言ったことをそのまま繰り返しながら、私とクレハの二人をどこか客観的に観察していた。
「クレハ姉さま! どうして……」
「ヤヨイもそのうち分かる。お父様の言うことを、全部信じちゃいけない。ヤヨイはちゃんと、自分で考えられるようになりなさい」
クレハは私にそう言って、専属の使用人何人かとともに、屋敷を出て行った。
「姉……さま……」
「ヤヨイとはまたいつか、会えると思う。その時まで、元気でいてね」
そのままクレハが、遠い遠い、私の手など到底届かない場所に行ってしまう気がした。せめてその距離を縮めようと、私は手を伸ばす。だが私の腕はまっすぐ伸ばすことすらかなわなかった。
「クレハ……姉さま!」
私は叫ぶ。手が伸ばせないなら、声を届かせる。喉から声を絞り出す。その瞬間、涙が溢れ出た。それがトリガーになって、私は不意に現実に引き戻される。
「助けて……!」
初めて、そう思った。残っている全ての力を振り絞って、私は叫ぶ。叫んだとも言えないようなその声と、ほとんど同時だった。
「なっ……あなたたちはっ!」
野太い悲鳴と、その中に混じるひときわ高い、困惑が前面に表れた声。初めは遠くの方でしていたその音が、だんだん近づいてきてはっきりと聞こえるようになった。
「あ……」
私は確かに驚いた。しかしそれに伴った声が出たのは、何拍も遅れてのことだった。やがて私が閉じこめられた部屋のドアが蹴破られ、騒動の中心が私の目の前になった。
「天満、クレハ……!」
「巽ユノ、と言ったな? 生憎だが貴様のような小物に用はない。そこをどけ」
「断るわ。わたしは天満ヤヨイさんを預かる義務があるの。身柄を渡すわけには」
「ほう」
クレハが、目の前にやってきた。そしてこちらに目配せをする。
「遅くなった。苦しかっただろう、今助ける」
私の腕を拘束していた鎖が、一瞬で砕け散った。目の端にわずかに見えたのは、子ども一人分の大きさの黒い鎌。
「ヤヨイおねえちゃん! たすけにきました!」
「ノノカ……ちゃん……」
その鎌はノノカちゃんの背中に収まり、子どもサイズの黒い外套をはためかせながらノノカちゃんが華麗に着地する。なす術もなく落ちる私を、クレハが抱きかかえるようにしてそっと受け止めた。
「お前ら……!」
「しゃべるな。見ているだけで不愉快だ」
それはおよそ勝負と呼べるものではなかった。銃を構え敵意をむき出しにする巽さんを、クレハは軽蔑するように見ていた。巽さんがためらいなく引き金を引く。しかしそれより前に、クレハの背中から生える黒い翼が巽さんを貫いていた。
「ぐ……」
貫かれたお腹を中心に引き裂かれ、巽さんはうなだれる間もなく息絶えた。
「もう心配はいらない。アタシたちは常に、お前の味方だ」
「クレ……ハ」
「しゃべるな。……ゆっくり眠れ」
クレハの身体から、翼から立ち昇っていた闇はすでになかった。おぼろげに見えるクレハの顔は、再会してから見たこともないような優しいものだった。クレハの手が私のまぶたに覆いかぶさった。
「長い旅が始まる。身体を休めておけ」
クレハは私をお姫様抱っこの要領で抱きかかえながら、どこかへ向けて歩き出す。ノノカちゃんもクレハの横に並んで歩いているのが分かった。二人分のコツ、コツという足音が、私に妙に安心を与える。
「どれだけ落ちぶれても、お前には絶対に失わないものがある。……アタシと、ノノカだ」
クレハのその言葉を最後に、私は深い、深い眠りへと落ちていった。




