1=絶望は駆除される
「や……やめろ、せめて、命だけは……!」
レンガを積み上げただけのはりぼてのような建物が並ぶ街の中。暗い路地裏で倒れ、肩で息をするのがやっとという様子の男。彼の背中から生える禍々しい雰囲気を放つ黒い翼と、それを覆って空気を汚すどす黒い瘴気は、対象である何よりの証拠だ。私は彼の脳天を撃ち抜くべく銃を向けた。
「大丈夫、次またやり直せばいいの。来世では、きっと救われる」
キボウヲモッテウマレサエスレバ。
私は何のためらいもなく、いたって無表情で引き金を引いた。
私はまた、人を殺した。
もはや原形をとどめていない男の死体を、私は引きずり歩く。私たち捜査官が人を殺せば、ただちに死体処理班が駆けつけ、最低限の処置を行う。それは遺体が腐らないようにするためではなく、絶望という負の因子を周りにまき散らさないようにするためだ。私も瘴気を吸い込まないよう、前時代的なガスマスクで顔を覆っていた。がたいのいい男の死体が入った棺のようなものを引きずり、息を切らすその音が拡張されて私の耳に届く。
道を行く人々は異形とも言える私を見て、慌てて端に避ける。そしてちらり、ちらりと私と棺とを交互に見て、やはり見てはいけないものを見てしまったかのような顔をして足早に去っていく。
「……大丈夫。私は間違っていない。これが、私の仕事なのだから」
自分にしか聞こえないような声で、私はそう言い聞かせる。この男にもはや救える余地はなかった。絶望という絶望が、男の身体じゅうから溢れ出していた。
「ご足労感謝いたします、ヤヨイお嬢様」
「ええ、そちらこそご苦労様」
街の中心に私は来ていた。私たちが殺した人間の遺体を放り込む、これもレンガ造りの大きなドーム状の施設。このドームを囲むようにして、層状に人々の家が並んでいる。それが私たちの暮らす街だ。
入口の前に立つ私の使用人に、軽く挨拶をする。私が運んできた遺体を、彼らが引き継いで中に運び込んでいった。あとは使用人の仕事。私たち"絶望捜査官"が関与するのはここまでだ。私は入口に備え付けてあるスペースで手を清め、黒く染まった軍服様のドレスの懐から若干色のくすんだコインを取り出した。さっき殺した男が逃げる時に落とした、5ドイツマルク硬貨だ。
「こんな硬貨、いったいどこから……」
記憶が正しければ、製造年的にも流通量が多く大して珍しくないはずだ。となれば、この街で唯一の古銭屋から買ったとは考えにくい。その店は何の変哲もない寛永通宝のような、価値の低い古銭は扱わない主義なのだ。現地で道端に落ちていたのを拾ったとか、大方そんなところだろう。少なくとも、私が集めておくほどの価値はない。
「古銭屋に処分してもらおうかしら」
恰幅のいいあの男が嫌がる姿は容易に想像できた。が、何だかんだ私の無茶ぶりを許してくれる程度には仲がいい。私はコイントスをしてもてあそびながら、今度は街の外れにある古銭屋へ向かった。
「そうですね。年代的にも大して珍しくはない。付加価値はほぼないと言えるでしょう」
「やはりね。それなら、適当に処分しておいてもらえる? あいにく、通貨本来の価値しか持たない古銭を集める趣味はないの」
「そう言うと思った。適当に処分すると言ったって、タダじゃないんですよ? それにこれもまた、仕事の一環で手に入れたものじゃないんですか?」
「ええ」
古銭屋も慣れたものだ。殺した男の所有物だと分かっても、驚いた顔一つ見せやしない。代わりに浅いため息を一つついてみせた。
「今回はそれほど価値がないからよかったようなものの。入手ルートの不透明な古銭はそれだけでその道の人間には煙たがられるんです。勘弁してください」
「分かったわ。次からは、他を当たることにする」
「ちょっ、それは……そこをなんとか」
古銭屋はより一層へこへこと私にゴマをすり始めた。さすがこの街で唯一古銭屋を営んでいるだけある。私のような人間のご機嫌取りがうまい。そして、私もそうやって態度を豹変させる人間は嫌いではない。
「そうね。あなたの他を探すとなれば街を一つ越えなければならないし、わざわざ行くのも骨が折れる。冗談よ、当分はあなたのところのお客をやめるつもりはないから」
ありがとうございます、ありがとうございます。
何度もお辞儀と感謝の言葉を繰り返す古銭屋を尻目に、私は店を出た。
その途端だった。今まで感じたことのない種類の暗く重たい空気を、私は全身で感じ取った。どこから感じているのかが分からず、とっさに辺りをぐるりと見渡した。
「ここだよ。見えないか?」
私はぞわっ、と鳥肌の立つ感覚を覚えた。さっき確かめたはずの方向に、鈍色のローブを着た女がいた。私とは無縁の闇深さがにじみ出ていた。だが、顔立ちや髪の色が妙に私とよく似ていて、どこか親近感を覚えてしまった。
「さっきのコイン。あれはお前が殺した男から奪ったものじゃないのか?」
「それがどうしたっていうの。あの男に身寄りがいないことは事前に調べて分かっているわ。しかもあれが希少価値の高いものならまだしも、特に付加価値もないようじゃ持っていても意味がない」
「……なるほど。所詮名家の令嬢と言っても、その程度の倫理観というわけだ」
さすがに看過できない言葉だ。その昔教育係を務めてくれていた私の使用人には何度か叱られた記憶があるが、それとはわけが違う。単に私を侮辱するための言葉であると、はっきり感じた。
「その辺りにしておくことね。分かっていないようだから教えてあげるけれど、私は」
「この近辺でも有数の名家、天満家に生まれ、幼い頃より施された厳しい教育でなるべくして絶望捜査官になった女。天満ヤヨイ、歳は二十三」
鈍色のコートを着たその女はそこまで言い終えると、私の方を見上げてニタリ、と笑ってみせた。不気味だったが、同時にそこには既視感があった。
「……どうしてそこまで知っているの」
「そりゃもちろん」
そこで女がこちらを見上げた。その目つきから漂う雰囲気に気圧されて、私は沈黙を作ってしまった。その目は私と同じ、群青に染まっていた。
「アタシがお前の、姉だからだ。忘れたか?」
その瞬間、私はわずかながらに思い出す。私が天満家の次女であることを。幼いながらもはっきりと分かるほどの過剰な期待の中育てられたということを。
「……クレハ」
「会えて嬉しいよ、ヤヨイ。変わっていなさそうで何よりだ」
「クレハこそ。私の前からいなくなったあの日から、何も変わっていないみたい」
――反吐が出るわ。
私はクレハに銃を、クレハは私に背中から漂う瘴気を。お互いそれが自分の体の一部であるかのように操り、敵と認めた存在にその先端を向けた。
「私は絶望捜査官として、その役目を果たさなければならない。まして相手が実の姉ならなおさらよ」
「やってみるといい。全てを知らざるを得なかった私に敵うとは、到底思えないがな」
私は張りつめた空気を感じる前に、引き金を引いていた。