行き国
年内最後の仕事場は、とんでもない荒れ模様だった。部署内で親しくしているムードメーカーの数人が手を組み、さながら社員旅行規模の年越し旅行を計画したらしい。お影で十二月に入る頃には部署内が旅行への期待で話題も雰囲気も持ちきりになり、普段よりも作業が滞ってしまった。それは毎日少しずつ、誰もが気にならない程度の作業の遅れが積み重なった結果、皺寄せが今、来ていた。
夜の列車に乗れなければ旅行は頓挫してしまうというのに、引き継ぎやオペレーターへの連絡が悉く上手くいかない。誰かの手によって計画的に張られた罠に嵌っていき、最後には落とし穴でも待っていそうだ。そんな、しっちゃかめっちゃかな部署の光景に、スムーズにエスカレーションしろ、という上長の怒声が部署に地鳴りで伝わる。
オペレーターからすれば、とんだとばっちりであろう。自分達は年末年始も関係なくサーバーが止まらないか、不備を早期発見して素早い対応のために見張っていなければならないのに、旅行に行く管理部の皺寄せのせいで怒鳴られるはめになるなんて、私だったらストレスで倒れてしまえそうだ。そんな怒鳴り一つで物事が正常に動くようになるかと言われれば、もちろん、そんなことはない。それどころか誰も上長に目もくれずにいる。書類は宙を舞い、あっちこっちで電話の受信音が鳴り続いている。
夏の蝉の合唱だ。すっかり季節外れな風物詩を思い出して、見出しを書いた紙を分厚いファイルに入れて、表紙にテプラで作ったタイトルを貼った。斜めにならないためにも息を止めて、聴覚から情報をシャットダウンすると、背表紙と表紙に一本の真っ直ぐな筋が通った。緑色に白い文字の、ぬくもりを持たない一線が。
残す必要が無いと判断したものや、自分だけにしか解読できないメモは完全に削除する。そしてファイルの内容物の説明文と、ファイリングのルールを一つ一つに印刷して表紙を開いた背中に貼り付けた。中身が大層な物ではないので簡易的に短い説明書。これなら他の人でもすぐに慣れるだろうと期待する。日付は古いものを下から入れ、一月ごとに下から捨てていくもの。上から各種類分け、チェックシートやカタログ処理の順番。様々なファイルに数行で事足りる文字を連ねたメモをセロファンで、こちらも角度に細心の注意を払い張り付けてしまえば、最後の仕事が終わりを告げる。賑やかでありながらも、心境は沈黙が保たれていた。
紙の端から端までに指先を滑らせて織り目が付かないようにと念を込め、馴染みの触感に自分を滲み込ませ、ファイルをキャビネットに戻す。扉を閉めるといつも通りの佇まいのすぐ目の前を、誰かが走り去って行った。灰色の勤勉さには勝てないというのに、と思わず溜息が零れた。
定時を告げるチャイムが、無慈悲にも暗い社内に鳴ってしまった。どこかで誰かが悲痛な叫びをあげて、それに返事をするかの如く向かい側の席からも違った声が四方八方から木霊する。乗る予定の列車の時間まで三時間を切ってしまった。余裕を持った予定だったけれども、刻一刻とタイムリミットがにじり寄ってくるのはなかなかの不安感ではないだろうか。さながら発狂していく麻薬中毒者達の檻の中に紛れ込んだ様だった。本物はもっと恐ろしいのかもしれないし、知り合いにそんな体の人は居ないので乏しい想像力をうっすらと働かせただけのものだが、きっとこんなものだろう。私の目から見れば、どちらにもそれほどの差は存在しない。狂気的でいて、大きな音をたてても気にしない、人間の形をしている。それだけで充分だからだ。
最低限の物しか置かれていないデスクはやや寂しいものにも感じるが、なんだかすっきりした。引き出しの中を見る。ホチキスや鋏、お手拭、クリップ各種が入っていたが、仕切り以外はなにもなくなっている。隣は書類を入れていた引き出しだがそこも今はがらんとしており、引けるだけ引いてもガンッと音をたてて、最奥がちらりと見えるだけ。一番下の広い引き出しには、真新しいクリアファイルが数種類立て掛けてある。私物は毎日こつこつ持ち帰り、会社の物は共有棚やファイリングをしてキャビネットに並べて置いたので、今後は共有管理されるであろう。自分の手を離れていった、ずっと手掛けていた担当の分野は今後誰に引き継がれるのであろうか。決めなければならなかったけれど、決められなかった。決まった人よ、ごめんなさい。そして書類にも、心の中でそっと謝る。
鞄を手に、コートを脇に抱えて私は帰り支度を整えてしまった。終業の鐘が鳴り、私はもうすることが無くなっていた。立ち上がり、デスクの島の一番奥で、一心不乱にパソコンに向き合っていた上長の脇で立ち止まる。ここだけ騒音から隔離されていて、二人だけ世界とは切り離される。手を止めて残念そうに見上げてくる上長に頭を下げて、デスクの鍵を返した。これで私と会社を繋ぐ物は無くなった。すっかり肩から荷を下ろせた私は姿勢を正し、もう一度だけ頭を下げた。わざわざ発せずとも言葉は交わされ、我々はそれだけで最後の時間をしっかりと惜しんだ。
この人とも随分と長い付き合いになったものだと感慨に耽らざるを得ない。入社した時からかれこれ何年経ったことか。当時からこの人はこの席に座り、一人淡々とパソコンに向かっている。誰かから書類が渡されると短いながらも毎回声をかけ、相手が誰であろうとも切り分けせずに声をかける。この人なりのコミュニケーションは、決して余計な言葉も行動も必要ない。渡される書類には毎回メモが付属していて、そこには短く言葉が添えられている。形式的なものかとも思ったが、毎度違う言葉が、引き出しの一角に増えていくことが心の支えでもあった。色や形の異なる付箋で彩られる言葉は、挫折しかけた時や家族の不幸の時に、私を影ながらに支えてくれた。周りには言わないようなことでも、上長には報告する必要があるせいで彼には様々な事情が知られていた。悪い気はしなかった。彼は私に対して下手な同情を向けることもしなければ、それ以上でもそれ以下でもない。その距離感が心地好くて、心の数少ない拠り所だった。
隣に並んだまま、部署を見回してみる。質素な壁、天井にまで届くキャビネット、エコのために所々本数の足りない蛍光灯。蜷局が蜷局を呼んで、もはや化け物になっているコードと、それに繋がるパソコン。一辺にしかない広い窓と、そこから入る天然光は隣の部署にあるため遠い。釣り下がるコートの傍に防犯用のヘルメット。床を覆う柔らかくもない灰色のマット。全てが味気ない、息苦しい仕事場。私をずっと蜷局の中に閉じ込めて、呼吸をさせまいとした檻の中。
私は長いことこの職場にいたが、とうとう好きになることは無かった。毎朝掃除しているらしいマットは繊維が軽くて簡単に取れてしまうらしく、デスクの上がいつだって埃が落ちていた。どんなに拭いても後から後から空中に舞っているので、最初は綺麗に保とうと思って奮闘もしたが半月頑張って、そして諦める。両隣はそれよりももっと昔から諦めてしまったのか、元々掃除が嫌いなのか、デスクの一番端やパソコンのウィンドウの後ろは塵が積もって黒くなっていた。何度掃除したくなったか言えたものではないが、そういった様子なのだ。それは年末にさしかかっても変わらないまま、きっと来年も連れ添うのだろう。そしてこれまで一緒に過ごしたように、これからも共に生きていく。
埃は積み重なり絡んでいき、年月が繊維中のもっと細やかなものを溶かし、どろどろになりながら地層を重ねるのだろう。取り除かれることもなく、机にすらこびり付いて拭っても取れなくなりそうだ。パソコンとデスクを接着させてしまって、普段は動かすことなどしないせいで誰も気付けないまま、空気も挟めないほどに密着してしまったなら、この二つはどうなってしまうだろう。 見届けられないのが残念でならないけれど、想像よりも最悪な結果になったとしても見る必要がないので安心もする。
広すぎるフロアは私にとってストレスだった。どこからどこまでが、なんの部署なのか、関係あるのかないのか、区別がつきにくい。そもそも、同じフロアに居ながらも関係ある・なしというカテゴリが存在することが私にとっては理解できない構図である。そのせいで、取りあえず擦れ違う人には挨拶や頭を下げてみていたが、無視されることの方が大半だった。どんなに私が関係ない部署の人間だからだったとしても、人の挨拶を無視するだなんて。理解に苦しみ、判りたくもない。徹夜をしていたり、話し合いが上手くいってなかったり、ただ単に虫の居所が悪かっただけかもしれないが、そんな些細なことは関係ないのだ。私よりもよっぽど社会人人生が長そうな、スーツをきちんと着こなせる方々も、まだスーツに切着られているような若造も、大差などない。
フロアはいつも息苦しくて、トイレや食事の時などの用事でエレベーターホールに出ると、私は深呼吸をしながら正面玄関を眺める。そこは巨大なガラスの壁があり、そこから見える空が密かな楽しみだった。とても青が澄んだ日は鉄塔を輝かせ、格好良く見せた。曇りの日は重苦しいものを背負い込んで、緊張感を窺わせた。雪の日は佇む姿に儚さすら感じ、雨の日は力強く辛抱して立ち尽くす。暗くなってしまうと紛れて見えなくなってしまうのが、少しだけ残念でならなかった。
それでも、エレベーターホールに出ると癖で外を見てしまう。いつもタイミングが悪くて夕焼けに黄昏る鉄塔を見たことがなくて、部署の窓がもっと近ければとか、明かりが入らないようにと閉ざされていなければ、偶然を装って見ることが出来たのかもしれない。けれども、その機会も永遠に閉ざされてしまった。薄っぺらなプラスチックのカーテンに阻まれて、私の小さな夢はその小ささ故に達成などできなかっただろう。
思えば怖い人が多かった。ファイルの置き方、キーボードの叩き方、電話対応は相手によりけりだが、それはもう粗暴と呼びたくなるくらいだった。とにかく音が大きい。いらついているのか意味はないのか、その区別がどうにもつかなくて判らないふりをしていた。私は無表情に撤することにした。そうしていれば挙動不審にならず、今迄の流れを持つ部署に波紋を作らずに済むだろうからだ。とどのつまり、私は怖かった。もっと静かなところを求めた。それはトイレだったり、移動途中の廊下であったりと、ゆっくり心を平穏にしえくれる。むしろそれぐらいしかなかった。私の心穏やかになれる時間は、この一瞬か、会社に居ない時だけだ。
あの、と声を上げた。普段からうまく話しかけられない話し方の自分が、この場で最初で最後の大声を使った。初めてのことに周りも驚いて、視線が集まった。隣からの視線もやや痛いが、気付かないふりをしてしまおう。最後なのだから大目に見てもらってもいいではないか。最後の口上だ。拳を握りしめたけれど、震えたけれど、それは恐怖からではなかった。
「今までお世話になりました。本日付けで、退職致します。」
しんと静まり返った部屋が、私の独壇場になる。全員の手が止まり、コピー機だけが、がしゃんがしゃん、と鳴り響き仕事を続けていた。その一瞬だけ電話のコールも止まり、まさに静寂に包まれたのだ。その隙に、じゃ、とおざなりな括り方をして颯爽と部署を飛び出した。自動に開閉するドアが出迎えてくれた。
扉の向こう側で叫び声と唸り声が折り重なり、また新しい化け物が誕生したらしい。きっと静かな場所に一人ぼっちだった上長が、今頃は巻き込まれて台風の目になっているだろう。申し訳ない反面、部下との距離感を少しでも縮められればいいではないかと余計な節介を一人ごちた。なにせあの人の距離はちょっとだけ測りかねるところがあり、それが私は好きだったけれども。エレベーターホールまで歩みが進まり、ふとした癖が出る。窓の外はすっかり夜の闇に包まれており、太陽は地平線に沈み、星が自己主張を始めている。鉄塔はその中にひっそりと息をひそめてしまい、お別れができない。記憶の中で位置を確認して、瞼に焼き付けた姿を思い浮かべる。見てみたかったな、橙色に染まる貴方の姿を。さよなら。
一面硝子張りの正面玄関は、無防備にも暗闇を一身に受けている。高い天井の一番上まで到達する硝子は常に冷ややかで、どんな音も吸収してしまう。カードを通して自動ドアを二つも潜り、硝子を通して冬の空を見上げる。そうして敷地の外へと出ることが許さる。会社の外は随分と冷え込んでいて、静かだ。どうしてさっきまであんなに音の途切れない場所に居たのに、今はなにもない場所に一人で立ち尽くしている。首元や手首の隙間から冷えた風が入ってきて、声を出した火照る身体を冷やしていく。ぼうっとした頭が現実に戻されてくる。私は最後の勤めを終えたのだ。解放感が全身に沁み渡っていく。夜の匂いが鼻腔を通り肺を満たして、星を飲み込んだ気がした。息苦しい今迄にも、さよなら、と告げる。
どうして好きでもないものを手掛けていたのだろうと、不思議に思う。幼い頃から興味はあちらこちらに存在し、どれにも手を出したくてたまらなかった。その一つを手に取って蓋を開けてみると、それは知らない世界への招待状。最初は解読出来なかった説明書が読めるようになっていく楽しみ、自分の手で新しいものが創りだせる喜びは毎日を幸福に包み込んでくれた。眠るのが惜しい気がして、目がらんらんと輝き毎日がとても鮮やかに彩られていた。脳内補正が入っているだろう思い出達は、綺麗だったことだけ覚えているのにどんな風に鮮やかだったのかまでは私に見せてくれない。
いつしか気付いてしまったせいだろう。一つの箱を開けて暫く経ってしまうと、胸の外側から徐々に冷めていってしまうことを。そして色付いていた毎日の中で見える色が限られていき、灰色一色に染められていってしまう。その前に、また新しい箱を開けてしまうという、終わりなき着火と消化。結局私にはなにも残らずに、なにもかもが中途半端な知識と技術だけが残り、情熱の燃え滓は何年経っても燻るだけ完全に鎮火もしてくれなかった。捨てることも、火を燃やし続ける意気地も無くて私は燃え滓を持て余してしまう。ここには美しかったなにかがあったはずだ。私が時間をかけて少しずつ火種から火へ、炎へと育てあげた大切だったものは、最後は等しく見るも無残な姿へと変貌してしまうように決まっている。そこからの変化は一切訪れないと知りながらも、結局はとっておくしかできないのだと諦めて写真館へとこれも運んでしまうのだ。
あそこならば永遠に思い出がしまっておけるのだと知っていて、館主も笑顔を絶やさずに受け入れてしまう。
好きなものは山程言うことが出来る。けれど山積みになった箱の中から、これからもずっと続けていきたいものを探し当てることは、難解を極めて足が竦んでしまう。意気地なし。その言葉がぴったりくる。若い頃にはそれも嘆き悲しみもしたが、好きでもないのに連れ添った臆病風は私の友のようだ。
吹かれるままに進路を選んで、一度も自分で選びはしなかった。なにせやりたいことが見つからない。どこを選んだらいいのかの基準が作り出せなかったせいで、なにを見ても同じにしか見えなかったのだ。違うのは通う場所と、校則と、ちょっとした制服だけ。集めたパンフレットを読んでも胸の奥は冷えたままで、私は身体が冷たくなるのを感じる。ひんやりとして柔らかくない上に、きっと食べたら味気ない。私の心臓なんて秤に置いてみても傾きすらしないだろうと信じて疑わなかった。冷たいだけの、風のように。
その結果、一度路頭に迷った。生きるためには働かねばならないのは承知している。けれども面接を行ってみるが熱意がない私を雇いたいと思える会社など見つからず、気付けば一ヶ月、また一ヶ月と過ぎていく。家族は無理強いしないだけで、早く見付けろよ、という感情を込めて私を見てくる。それがとても居心地が悪くて、家を出たいがために仕事を探し続けた。
必然的に家にいる時間が増えて、飼っている犬の世話を任されることが増えた。大型犬なので庭に小屋を建ててやり、鎖と綱で育てた。外で飼われているために埃っぽい毛並みを、丁寧に丹精込めてブラシをかけてやるようになってから、黒くて艶やかな毛並みをするようになり、散歩の最中も褒めるように撫でてもらっていた。それは私が褒められて、撫でられているのと同等の喜びを持ち、よりブラシッシングを頑張った。やりすぎると肌も毛も痛めてしまうから時間を決めて、ブラシが古くなれば惜しまず捨てて新しいのを買ってやる。調子が少しでも悪そうなら病院に連れて行ってあげて、それまでほったらかしにしていたのが嘘みたいに付き添った。
しかし夏手前の頃に、突然血を吐いて死んでしまった。原因は血管の破裂だと動物病院で診断してもらい、亡骸は持ち帰って家の庭の隅の隅に埋めて、上には紫陽花の木を植えた。血の滴り変色した芝生をわざと土に混ぜて、根の塊だけは雑草を増やさないためにも避けて捨てる。小さな鉢植えから移し替えた木は、艶やかな葉っぱを携えて自身に満ち満ちている。それを裏付けるように、梅雨の時期に入ると紫陽花は赤から紫、紫から青になる花をつけて咲き乱れる。強い色のグラデーションを見たのは初めてで、何枚か写真も撮った。家族は大して興味もなさそうにして、あの低い木が見えていないのではないかと思えるほどに視界から弾いてしまっていた。あの下に誰がいるのかも知らなかったのか、根っこから忘れてしまったのか、あの子は最期まで黒い毛を光らせていたのに。
小屋は邪魔だからとすぐに取り壊され、首輪や鎖も一緒にゴミと化し、私が家をあけている間にゴミに出されて二度と取り戻せないようにされてしまった。家の中にあの子が生きていた痕跡は残っていない。ただ今でも紫陽花は時期になると、はっきりとした色のグラデーションの花を咲かせる。暗い雨の日でも自分はここにいると声をあげる。その声は私にしか届かない。
夏が終わって紅葉が始まった頃に訪れた会社は、IT業界でも大手の一社だ。プログラマーやエンジニアがたくさんいる中の、事務所勤務に欠員が出たので急遽人員を募集していたところに、私は足を運んだ。巨大な敷地に気圧されつつも、履歴書を持ってスーツに身を包んだ姿で窓硝子の正面玄関を潜り抜けた。広い空間、高い天井。
しかし一面灰色の建物は既に酸素が薄くて私は何度も深く息を吸い込む。意識的にしなければ酸欠で死んでしまいそうだったからだ。受付で名前と面接の旨を伝えると、張り付いた笑顔の女性が至極丁寧な対応を棒読みで読み上げ、ロビーに用意されているソファに私を促した。担当者をお呼び致しますので、の後にも言葉を続けていたが、必要だった情報はそこまでであり、大人しくソファに座った。灰色の、柔らかくない質感のソファはやたらと身体が沈むので座り心地が良くない。石の上にでも座っているような、どこも不動で心地好い場所が見付からずにそちらに集中してしまったせいで、すっかりと就職活動のための面接に来ていたことを失念してしまう。
私を呼びに来たのは、いかにも管理職といった生真面目な四角い顔をした男性だ。眼鏡まで角が九十度に直角であり、その威圧に怖じ気づいてしまった。通された部屋は十人くらいが座れるテーブルと椅子が並び、窓は壁の一面にのみあり、外からの明かりがいまいちうまく入ってこられない構造のせいか、変に薄暗い。まるで私の心情を表していて、質問がされる度に部屋の空気が重くのしかかってくる。窓から見える空は少しずつ雲を厚くして、私の顔の影を濃くした。
これでは印象が悪くなってしまうからと口で挽回を試みても、舌が言うことを聞かず縺れて、段々と面接官の顔が梅干しのようになっていく。ああ、きっとここも駄目になるだろうなと心の中で打ち切り、ここから黙ってしようとすら考えて、申し訳ない視線を試験官に向けた。
真っ白で質素だと思っていた壁に、一枚の絵がかかっているのにどうして気付かなかったのか。それは試験官の怖さに顔をあげても視線が定まらずにいたせいだ。金色の額縁は小さいけれども、そこに描かれている紫陽花の花弁は際立っている。花瓶の曲線が優しく紫陽花の花弁を包もうとしていて、地面から切り離されても戸惑いはしなかったのだろう。葉っぱのまとまりは生きていた頃の尻尾によく似ている。行き場を求めてふらふらしていた私を心配してくれたのだろうか、少しだけ嬉しくて、背中を押してもらった。自然と言葉が紡ぎだせて、無理をしない返答が出来た気がする。胸が軽くて無意識に表情も綻んでいたのだと知りもせず、後日、合格という旨の通知が手元に届いた時は封筒を抱き締めた。
あの子が居てくれる場所ならば、私もやっていける気がした。そんな、大事な場所であった。
早速近くのバス停まで駆け足で向かい、時間通りに停車しているバスに乗り込む。車内はがらんとしており、無愛想な運転手が無言で、仕方なく私を迎え入れる。膨らみを忘れた、ぺしゃんこになった二人掛けシートに座り込むと、鞄の中から携帯の受信音が鳴った。メール受信音だったので無視する。数秒経つと数秒の沈黙の後また鳴って、数回隙間を挟んで、とうとう電話がかかった。時間になったので走り出したバス自体がオルゴールになってしまったみたいに、金属板を弾く音は途切れない。途切れてもすぐに演奏が始まり、壊れて終われなくなってしまった錯覚をして、バスを走らせた。他の物には目もくれずに、演奏を続けた。
窓から眺める夜の中、あちらこちらの明かりが、色が、擦れ違っていき街を染めあげる。本当の暗闇など存在しないのでは、とすら思える町は、パレットの絵の具が落ちて弾けた絵の中にすら感じる。空にも破片が散って輝いているではないか。毎日何年も同じ道を通っていた筈だったけれど、一度だって窓の外を眺めようと思ったことは無かった。そんなことを考えられる心のゆとりが無かったからだ。歩く時も座っている時も、よく身体を丸くして猫背になり地面と靴ばかり見詰めていた。人の顔など見たくもない。表情や空気を読まなければならない状態になると苦痛で呼吸を忘れてしまえる。前を向いてないと歩けないと思っていたが、これが案外なんとかなってしまう。
新しい発見は骨格を歪ませ、必要以上の友好関係を無視し、私はいつも味気ないコンクリートの道と向き合っていた。たまに季節の雑草が花を咲かせて小さくも命の主張を目撃しても、誰もそこに注目しない。生きている世界が異なるのかと思えるくらいの、共有できない世間話は、私の心に溜まっていくばかりで出て行くことは無い。ひたすら溜まり続けるだけで発散が出来ないものは私の心の支えだった。会社でつらいことがあっても、ふとした瞬間に思い出せば張りつめていた緊張の糸が緩やかに弛んだ。長い苦渋の中で欠片のような希望がなければ、今の私は無かっただろう。誰のためでもなくただ私のためだけに、花は咲いていてくれたのだ。
もし誰かに話していれば、あの花もあの花も、すぐに朽ちて枯れ果ててしまったかもしれない。命を粗末に扱うことなくまっとう出来ることを、私は贅沢な所業だと考えていた。だがそれも人間が行えばこそであり、自然の一部や人間以外のものはそうするのが自然であり本来のあるべき姿である故に、美しく羨ましい。私が一生かかってもなれないもの。だからこそ幾つもの命の美しさを、私は忘れないように施設を作った。
胸の中に建つ写真館に、どの季節の思い出も額縁に入れてもらい飾ってあるおかげで、いつだって手に取って見られる。どれも色褪せることを知らないままに、私だけが入館の許可証を持ち、一人きりで館を守る店員と挨拶が交わせる。誰にも邪魔が出来ない場所で、守られ続ける。
外装は白いが淡い素材で造られているために太陽がどんなに照りつけようが眩しく反射しない設計がされていた。入口の無い高い塔を彷彿とさせる背をしていて、ドアを引けばドアベルが三回ほど鳴って私を迎え入れ、館主に声をかけるのだ。新しい額縁の手入れをしていた館主がゆっくりとした足取りで顔を出し、上階へのための鍵をエプロンの下から差し出される。片手にずっしりと伸し掛かる鍵。元から茶色い金属なのだが、時間が経つと黒くなりつつあった。私はいつも鍵の頭を指で擦る癖があり、写真を眺めていると知らぬ間に指が動いていることもある。そのためかそこだけ黒くならず、金属そのものの茶色を保っていた。館主は鍵をエプロンの裏側にあるベルトループに鍵を吊るしており、必要になればそこから取り外して使用した。私に渡してくれる時もそうだ。常に一緒にいるせいか、館主の体温がいつも移っていた。
写真は建物一階の奥にある扉から、鍵を使って入る。ドアを開けると目の前には螺旋階段の始まりがあり、足をあげていくと壁に写真の額縁が並び見えてくる。外からふんだんに日光を取り入れるので、写真は光の枠に包まれていた。紙媒体のものは日光に長時間あたっていると焼けてしまうし、色褪せて現像されたばかりの生まれたてた美しさを失ってしまう。だがここでは私の恐れなど笑えてしまうくらいに杞憂でしかなかった。だからこそ私はここに写真をしまう。私と管理をする館主以外には誰に見られなくても困りなどしないどころか、あれらの命をいつまでも保とうとした時に他者など邪魔でしかない。これだけは誰にも付け入る隙を与えてはならなかった。そう決めつけて、私は自分の殻に籠る許可を下して背の高い塔に鍵をかけた。ここには魔女も王子もやってこないが、庭にキャベツ畑がひろがっていた。
家庭菜園が館主の唯一の趣味であったからだ。額縁の手入れも終えて戸締りを整えると、又は私が訪れてから帰るまでの間は物音ひとつにすら気を使って建物の外で時間を潰した。エプロンを脱いで白い髪を帽子で日光から守り、軍手をして一回り大きくなった指で優しく葉に触れてやる。館主はなにに対しても細心の注意をはらい、時には敬意を持ってして接した。新しい写真が入ると、顔に皺を作って写真に相応しい額縁を選びに収納室へと入り、そして出て来なくなる。すぐに目当ての品が見付かる時もあれば、長考した末に選び出した品を私に見せて、意見を仰ぐ。写真の持つ性質を損なわず、存在感を与えすぎても奪いすぎてもいけない。ほんの僅かな匙加減が命取りになる繊細さを持ち合わせており、それでいて私に対する影響力の大きさは底知れない。写真館に地下室があったかどうか私は知らないが、それでも底知らずにたゆたう選択肢を持たない命を思わずにはいられなかった。
◆
下車した駅で、今度は列車に乗り込むためにチケットを取り出す。発車を待ち開きっぱなしのドアを潜ると、帰省ラッシュには少し早いおかげで車内はこちらも殆ど人がいない。どの席にも人のぬくもりなど滲みの一つも残っておらず、とても良い気分だ。駅のロッカーに入れておいた赤いカートを座席の下に入れて、窓際に陣取る。カートは決して大きくない。せいぜい二日分の衣服が大まかに陣取り、隙間を埋めるための必需品が選りすぐられただけ収まっているにすぎない。真新しく大きな傷も汚れも見当たらない、少々派手にも見える荷物はぴったりと嵌るのではと疑いそうになりながら、座席の下で横になっている。これならば急ブレーキがかかってもどこかへ飛ばされる心配も無さそうだ。
サイズが合っていない革靴を脱いで靴下だけになると、いっそ靴下すらも脱ぎたくなる欲望を抑えて足を伸ばした。指を開いたりくっつけたりして遊ぶ。アナウンスが入り、発車の知らせを無機質に読み上げると間もなく列車が走り出した。外を眺めても、闇が窓にはりついているせいでなにも見えない。点のような明かりがあるけれども、なんの明かりなのか知れたものじゃない。段々と退屈になり、壊れたオルゴールはとうとう鳴らなくなってしまい、パレットの色も見失ってしまった。暇が潰せる楽しいものは持っていない。目的地に着くまで数時間。今のうちに眠っておこうかと、座席を軽く倒した。
視界の端で、なにかが動いた。反射でそちらに目が動くと、ブレザー姿の少年が座っているではないか。深い緑のマフラーを首だけではなく顔にかかるまで巻いて、乱れのない正当な制服の着こなし、背中を丸めて膝の上に手を置いている。置いた手は猫のように丸められており、それこそ借りてきた猫が知らない場所で途方もなく座り込んでいるみたいだ。まさか後ろの座席に客がいるなど思ってもみなかったため、私は度肝を抜かれてしまった。そして同時に確認不足を脳内で叱咤し、前を向きながら座席を戻す。心臓の音が煩くなったので一度お茶を飲んで落ち着こうとする。今のまま寝ることもできるが、座席を倒さないままではだいぶ首に負担がかかりそうだ。それは避けたいところではあるが、背後の少年が気になってそうもいかない。気遣った結果の妥協。どちらにしても自分がどうにかしなければいけないのだから、だったらこのままでいいのかとスーツの上着を脱いだ。
「あ、あのう。」
横から声が聞こえた。横の列には自分しか居ない。居なかったはずなのに。いつの間にか少年が立ち上がり、こちらを見てきている。黒目が大きくてくりくりしており、小動物に近い。すぐに返事をせず、唾液を飲み込んだ。
よく見れば整った顔つきだ。肌は綺麗で睫毛も長い、下手な女の子よりも魅力的な類なのだろうと冷静に分析してしまう。マフラーに触れている手は所在無さ気で、暖房が効いているのに寒いのか、ぶるぶると震える。気分でも悪いのだろうかと思いながら、「どうされました?」と、声がかかったので用件を尋ねた。すると小動物の視線があっちこっちを泳ぎ、それでいて瞬きの頻度が激しかったせいでパラパラ漫画に見えた。人の目を見て話すのは不躾だというのに、胸元を見詰めるのが憚られて思えてならなかった。彼は怯えた風でありながら身を乗り出して顔を近付けてきたので、私は身を引いて距離を保とうとする。
「お隣、宜しいですか? 僕、誰かの傍でないと、眠れなくて。」
しどろもどろに途切れがちな話し方は不思議な癖だな。それにしても、見ず知らずの相手の隣に座りたがるとは、なんだか怪しい。とても怪しい。見た目が整っているのを自覚して利用する人間も少なくない。実際、自分がもしそうだったら多少なりとは利用してみたいと思う。実際に持っている人はどの程度の効果があるのか、うまくすれば人生すらもうまく渡れる可能性だってある。と、ここまで想像してみたからこそ、私は頷いた。そしてここぞとばかりにリクライニングを利用して、丁度自分にぴったりの場所を見付けた。首も腰も無理が無く曲げられる、足は伸ばせる。絶妙な位置を見付けられた幸福感に満ち溢れる。
先に目を閉じて寝るという意思表示をする。すると少年が動いて、布の擦れる音がとても間近から聞こえてきた。数歩の足音、眠る私の隣の座席へと腰を下ろしたみたいだ。私は素知らぬふりをする。しかし、とてつもなく至近距離に人がいるなんて珍しい状況に身体は素直に緊張してしまい、呼吸の仕方をころりと忘れてしまった。胸は上下していたか、何秒の間隔をもって空気を吸い二酸化炭素を吐いているか。無意識の呼吸は等間隔で行われる、それを少年が知っていたら今の私が起きていることも知られてしまっているだろう。私を選んだ理由は不明だが、こんなにも判りやすい人間が相手ならいっそ気楽かもしれない。考えていることは筒抜けで、それでいて判っていながらも逃げたり拒絶しようとしないのだから。鴨が葱を背負っている。私は彼によってのそれかもしれない。
鞄ならば足元に置いてしまった。貴重品はそこにまとめてある。足を動かさずに取り出すことは不可能だろう、諦めるか、他になにをするのか興味があった。人間、なにかしらを抱えて生きているものだ。私はそう信じて生きてきた。この子だってまだ若い。私から見れば若すぎる、いろんな物を抱えていることであろう。私が忘れてしまった青春や甘酸っぱい思い出も、無かったことにしたかった記憶も、きっと持っているしこれから出会うかもしれない。懐かしい空気に呼ばれて、浸りたい気分になりたいと感染してしまったに違いなかった。
目を閉じているのに、薄い瞼の上から明かりが瞳に届くのがどうにも苦手な私は、いつもアイマスクを愛用していた。暗闇はなにも見えない故の恐怖を与えるが、安らぎでものを知ったのは、社会人として働きだした頃だ。それまでは昼も夜も寝る時は寝て、起きている時は起きていたせいで昼と夜の役割など無視していた。むしろ夜の静けさが心地よくて夜更かしの魅力から抜け出せなくなった時期もある。今はまた別の意味で魅力から抜け出せなくなっているが、それは役割を意識しているからこそ影響力が異なる。私は静寂すらも飲み込む暗闇の中で一人ぼっち、何者にも邪魔されず夢へと誘われる瞬間を愛している。
目を閉じると、そこには薄く明るいものが見える。見えているのかどうか定かではないが、とにかくそんな場所を私は認識する。そこでは赤と、ほとんど赤に溶けている橙が波を作り、不規則に常に動いている。楕円形の波紋を広げたと思えば、下には流水に揺れる水草のように傾いてばかりでいたりする。時には金色が湧いて出て、黄金の宝を見付けた気分になる。耐え切れなくなって私が目を閉じたまま瞬きをすると、それは一瞬のうちに消えてしまい新しい世界を見せる。今度は低い位置で赤と橙が分裂して、それを背景に世界は動く。そこは生きている。昔は随分と一人で盛り上がったのに、この年にもなるとそんな心躍るようなこともそうそうには起こらない。関心は少しずつなくなり、これが死に向かうことか、などと粋がってみたりした。明るい場所で瞼を閉じて、その世界を観察していたのも今は昔だ。今の今まで、そんな世界を追いかけていたことすら忘れていたのに、どうしてここで思い出したのか私は一生不思議に思うこととなる。
閉じた目を、更に閉じる。深くもないがひたすら暗い世界で、闇がもくもくと湧いて動いている。あちらこちらで不規則に湧き上がり流れ、そして消えて、どこかへと落ちていく。気付くと右側に、果てしなく黒に近い青が現れては黒を区切った。果てしない連動。まず同じ動きをしない、していてもこの不規則な様子はたとえ近い動きをしたところで気付けないだろう。今のところ把握できているのは、明るい場所での赤とオレンジと金が蠢く、金の湧いて出るシーンだ。あそこだけは見慣れた。けれど黒と青の世界では、見たことも、来る機会も少ない。私はとうの昔にあちらへと行けないことを知っていた。無力で覚悟もない私はひっそりと身体を縮めて、瞬く間だけを闇に寄り添い過ごしてみた。
どのくらいの時間が経ったのだろう。私はあれから目を閉じたまま、眠れる気配などまったくない状態でふりだけをしていた。少年は声も発せず、動きもせずに、本当にそこにいるのかと時々疑ったが、等間隔の息遣いだけが聞こえてくるので、まだ隣にいるのだと認識した。決して触れない距離なのに、相手のいることだけが伝わってくる。これがもしまったくの別人であったならば、居心地が悪くて自ら席を変えるため立ち上がったかもしれない。しかしどうしてか、ただの気分が向いたせいか、私はそうしようとは思えなかった。驚くべきことに、むしろ触れてみたいとすら思っていたのだ。実に非常識この上ない発想だという自覚はある。
どちらかと言えば人と触れ合うのは苦手だ。過度なスキンシップは時に気持ち悪くさえ思え、その人物を遠ざけることもある。自分から触れるのは握手か、服に付いたゴミを取ったり、電車で転寝して隣の人に寄りかかってしまう時くらいか。後は偶然に指先が触れ合う、という言葉にしてしまうとロマンチックに捉えられるかもしれないが、私としては好ましいことではない。お相手が意中の方であり、触れ合った瞬間に頬を染めるような仕草も無く、まるで三文芝居の以心伝心が起こることもない、ただの接触は無意味なものだ。触ってみたいと思うことすら長年忘れていた。昔は母にひっついて離れようともしなかったのに、今では近付くことすら躊躇っている。そんな自分が。
今、目を開けたらどうなっているのだろう。好奇心が胸を焦がす。少年の寝顔が見られるだろうか、それとも視線が交わってしまうかもしれない。どちらにせよ私にとっては、喉が渇いたところを果物の汁を吸うことの如く抗えない魅力がある。先程までの呼吸を少しだけゆっくりにして、深呼吸代わりにした。唇が落ち着かずなにかを食べるみたいに動いてしまい少し恥ずかしくもなりつつ、重くて暗い瞼を抉じ開けた。いつの間に消灯していたのか、車内にはぼんやりとした明かりが転々とあるだけだ。椅子に深く腰掛けて、首がやや廊下側に斜め前を向いていた私は、目だけを動かして少年を見る。そこには、マフラーと前髪で顔が隠れてしまう少年が確かに寝ていた。私は目を見張った。暗がりのせいではっきりとは見えないが、少し長い睫毛や、さらさらの髪が細やかな影を顔に落としている。彫刻のように眠る少年。人でなければいいのに。
胸が高鳴り呼吸の仕方を忘れてしまった。私は深く息を吸って数秒止まり、苦しくなったらゆっくり吐き出して冷静になろうとした。このままではどこだっていいからと、どこかに触れてしまいそうで、自分がここまで自制の効かない人間だとは思ってもみなかった。触れるだけならいい。キスなどしてしまったらどうしようか。それこそ私は犯罪者にでもなろうとしているのだろうか。一時の気の迷いにすべてを任せてしまってもいいと思えるのは、疲れ切っているせいかもしれない。そういうことにしておこうか。犯罪者が一度は口にする「こんなことをするつもりはなかった」という決まり文句を免罪符にしてしまおうとしていた。私は残り僅かな理性を総動員して、寝返りを打った。
うっすら目を開けると、窓の外は真っ暗だ。それこそ闇が広がっており、生まれて消えていく色すらない。点々と存在する、宙に浮かぶ幾つもの丸めの白いものが等間隔で現れる。その内にそれすら見えなくなってトンネルを走っている時の音が駆け抜ける。耳が痛くなって唾液を飲み込んだ。背中で少年が身じろぐと息遣いに動揺してしまう。寝ている彼にキスをして、そのまま窒息させてしまえばこの動揺は収まるだろうか。今のうちに手放しておかないといけないように思えた。そもそも手に入れてないというのに。
トンネルは短かったが度々通過した。耳の奥が痛くなる度に唾液を飲み込んで、ひたすらの暗闇を眺めた。どこまでもどこまでも、暗闇。走っても走っても、ひたすら暗闇。逃げ場のない混沌。この暗闇のどこに穴をあければ昼間が生まれ、闇は滅びるのであろう。トンネルを幾つ抜けるか数えて、今は六つ目を通過したところだ。生き物の気配すらない。けれども犬の遠吠えが聞こえた気がした。山の中、民家は無いはずだというのに。動物の乗り込みが禁止されているので車内からでもない。私は夢でも見ていたのか。ここは夢の中なのか。いつから夢だったのだろう。
金属の猛烈な摩擦によって甲高い悲鳴があがった。急ブレーキがかかったらしく、私は前のめりになるも不思議と心は落ち着いている。むしろ穏やかなくらいの態度に、こうなることを予め知っていたとでもいうのだろうか。自分のことなのに私は第三者のような感想を持ち、席に腰かけたまま足を組んだ。同じように寝ていた少年が突然の衝撃に驚き、腕にしがみついてくる。私は自然の動作で彼を落ち着かせるために、頭を撫でてみた。きっと一人であればもう少し、多少なりとも不安にかられただろう。それがないのは、誰かがいるからだ。少年は私にしがみついてなにも言わないけれど、不安で動けないらしい。しかしそんな少年のおかげで私は余裕を持ってこの席に深く座っていられる。
ぴん、ぽん、ぱん、ぽーん。四つの音階を経て、アナウンスが流れだした。雪の影響でこれ以上先には進めないし、戻ることもできない。次の駅まで距離は果てしなく、けれども職員が雪かきをしているので慌てずにそのまま座っていてほしい。復興の見込みは当分無く、ご迷惑をおかけします。
古典的な内容だ。私は窓際の小さなテーブルに頬杖をついた。この夜の中で見えもしないのに真っ白い雪が降り積もっているなんて知らなかった。よく考えれば朝のニュースを見ていなかった。荷物を詰めることしか考えていなかったせいだ。予定が狂ってしまったことに怒りもなく、復興がいつになるのか不安もない。むしろ暇な時間をどうしてくれようかと唇を尖らせて頬杖をつきながら拗ねてみようとしたが、そんな時間も残されてはいなかった。少年は離れようとしない。そこの部分だけ温かくて、じわりじわりと熱を帯びていく。振りほどきたくないけれども、私は行かねばならない。
私は脱いでおいた靴とコート、マフラーで防寒対策を整えて立ち上がる。コートの釦を左手で止める。少年の丸い目はこちらを眺めているばかりだ。よく見たら、彼はコートや手袋等の物は持っておらず、マフラーだけが身を守るために巻かれている。あまりにも無防備だが、行き先は温かくて防寒の必要の要らないのであれば問題は無いだろう。いや、見えてないだけで元々座っていた席に置いてあるのかもしれないが、あまりに不用心な気もして確認する気にはなれなかった。どうあれ彼の自由だ。少なくとも、見知らぬ初老の人物が己に抱く感情など知らずにいた方が幸いであろう。立ち上がる動作を察してか、彼から触れてくれたおかげで私は自分の欲求を爆発させる前にうまいこと解消することができたので、これ以上はなにも望まない。せめて彼が無事に目的地に着けますように、と心の中で一人勝手に祈りを告げた。それを別れの挨拶として、鞄を持ち上げて申し訳無く彼の前を跨いで通路に出て、そのまま先頭車両まで向かった。
まずは隣の車両。ドアの前の通路を挟んで左右に三列ずつの座席が、たっぷりとした間隔をもってして並べられている。座椅子は木目が優しく年月を刻んでいて、表面にたっぷりと塗られたニスで美しく光を反射していた。塗りすぎたり薄すぎる部分は職人の手で整えられてから運ばれてきたのが判るほどに、長旅である設置までの道程とその後の旅の中でも傷らしい傷が付けられることは滅多にないようだ。
座っている人は膝丈のドレスや皺のない着物を着ながら厳かに座っている。騒ぎ立てるようなことなどすれば、神の言葉を聞き逃してしまうから黙っていなさい、と言われたかのような静寂が車両の中で崩されてはならない。女性の手元には手首の部分にきめ細かいレースが重なる手袋を嵌めていたり、銀色のなにかの象徴が握られていたりする。私には蛍光灯が明るすぎて一瞬ではそれがどんな形をしているのかはっきりと把握出来ず、それ以上にじろじろと無遠慮に見詰めるわけにもいかず足を踏み出した。
足元には深くて黒ずんだ赤い絨毯が敷かれているおかげで静寂を乱さずに済んだ。それでもどこかで落とし穴があるのではないかと不安が私に押し寄せて、一歩一歩を丁寧に進むしかない。摺り足になるのは緊張が周りに伝わりそうで気恥ずかしく、それまでしていたように、気丈に振る舞って顔を上げた。誰もが声もたてず、身動きもせず、ただその場で目を瞑っている。眠っているようにも思えるが、等間隔からは少しずれた呼吸、肩の揺れ、足を擦り合わせる仕草が否と唱える。
端から端までが数メートルあり、正面の扉はステンドグラスになっていた。鈍く光る銀に縁取られて、寒色と暖色が複雑に嵌り合っている。同じ色や形が隣り合ったりしないように、計算し尽くされている。それなのにどこにも無理は無く、どれもがそこにあるべき姿で光を反射させているのだった。外から光が差し込むはずもないのに、黒ずんだ絨毯の上には硝子の色が浮かび上がっていた。蛍光灯の無遠慮なものではなくて、優しく包み込むような淡い光が車両を照らして隅から隅までをくまなく平等に扱った。
ドアを開けるのも一瞬躊躇われたが、そうしていても次には進めない。ただ時間を浪費してしまうだけだからと自分に言い聞かせて、重く鈍い音をたてるドアを開けて隣の車両へと進んだ。背後で勝手にドアが閉まっていく。
隣の車両は足元が水浸しになっている。革靴が水を跳ねて、スーツの裾が少しだけ濡れてしまった。浅いけれども溜まった水は澄んでおり、床が難なく見渡せる。電燈から昼間のような日差しを受けて揺れる波紋が天井や床の真っ白い壁に反射していた。車両の端には水石が転がっており、胡桃と同じほどの石が冷たい水底に沈みながらも、居心地の良い場所を見極めた上で、水流の緩やかな場所を選んではひっそりと生きているらしい。重なる石の中には表面に苔が生えている物もあり、緑色が覆い茂っていく途中経過なところは、柔らかい産毛しか無い赤子のようである。ここから更に繁殖していき、いつかは車両の天井にまで到達するかもしれないと考えたら、そうなる頃にはもう見に来られなくなっているのだろうと期待が膨らみかけたところで萎んだ。
靴から水が浸みてくる気配がないので密かに安堵して、ひんやりとした空気に溜息をつく。水が冷たいのだろう、車両全体が室内なのにしっとりとしている。日本の夏独特のじっとりと肌に張り付くような湿度とは一味違った。こんな涼やかな夏であれば幾らか過ごしやすいだろうにと、毎年のように体調を崩してしまう身体を先に進める。私が歩みを進める度に水面が荒れ模様を描いて、先に広がった波紋が後からのものに飲み込まれて、それも次のへと繰り返す。
シートは私が居た車両と同じものであったが動かせそうにはとても見えなかった。むしろ動かすべきではないとすら感じた。転がる石とシートが苔の繁殖場として一体化しており足元の清らかな水で育った小さな自然を、何人たりとも邪魔をしてはいけない気がしたからだ。
どこから流れ込んできたのか、それとも湧いて出ているのか判らないが、澄んだ水を私はどこかで知っている気がした。テレビで見た山奥の湖だったかもしれないし、ふらりと立ち寄った本屋で読んだ写真集の中だったかもしれない。もしかするとずっと昔に見た夢の中、どこでも良かったけれども、頭の奥が知っていると訴えてきた。しかし肝心な部分が抜け落ちてしまっているせいですっきりしないもやもやを抱えてしまったが、水が静けさを取り戻すと私の心までも穢れなき自然の恵みが洗い流してくれたのではないかと清々しい気分にさせてくれる。
ずっとこの場に留まってしまうのも悪くないのでは。そう考えてから、はっと自分がすべきことを思い出しては頭を振り、短い髪を乱した。悩んでいる暇など無いのだ。私は節の浮かんだ手で髪を撫でつけると、水面で輪郭の歪んだ自分を見下ろした。いかにも仕事のミスを許さない雰囲気を纏った、スーツばかりが前に出てきてしまっているだけで不格好な姿がそこに映る。なんとも恥ずかしいものだ。再度髪を撫でつけるふりをして身体を動かすと、水面が私を波打たせて訳の判らないものへと変えてくれる。それに少しだけほっとして、次へと続くドアを開けた。
そうして、恐怖に陥る車両、宴会状態で現状に気付いてない車両を通り、漸く先頭に着いた。そこには車掌が駅と連絡を取っており、ライトの先には積もった雪をせっせと除去していく二人の車掌が映し出されている。この人数では文字通りの、終わりの見えない作業だ。私は小さく息をついた。
「ここで降ろしてください。」
連絡を取っている車掌に声を掛けると、白髭の立派な男性がこちらを向いた。目を見開いて暫し口をぽかんと開けて私を眺めた。聞こえているのか不明だったが、老車掌は口を閉じてすぐに横のドアを指差したので頭を下げる。取っ手に指をかけて冷たさに腕がぶれたが、引っ込めたくなった手で掴み扉を開けた。案外あっさりと、私は暗闇の世界に身を投げ出ることが出来てしまった。そこはぬくぬくと暖かい車内とは打って変わって、痛いほどに冷たい気候だった。いっそブーツも内側が毛皮の物にすべきだったかもしれないと少しだけ、考えてしまうほどに。入り込む冷風に押されてしまったが、それでも線路の先を目指して私は進みたいので、寒さを受け入れて一歩、前に出た。雪を踏むとざくざくと音がする。ぎゅもっぎゅもっ、と窮屈そうな足音に雪掻き車掌がこちらを向いた。
「お疲れ様です。」
「今は危険です。列車にお戻りください。」
驚いたことに、若い女性の車掌がスコップを担いでいるではないか。まだ若い顔つきで、新人なのは声の調子でも判る。出来ない事が多い分、出来ることは懸命にこなそうとしている姿勢。私にも昔そんな頃があったものだ。昔の自分はすぐにすれてしまって、こんな風な可愛げなどとは無縁だったけれども。そもそも自分には可愛いか可愛くないか、という選択肢すら当て嵌まるとは思わないけれど。私は彼女の前に立ちはだかる。断固として、私はこの子の言うとおりにする気はない。早く目的地に向かいたいので列車のライトから外れようと踏み出した。
ざく、ざくっ。二つの足音。私はそれに妙な違和感を覚えた。女の子は私を止めようとしているが動いていない。その後ろでもう一人も作業を止めて我々を見ているので 動いていない。私はまだ、一歩しか歩いていない。振り返ると、マフラーの少年が私と似たポーズで立っている。置いてきたものだとばかり思っていたので、思わず目が丸くなった。そして、意外と身長が高いことや、車内であれだけ震えていたのに今はちっともそんな風には見えないことが余計に拍車をかける。どうして出てきたのかを尋ねるのは野暮なのだろうか、浅はかなのか、それとももっと他になにかあるのか。視線が交わり語るも、答えは出ない。こんなところでやることでもないと判断し、鞄を持って歩き出した。通りすがりに三人目が会釈をしたのに応え、七つ目のトンネルに挑む。大きくそびえる大きな口が、私と彼を飲み込んだ。
思ったよりも、トンネルの中は快適だった。なにせ雪の影響が無いに等しい。身体の上に積もりもせず、足下が滑りもしないのは思っていたより歩き易かった。風は冷たくて突き刺さる寒さであったが、直接強風が私と彼を襲う前に分厚いコンクリートの壁がそれを遮断した。届いたとしてもコートの裾をひらりと揺らす程度でしかない。列車もトンネルの中に入ってしまえば立ち往生の恐れに苛まれずに済んだだろう。雪の中、身体を酷使する二人はいつまであの作業を続けなければいけないのか、考えるだけでも寒くなる。下手をすれば凍死の恐れが隣り合わせで居座っているのだから、気が気ではない。私も似たようなものだ。動いても留まっても結果が見えないなら、もし、といった考えをなくす必要がある。もし、に囚われていたなら、私はここには居なかった。決断はいつだって一人で行うものだ。だからこそ、私に付いて歩く彼も同じことをしたに違いない。雪の降る時、雪を見ることなく足は進んでいく。
線路の上を沿って歩くのは初めてで、少し浮かれてしまう。カートが引きにくいことこの上無かったが、それもあまり気にならないくらいだった。嘘だ。カートは線路でがたがたと鳴りながらすぐに溝に引っかかるので、思いの外時間と体力がかかってしまった。車輪がすっぽりとハマってしまった時など手から離れてしまい数歩戻って引き抜く内に、覚悟はしていたが疲れることも増えて、私は度々カートの上に座って休んだ。高くてもがっしりとした強固な作りのものを選んで正解だったとほくそ笑む。
そんな時の彼はなにが起きても手出しはしないで、ひたすら私を観察し、休む時だけ寄り添う。車内で私にしがみついた時と同じように腕を絡め、寄せる身体は不思議と温かい。雪風に体温を奪われている私とは決定的に違った。じわりと滲む熱が私を繋ぎとめている気がする。一人でこの道を歩いていたならば、途中で倒れていた可能性だって高い。いっそのこと目的地をここにしようかと妥協するかもしれず、私はオレンジのライトを浴びて自分の本来の姿を忘れてしまっていただろう。悩み選んだ目的地の予定変更を行い、目的は頭の隅に追いやってしまえる。自分との約束は反故も簡単だ。それを、変なのに懐かれてしまったものだ。私も、彼も。
オレンジ色のライトの下、出口は一向に見えてこない。ここでは雪が未だ降っているのかすらも曖昧になってしまって、二人分のマフラーを揺らす冷たい風に乗って凍った塵がここまで届くと、暗闇の中で世界が静かに白く染まっていく途中であることを実感した。雨と違って雪はお淑やかだが、交通への影響力は比ではない。今もその煽りを受けているのだが、美しい姿に見惚れていると痛い目を見る代表に選ばれるのではないだろうか。その姿、香りで人々を妖艶な魅力で取りつかせる薔薇に棘があるように、結晶と雪景色が端麗な雪は人々の生活にまで負荷をかける。それにもっと恐ろしいこともある。雪はそれだけで人が殺せるというところだ。雨という水も侮れないが、美しさと恐ろしさを兼ね備えているのは冷たい結晶だ。母なる大地をも冷やすほどの脅威は、もはや無慈悲な神に近いのかもしれない。でも無慈悲なら私には好都合であり、味方につけることも不可能ではない。私はカートの上から降りて取っ手を握りしめると 再び歩き出した。その後を、どこまでも少年がついてくる。私の行き先など知りもしないくせに。
凍える空気の中で歩き続けながらも、不思議と眠気が襲ってくることもなかった。喉の乾きとも無縁ではあったが、空腹に気付いてしまうと腹の虫が目を覚ました。内蔵に穴を開けて、そこから声を出している。どんなに体調が悪くなっても食事だけは抜かさない身体をしている私が食事を忘れるだなんて、慣れない状況にらしくもなく、緊張しているのだろうか。知らない場所で知らない少年と二人きり、だなんて字面だけ見ればロマンチックかもしれないが、現実はそこから懸け離れた場所で状況が出来上がっている。
コートのポケットに手を入れると、指先にプラスチックの包みが触れる。掴みだして見てみると、それは栄養食品の試作品だった。朝の駅前で配っていたのを、いつもならコートに両手を入れているせいで受け取らないのだが、今日はどうしてか鞄がうまく肩にかからないせいでもたつき、外気に晒したままの手に試作品が押しつけられた。突っ返すわけにもいかず歩くスピードを落として表、裏と眺めてからよく考えもせずにポケットの中へと詰め込んだ。
下腹は虫が鳴いているのに、胸の辺りはこれ以上入りませんと主張している。お昼の時間からなにも食べていないので消化器官は暇を持て余しているはずなのに、まるで知られたらいけないとでも言わんばかりな反応を私にする。食べたいが、食べたくない。唇を横一文字に結んで、掌で冷たくなっている試作品を彼に差し出した。列車の中でもここまで歩いてくる間も、彼とてなにも口にしていないはずだった。並んで歩いていたわけではないが、物音は足音だけで、食べ物独特の鼻につく匂いもさせていない。まるで食べ物と無縁であるかのような彼は両手で小さな包みを受け取ると、目を細めて微笑んだらしかった。そしてそのまま上着のポケットに、大事なものの睡眠を妨げないようにするため、ゆっくりとしているのに注意を払ってマフラーの隙間に包みを差し込んだ。
どう見ても不安定な場所であり、行く先も見えない線路であればすぐに落としてしまいそうにしか見えない。それなのにマフラーの隙間は絶対的な彼の犯されることのない領域であるのか、布の緩みは決して開こうとせず、どこか一ヶ所へと寄ってしまいもせず、彼の領域は確かに守られている。これで食べ物は私から離れて、晴れて誰かの糧となれることとなった。私はその他愛ないことで、口元に微笑みを浮かべた。
線路の上を、カートががたごとと音をたてて走って行く。これは足止めを喰らっている電車の代わりみたいなものだ。大きくて乗客が多いからこそリスクが大きくて、柔軟に行動が出来なくなってしまう。人間と似ている。人が増えれば増えるほど、だからこそ実現可能になることの方が多いだろう。だからこそ個人的な行動は認められなくなるという不利益が生じ、融通がきかなくなってしまったことがあった。自由がほしくて一人を目指して集団から脱してみても、今度は外からの視線を遮断する壁がほしくなる。まるで可哀想なものを見る目を向けられるのは、事実と異なっていたとしてもつらいものがあった。どんなに一人を可哀想に見えたとしても、私は一人で乗る電車が好きで、窓から見える景色を眺めながら思いを馳せる楽しみを誰にも邪魔されたくはなかった。私にはこのカート分の電車で充分なのだ。
時間が、刻一刻と迫ってきていた。
視界の中に、米粒よりも小さな点が現れた。オレンジと暗闇以外に見えるものは決まっていたので、私の胸は言葉にしがたい鼓動を鳴らして続けた。風の音が大きくなり、私は憑りつかれたように一目散で駆けていく。腕は安定しないカートをやっとのことで放さないでいるために、上下左右に振るった。点が宇宙の出発地点であったのか、そこからひたすら広がっていく。
七本目のトンネルを抜けた先にあったのは、白けてきた世界であった。とうとう一晩中歩き続けていたらしい。暗いようでいて橙の明かりが点る内側は時間感覚が失われていたようだ。腕時計を見てみると、そこには朝日が顔を出す頃を指し示していた。何年も私の左手首で時間を刻み続けてきて、革はすっかり草臥れてしまっているのに針も文字盤も買った時のままで日光を反射している。無意識の内に時間を確認する必要性を失っていた。
山の輪郭を太陽が照らして線を引く。雪雲はさして厚くないようであったが、太陽の光を幾らか遮断している。それでもなお降り注ごうとする光は雲の薄いところから、確かに我々のところにまで届いていた。
昨夜の吹雪から一転して、降り注ぐ雪は塊になって、すぐに頭の上や肩に積もった。カートから水玉模様の傘を引っこ抜き、さて雪の中を歩き進もうとした。目的地にはまだ程遠いはずである。トンネルを抜けたのはほんの一つ目の通過点でしかなく、この後にも緩やかで長い坂道を抜け、獣道になりつつある山道を歩かなければならない。私は立ち止まろうと考えもせずに、ざくり、と雪の中に足を踏み入れた。ざくざくざく。雪に足が刺さり、私一人分の足跡が残された。
一人分の足音に振り返ると、少年がトンネルの内側でじっと立ち止まっている。上着のポケットに両手を入れて、マフラーに首も顔も埋めてしまって、最初からそこに立っているみたいにバランスのとれた体重の掛け方であった。ここから出たくないと言っている、そんな風に見える。風がトンネルの中で唸るように響くのが、まさしくそれを物語るようだった。トンネルの中をあれほどまでに歩き続けてヨウヤク辿り着いた出口だというのに、そこに見えない壁でも存在していて出られないのだと言わんばかりな立ち尽くしっぷりだ。これまで一緒に歩いてくれたのに、と私は唇を弱く噛みしめた。
カートを連れ引いたまま彼のところに向かう。車輪の跡がU字になりトンネル戻ろうとしていたが、しかし足跡も二本の線も、雪道の途中で止めてしまった。何物にも囚われない様にと、仕事をやめ、住居も売り払った。実家には戻らないと手紙が届く予定になっている。もはや私には今持っているだけのものがすべてだ。着るための服も、読み途中の本も、これまで稼いだだけの金も、粗末にしようとしている命も。生きていくのに必要なものはとうに投げ捨ててしまっている。身軽になったはずなのに、私は新しい登場人物に囚われてしまっている。
間合いをたっぷりと持ち、向かい合ってお互いに黙っていたら、寒さに耳も指先も悴んできた。このままでは末端から身体が全身で凍えてしまうだろう。彼は目を合わせようとはせずに足元ばかりを見詰めては、なにも言おうともしない。ひたすらじっとしている頭の上に雪が積もってきたので、腕を伸ばして払い落としてやった。暗がりに白い息がぼんやりと浮き上がる。曖昧な輪郭は彼と影ともあやふやにしてしまっている、いや、元々彼の輪郭をきちんと見られたことがあっただろうか。溶けるのは、なんだろうか。どちらがどちらに溶けるというのか。
トンネルの影から出ようとしない彼から視線を横にずらしては、手入れのされていない自然が広がっている。覆い茂る雑草も木々も雪化粧を施されて、砂糖菓子みたいになっている。柔らかい雪が朝日をあびてきらきら輝き始めて、光が落ち積もっている。良い眺めだ。誰にも汚されることもなく、そんな恐れすら知らない無垢な姿のままで地上へと還ることが酷く羨ましく思えた。私は自分の身体が疲労で動きたくないと訴えているのを、聞こえないふりをしたと認めた。その先にあるものが私にとっての最期だとしても、私は一つのことをやり遂げたいと思っていた。綺麗に終わらせたい、自分の思うままに。それなのに最後の目標を目前にして、私はもう心のどこかで達成感が満ち満ちてきており、思い描いていた終止符を打てるかどうか疑問を持ち始めている。それを疲労と共に頭の隅に追いやっていただけなのだ。
このままひたすら歩いて最後の場所まで歩くのも面倒になっている。もし頑張って歩き続けたとして、辿り着く頃には身体も心も今以上に疲れ果てて、なにをするにも気力がなくなり中途半端な時間を過ごすことになりそうだ。生きるために生きているのか、死ぬために生きているのか。死ぬために頑張った道のりを反芻し、馬鹿らしいと思っても今度は生きて戻れるかが怪しい。すべてを投げ打っている。雪の中を死ぬ思いで脱出したところで、それに見合った未来が待っている保証はどこにもない。見えない保証は自分で自分に見せつけることしかできないのに、それが無いのだ。なければ誰にも納得などしてもらえず、結局のところ同じ場所に戻るしかない。毎日のように灰色の世界に浸かりながら、死んだように生きている毎日が、容易に想像できてしまった。変わるつもりのない自分に失笑してしまった。
それならば眺めも良い、彼のいるここに決めてしまおうか。風景には申し分も無いならば、毎日楽しく過ごせるかもしれない。ここで四季を感じながら、時折訪れる来客に対してはうんと大袈裟にもてなしをしてしまおうか。一人で迎えるはずだった寂しい静寂を破り捨ててみたら、あるいは違う未来が待っているかもしれない。勝手に幻想を押しつけながら死なれたら彼も困るだろうか。けれどもちっとも狼狽えないであろう彼の姿を、瞼の裏に想像が出来た。何故か彼の足下には、黒い犬が行儀良く座って私を見ている。ボタンのように真っ黒い、つやつやとした丸い瞳を光らせて、尻尾を左右に揺らしているのだ。首輪の代わりに緑色のマフラーが、寒さを紛らわせようと巻いてある。
電車の中で目を閉じて以来一度も寝ていないので目がしぱしぱと、閉じることを要求してきた。瞬きを忘れていたわけでもないのに、起床時間が長いと目は乾いてしまうのだろうか。何度ぱちぱちと瞼をくっつけても目の乾きは解消されずに、ひたすら眠りの時を誘ってくる。ああ、やはり求めていた場所はここだったのだ。私は確証するように彼に視線を送った。身動ぎ一つせずに、視線が返されるのが心地好かった。
まずカートをトンネルの入り口すぐに埋めようと、手で雪をどけて、土を掘った。素手で土と触れ合ったのは、いつを最後としてしまったのか思い出せないくらいに懐かしい作業だった。私は土の匂いに、人間がただの動物だった時代に思いを馳せる。土の感触に実家を思い出し、愛犬の墓を思い出した。あの子の毛艶、鼻の乾き、肉きゅうの堅さ、爪の弱さ。これから埋めるために、深く掘ってあげなければならない。餌の匂いや人の声が自分を呼んでいるのだと勘違いをして起きてこないためにも、私が生まれるよりも前からずっと地に根を張る木々と自然に還るためにも、限りなく神聖な行為をこなすためにも。私が一緒ならばきっと寂しくないだろう。これからも季節の変わり目には丹精込めて毛繕いをしてやり、近くを散歩してやれる。掘っていく先から水の結晶が降り注ぎ、指を固めて神経を麻痺させていく。けれども手は止まらなかった。土を削ぎ、削ぎ、爪の間に土が入り込んでも気にせず、私はそこに一つ目の死体を埋めた。
膝を折って雪の上に座り、見下ろしていた彼が動きに合わせて僅かに動いた。なんだか偉大なことを成し遂げたような満足感と、小さな悲しみが胸に満ちる。感じたことのない熱が生まれ続けて、細胞から血管から身体全体へと広がっていく。そうして私は、近くの茂みに身を投じた。
すっかり冷えた熱が受け入れられ、重みが敷かれた部分を凝縮していく。寝心地は思ったよりも快適ではなかった。雪の柔らかさが見た目だけだったからだ。仰向けに寝そべり、時間をかけて私の身体は隠されていく。指はすぐにぴくりとも動かせずに、太陽の光は鈍く私に照りつけた。
瞼を閉じたその場所は、見慣れた暗闇を認識しなかい。いつもならば瞼の下に眠る思惑が私にその身を見せ付けてくるというのに、いつまで経っても視界は半透明な雪に覆われているみたいに仄かな白い光でひろがっているのだ。これはどうしたことかと、私は驚いて何度も目を閉じたままで瞬きをする。うっすらと陰る灰色は絵に描いたような淀みとしてそこに存在していた。それはかつての赤や青とは違い動きは無い。代わりに黄緑色が投入されて、一瞬で底まで到達しかけるけれども手前で浮上を試みる。川の流れに身を任せるが如く、漂う黄緑は陰りに乗ってどんどん消えていってしまうのだ。薄くなることはない。だが全ての黄緑が居なくなる前に、新しいそれが瞬く間に現れながら、またしても流されていく。これはどこから現れてどこに向かっているのかを、私の中だとて私は知り得ない。ただそれを受け入れて、地平線から先に進んで行くのを見送ってあげることで自分を解いてやれる。
徐々に身体の感覚が失われていき、冷たいとすら感じられなくなった指先の次に、下半身がまだ自分に付いているのかと疑った。内臓が静かに活動を緩めていくことで呼吸も感覚があいていく。不思議と苦しくは無い。肺の中に酸素が残っていない状態が清く澄んでいる状態であるかのように、私はもう汚れた酸素を体内に取り込む必要が無くなっているのだ。こんなにも清々しい気分になれるのは何年振りだろうか。私は随分と長い年月、この気持ちを忘れてしまっていただなんて。思い出すことが出来ただけでも、ここまで歩いてきた甲斐があったというものだ。満ち足りた心地で眠りにつける幸せを私は魂に刻むであろう。この感覚を忘れないように、次の目覚めの時にも終着点を見失わないようにするためにも。
これを走馬灯と呼ぶのだろうか。脳内に様々な記憶が去来している。幼い頃の、世界がなんたるかも知らずに母の後ろをついて歩いたもの。広くて力強い、母親という存在のなんと逞しい存在であったか、無償の愛を捧げてくれたことか。時には抱擁し、時には叱り、私を慈しんでくれたことはかけがえのない行為である。それがいつからだろうか、細く小さく見えてきたのは。これがあの人なのかと疑問になり別人に見えることに困惑し、認めたくなくて反発をした。意味も無く強がって見せて、弱さが格好悪いと決めつけていた怖いもの知らずで恥ずかしい時代。いきがってばかりで周りに迷惑しかかけれていなかっただろうなと、思い返すのも今更な話だ。誰になんとお詫びの言葉を並べても足りない。
年々と衰えていくところを、成長していく自分が見るというのは不思議な光景だった。自分は未熟なものから背も歳も頭の中も広く大きくなっていくのに、母親は徐々に萎んでいき小さくまとまろうとしていく枯れ掛けた野菜みたいにしゃがれていった。親孝行をしてあげたいと思って、土産を片手に時折実家へ帰るのが精々だった。それでも嬉しそうにしてくれる母親の笑顔を見て、救われていたのは自分の方だ。私は自分が安心するからと理由を摩り替えていた。
仕事で家にあまり居ない父親をやっかんだこともなければ、煩わしいと考えたこともなかった。そう思えるほどの価値が無かったと思っていたからだ。生きるためにお金が必要であり、家族を思ってこそ朝から晩まで身を粉にして働いてくれた父親のおかげで不自由することなく大学まで卒業できたことを考えたら感謝しか出てこない。言葉にもしたことはなかったが、見返りを認めようとしているのではないという父親の背中を見て私は特別なにかを思ったりしなかった。
だが今になってみると、なにか言っておけば良かった。言えなくなる日がいつかは来るだろうと頭のどこかで考えていたのに、そのいつかを自分で選べるのであれば前もって伝えることもできただろう。そして私は選んだのだ。だというのに結局は父親になにか言えたのか、いや、なにも言葉を残そうとすら考えなかった。なにを言えば良いのか悩みすぎて答えを出しきれず、言おうとしたタイミングで相手が捕まらなかったりと言い訳を並べれば終わりが見えない。
そうだ。あの子にもなにも伝えていない。私は重大なことに気付いて目を覚ました。だが時既に遅し。身体はもう動かない。どんなに力を込めてみてもぴくりとも動けずに、私は横たわったままだった。思わず溜息を思考の中だけでつく。やり残したことが多すぎる。ざっと思いつくだけでも両手では足りなくなってしまうのだけれど、それは今よりも前から知っていた事実だ。覚悟をしていたはずなのに、いざ、もう出来ないと知ると胸の奥から欲望が溢れだす。生きていれば可能性という名の逃げ道を作っていたのにと笑いだしてしまう。あれもしたかった、これもしたかったと言い出したらきりがない。
振り返ってみて、我が人生に一片の悔いなし、などと言えるほどの人生ではなかった。自覚もある。だが嘆くこともない。息苦しい建物に詰められている方がよっぽどだった、今に比べたら比べものにならないくらいにだ。それでも、悔いだけがあるわけでもない。世界を恨みながら身を投げるような劇的なシーンが作り出せるほどの材料を蓄えてなどなかった。負の感情だけで生きていけるほど、素直に真っ直ぐに叩かれた経験など微塵も無い。だからこそ薄っぺらに曲がり曲がれる自分という人間になれたわけであり、結果として不満も満足も味わえず悲観すべきこともない。そんな自分が割と気に入っている。その証拠に私の顔は穏やかで、苦しみを感じさせないからである。もしも見付けた人がいたならば、誰しもがそう口を揃えるだろう。
意味が無いことなど、なに一つなかった。苦しみも喜びも、私の人生においてどれもが必要な要素だった。どれもが良い思い出になったと、私は私のアルバムを閉じる。館主はキャベツ畑から戻ったところだった。もうここに写真が増えることは無くなってしまったが、館主は相変わらず額縁の手入れをして、これまでと変わらない。ただ、エプロンの下で鍵がベルトループに通されることは無くなるだけだ。これからは私の手元で擦られ続けて、黒き浸食も無くなるだろう。
結局、私が見た朝日の時から明るくはならず積雪は増す一方となり、一週間とやまなかったため、電車は随分と足止めをくらったらしい。遠いけれども一番近いとされる駅から雪に強い列車が何度か往復をして、例の列車の乗客を助けに行ったそうだ。私のことを記憶している人は居なかったのか、乗客は口にはしなかった。
新聞には乗客は全員助かったと大々的に書かれて、賢明に身を粉にして動いた駅員の何人かが表彰されたことが明記されていた。その文字の隣には賞状を両手で持ち、笑顔で写る車掌達の写真がモノクロで張り付いていた。右から白髪の車掌、女の子の車掌、厳格な顔の車掌。全員と面識があり顔を合わせていた。だからこそ、なんの感情も持たないながら、はにかみながら、誇らしくながらの笑顔が見て判る。隠された表情の裏まで読めるようになったのは、なにが原因かは判らずとも。
けれども緑色のマフラーを巻いた黒い犬が遠吠えするのを度々乗客が目撃するようになり、車掌の中には実際に遠吠えを聞いたという人も何人かいた。女性車掌はそれを「寂しげな鳴き声」と言い、体格の良い寡黙な車掌は「犬のようで犬ではなかった」と言い、白髭の車掌は「恐ろしい声だった」と言った。車掌達は犬の姿を見たとは言わずに声だけを一言で表したが、運転の途中でいつも同じ場所にさしかかると視線を正面からさっと避けた。危険であると承知した上でそうしたいなにかがあるのだと言いたげに、その時の表情は強張っているのだという。
それは長い長いトンネルを抜ける直前から直後であり、橙色で身を染めている瞬間。世界が開けて太陽の恩恵を授かっている喜びを思い出せる、その時。しかしそれは広まることなく、いつしか聞いた本人達ですら、犬のことを忘れてしまった。忘れる努力をした結果として、妙な癖を見せる人は誰ひとりとして居なくなった。
時間は決まって朝日が昇り始める、白んだ頃。夜であやふやだった山の輪郭が光で縁取られると、黒い犬がトンネルからふらりと出てくる。夜中の間をずっと尻尾を追い駆けてぐるぐる回っていた彼が、カートを埋めた上に立ち、お尻の置き心地の良い場所を確保するために何度か踏み鳴らす。四本足で行儀良く座って、そして時間になると、天高く地をも揺らがさんばかりに遠吠えをした。木霊して誰かの耳に届くこともあれば、列車の音に掻き消されることもあった。あがってはすぐに消え去ってなくなってしまう彼の声。
それは山の輪郭を揺るがして線路の枕木をずらしてしまう威力を握っている。この声は限られた人にのみ届くけれども、それでも脳に届くより先に消えてしまう。いつまで経ってもあの子は埋められたあの場所から離れられず、ひたらすらにぐるぐると回っている。そうして準備できた喉であげる咆哮が、私には世界の終わりを告げるための合図に聞こえた。
終
読んでいただきまして有り難う御座いました。




