10=この世界に抗うために
「や……やめてくれ」
彼の名は大倉ヨシキ。シリアルナンバー74638、第六特別管理区内に侵入してきたのはつい昨日のことだ。
私は何も言わず、彼に銃を向ける。彼は管理区内に侵入する前からすでに絶望を抱えており、絶望捜査官に発見されるのは時間の問題だと言えた。そして、結局発見したのは私となった。
「悪かった……許可証なしで特別区に入ったのは悪かったよ。でも……俺が生き延びるには、こうするしかなかったんだよ……許してくれ……!」
男は周りの目もはばかることなく、私に必死で命乞いをする。絶望に由来する闇を抱え醸し出している限りは、命乞いをしようとしまいと殺される。だが無理だと分かっていても、人は運命に必死で抗おうとする。
「来なさい」
私は極めて冷酷な声で彼に告げる。拒否する権利はない。うなずきこそしなかったものの、彼は黙って私の後についてきた。向かうのは人気の一切ないビルの隙間だ。ビルから噴き出す蒸気で常にじめじめしていて、およそ人の生気を感じない暗さがそこにある。
「……うっ」
いよいよ大通りを歩く人からも見えないところまで入ってきたところで、男がへなへなとその場に座り込んだ。自分がそう遠くない未来に死んでしまうと理解すると、人はこうなってしまうらしい。まるで私が強盗や凶悪な殺人犯であるかのように、男はゆっくりと両手を挙げた。
「……今からする話を、驚かずに聞く自信はあるかしら」
そこで私は、なるべく語調を柔らかくすることに努めつつ、ビルの壁から生える太いパイプに腰かけて口を開いた。男は驚きを通り越して唖然としていた。
「な……なんだよ」
「今からあなたを救う手続きをする。あなたが死ぬ必要はない」
「死ぬ必要はないって……じゃあその銃はなんだよ」
「安心して。すぐにしまうから」
「ダメだな。やはり最初からアタシが説明すべきだったか」
どこからともなくクレハが姿を現す。より男がきょとんとした顔をした。
「……クレハ」
「もったいぶった説明をするな。ある程度の説明は必要だが、無駄な情報を渡す必要はない」
「別に余計な話をしたつもりはないのだけれど」
「やはり絶望を経験したことのない者には難しかったか」
クレハは特に何でもないような口調で私を馬鹿にしてから、私を下がらせた。昔のクレハはこんなことを言う人だったか、と思いながら、私は口をつぐんだ。
「今度はなんだよあんた……この変な絶望捜査官の仲間か」
「まあ仲間と言えなくもないが。どちらかと言えばアタシは絶望を抱えた、お前寄りの人間だ。安心しろ」
「変な絶望捜査官には変な奴ってことか? けっ、最後の最後にこれかよ」
「お前が死ぬ必要はない。アタシたちは絶望を抱いた人間を殺さずに、この制度を変えようとしている。お前がその第一号になる」
「なんだよ。……絶望捜査官ってのは、俺たちみたいな奴を殺すのが仕事じゃねえのかよ」
男はますます訳が分からん、という顔をしてみせる。当たり前だろう。私が同じ境遇で同じ説明をされても、男のような反応を見せると思う。
「本来はそうだが、アタシたちは違う。お前の遺体は別に偽物を用意するし、お前には絶望捜査官に存在を悟られないような措置を取らせてもらう」
ノノカちゃんと出会ってからいくらか日が経っていた。私は巽さんのもとで行う研修期間を終えて、晴れて一人で仕事ができるようになった。そしてそのタイミングで、クレハに改めて協力を持ちかけられたのだ。詳しくはまだ聞いていないが、クレハには絶望の闇を覆い隠せる力があるのだという。
「少しチクッとするが、我慢できるか?」
「……あ、ああ」
いまだに男は戸惑いを見せていた。クレハはゆっくりと男に歩み寄ると、その肩にそっと触れた。私の目に真っ黒に映っていた男の闇が、周囲の空気に溶けて色を失ってゆく。それはまさしく絶望が『見えなくなる』、という表現が正しいようだった。
「大丈夫だ。これでお前の絶望は誰にも悟られなくなった」
「本当かよ」
「だが、絶望が消えたわけではない。このままお前が生き続けても、何か希望を持たなければ、お前の人生が変わることはない」
「希望を持つ……」
「ほんの小さなもので構わない。ここで死ぬはずだったのが、ひょんなことから生き延びられることになった。それも希望の一つと言えるだろう」
「……そうか」
クレハの言葉を最後まで聞いて、少しの間をおいてから男は立ち上がった。その顔には笑みがあった。
「俺さ。レストランやってみたかったんだよ。でもいろんな人に無理だって言われて、修行しても一向に上手くなんなくて。親から見放されて、修行先もクビになってさ。正直どうでもよくなった。でもさ、なんか死ぬはずだったのが偶然生き延びたんだって聞いたら、ちょっと勇気湧いた。今ならもう一回、やり直せる気がする」
ありがとな。
その言葉ははっきりと私に向けられた。私はただここに男を連れてきただけなのに、少し嬉しささえ感じていた。
「この街を出て遠くに行きさえすれば、追跡される可能性は低くなる。ここはもう二度と訪れないことを、強く勧める」
「分かってるよ。誰がわざわざ殺されに行くようなことするかよ」
男は人通りがないのを確認して、一足先に大通りへ出て行った。足取りは軽く、さっきまで絶望を抱えていたとは思えないほどだった。
「アタシはあの男の死体をこしらえる。お前は先に帰れ」
「死体をこしらえるって……そんなのすぐバレるんじゃないの」
「お前も街の中心部の遺体処理場に行ったことがあるはずだ。あそこでは特に遺体を具体的に調べることはない。あそこまで怪しまれずに運べさえすれば、十分実現可能な計画だとアタシは考えている」
「……確かに、ずさんではあるけれど」
基本的に、絶望捜査官が殺した後は自己申告するのみである。それによって、データベースに処理完了、と入力されて任務が終わる。クレハの言う通り、死体の運び込みさえ上手くいけば何とかなるのかもしれない。
「お前は昔から、イタズラをすればすぐ見つかっていただろう? 人をだまくらかすような真似は、向いている奴と向いていない奴がいる。お前はたまたま、向いていない側の人間というわけだ」
「……分かった。じゃああとは任せればいいのね」
「そうだ」
死体ができたら連絡する、とクレハは言い残し、私の元から去っていった。さっき走り去っていった男とは対照的に、クレハは深い絶望に覆われていた。
「どうして、クレハは自分の絶望を消さないのかしら」
クレハはさっきの男の絶望を見えなくしていた。そんな力があるにもかかわらず、あえて使っていないということになる。
「隠さなくても絶望捜査官なんて敵じゃない、ってことかしら。あるいは……」
クレハの絶望の中にわずかに、しかしはっきりと輝く希望。それは自分の考えこそが正しく、この世界を変えなければならない、という強い信念があってこそのものだろう。この世界が間違っているということを示すために、絶望を隠していないということか。
私は絶望捜査官の仕事のために街を巡回するふりをしながら帰路につく。ついこの間までは言おうとも思わなかったただいま、という言葉を口にする。
「……おかえりなさい」
か細い声が奥の方から聞こえる。私の寝室から声がしたのだろうと見当をつけて、そこへ向かう。予想通り、ベッドにはノノカちゃんが腰かけていた。その顔には、ひとしきり涙を流したような跡があった。
「ノノカちゃん……」
その小さな体を、深い、深い闇が包んでいた。