運命を変える魔法と贖いについて
この手を離しさえすれば僕は元に戻れる。
「忘れてもいいよ」
彼女のほっそりした手から、頼りなく力が抜けていく。透徹した表情が、迷いなく覚悟を決めたことを物語っている。
そして彼女は、空いている方の手で、僕の指を一本ずつ外しにかかった。
ことの発端は予定時刻に生じたズレだった。
僕が現場に着くより早く、その事故は起きてしまった。
魔法を使って護るはずだった十七歳の少女は、取り返しのつかない重傷を負い、僕は初めての事態に愕然とした。
「占い師はもう……?」
見届け役の仲間に電話すると、冷静な答えが返ってきた。
「当然。迷いのない見事な最期だった」
「そうか」
「どうした? わざわざ確認が必要なことでもあるまいに」
通常なら任務は単独でこなすもので、同じ案件に関わる仲間同士であっても、いちいち連絡を取りあったりなどしないのが普通だ。
「時刻にズレが生じて娘を救えなかった」
僕自身のミスではないが、不首尾を伝えるのは良い気分ではない。
「遅参したのか?」
「いや、指示が間違っていたのだ」
「そんな馬鹿な……!」
仲間は絶句した。
ミスが許されないこの任務には、最高位の魔法使いが計算した秒単位の時刻予想が不可欠である。それは常に正確なはずで、何重にもチェックされて導き出された時刻が間違っているなんてありえないことだ。
「おぬしが聞き間違えたのではないか?」
「失敬なことを言うな」
僕は見た目こそ若いが、魔法を習得したのはずいぶん昔のことで、人間の一生でいうと三回分ぐらいの年月を魔法使いとして生きてきた。その間、重大な任務においてミスしたことなど一度もない。
「とにかく、組織の上に報告して指示を仰ぐしかあるまい。こちらは予定通りで何の問題もなかったが」
「わかっている」
僕のミスを疑うような態度は不愉快だが、彼の言う通りにするしかなかった。
魔法使いの多くは、組織に属して働いている。組織は人間や精霊などから依頼を受け、内容に応じて魔法使いを派遣し、報酬は携わった任務に応じて分配される。
未熟な魔法使いにも出来る仕事はあるが、実力者しか果たせない案件も少なくない。その中で僕が所属する部門は、運命に手を加える特殊な魔法を使いこなす精鋭揃いだ。
今回の件は、未来視という異能を持つ占い師からの依頼だった。彼はロマの血をひく人間で、仕事の仲介という形で魔法使いの組織と関わりを持っていた。
依頼内容は「私の命を代償として、娘を無傷で助けて欲しい」というもの。
娘と共に事故に遭う予知夢を見た占い師は、自分らの運命を精査してくれるよう組織に求めてきた。それで、近いうちに大きな事故が起きることがわかり、父娘はそれに巻き込まれ、完治不可能な重傷を負う運命という鑑定結果を受けた。
「私はいいが、娘が焼けただれて不自由な身体になるなど耐えられない。あの子の人生は、まだまだこれからなのに」
占い師は安くない報酬を前払いし、魔法による運命の変更を依頼した。
運命を変えるメカニズムは複雑で、どんな場合でも必ず代償を必要とする。例えば腕を骨折する運命を回避するなら、同等以上の代償を用意しなければならない。単に避けるだけでは、運命は利子を加算するかのように、腕の欠損や麻痺など骨折より過酷な未来を後々もたらすのだ。
男手ひとつで慈しみ育てた一人娘だという。占い師は自らの命を代償として差し出すのをためらわなかった。
それなのに、同時刻であるはずの彼の死と事故のタイミングがズレたせいで、僕は娘を救えなかったのである。
「娘の体を元通りに修復せよ」
上司に報告すると、既にわかっていたかのように命令された。
「特殊なケースにつき、その分の報酬は組織が支払う」
「予定時刻の伝達にミスでもあったのですか?」
率直に問うと、わかりにくい説明が返ってきた。
「そうではない。どんなに代償を用意しても、運命を無理やり変えるというのは摂理に反する行為なのだ。繰り返し行えば歪みが蓄積して、こちらが精査した未来と微妙に違う結果を招くこともある。今回の件は、たまたまその歪みが一気に弾けて大きく時刻がズレたのだろう」
そんなことは初耳で、どうも釈然としない思いはあったが、上の指示には従うしかない。
「次に入っていた仕事は他の者にまわす。おまえは修復作業に専念せよ。完了次第、対象者の記憶を消去して戻るように」
「了解」
肉体の修復というのは、許可なく施してはならない「禁じ手」でもある。それが出来る魔法使いは世界でほんの数人しかいなくて、僕はそのうちの一人だった。
入院中の少女に会いに行くと、集中治療室のベッドに手足の欠けた歪なミイラが横たわっていた。
包帯の間から、紫や赤や黒に変色して斑になった皮膚が覗いており、意識の有無はよくわからない。これほどの損傷をすっかり無かったことにするのは大仕事になる。
とりあえず写真か何か、元の姿がわかるものが必要だ。
僕は占い師が娘と暮らしていた家を訪ねた。
門を開けてレンガ造りの家に入ると、やたら人なつこい犬がお腹を空かせていた。茶色の毛に覆われた体は大きく、垂れた耳と長いふさふさの尻尾が愛らしい。彼が開けようと悪戦苦闘したらしい、爪痕で傷だらけになった戸棚の留め金を外すと、案の定そこに餌がしまってあった。
「待て待て、今やるから」
戸棚に頭を突っこもうとするのを阻止し、餌皿に山盛り与えてやる。貪るように食べはじめた犬を見て、気分が和むのを感じた。ついでに空の給水器も洗って、ボトルに新鮮な水を補充した。
玄関ホールの壁にいくつか写真パネルが飾られてあり、この犬を抱いた髪の長い少女の写真もあった。はじけるように明るく綺麗な笑顔に、しばし見入る。
満腹になった犬は、僕のところにトコトコやって来て、礼でも述べるように一声わんと鳴いた。
「おまえの世話係も必要だね」
犬の頭を撫でてから、家の中をざっくり見て回った。
部屋数は少ないが天井の高いゆったりした間取りで、暖炉や安楽椅子が置かれた居間の大きなカーテンを開けると、その向こうはスペイン風の中庭だった。敷き詰められた石畳に陽光があふれ、よく手入れされた緑と花の鉢植えが並んでいて、小さな噴水まである。
「素敵な家だな」
ここの占い師には会ったこともなかったが、家の様子から伺える美意識に好感を持った。
内側は明るく暖かい雰囲気なのに、外側に向いた窓はほとんどない。堅牢な隠れ家のようで、魔法使いの僕にも居心地が良さそうだ。
病院で周囲の目を欺きながら修復するのも面倒だし、僕は少女をここに移動して作業することに決めた。
まず痛みと出血を止める。著しい欠損でヒトの形として不完全ではあったが、幸いなことに脳と内臓には損傷がないらしい。応急的に皮膚を再生させ、表面の傷をしっかり塞いでから退院させた。
普通ならありえない経過でも、魔法をちょっと使えば誰も疑問に思わなくなる。退院する時、診療記録とともに医師や看護師らから少女についての記憶を抹消した。
「必ず元に戻すからね」
少女を心配そうに見守る犬に声をかけ、僕は本格的な修復に入った。
「おはよう」
聞こえるかどうかわからないが、毎朝そうやって声をかけてから作業を始める。皮膚と違って骨や筋肉を再生させるには時間がかかり、特に神経が密集している顔面の修復には細心の注意が必要だ。
「おはよう」
返事が返ってきたのは、修復を始めてから一か月後のことだった。
「おはよう……ございます」
形だけはどうにか戻したが、機能はまだ不完全で、まともに動かせず麻痺している部分が多いはずだ。
「僕はあなたの治療を担当している療法士です。どこか痛みますか?」
少女はイイエと答えた。
「事故のことを憶えていますか?」
そう問うと少女は首をかしげた。
「わからない……」
目覚めたばかりだからかと思ったが、どうやら負傷によるショックで記憶が欠落してしまったらしい。事故のことだけでなく、自分の名前や父親と暮らした記憶まで失っていた。
「無理に思い出さなくても大丈夫。まずは治療に集中しましょう」
僕は少女の動かない手を取り、マッサージやリハビリのふりをして魔法をかけ、少しずつ元に戻していく。
「気持ちいいです」
彼女はうっとりと目を閉じて微笑んだ。
「あなたの手は温かくて優しいから」
うす朱く頬を染めたその表情に、僕は柄にもなく動揺した。
この修復は、組織の指示でやっているに過ぎない。終われば、僕に関する記憶を抹消して立ち去る予定なのだ。そこに「優しさ」などあるわけがない。元の記憶を失った状態で、更に今の記憶まで消し去ったらどうなるかなんて、少しも案じていないのだから。
「治療はいつまでですか?」
少女の問いには心細そうな響きがあった。胸にチクリと小さな痛みを感じる。
「あなたがすっかり元気になるまでですよ」
嘘、ではない。
外界から遮断された家で、二人と一匹の生活は穏やかに過ぎゆく。組織も専念しろと言った通り、進捗を尋ねる連絡すら寄越さない。
「どうしてこんなに親切にしてくれるんですか? もしかして、以前から知り合いだったの?」
少女は問う。
記憶を失くしていても、一般常識に関して、彼女は世間知らずではなかった。僕が住み込みで日常の家事までこなしていることを、不思議に思いはじめているらしい。
「あなたのお父上に、以前お世話になりました」
僕はもっともらしい嘘で取り繕う。魔法で疑問を誤魔化すことならいくらでも出来るのに、どういうわけかその気になれない。
「父は亡くなったんですよね?」
彼女の声は沈んでいた。
「記憶があったらちゃんと悲しめるのに、どうしてひとつも思い出せないのかな」
残念ながら、僕には記憶を抹消する力はあっても、欠落したそれを修復する力はない。
「まだ悲しむタイミングじゃないんですよ」
「タイミング?」
「体の苦痛がひどい時に心まで痛かったら、元気になろうと思えないでしょう? だから今は神様が記憶を預かってくれてるんだと思います」
口先だけの慰めに過ぎないのに、彼女はふわりと柔らかく笑った。
「あなたは優しいですね」
僕の胸にまたチクリとした痛みが走る。同時に、どこか甘さを含んだ痺れがじわじわと広がってくるのを感じた。
この甘い痺れが何か、わからないわけではない。だが、人間に対してこんな感情を抱くなどありえないことだ。
姿かたちが同じようであっても、魔法使いと人間とでは、生きている時間軸がまるで違う。僕らから見れば、あっという間に老いて死んでいく相手を、対等に思えと言われても無理なのだ。
もちろん魔法使いの中にも、人間を愛でて傍に置く者はいる。だがその気持ちは、愛玩動物に対するものに近い。老いて弱ったり亡くしたりすれば悲しみはするが、はじめからそういうものだと認識しているため、唯一無二の存在にはなりえない。
でも彼女は僕が修復したのだから……都合のいい妄想が浮かんでくるのを、必死で戒めて抑えつけた。
彼女が記憶を欠落していることは、もちろん組織に報告した。だが上司は、肉体の修復だけで十分とあっさり通達してきた。長年つきあいのあった占い師が、組織を信頼して命と引き換えに依頼した仕事なのにと思うと、さすがの僕も上の冷淡さに唾を吐きたくなる。
彼女のためではない。あくまでも仕事として中途半端なのが嫌なのだ。
僕は記憶を修復できる魔法使いにコンタクトを取り、組織を通さず個人的に依頼した。肉体の修復と違い、記憶の修復は禁じ手ではない。むしろ人間がよく依頼してくる仕事である。
「久方ぶりだの」
イレギュラーな依頼に応じてくれた魔法使いは、僕が記憶操作を教わった師でもあった。
「これはまた美しく修復したものよ」
魔法で眠らせた少女を見下ろし、彼は目を細めた。
「相変わらず見事な腕を見せおる」
「外側だけです。失った記憶を戻さなければ無傷とは言えません」
「おぬしにしては珍しいことだ」
彼は不思議なものを見るような目で僕を見て、それから気を取り直したように彼女の額に手をかけた。
「もう仕事は終わったのだろう? おぬしの記憶もついでに消しておくか?」
「いえ、まだ完全ではないのです」
自分の口をついて出た言葉に僕も驚いた。
「本当に珍しいことだ」
彼はもっと何か言いたげな顔をしていたが、報酬を受け取ると黙って去った。
記憶を修復された彼女は、目覚めると、父親の死をひどく悲しんで涙を流した。僕は安っぽい慰めの言葉など口にしなかったが、泣きじゃくる彼女を見ているのは辛かった。こんなに悲しむのなら記憶を戻さない方が良かったのではないかと悔やみもした。
見守ることしかできないまま幾日かが過ぎ、やがて彼女は少しずつ落ち着きを取り戻し始めた。
「あなたがいてくれて良かった」
久しぶりに笑顔を向けられた時、記憶修復を施したのは間違いではなかったと、心の底からホッとした。
自分の怪我と父親の死が重なっている理由について、彼女は何か察しているようではある。
「本当は何者なの?」
聡明な光が宿る目で尋ねられるたび、魔法で意識を失わせて逃げた。
その若さにふさわしく軽やかに動く肢体を見れば、もはや僕の力を必要としていないことがわかる。記憶を消して立ち去る時期が来たとわかっていながら、あと1日、もう1日と先延ばしにしてしまう。理由はすでにはっきり自覚していたが、認めることもできなくて、自分に言い訳ばかりしていた。
「いつまでもぐずぐずと、いったい何をしているのだ! さっさと戻れ!」
ついに召還命令が下された。次の仕事が僕を待っている。
「あの厳しい修行の日々を無にするわけにはいかない……潮時か」
組織に属する魔法使いである以上、ここに留まり続けることは不可能だ。魔法使いが特定の人間、それも自らの手で運命を変えた人間に寄り添って生きるなど、我々の世界の常識では狂気の沙汰である。もし人間のために組織を離脱などすれば、こそこそ裏稼業で生きていくしかなくなり、魔法使いの仲間からも爪弾きされるだろう。
それに……ここで彼女と暮らし続けたら、僕はいつか秘密を話してしまいそうで怖い。
肉体の修復が禁じ手である理由は色々あるが、この魔法自体、我々の世界でも伝説として語られるような存在で、現実に可能な魔法だと知っているのは組織でも高位の者に限られている。僕がこれを習得させられたのは、亡き父が同じ秘術の使い手だったからだ。
崩れた肉体を元どおりにする修復魔法は、治療などの医療行為とは似て非なる性質を持つ。
人間でも魔法使いでも、修復を施された者の体は時を止めたように老いることも病むこともなくなる。だが、それは施術した魔法使いが寿命を迎えるまでのことだ。施術者の死によって修復は無に帰す。つまり、一瞬にして修復前のおぞましい姿に戻ってしまうのだ。そうして再び時を刻みはじめた肉体は、病苦や老いにさらされ、苦痛やダメージの深刻さによっては死を免れられなくなる。
高位の魔法使いが関わっている者なら、施術者の寿命による問題に対処することも出来るかもしれないが、ただの人間である場合、修復された記憶は消されるため、そんな魔法の存在を知る由もない。彼らの体感としては、突如として不老不死になり、長い年月の後また前触れもなく修復前の状態になって、場合によってはすぐに死なず苦痛に苛まれることになるというのに、その理由も原因もまったくわからないということになる。
その残酷さゆえに、この魔法は禁じ手であるとともに、人間には絶対知られてはいけない秘術でもあるのだ。
だから僕には、彼女が年を経て少しも老いない自分に気付いた時、どうしてなのか教えてやることも、傍で支えることもできない。そんなことをしたら、長期禁錮や魔法剥奪などという重いペナルティを科されてしまう。もし、苦労して習得したこの高等魔法を剥奪されたら、僕は最下層の魔法使いとして使い走り程度の仕事しかできなくなる。そんな屈辱には、とても耐えられそうになかった。
最後と決めた日、僕は中庭にテーブルを出して彼女をお茶に誘った。濃い緑の中に鮮やかな夏の花が咲き誇り、甘い香りを漂わせていた。
「私が父に何も聞いていなかったと思いますか?」
お茶を注いだ白いカップを差し出すと、彼女は悲しそうな顔をした。
「この世には本当に魔法というものがあって、それを使って人間を助けてくれる組織があると……父は困っている人と組織をつなぐ役割を誇りに思っていて、魔法使いの皆さんを尊敬していました。どんなに大変な魔法で救ってやっても、恩着せがましい態度なんかしないで、依頼人の記憶を消して何事もなかったように立ち去るのだと言ってたんです。だから、あなたも……私の記憶を消すつもりでしょう?」
内情を知っている僕には突き刺さるような言葉で、返事ができなかった。亡き占い師の人生や彼女の気持ちや、色んなことが浮かんで苦しくなってくる。
「あなたを忘れたくない」
彼女は両手を祈るように合わせ、僕を見つめた。強い眼差しに、揺るがない固い意志のようなものを感じる。
「もう行ってしまうんでしょう? 二度と会えないのなら、せめて憶えていたいの」
「それはできません」
「どうして?」
「それも言えません」
「私はちっぽけな人間で何の力もないから、行かないでとも、また会いに来てとも言えません。でも記憶があれば、いつでも私だけのあなたを思い出すことができます。私の命も魂も、何だって全部あげるから、お願いだから忘れさせないで! 死ぬまでずっと、あなたを私は……」
言葉につまった彼女の目から大粒の涙がこぼれ、それは宝石のように陽の光を反射して煌めきながら、ぽろぽろと滴り続けた。
なんという熱情なのか――僕の存在を憶えていたいという、ただそれだけの為に全てを捧げてもいいなんて。こんな真摯な願いを無視することは、すさまじく難しい。
「僕が生きている限り、あなたは若く美しい姿のまま病むことも死ぬこともありません。いくらでも素敵な人と出会えます。僕のことなど忘れた方が幸せになれます」
彼女は激しく首を振る。
「絶対に嫌! あなたを忘れるぐらいなら、今ここで死んだ方がましです」
こんなに強く誰かに想われるなんて、今まで一度でもあっただろうか。
僕は天を仰いだ。
「わかりました。記憶を消さないで立ち去ることはできません。あなたが僕を忘れてもいいと言うまで、ここに留まりましょう」
こんな小娘に惑わされるなど、自分でも正気を疑ってしまうが仕方ない。
「そんなこと、私は絶対に言いません」
少女は泣き止み、咲き誇る花よりきれいな笑顔を見せた。
「だから、ずっといることになりますね」
甘い痺れが僕を支配していく。もはや抗うことは不可能だ。受け入れることしかできそうにない。
「僕も……願わくば、ずっと一緒にいたい」
壊してしまわぬよう、そっと手を引いて抱き寄せると、彼女はたおやかな腕を僕に巻きつけ、耳元で情熱的な愛の言葉をささやいた。
それから数週間が過ぎた。
彼女は片時も傍を離れたがらず、そのやわらかい温もりと愛情で僕を包みこみ、人間の世の幸せというものを教えてくれた。
魔法使いはたとえ親子であってもべったり甘えたりせず、個を尊重するような関わり方が普通だ。それは恋仲でも夫婦でも変わりなく、絆がないわけではないのだが、人間の愛情表現と比べるとずいぶん淡々としている。
彼女から過剰に注がれる愛に戸惑い、時に窒息しそうになりながらも、僕はそれを嫌だとは少しも思わなかった。
「ここにいてくれるんだよね?」
ふとした瞬間に彼女はすがるような目をして言う。
「きみの傍にいるよ」
強く抱きしめ、際限なく甘い言葉を連ねても、彼女の不安は消えないようだった。
僕が何者であるか、はっきり言葉で説明したわけではないが、魔法使いだということは暗黙の了解になっている。彼女は人間の自分が魔法使いの僕を独り占めして留めていることを、どこかで畏れ多いと思っているらしい。傍を離れないと誓った僕の約束も、心の奥深くでは信じられずにいるのかもしれない。
組織から重い罰が下されることはもはや確実だが、それが禁錮など収監される類のものだったら、彼女とは引き離されるに違いない。上層部は容赦なく彼女から僕についての記憶を消し、僕の記憶も組織に都合のいいように操作されてしまうだろう。
ここで過ごす日々の愛しい記憶を失くすなど、今の僕には耐えられそうにない。彼女が記憶を消されたくないと、あんなに強く抵抗した気持ちが今ならわかる。
だから、彼女と離れ離れにされずにことを済ませるには、もっとも重い魔法剥奪というペナルティを狙うしかなかった。
「あなたに施したのは、修復という魔法で……」
組織にとって秘中の秘である修復魔法のすべてを打ち明けると、彼女は衝撃を受けながらも懸命に理解しようと努めてくれた。けなげさに心が震えた。
この魔法を失うということは、組織からの追放を意味する。上司も仲間も、僕などはじめからいなかったかのように無視し、相手にしなくなるだろう。そうなったら、最下層の魔法使いの多くがそうしているように、人間のふりをして汗水垂らして働き、彼女とともに生きていくつもりだ。
無視し続けた召還命令は脅しに変わり、仲間の説得を退けると上司がやって来た。
「この罪は重い。処分は免れないぞ」
「覚悟はできています」
彼女と一緒にいるためなら何を犠牲にしてもいい。
上司は執行者として遣わされたらしく、処分内容を通達する、と前置きして重々しく告げた。
「修復対象者の存在を削除し、おまえの記憶からも抹消する」
「そんな馬鹿な!」
愕然とする僕を、上司は蔑みの眼差しで見た。
「組織がおまえの力を手放すはずがない。占い師の父娘は不憫だが、どのみち子孫を残さない運命だから削除しても問題ないそうだ」
「待って下さい! 今すぐ彼女の記憶を消して去りますから、そんな残酷な処分は……」
「もう遅い。それに、これは秘密を洩らしたおまえへの罰でもある」
冷酷な執行者はにべもなく言い切り、彼女の足元を指差した。ぽっかりと深い穴が出現する。
「あっ」
彼女は短い声を残して落下した。
考えるより先に体が動き、僕は彼女を追って穴に飛び込んだ。どうにか手は届いたが、彼女を抱えて魔法で浮き上がろうとしても、落下を止めることすらできなかった。
「馬鹿なことを」
上司の声とともに上から長い棒のようなものが伸びてきた。片手で掴まってぶら下がり、もう一方の手で彼女の手をしっかり握った。
「その娘を落とすのだ」
上司は冷たい声で命令した。ずいぶん長く落ちていた気がするが、穴の縁はすぐ上に見えている。
「そうすれば、全てを忘れて無傷で元の身分に戻れる」
どういうわけか、上司の声は二重にも三重にもかさなって聞こえ、いつか遠い昔に同じ言葉をかけられたことがあるような、奇妙な感覚がよぎった。
この少女の存在をきれいさっぱり忘れてしまえば、僕は何事も無かったように組織に戻り、上位の魔法使いとして運命に細工する仕事を続けていくだろう。そしてまた蓄積した歪みでエラーが発生し、禁じ手を駆使して取り繕い、どうにもならなくなったら全て削除して無かったことにするのか。たとえ繰り返されても、何も思い出すことなく僕は……それなら、この既視感はいったい何だ?
「また忘れてしまえばいい」
上司は諭すように、そう言った。
僕の体はわなわなと震えだしたが、温もりを感じる方の手だけは絶対離さないように強く握りしめた。大切に守りたい者の命が、そこにぶら下がっている。
「私のわがままのせいで、苦しませてごめんなさい」
少女の声が、凛とした響きを持って耳に届く。
「忘れてもいいよ」
どこまでも澄んだ目が僕を見上げていた。
そして彼女は一本ずつ、僕の指を外していく。まるで別れのカウントダウンのようだった。
「嫌だ!」
はがされた指を元に戻し、渾身の力で彼女を引き上げる。
「どうかお願いだから手を離さないで……あなたを諦めたくない」
何か熱いものがこみ上げてきて、それは僕の目から雫となってこぼれた。
「二度と戻れなくなってもいいのか?」
上司が見下ろしている。
「元の身分にしがみつくつもりはありません」
彼女を救えないのであれば、ともに落ちるしかない。不思議なほど心は静かで清々しかった。
「では特例として、この罰はおまえ自身に科す」
「お願いします」
うなずいた上司の目に慈悲を感じたのは、虫の良い幻覚かもしれない。
いきなり、掴まっていた棒がもの凄い勢いで上に引かれ、僕達は釣り上げられた魚のように宙を舞って地に叩きつけられた。視界が真っ白になり、頭の中も白くなっていく。全身の力が抜けて起き上がることも出来ない。
「永の別れだ」
その声を最後に、僕の意識は深く、どこまでも深く沈んでいった。
この人の名前を私は知らない。
蜂蜜色の髪をした魔法使い。いや、元・魔法使いというべきかもしれない。
彼は私の父からの依頼で派遣されて来たと言った。
亡き父はロマの血を引く占い師で、魔法使いの組織とも繋がっていた。父には未来視という異能があって、その力を見込まれて組織の仕事をしていたようだが、そんなに詳しくは知らない。
私が乗った列車が大事故を起こすのと同じタイミングで、父は自ら命を絶ったのだという。未来視で事故が起きるのを知って、自分の命と引き換えに私を助けるよう組織に依頼していたそうだ。父の遺言や日記の類は何もないから、この人の話が本当かどうか確認するのは不可能だ。私は十七歳の無力な人間で、どこにあるかもわからない魔法使いの組織のことなんて調べようがない。
夏の終わり、見知らぬ恐い魔法使いが現れた日、私を治してくれたこの人の記憶は言葉一つ残さず消え失せてしまった。生まれたての赤ちゃんのように泣く彼を、私は必死に抱きしめることしかできなかった。
あの日から彼の精神はまっさらな状態となり、私の世話なしでは何ひとつこなせなくなった。体だけは普通に動くのでそれだけは幸いに思うけれど、食事や着替えの仕方まで忘れてしまったため、朝から晩まで付きっきりで面倒をみないといけない。
それでも日に日に、少しずつだが、私の言うことを理解できるようになってきた。
「まりあ」
私を呼ぶ発音はまだたどたどしいが、無垢な笑顔を向けられる日々は悪くない。愛犬も頼もしく寄り添って面倒をみてくれている。
魔法使いというのは、人間の何倍もの時間を生きられるらしい。修復という特別な魔法をかけられた私は、この人が生きている限り今の姿形のまま生かされ続け、死ぬ時まで道連れなのだと聞いた。
だから、焦る必要は全然ない。幼な児を育てるようなつもりで色々なことを教えてあげれば、やがて私と対等に話せる日は必ず来ると思う。
「名前をつけてあげるね」
今、この人の中に苦悩や哀しみはない。このまま幸せだけを感じていて欲しかった。
「アンヘル。スペイン語で天使のことよ」
深い青色のきれいな目を見つめて言い聞かせる。
この目を曇らせないよう守って生きることが、私の運命に違いない。
「ずっと一緒に生きていこうね」
優しくキスすると、アンヘルはくすぐったそうに笑って私に抱きついた。
「まりあ、すき」
私も彼をぎゅっと抱きしめる。細身の体から、ふわっとお日様の匂いがした。
「私も好きよ、アンヘル」
大切な私だけの天使。
(完)