表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
この作品には 〔ボーイズラブ要素〕〔ガールズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

心ふたつ

作者: 知風

 誰もが持っている青春の初恋の想い出。心と体が不均一に成長していく。そんな思春期だからこそ、その中で刻まれる記憶はいつまでも嬉しく悲しく懐かしく、余韻を残しているものだと思う。

「涼太~。なんかうまい方法ないかな?」

『ヒロシ。お前はさっきからおれに聞いてばっかりやないか。もっと自分の意志というものをちゃんと持たんとあかんぞ』

「そやけど、今日学校に来てからなんやかんやと、いちいち口出ししてくるのは涼太やないか。そやから今もなんかうまいアイデアを持ってへんかな~と思って・・・」

『あのな、さっきまでおれがお前を助けてやってたのは、おまえの行動を見てて、なんかハラハラしてしょうがなかったからやないか』

「おれは、そんなに涼太をハラハラさせてたんか?」

『自分でぜんぜん気がついてへんのか?しょうがない奴やな。そしたら、もういっぺんだけ言うたるわ。始業式で校長先生が話しているときに貧乏ゆすりはあかんやろ。新任の先生方の紹介のときもキョロキョロして落ち着きがないし。教室に入っても新しい担任の先生が一生懸命喋ってるのに、お前は窓の外を眺めて上の空。おれやなくても、ちゃんと話を聞けって言いたくなるわ。おれはヒロシが誰かに注意される前に注意してやってただけのことや。わかるか?』

「まあ、そう言われたら、確かにそうやけど・・・」

『それに、なんでこんなギリギリの直前になってからそんな質問するんや。きのう一日中ボケーっとしてたからこういうことになるんやぞ。お前の人生には計画というものは無いんか?』

「そんなにギャーギャー言うなや。涼太やったらわかってるやろ。おれがものすごく悩んで、昨日ひと晩一睡もできんかったのを」

『あのな、おれはちゃんと見てたぞ。ヒロシは午前三時から七時まで、四時間しっかり鼾をかいて熟睡しとったわ』

「えっ? そうなんか」

『今日は久しぶりに結衣に声をかけるだけなんやろ?見舞いに来てくれてありがとうって言うだけなんやろ?そんなのおれには関係ないわ。好きなようにやったらええやないか』

「そんな冷たい言い方すんなや」

『おまえはこれから一生おれの意見に従って人形みたいに生きていくつもりなんか?』

「いや、そんなことあらへん。そやけど・・・」

『そやけど・・・何やねん』

「ここで待ち伏せしてたってわかったら、それはもう、いわゆるストーカーやないか。結衣にそんな目で見られるのは嫌やし、なんか自然に『あれ、結衣ちゃん久しぶりやね。一緒に帰ろうか』みたいな偶然を演出できたらええのやけど・・・」

『あほらし。そんなこと昨日のうちに考えとけよ』

「もう、わかった。もうええわ。そしたら、自分で何とかしてみるから、涼太。ちゃんと見といてくれよ」

『よっしゃ。黙って見といたる。おれは助けるつもりは無いからな。そのつもりでしっかりやれよ』


                    *


 この日は、中学三年になって最初の登校日。一年生は先日入学式を終えたばかりなので今日は休み。二年生、三年生だけが一学期の始業式のために登校した。そして、昼前には全校生徒が下校時間を迎えた。

バッグに新しい時間割と明日から使う新しい教科書を放り込んで、チャイムと同時におれは教室を飛び出した。玄関に行くと、急いで上履きをスニーカーに履き替えて校舎の外に出る。

 深呼吸して息を整えていると、学ランの黒が春の柔らかな日差しを吸収して体がポカポカ温かい。ふと校庭を見ると、毎年この時期には満開に咲いているはずの桜がほとんど散ってしまっている。少し前に降った大雨の影響だろうか。それでも、代わりに枝の先には薄緑の小さな若葉がすでに芽吹いている。これはこれで、青空を背景にすがすがしい雰囲気を醸し出している。

「うん。ええ日和や」

 おれは大きく伸びをして、無理に自分を落ち着かせようとする。

普段だったら、こんな景色なんかほとんど気にも留めないところだが、久々に結衣と話せると思うだけで、周りの景色が違って見えるのはなんとも不思議だった。

そんな、心ここにあらずの時だった。後ろからかかった突然の図太い声に、体がビクッと反応した。

「おお、これは、これは、山口ヒロシ君やないか。おまえ何やっとるんや。こんなところでボケーっとして」

 バスケ部の大西蓮だ。嫌なやつに見つかってしまった。後ろには、子分の山村颯太と上田大輝が一緒にいる。なんでこんな大事なときにこいつらが出て来るんや、もう・・・。 

「聞いたぞ。おまえ、三年になったからって、バスケ部を辞めるって言うてるらしいな」

 そう言いながら、蓮はズボンのポケットに両手を突っ込んだまま、大きく肩を揺らしておれのすぐ前に近寄ってきた。

 蓮のリーゼント風の長髪は、春風が吹いていることさえ無視するように、ハードスプレーで固められている。額の前方に十センチほど飛び出したひさしのような前髪が、真上からの日差しを遮って、その表情を隠している。そして、その陰の奥にあるひと重まぶたの細い目が、表現しうる最大限の威圧感を出しておれを見下ろしてくる。

「そうや。別にええやないか。そろそろ高校入試を考えんとあかんし・・・」

 勇気を出してそう答えた。このときのおれは、涼太と一緒にプレーできないバスケットボールには、既に興味を失っていたのだ。

「お前なあ、そんなわがままが本当に通ると思てんのか?」

 大きな声で更に威圧してくる。

「部活を辞めるかどうかはおれの勝手やないか。顧問の中村先生は、さっき退部届を出したらちゃんと受け取ってくれはった。それに・・・どうせおれはいつもベンチやし・・・。二年の後半からはベンチにも入れてもらえへんのはしょっちゅうやったし・・・」

 頑張って反論したつもりだっただが、後半は小声で愚痴っぽくなってしまった。

「お前何をぶつくさ言うとんねん。あのな、お前も知ってのとおり、おれは三月の大会のあとから、キャプテンを任されとるんや。おれの了解なしに退部なんかできるわけないやろうが」

本当は涼太がキャプテンになるはずだった。でも、それができなくなって・・・。代わりに蓮がキャプテンになったのだった。

 そやけど、こんなのまるでヤクザやないか。

「そうや、おれらも何も聞いてへんぞ」

 颯太と大輝が街のチンピラみたいに蓮の後ろから声をかけてくる。曲がりなりにもキャプテンの蓮はともかく、こいつらに退部することを伝えなければならない理由は全くない。かかわりを持ちたくない二人だった。こいつらのおかげで得したことと言えば、「虎の威を借る狐」という言葉の意味を一発で覚えることができたということだけだろう。

 おれは、漫画の「スラムダンク」に憧れて、この京都市立洛央中学校に入ってすぐ、涼太と一緒にバスケットボール部に入部した。

 入学した頃は、あいつらの背丈もおれと同じくらいだった。だが、それから二年のあいだに蓮は順調に百八十センチまで背が伸びたし、颯太も大輝も百七十五センチ以上になっている。涼太も百八十三センチまで背が伸びたが、なぜかおれだけが百六十五センチで成長が止まってしまっていた。

おれは悔しかったから、体は小さくてもNBAで二メートル級の選手たちの中で対等にわたりあった田臥勇太プロみたいに、スリーポイントシュートだけは誰にも負けないようにしようと思い、一生懸命ロングシュートの練習をした。

 その姿勢を良しとしてくれたのか、二年の春の大会までは、先発こそ無かったものの、たまに試合に出してもらえていた。しかし、結局は体の大きな相手に当たられると吹っ飛ばされるし、たまにゴール前でゲットしたボールを持ってシュートを打とうとしても、簡単に上からボールを叩き落とされる。やっぱり身長がネックだった。

 そんな中、おれがファインプレーできるように涼太だけが何度もパスを回してくれた。いくつかいいプレーが出来たけれど、二年生の秋季大会以降は、監督は逆転不可能な負け試合の、それも最後の三十秒くらいしか出してくれなくなっていた。

「おれがいても、ぜんぜんチームの役には立たへんやろ?」

自嘲気味にそういうと、颯太がニヤニヤして近づいてくる。

「おれ達にはヒロシが必要なんや。ドリンクの準備とかユニフォームの洗濯は、お前にしかでけへんのや。わかるやろ?」

 たしかに、二年生の二学期からマネージャーの女子が転校になって急にやめてしまったので、おれが一時的に試合会場でドリンクやタオルの準備をしたことがあった。でも洗濯などは一度もやったことはない。

 何でこいつらの汚れ物をおれが洗わんといかんのや。

「そんなの下級生にやらせたらええやないか」

「なに言うてんねん、ヒロシ。下級生はみんなお前よりずっとセンスがあるし、これからどれだけ成長するかわからん金の卵なんやぞ。そんなことやらせられるか?」

「そや、おまえ今から中村先生のとこに行って、退部届けは撤回します、マネージャーになりますって言うてこいよ」

 大輝までが調子に乗って言い出した。

こんなやり取りにちょっとうんざりしかけていたその時だった。結衣がロッカーに上履きを入れているのが見えた。こんなところで結衣が出てくるのを待っていたなんてわかったら、こいつらが何を言い出すかわからない。

 しょうがない。今日は結衣に声をかけるのを諦めるか。そう思ったときだった。

『諦めるのはまだ早いのとちゃうか?』

 涼太だ。

「おっ、涼太。何かうまい方法でもあるのか?」

 おれは前の三人に聞こえないように、小さな声で涼太と話した。

『ヒロシ、おれの言うとおりにするか?』

「おう、するする」

『よし。そしたら今すぐ「帰る」って言うて、こいつらの前からスッと立ち去るんや』

「そんなことしてもこいつら、ついて来よるだけやで」

『おれに任せるって言うたやろ』

「・・・・・」

「ヒロシ、お前なにを一人でぶつくさ言うとるんや。気持ち悪い」

 おっと、涼太と話しすぎたようだ。蓮がからんできた。どういうことになるか分からないが、ここは勇気を出して涼太に任せるしかない。

「そしたら、おれはもう帰るから。ほんならな」

 そう言って、おれはひとり校門に向かって歩き出した。

「おいおいヒロシ。ええ根性しとるやないか。お前おれ達をシカトするつもりか?」

 蓮が大きな声を出し、三人がおれの行く手に立ちふさがった。

「い、いや、別にそういう訳やないけど・・・」

 蓮の長い腕が伸びてきて、おれの学ランの胸ぐらをつかんだ。そして、蓮の大きな顔がおれの視界に覆いかぶさってきた。

 ああ、殴られる・・・。

 そのときだった。おれは自然に、学ランをつかんでいる蓮のこぶしに手をかけて、ヤツの人差し指の関節をキメていた。

「あっ、いたたたたっ」

 蓮が崩れるようにその場にしゃがみ込んだ。

「もうこれ以上、おれに付きまとうのはやめるって約束してくれへんかな」

 一瞬、蓮が反撃に出ようとしたが、おれがちょっと指に力を加えると、すぐあっさりと腰を落とした。

「うーっ、やめろ、やめろ。指が折れるやないか。まいった」

 颯太も大輝もどうしていいかわからない様子で、ボケーっと突っ立っている。

「わかった。もうお前には付きまとわへんから。約束する。放してくれ、たのむわ」

 気がつくと周りにはいつの間にか人垣ができていた。

「まさかバスケ部のキャプテンが、みんなの前でした約束を破ることはないよな」

 自分でも意外に大きな声が出た。おれにもこんなことをやる勇気があったのだ。なんだか嬉しかった。

「わ、わかった。約束は守る」

「みんな、証人になってくれるか?」

 おれは周りの人垣に向かって声を上げた。しかし、集まっていた生徒たちから返事の声は聞こえなかった。あとでイジメの対象になるのが嫌なのだろう。それでも、みんなしっかり頷いてくれているのが見えた。きっとみんなも彼らの日ごろの横暴に嫌気がさしていたのだ。心の中では、きっと拍手喝采してくれているはずだ。

 そして、その輪の中に結衣がいるのをみつけた。

 おれは、ちらっと彼女と目をあわせてから、蓮を開放してやった。それからカバンを拾って、埃を払い肩に乗せてゆっくり校門を出た。ちょっとドキドキしたけど、幸いやつらは追っては来なかった。

「ヒロシくん」

 後ろからかかった声は、思ったとおり結衣だった。

 目立たないこげ茶色のシュシュで髪をポニーテールに束ねていて、柔らかそうな前髪が春風に吹かれ揺れている。

「やあ、結衣ちゃん。変なとこ見られてしもうたね?」

「ううん。ヒロシくんって意外と勇気があったんやね。わたし見直したわ。それになんかスカーっとした」

 久々に見る屈託のない結衣の笑顔だった。

「いや、あれは涼太が・・・」

「涼太君?」

 つい涼太の名前が口を突いて出たのだが、説明なんかできないことに気づいた。

「いや、その~、涼太がおれに勇気をくれたような気がする・・・って、言いたかったんや」

おれがしどろもどろに答えたことばをかみしめる様に、結衣はほんのわずかな時間遠くの空を見つめ沈黙した。きっと涼太のことを思いだしていたのだろう。そして、我に返ったようにおれに向き直った。

「ヒロシくん。あれからすごく落ち込んでたみたいやけど、もう大丈夫なん?」

「うん。もう大丈夫。ああ、そや。見舞いに来てくれたのにシカトしてごめん。結衣ちゃんには申しわけ・・・」

「もう、ええやん。あれはヒロシくんの所為やないのやから・・・」

 自分で話を振っておきながら、もうあのことを思い出したくないということなのか。結衣はおれの謝罪のことばをさえぎった。まだ癒えない心の傷を、自らかきむしり始めて慌てて手を引っ込めた。そんな感じだった。

 結衣も、相当に心が傷ついたのだ。いや、きっとおれ以上だったはずだ。結衣は涼太のことが好きだったのだから。それを、おくびにも出さずに結衣はおれの心配をしてくれた。おれは、自分がひとりで悲しんでいたことを今さらながら恥ずかしく思った。

「一緒に帰ろか」

 複雑な気持ちを抱えながらも、そんなことばが口を衝いて出た。

「うん。ヒロシくんとふたりで帰るのは、小学校の頃以来やね」

 振り返ってみると、涼太が言ったとおりすべてがうまく運んだ。自分でも不思議なくらい落ち着いて蓮たちと対峙できたし、あんな関節技なんかテレビで見たことはあったけど、自分がとっさに使えるとは思ってもいなかった。

 涼太は未来予知ができるのだろうか?

 たとえこんなゴタゴタの成り行きであったとしても、結衣と話をするきっかけがうまくできたことが何よりも嬉しかった。そして、結衣がおれのことを恨んでいないということがわかって、ようやく心の奥につかえていた何かが取れたような、そんな気分だった。

 もともと家が近所で幼馴染だから、話くらいできてあたりまえなのだろうけど、結衣とふたりでこんなに普通に笑顔で話をしたのは何年ぶりだろう。

 五条通りにかかる歩道橋を渡るとき、一瞬だったが心地よい春風に乗って結衣のいい香りがおれの鼻を衝いた。

 おれは、結衣にわからないように小さく深呼吸をした。


                    *


 吉村涼太、松永結衣、そしておれ山口ヒロシは、京都市東山区の同じ町内に住んでいた。おれ達三人はみんな一人っ子で、小さな頃から兄妹のようにいつも一緒に遊んでいた幼馴染だった。

小学校に上がる前には、祇園にほど近い円山公園の近くにある幼稚園に三人で通った。通園は、浄土真宗の親鸞聖人のお墓という西大谷本廟近くの五条坂まで毎朝バスが迎えに来てくれた。園児は男女を問わず、紺色の制服の上に白いエプロンをつけさせられるのが恥ずかしかったが、制服を汚されずにすむと言うので親にはたいそう評判が良かったようだ。

 朝はバスに乗るまで親が付き添ってくれる。だが帰りは、バスを降りてから町内までの五百メートルほどの距離を三人で手をつないで帰った。いつも結衣が真ん中だった。その頃は、おれ達が結衣を守ってやるというよりは、おれ達よりも背が高い結衣が、母親のようにおれ達の手をとって連れて帰ってあげるという雰囲気だった。

 清水寺の裏参道に近いため、たくさんの観光客が三人の行く手を遮るのだが、おれ達は手を離すことなく真面目に自宅を目指して懸命に歩いた。幼稚園に上がるまでは、町内の路地以外、自分達だけで出歩くことがなかったので、おれ達にとってはこの帰路が大変な冒険だったのだ。後で聞いたところによると、おれ達の親が順番で、見つからないようにこっそりあとをつけて見守ってくれていたらしい。

 小学校は、やはり町内から五百メートルくらい離れた渋谷通り沿いにあった。明治二年に開設された由緒ある、全校生徒で五百人くらいの学校だった。おれ達の学年は二クラスで、三人は同じ「一年い組」になった。ここで初めておれ達には、別の町内に住む同学年の友達がたくさんできた。

 しかし、おれ達三人の絆はまさに兄妹そのものであり、変わらず強い連帯感があった。下校はいつも三人一緒、帰ってから遊ぶのも三人一緒だった。

 おれ達の家の裏手には、清水寺の音羽の滝から流れてくる水流が東山の湧き水と合流し、小川となって流れていて、その流域に豊かな自然を育んでいた。夏休みになるとおれ達は、この川沿いに上流を探検して遊ぶのが好きだった。藪蚊に刺されても、漆の木にかぶれても平気だった。おれと涼太はいつもオニヤンマを追いかけ、カエルやイモリを捕まえるのに興じた。結衣は、川べりの砂地のなかから綺麗な小石を見つけて集めるのが好きだった。

 小学校四年生頃までは、結衣の背が一番高かった。だからどんな遊びでも、結衣がいつもおれ達を家来のように引き連れていた。

 五年生になって、おれ達の身長が結衣に追いつき、そして追い越した頃。というか結衣の胸が出だした頃から、おれも涼太も結衣を女として意識するようになっていった。結衣のほうはというと、そんなおれ達の気持ちなんか全然気にも懸けない様子で、幼い頃の延長線上で、何ひとつ変わることなくおれ達と接していた。

 夏休みになると、学校のプールが児童たちに開放された。

 六年生になっても、結衣は一緒に行こうと毎日おれ達を誘いに来た。真っ黒に日焼けした結衣の水着姿はまぶしかった。

 八月には、「地蔵盆」という子供達のための町内イベントがあった。

 毎年お盆の頃になると町内のお地蔵様の前の路地に柱を立ててテント屋根が張られ、その下に茣蓙が敷かれる。その上で子供達が朝から晩まで一日中騒いで遊んでもいいというもので、大人が子供達のために色々と楽しいイベントを企画してくれる。

 紙芝居、ゲーム大会、すいか割大会、幽霊話、ビンゴ、福引もあった。子供達が喧嘩しないように、町内の暇なお年寄り達が、茶飲み話に花を咲かせながら四六時中見張り番をしてくれる。それが丸二日間続けられるのだ。

 もちろん近所の尼寺から「おじゅっさん」(住職)に来ていただいて、お地蔵さんの前で読経してもらう時間があった。というか、これが本来のメイン行事なのだ。

子供たちはそこに行くと、お供え物のお下がりとして、たくさんのおやつがもらえたし、みんながおもちゃやトランプやゲームなどを持ち寄るので、暇を持て余すことがなかった。  

 また、この地蔵盆のときだけ、杉山さんのところにあるカロムというゲームが持ち出された。四人が木製の平べったい四角い野球盤のような箱を囲んで、対面同士がチームとなる。手駒を指ではじいて盤上の赤と青の丸い木製の駒のうち自分の色の駒に当てて、四隅のポケットに落として行く。成功したら何度でも続けられる。でも失敗したら交代となる。そして自分の色の駒が全部無くなって、最後に軍旗という赤青二つ巴の柄の駒を落としたチームの勝ちとなる。いわば小さなビリヤードのような遊びなのだが、いろいろ奥が深くて小学校の高学年には人気があった。

 お昼になるとお弁当が支給されたし、各家からお母さん達が自慢のおかずを持ってきてみんなで分けて食べたりする。大人は、囲碁や将棋をやる人がいるかと思えば、昼間からビールや酒を公然と飲むことができたし、酔いつぶれて茣蓙の上で寝てしまうお年寄りもいた。

 そんな地蔵盆のときも、おれ達三人はいつも一緒だった。もうそろそろ地蔵盆も卒業かなと思いつつ参加していたが、幼い子供が怪我をしないように面倒を見るという大人の仕事の下請けをやらされた。涼太も結衣も幼い子供には優しく評判が良かった。おれは・・・、どうだっただろう?

みんながワイワイやっている中、茣蓙の端っこでおれと涼太がひそひそとエッチな話をしていたら、いつの間にか結衣も横で盗み聞きしていてニヤニヤしていたのには驚いた。おれ達はドキドキしていたけど、結衣はあっけらかんとしていた。

 二日目の夜になって、あたりが暗くなってくると路地を遮るように白い幕が張られた。町内でもビデオ撮影が趣味の水戸さんが撮った町内旅行などの映写会が始まるのだ。これが毎年お決まりの地蔵盆のグランドフィナーレだった。

 映像は新しいものは少ししかなく、ほとんど毎年同じものを見ることになるのだが、毎年同じところでみんなが笑った。水戸さんの奥さんがミニスカートでバスに乗り込むところとか、小野さんのおじいちゃんが酔っ払って踊っているところとか、一番面白い場面が来るのをみんな知っていて、それを待ち構えて笑うのだ。無声映像にもかかわらず、水戸黄門を見るような安心感があった。

 そして、最後の町内会長の挨拶でお開きになる。おれも涼太と結衣と別れて自宅に帰る。それだけなのに、おれはこの瞬間のすごく寂しい感じが嫌いだった。

その後は、町内各家の門柱に掛けられた行灯のろうそくに火が灯されて、ご先祖様の魂を見送る幻想的な夜を迎えるのだった。

 十月の秋祭りも、子供達にとっては待ち遠しい大きなイベントだった。三島神社の氏子となっている近隣の四町会による大きなお祭りだった。その年もおれたちは、ねじり鉢巻、法被に木俣、白足袋というお揃いの祭り衣装で、三人一緒に子供神輿を担いだ。今年で最後になるという思いも重なり「わっしょい」という声の大きさを競いあって汗だくになりながら近隣町会をねり歩いた。神社の境内に戻って振舞われたコーラは最高にうまかった。

 神社の境内には、昼間からたくさんの屋台がでていて、子供達にとってそこは夢のような場所だった。

おれ達の町内には、こういう屋台などを営む香具師やしの親分と呼ばれる八十歳を過ぎたおじいさんがいた。この縁日でトラブルが起こったことが今まで一度もないのは、このおじいさんのおかげだと町内のみんなが言っていた。

 いつもニコニコしていて、優しそうなご老人だったが、背中から二の腕にかけて竜の刺青があるから真夏でも半そでシャツを着ないとか、美空ひばりが仕事で京都に来るときには必ず挨拶に立ち寄るという噂があった。左手の小指の第一関節から先がないのは知っていたが、「親分」と「優しいおじいさん」が、どうしても頭の中で結びつかなかった。

 おれ達は、少ない小遣いを使うのがもったいないので、ひとつの綿あめを三人で分け合って食べた。

夜になると境内にはたくさんの照明が点され、一部がビアガーデン会場となった。騒ぐ親たちを放っておいて、子供達は風船つりや金魚すくいに興じた。

 浴衣に着替えて現れた結衣は、びっくりするほどきれいだった。おれも涼太もしばらく言葉が出なかった。白地に大きな赤い花柄の浴衣は、結衣の日焼けした小麦色の肌を引き立たせていた。そして、長い髪をアップにしたうなじは、もはや大人の女の色気を醸し出していた。赤い鼻緒の下駄は歩きづらそうだったけど、その危うい姿がおれ達に「守ってやらないと」という男の本能を喚起させた。

 あのときおれは、結衣はもう子供ではないのだと思った。もちろん涼太も同じ目で結衣を見つめていた。そして、その日から涼太もおれも暗黙の了解というのか、結衣とは特別にそれ以上親しくならないようにした。どちらかが、結衣のことが好きだと言ってしまったら、それでおれ達の友情が終わりそうな、そんな気がしていたのだ。


                    *


 それは、おれ達が中学二年生。三学期の期末テストが終わってすぐの三月の第一土曜日のことだった。

その日は朝から快晴で、日差しが強く降り注いで朝からポカポカ陽気になっていた。

中学バスケットボールの京都府大会で、二年生中心のチームによる大会が開催された。涼太とおれは京都府立体育館のコート内にいた。 

 おれが先発というのは二年生になってから初めてのことだった。いや。二年生としては最初で最後ということになる。監督も、たまにはヒロシも出してやらんといかんと思ってくれたのかも知れない。

涼太は二年生になった時から、洛央中学校バスケットボール部のエースだった。身長は一八三センチ、均整のとれた体でスポーツ万能だった。そんなこともあって、バレーボールや陸上競技の大会にも助っ人として良く引っ張り出されていた。

 それにも増して涼太がすごいのは勉強の方で、常に学年で十番以内の成績を維持していた。スポーツ万能で勉強もできるイケメン。もちろん学校じゅうの女子のあこがれの的だった。普通だったら高ピーになりそうなところだが、涼太は幼馴染のよしみなのか、いつもおれとつるんでくれていた。

 そんな試合会場の応援席に、結衣の姿があった。

 中学に入ってから、結衣は女らしさに益々磨きがかかっている。おれ達がバスケットボールに打ち込んだように、結衣も軟式テニスにのめりこんでいた。結衣が真っ白なウェアを着てコートで練習していると、いつの間にか男子がたくさん集まってくる。おれは、結衣がカッコいい恋人を作ってしまうのではないかと、いつもハラハラして見ていた。

 ただひとつの安心材料は、たぶん結衣は涼太のことが好きだということだった。もしそうなら、おれは無理にでも笑顔を作って堂々と引き下がろうと思っていた。涼太との友情は何ものにも代えられなかった。

「涼太。結衣が来てるぞ。あいつ今日はテニスの試合があるって言うてたのに」

「ヒロシ。おまえ気になるのか?」

 なんとなく、それは涼太がおれの気持ちを確かめるような言い方に聞こえた。

「なに言うてんねん。結衣は涼太を応援しに来とるんやないか」

 それは、結衣の気持ちを推し測った正直なことばだった。そして、涼太に『もう結衣に対して積極的になってもええぞ』と言外に伝えたつもりだった。

「なんでやねん。そんなことあらへん。結衣は・・・、まあ、試合前にゴタゴタ言うのはやめとこか」

「・・・・・」

 おれは黙ってしまった。涼太がおれのことを気にしている気持ちは痛いほど分かる。だからこそ、いつものように茶化すことができなかったのだ。

「なんや気まずい沈黙やな。そしたら、結衣はおれ達のバスケ部を『箱推し』してる、ということにしとこか」

 さすが涼太だ。場の雰囲気をすぐに明るくしてくれる。おれも下を向くのをやめて、その勢いに乗ることにした。

「おれ達は週末ヒロインのモモクロか?まあええわ。よっしゃ。ほんならそうしとこ」

 おれ達はハイタッチした。涼太は背が低いおれが思い切り飛び上がらなくてもいいように、小さく背伸びしただけだった。

 涼太には誰に対しても、そんなまわりの誰も気がつかないような小さな心遣いがいつもあった。だからこそチームメイトからの人望が厚く、この時には当然のように次期キャプテンに内定していたのだった。

そろそろ試合開始のホイッスルが吹かれる。

 そんな大事な時にも、おれの想像はたくましく膨らんでいく。久々におれのスリーポイントシュートがおもしろいように決まって得点を重ねる。そしてこの試合に大勝し、洛央中のMVPになる。観客席から降りてきた結衣とハイタッチをする。結衣の笑顔が、黒目がちの瞳が、おれに向けられている。気がつくと、そんな夢のような場面を想像していた。

 さっき涼太に結衣を譲ることを真剣に考えていたのに、結衣のことが諦められていない自分が情けなく思った。

 そして、そのときにはこれから起こる悪夢を想像すらできなかった。

 神様は、涼太にたくさんのものを与えすぎたと思ったのだろうか。それは、あまりにもあっけなかった。

 前半が始まって、五分が経ったばかりのことだった。

 シュートを阻まれた涼太が、相手ゴール下から後方のおれに絶妙のパスを送ってきた。軽快なドリブルでおれは相手陣地に走りこんだ。右三十度からのロングシュート、おれが一番得意とするポジションに着いた。相手はゾーンディフェンスでゴール下に飛び込まれないように警戒している。

 ここで鮮やかにスリーポイントシュートを決めてやる。この勇士を監督に見せておけばこれからもきっと出してもらえるはずだ。結衣も見ている。そんなことを考えて膝を曲げて構えたその時だった。

前にいた相手校の、百九十センチはある長身の「雪男イエティー」みたいな選手が突進してきておれの手の中のボールを弾き飛ばし、勢い余っておれの上に覆いかぶさってきたのだ。おれは何の抵抗もできずにそいつの下敷きになった。そして、コートの床に思い切り後頭部をぶつけた・・・はずだった。

 ・・・・・・・・

 気がついた時には、おれの両脇にイエティーと涼太が倒れていた。イエティーは膝を抱えてうずくまって唸っている。涼太は大量の鼻血を出して前のめりに倒れていて意識がない状態だった。涼太の左手はおれの後頭部の下敷きになっていた。三人の中でおれだけがなぜか無傷だった。

 涼太はおれの頭をかばうために飛び込んできてくれたのだ。だが、涼太の顔の前にはおれを倒したイエティーのごつい膝が待っていた。そこにまともに顔から突っ込んでいってしまったのだった。

「涼太!涼太!」

 おれは夢中で叫んだ。大鼾をかく涼太が、おれの声で意識を取り戻すのではないかと思った。

 涼太は救急車で府立医大病院に運ばれていった。結衣と顧問の先生が付き添って行った。おれもついていきたかったが、涼太だったら「せっかくの先発なんだから最後までしっかりがんばれ」と言うだろうと思った。

 イエティーはまともに歩くことができず、みんなに肩を借りて、ベンチに下がってから膝をアイシングしている。

 試合は継続された。おれは負傷した涼太のためにも頑張ろうと思ったが、やはり涼太のことが気になって、おれのプレーは精彩を欠いていた。いや、それがおれの真の実力だったのかもしれない。そして、おれは途中で交代させられ、涼太のいない洛央中は大差で負けた。

 すべてが終わって全員が整列したとき、監督が、顧問の先生からもたらされた訃報を皆に報告した。吉村涼太は、集中治療室のなかで最後まで意識を取り戻すこともなく、そのまま帰らぬ人となったという。

おれは、呆然とその場に立ち尽くした。自分の体の半分を失ったような気持ちだった。涼太はおれを助けるために事故に遭った。おれの頭をかばった涼太の左手は複雑骨折していたらしい。

 あの時、涼太がおれなんか助けに来ないで、おれがコートに後頭部を強打して死んでいた方がみんなにとって幸せだったのではないかと思った。おれと涼太の友情を知っている仲間は、おれに優しく声をかけてくれたが、おれはみんなが同じようにおれのことを見ているのではないかという強迫観念に駆られていた。

 その日の夜は、涼太は家に戻ってこなかった。事故だったので警察が事件性の有無を確認していたのだ。監督は事情聴取を受けたそうだが、おれには声がかからなかった。涼太を殺したのはおれではないのか?どうしておれを捕まえに来ないのだろうと思った。

 翌日の午後、涼太の遺体が自宅に戻ってきて、その夜がお通夜となった。

 おれはまだ信じられない気持ちでお参りした。棺の中の涼太は、少し色白になったけど生きているように見えた。胸の前の手は、指を組合せるのではなく、右手で潰れた左手を包み隠すようになっていた。このときおれは、霊前に控えるご両親に対して、ひと言も慰めの声をかけることができなかった。

 そして、次の朝がお葬式だった。クラスメートや先生方、学校関係者を中心に大勢の弔問客が訪れた。おれは、涼太の第一の親友であるにもかかわらず、弔問客のなかの目立たない一人にしかなれなかった。出棺のときも、おれは遠くから見守っているのが精一杯だった。

 表情を失ったおれは、自宅に戻って自分の部屋に閉じこもった。このときから、おれはひたすら自分を責めた。涙が止めどなくあふれ出た。泣き疲れて眠り、目がさめるとまた泣いた。しかし、泣き崩れているあいだも、おれは涼太のご両親にあのときのことを正直に話さなければならないと、ずっと考えていた。涼太のご両親だけが正しくおれを罰してくれると思っていたのだ。

 お葬式から三日後、おれは思い足取りでご両親を訪ねた。

 二人は何も言わずにおれを家に招きいれてくれた。お墓に納骨を済ませ、涼太はもう仏壇の中で位牌になっていた。線香を上げさせていただいた後、おれは、涼太がおれの頭をかばって飛び込んできてくれたから事故に遭遇した、ということを正直に話した。

 二人ともおれの話を黙ってしっかり聞いてくれた。しかし、そんなおれに対して恨み言ひとつも言わなかった。

 本当は、「なんであんたなんかが生き残って涼太が死なんといかんかったの?あんたが代わりに死んだら良かったのに」と言ってもらえたら、逆に気が晴れたかもしない。だけど、お父さんもお母さんも、おれが無事だったことを心から喜んでくれた。それに涼太がそんな優しい子だったことを誇りに思う、とまで言ってくれた。おれは涙が止まらなかった。ご両親はそんなおれを逆に温かく慰めてくれたのだ。

 涼太のご両親に対して正直な気持ちを話すことができ、少しは心が安らいだものの、涼太が自分の命と引き換えにおれの命を助けたという事実は変わらない。おれが死んで、涼太が生き残るべきだったのではないか。そのことばかりがいつまでも、おれの心を強く支配していた。

 それからしばらく、おれは登校できなくなってしまった。父も母もおれの気持ちがわかるのか、部屋にこもるおれを黙ってそっとしておいてくれた。

 数日後、学校に出てこないおれを結衣が心配して訪ねてきてくれたが、おれはどうしても会えなかった。結衣にとって幼馴染の涼太を、たぶん結衣が好きだったはずの涼太を、おれが殺したのだから。

そして、そのまま二年生の終業式も終わり春休みになった。担任の先生が、通知表を持ってやってきたが、おれは会わなかった。どうやら進級はできたらしい。

 おれはカーテンを閉め切った暗い部屋のベッドの上で、自分が今生きている理由を、そしてこれから生きていかねばならない理由をずっと考えていた。

 そしてその考えが「死んだらどうなるのだろう」という方向に移っていったとき、あの声が聞こえたのだった。


                    *   


『そんなに急いでおれのとこに来んでもええぞ』

 空耳だと思った。それは涼太の声によく似ていた。しばらくカーテンを閉め切ったままにしているので、今が昼なのか夜なのかもわからない。ついにおれも精神的に参ってしまったのだと思った。

『空耳やないで。おれや。涼太や』

 今度は、はっきりと聞こえた。だが、どこから聞こえてくるのかがわからない。

「涼太か?おまえ死んだはずやないか。どこにおるんや?」

 あたりを見回して大きな声を出してしまった。

『おいおいヒロシ。いまは夜中の三時やぞ。そんなに大きい声を出したら家族が目を覚ますやないか』

「そやけど・・・ほんまに涼太か?」

『しっ!声が大きい。大きい声を出したらあかんて、いま言うたとこやろ』

 おれは、今度は小さな声で話した。

「涼太。お前の声の方がめっちゃ大きいやないか?」

『おれの声は、お前にしか聞こえてへんのやからええのんや』

「なんやて?」

『わあ~、♯×♭*+~%&』

 涼太は、大声を張り上げてみせた。それは近所まで響き渡るような大声だった。

「おい、やめろ、やめろ。もういいから」

 こっそりカーテンの隙間から窓を少し開けて近所の家を見てみたが、静まり返っている。階下の両親も目を覚ました様子はない。

『なっ。おれの声が聞こえているのはヒロシだけなんや。わかったか?』

 涼太だ。ぜったい涼太だ。だが・・・、そんなことあるはずがない。

 やっぱり夢なんやろうか。

『夢やないんや。ヒロシ』

「・・・・・」

 いま涼太は、おれの心の中を読んだように話した。

『ようわからんのやけど、さっきからおれ、ヒロシの頭の中にいるみたいなんや』

「おれの頭の中?」

『そうや。おれはお前の目を通して、いまこの部屋の中が見えてる。ヒロシの脳の一部を借りる形になってるのとちゃうやろか。そやから、たぶんお前の考えることがわかるんやわ』

「・・・・・」

 おれは、涼太の存在の不可思議とか恐怖よりも涼太が自分の頭の中を覗いているということに戸惑ってしまった。

「ちょ、ちょっと待ってくれや涼太。お前はおれの頭の中が読めるんか?」

『まあ、読めるというか、わかる。そやけどヒロシの頭の中は全然整理されてへんから、ことばとか映像の断片が渦巻いているような感じやな。そんなの覗きに行ったらこっちが変になるわ。まあ、ヒロシが整理してことばにしたものを聞くのがいちばん良さそうやな』

「ちょ、ちょっと待てや涼太。仮にやで。おれがエッチなこと想像したらお前にわかるんか?」

『そらまあ無理に覗きに行ったら、という感じかな。そやけどヒロシが見ているものはおれも見ることができるんやから、エロ本見るときは注意してもらわんとあかんわな』

「おい、涼太。いま『見ることができる』とか言うたな?」

『ああ、言うた』

「そしたら見ないようにすることもできるんか?」

『ん?まあ、そうやな。説明が難しいけど、お前の心の奥底に沈むというイメージかな。そこは小さな高い天窓から光がひと筋差し込んでいるだけで、周りは暗闇が広がっているから広さもわからない。そんなところやけど、そこでじっとしていることもできるみたいやな』

「そしたら、おれが呼んだときだけそこから出てくることもできる、というわけやな?」

『まあ・・・そうや。そうして欲しいんか?』

「そらそうやろ。絶対そうしてくれや。よっしゃ、よかった。絶対におれのプライベートを見るなよ。絶対やぞ」

『わかった。そしたら、そうするわ。そやけど声はずっと聞こえてるからな。聞いてなかったら呼ばれたこともわからへんから、これはしょうがないわな』

「まあ、しゃあないか」

 おれはホッとした。しかし、同時に自分がこの異常な状況の下にいることを改めて認識した。これは本当に夢ではないのだろうか。

『さっき夢やないって言うたやろ。ヒロシ』

 やっぱり、おれが考えただけで涼太には伝わるんや。

『そうや。明確な思考やったら声に出さんでもちゃんと伝わる』

「涼太。それで・・・、おまえは幽霊なんか?」

 おれは涼太であれば、たとえ幽霊でも怖いとは感じないと思った。なぜかいま、嬉しいと感じている自分が不思議だった。

『わからん。そやけど、幽霊やったらヒロシの前にドロドロ~って姿を現すことができるのとちゃうやろか。どうもそんなこと、でけへんみたいやし・・・』 

「涼太。お前はこの前の試合で頭を打って脳挫傷と頚椎骨折で死んだんやぞ」

『ああ。ずっと上から見てたから知ってる。ヒロシは通夜にも葬式にも来てくれたし、あとで両親にも挨拶に来てくれて嬉しかったわ。おれもいい友達を持ったんやなあって感慨深かったわ』

「そうか。やっぱり死んだら魂が体を離れて自分を上から見るようになるわけや。あれは本当やったんや。そやけど・・・、何でいま、おまえがおれの頭の中にいるねん?」

 おれはようやく根本的な疑問に立ち戻った。

『わからん』

「いつからいるんや?」

『たぶん、さっきからやと思うけど・・・』

「それまでは?」

『ようわからん』

「自分が病院に運ばれるところから見てたのとちゃうんか?葬式が終わって、おれが涼太のご両親に挨拶してるところを見てたのやろ。それでそのあとは?」

『ようわからん』

「わからん、わからんって、なんやアホみたいやな。そやけど、そこからの記憶がないということは、おれが涼太の家に挨拶に行っていたときに涼太がおれに憑依したと考えたほうがええのかもしれんな」

『憑依?おれはヒロシに憑りついたんか。おれは悪霊なんか?』

「こっちが聞きたいわ。もう・・・・ファ~ア」

 こういう異常な状況に際しても、全然緊張感もなく大あくびが出た。そう言えば、これまで色々悩んでいた間は、ほとんど眠っていなかったような気がする。涼太が現れてくれたことで、その緊張が一気にほぐれたのかもしれない。

「なんかちょっと疲れたわ。涼太、おれはもう屁こいで寝るから・・・」

 おれはいつの間にか眠りに陥っていた。


                    *


 朝七時三十分。カーテンの隙間から朝日が瞼にまともに差し込んでおれは目を覚ました。

「ヘックション! えーい、くそったれ~!」

 誰やねん。窓がちょっと開いてるやないか、カーテンも・・・。

「・・・えっ? まさか」

 昨夜の、いや今朝の、三時の出来事が脳裏に蘇ってきた。

 それにしても良くできた夢だった。涼太がおれの頭の中にいるって?そんなの小説の中の世界ではないか。しかし、あんなことが本当にあったとしたら、それはもう自分が解離性何とか・・・、平たく言うと二重人格ということではないか。

 そうだ。あの試合の前夜に、佐藤亜紀という小説家が書いた『バルタザールの遍歴』という、ものすごく印象に残る奇妙な小説を読み終えた。バルタザールとメルヒオールの二人が一つの体を共有している、みたいなやつ。だからいま頃になってあんな現実味のある夢を見たのだ、きっと。

 けれど、もしも本当にあんなことになっていたら面白いのにと思う。涼太も死んだことをあんまり気にしていないようだったから・・・。なにか心のモヤモヤが晴れたような気がする。いい夢だった。

「涼太。おれの夢に出てきてくれてありがとうな」

『そんなん気にせんでもええわ』

「・・・・・・・え~!」

 おれはベッドの上に飛び起きた。

『なんでまた驚いてるねん。面倒なやつやな。大きな声を出すなって、さっき言うたとこやろ』

「涼太。お前やっぱし・・・、ほんまにおれの頭の中にいるんか?」

『いる。ヒロシがおれを呼んだから約束どおり出てきてやったんやないか。おれはアラジンの魔法使いか?いや、ハクション大魔王かもな』

「呼んだ?」

『「涼太、おれの夢に出てきてくれてありがとうな」ってさっきおれに声をかけたやろ。そやから返事したまでや』

「・・・・・」

おれは返すことばもなかった。やっぱりあれは夢ではなくて本当のことだったのだ。

『そんなことより、今日で春休みはおしまい、明日は三年生の始業式や。引きこもりをやめるのには、ちょうどキリがええのとちゃうか?』

 涼太は、自分が死んだことを全く意識していないかのような言い方でおれに忠告する。

「そやな。何でお前がおれの頭の中にいるのかわからんけど、なんか気が晴れたわ。そや、先週結衣が心配して訪ねてきてくれたのに、シカトしたままになってるんやった。謝らんとあかんなあ。どうしたらええやろ、なあ涼太」

『なんでおれに聞くねん。そんなこと自分で考えられるやろ』

「そんなこと言うたかて、あした学校に行ったらクラスが別になってるかもしれへんし・・・」

『そしたら、学校に行くとき声かけて一緒に行ったらええやないか』

「なに言うてんねん。そんな勇気があるんやったら今すぐにでも訪ねて行ってるわ」

『本当にどうしようもない奴やな。そしたら、明日の下校時間に学校の玄関に先回りして、偶然出くわしたようにする、というのはどうや?』

「さすが涼太。グッドアイデアや。それで行こ」

『手のかかるやつやな』

「そやけど、なんでお前おれの頭の中にいるねん」

『またか。堂々巡りやないか。先が思いやられるわ』

こうして、おれと涼太の共同生活?が始まったのだった。


                    *


 蓮、颯太、大輝たちをやっつけた心地よさと、結衣と昔どおりの幼馴染に戻って話ができたことで、おれはもうルンルン気分だった。結衣もなにか楽しそうだった。結衣と二人の帰り道が永遠に続いたらいいのにと思った。

 結衣を送って自宅に戻ったら、母親に変な目で見られた。顔が変にニヤケていたのを見られたのかも。

そりゃそうだ。一昨日まで白い顔をしてずっと部屋に閉じこもっていたのだし、昨日は昨日で朝から急に おれの独り言が多くなったことを、母は悲しそうな目で見ていたのだ。

今朝おれが突然「学校に行く」と言ったときも驚いていたが、そのときは、きっと喜びが混じった驚きだったはずだ。しかし、いまの母は「本当に大丈夫?」という言葉がそのまま顔に出ていた。

その翌日から三年生の一学期の授業が始まった。結衣とクラスが別になったのは寂しいけど、そんなこと忘れるくらいに、おれ自身の異変におれ自身が驚いた。

 どうしたことだろう。数学も国語も一番の苦手だった英語も、先生の話が完全に理解できて、すう~っと頭に入ってきたのだ。それはおれが今までに感じた事のない新鮮な感覚だった。

授業が終わって休憩時間におれは校庭に出て一人になった。涼太と話をするためだった。

「涼太。おまえがおれの中に入ってきてから、なんかうまく言えへんけど、頭の中がスッキリしてるんや。今やったら、さっきの先生の話を一言一句そのとおりに復唱することができるのとちゃうかな」

『おれがヒロシの中に入ったことが、ヒロシに良い効果をあたえているのかな。その逆やなくてよかったわ』

「涼太も・・・、生きていたときはこんな感じやったんか?」

『さあ、何が普通かってそんなの人それぞれやからなあ。そうか、昨日ヒロシは十時間くらい熟睡したやろ。それとちがうか?』

「そうかな~。今まで成績が悪かったのは睡眠不足やったってことか?」

 おれは、自宅に帰ってから教科書を開いてみた。宿題があるときは別として、何もない日に自宅で教科書を開くなんてことは今まで一度もなかった。しかし、この日はなぜか次の授業で何を習うのか楽しみになっている自分に気付いた。

「おれ、なんか勉強が好きになっているような気がするわ」

『ええ傾向やないか。もしかしたら阿弥陀ヶ峰高校にも合格できるかも知れへんな。結衣もたぶん阿弥陀ヶ峰に行くはずやし』

「そやけど、おれは今までサボりすぎてたもんな。一、二年の復習からやらんといかんかもな」

『今まで部活に使ってきた時間があるやないか。今の冴えた頭でその時間をぜんぶ勉強に充てたら、クラスで一番にもなれるのとちゃうか?』

「いくらなんでもそこまで求めたらあかんやろ。おれは阿弥陀ヶ峰にギリギリ合格するレベルで十分や」

 この日から、おれは自宅に戻ると自然と予習復習をやるようになり、一、二年の教科書を読み直す余裕さえ生まれた。すると学校の授業がよりわかるようになって、先生の話を真剣に聞くことができるようになっていった。

 苦手だった美術の時間でも石膏像のデッサンが以前とは見違えるほど繊細に描けるようになって、先生から「どこかで習っているのか?」といわれた。

 そして、五月末の中間テストの日を迎えた。おれはなぜかこの日がすごく待ち遠しかった。テストが待ち遠しいなんて、こんな気持ちは生まれて初めてだった。

おれは勉強を涼太に教えてもらったわけではない。涼太は、勉強の合間の休憩時間の単なる気分転換の話し相手だった。勉強の話は一切しなかった。

 この二ヶ月、なぜか勉強が苦にならなかったのだ。理解が深まるとおもしろくなり、その先が知りたくなる。おれの勉強は次第に予習が中心になり、授業で復習するという感覚になっていった。

そして、中間テストの結果がでた。おれは、総合で学年トップの成績を上げた。ほとんどの教科の試験が満点だった。これには担任の先生が一番驚いていた。

 おれは、隣のクラスの結衣が、廊下からおれを見てVサインを出してくれたのがいちばん嬉しかった。

その日の夜、おれはベッドに横になって、この二ヶ月の出来事をじっくり振り返ってみた。

涼太がおれの中に現れてから、おれは人が変わったようになった。自分でも不思議に思う。勉強は苦にならなくなったし、美術も体育の器械体操なども人並み以上にできるようになってきた。

 だんだん、昔の涼太に近づいているみたいや・・・。

 その時、不意に始業式の日の、あの自分の行動に疑問が芽生えた。石川啄木ではないけれど、じっと自分の手を見てみた。

・・・・・・・・・・・・

「涼太。出てこいや」

『お前は高田延彦か。おれはお前の中におるんやから出て来れへんよ』

「涼太、お前・・・、あのときなんかやったのか?」

『なんかって?』

「お前。おれの目で、ものを見ることができるんやったな」

『ああそうや』

「そうしたら、おれの体を動かすこともできるんか?」

『ん? いや、それはちょっと違うんやないか・・・と思う』

 おれは涼太が一瞬口ごもったのを聞き逃さなかった。

「やっぱりそうか。そうやったんか。あれはぜんぶ涼太がやったことやったんか?」

『・・・すまん。そやけど、本当におれがやった・・・というわけではないんや・・・と思うんやけど』

涼太のことばは、ますます煮え切らない。

 そのとき、おれの脳裏には更に色々な疑問が浮かんだ。涼太がおれの体を動かして蓮の指を固めたとしたら、涼太はおれの体を使って力加減ができたということだ。それはつまり、おれが感じている指先の感覚を涼太も感じているということではないだろうか。

 視覚の次は触覚。もしかするとおれが感じ取ることができる五感すべてを涼太は同時に感じ取っているのかも知れない。涼太はおれの指を操って、おれがあたかも自分でやったかのような気にさせたのだ。

そのあと、みんなが見ている前でおれはあいつらに啖呵を切ったのだが・・・。おれがそんなことできる人間だったか?もしかすると、これも涼太がおれの口を借りてやったことではないのだろうか?

『ヒロシ、実はおれもようわかってへんのや。おれがお前の体を借りることができるんやなくて、おれの記憶というか経験というか、そんな物をヒロシが自然に使えるようになったのと違うやろか』

「うそつけ。あの時、おれの心はどこへいっとったんや?」

『おれと一緒やったのはたしかやろう。自分が何をやったのか、ちゃんとヒロシの記憶にあるやないか。イメージを説明するのは難しいけど、なんかおれとヒロシの魂が融合してたみたいなことかな・・・』

「涼太。お前おれの体を乗っ取ろうとしてるのとちがうか?」

『何いうてんねん、ヒロシ。違うって』

「あれからおれは勉強が嫌いではなくなった。なぜか楽しく勉強ができるようになった。デッサンがうまく描けるようになった。器械体操ができるようになった。そんで、中間テストで学年トップになった。そやけど、それは実は本当のおれではなかったのとちがうか?ヒロシやなくて全部涼太がおれの体を使ってやったことなんやろ!」

『ちょっと待て、ヒロシ。よう聞いてくれ。まず、おれにはお前の体を乗っ取ろうみたいな、そんな考えは全然ない。ええか。おれは・・・いわばヒロシの二番目の人格みたいなもんやと思てくれ。そやから涼太やと名乗ってるおれもたぶんヒロシなんや。おれがやったって言うけど、やったのは全部ヒロシなんや』

 ・・・・・・・・・・

 もう何が何やらわからなくなってしまった。

「もう、なんやねん」

 やはり、おれは解離性・・・えーっと、つまり二重人格になってしまったのだろうか。きっとそうだ。死んだはずの涼太の魂がおれの体に入ってくるって、そんなこと常識的にはありえない。きっと、涼太を失った悲しみから、おれが自分で自分の中に涼太という人格を作り出したということなのだろう。

 しかし、二番目の人格が「自分は二番目だ」って本当に言うだろうか?

「涼太。おれにはもう何がなにやらわからんわ。涼太が本当におれの二番目の人格やったら・・・、そうしたらエロ本読もうがマス掻こうが全然気にせんでええことになる。今までよりずっと気が楽になる。そやけど・・・そやけど、ほんまにお前はおれが作り出した人格なんか?」

『・・・・・』

 涼太が黙ってしまった。

「いや、まてよ。涼太がおれのもう一つの人格やったら、そいつに自分が質問しているというこの状況はなんかおかしいのとちがうか?多重人格は、完全に人格が入れ替わるのが特徴やないのか?おれと涼太はいま共存してるやないか。いや、もしかすると涼太と共存してると思っている自分こそが二番目の人格なのかも・・・。ああー、こんなこと考えてると本当に神経がまいってしまうわ」

『ヒロシ、前言撤回するわ。おれはやっぱしお前が知っている幼馴染の涼太やねん。おまえが今考えてたみたいに、解離性同一性障害、つまり二重人格では、この状況はどうしても説明がつかへんわ。申し訳ないけど、知らず知らずのうちにおれがおまえの体を使ってたのかも知れんな』

「もう、どうでもええわ」

『まあそう投げやりになるなよ』

 そう言ってみたものの、涼太もどうしたらいいのか悩んでしまった。しかし、頭の回転が速い涼太らしく、すぐに良い案を思いついた。

『そうや。ヒロシ。いま、この状況を打開するすばらしいアイデアを思いついたぞ。おれが本物の涼太かどうか調べる方法や』

「すばらしいアイデアってなんやねん?」

『おれのことをほかの人に話すんや。それで、おれが本当の涼太かどうかをその第三者に確認してもらう、ということや。どうや?』

「アホか、こんなこと誰も信じてくれへんのに決まってるやないか。そんなことしたら、それこそおれは精神病院の隔離病棟行き確定や」

『相手が結衣でもか?』

「・・・・結衣?」

『結衣はおれ達の共通の幼馴染やないか。結衣はヒロシが知らんおれの秘密をたぶん知ってる。そんなこと絶対知らんはずのお前が、もしそれを言えたらどうなる?絶対信じてくれるはずや。そしたらヒロシもおれがお前の別の人格やなくて、本当の涼太やと信じることができるのとちゃうか?』

「まあ・・・、確かにそうやな」


                    *


 土曜日の朝、おれは大胆にも町内にある三島神社の境内に結衣を呼び出した。

 秋になると盛大なお祭りが催されるこの神社は、木花咲耶姫命このはなさくやひめのみことを祭っている由緒ある神社なのだが、その謂れは・・・あまりよく知らない。

 ここは来る人が少ないし、こっそり誰かと話をするにはうってつけだと思う。その反面、誰でもいつでも入って来られるところだから、隠れてコソコソ何かをやっている、と言われるほどの、いかがわしい場所でもない。

 おれが早めに行って本殿前の石段の中腹に座って待っていると、近所の山田さんのところのキク婆さんがお参りを終えたのか、石段を下りて来た。

「あ、お早うございます」

 おれは立ち上がって挨拶した。おれは町内では礼儀正しいことで通っている「いい子」なのだ。

「おはようさん。ヒロシちゃんも神だのみすることがあるんかいな?」

「ええ、まあ、そんなもんです」

 適当に受け答えしていると結衣がやってきて、キク婆さんに挨拶しておれのとなりに腰を下ろした。ミニスカートに赤いトレーナーが、最近カットしたボーイッシュなショートヘアーによく似合っている。キク婆さんは、こちらをちら見してニヤニヤしながら帰っていった。

「それで?ヒロシくん、どうしたん?」

「いや、ちょっと相談というか・・・なんちゅうか」

「また蓮たちに脅されてんの?あいつらしつこいんやから、私が中村先生に・・」

「い、いや、ちょっと待って。そうやないんや」

「・・・・・?」

「今日は結衣ちゃんにお願いがあって、来てもろうたんや」

「お願い?」

「えーと、突然変なお願いをして頭おかしいんとちゃうか、と思われるかもしれへんのやけど・・・、何も言わんとおれの話を聞いてくれへんかな。たのむわ、このとおり」

 おれは、結衣に手を合わせた。

「わたしは神さんとちがいます。・・・なんやこわいなあ・・・まあ、ええわ。話してみて」

 結衣はにっこり笑ってくれた。少しほっとした。

「ありがとう。そしたら・・・、結衣ちゃんへのお願いです。実は・・・涼太のことなんやけど」

「涼太君?」

 結衣も心の傷が多少癒えたのだろう。以前のように俯いてしまうことはなかった。しかし、怪訝な顔をしておれを見つめている。

「そうなんや。結衣ちゃんの涼太との思い出のなかで、おれが絶対に知らんやろうと思うことをおれに質問してくれへんやろか。何でもええから。そしたら、おれがそれに答えるから」

「何やの?それ。どういうこと?手品でもやる気?」

「何も言わんと・・・なっ?」

 おれは、結衣に再び手を合わせた。

「うん。・・・ようわからんけど。まあ、ええわ。そしたら・・・、こんなんでええのかな。うちら三人が丸山幼稚園に通ってた頃のことやけど。わたしが西大谷本廟の池に、あるものを落として困っていた時に、涼太君が木の枝を使って拾ってくれたことがあります。それが何かわかる?そのときヒロシ君はたしか風邪ひいて休んでたし、ぜったい知らんはずや。知らんやろ?」

 涼太はすぐに、ピンクのハンカチと答えた。

「ピンクのハンカチ」

「あっ、そう。ふ~ん。涼太君からきいてたん?」

「もう一問」

「う~ん、そしたら、これは絶対涼太君もヒロシ君には話してへんと思う。わたしのちょっと恥ずかしい話やから。涼太君やったら絶対黙ってくれてるはずやし」

おれが知らない涼太との秘密?そんなことあるんか?結衣の恥ずかしい話?おれはドキドキしてしまった。

「そやけど、こんな恥ずかしい話、なんでわたしがヒロシ君にせなあかんの?」

「そんなこと言わんと、頼むから」

 ここで終わってしまったら元も子もない。おれは、また手を合わせた。

「手を合わせんといてって。もう・・・、しゃあないなあ」

そう言って、結衣は話し出した。

「小学校四年の時やったかな。わたしは「い組」の山本剛君のことが好きやったんやけど、その気持ちを自分からよう言われへんかったんよ。そのとき涼太君にラブレターの橋渡しを頼んだのやけど・・・。ヒロシくん聞いてる?」

「へえ~、そんなことあったんか、初めて聞いた」

 おれはなぜか、ちょっとムスッとしてしまった。

「初めて聞いたのにわかるはずないと思うけど、その時のラブレターの封筒の色は何色だったでしょう」

 涼太はすぐに、水色で封のところにピンクのハートのシールが貼ってあったと答えた。

「水色で封のところにピンクのハートのシールが貼ってあった」

「ええ?・・・・なんで知ってるの?初めて聞いたって、いま言うたとこやん?」

「ごめん。何にも聞かへん、ということで・・・もう一問」

「ええ~、どうしよう。そしたら、涼太君やったら絶対に黙ってくれてるはずのことやけど・・・」

 そんなにおれに内緒の想い出があるんや・・・おれは本当に嫉妬してきた。

「これは小学校六年の時のことやけど・・・。ああ、やっぱり恥ずかしいからやめとくわ」

「そんなん言わんとってや。これはすごい大事なことなんや。後でちゃんと訳を話すから、なっ、お願い」

「そしたら・・・。学校から帰るとき突風が吹いて、私のスカートがまくれ上がって・・・。その時ちょうど涼太君がわたしの後ろを歩いてたんや。・・・たぶん見られた」

 涼太は、『ああ見た。白いパンツのお尻にクマのぷーさんのイラストがあった。ずっと黙ってたのに・・・こんなんヒロシに伝えてええんか?』と言った。今度は涼太がおれに嫉妬してる。

「白いパンツのお尻にクマのぷーさんのイラストやろ」

おれは、結衣が恥ずかしいと思わないように、できるだけぶっきらぼうに答えた。

「そんなアホな・・・」

 それから三問、続けざまに出してもらったがすべて当たっていた。おれは涼太と結衣の間におれの知らない色々なことがあったことに嫉妬心が沸いた。やはり涼太はおれの中にいるのだろうか。結衣も何かおかしいと感じ始めている。

 そろそろ本題に入るとするか。

「びっくりせんといてな、結衣ちゃん。実はな・・・、涼太がおれの中に居よるねん」

おれは自分のこめかみを人差し指でチョンチョンと指差しながら、まじめな顔をして言った。

「えっ、なに言うてんの?」

「ちょっと前から、涼太がおれの頭の中にいて、おれは頭の中の涼太と会話することができるんや。今、結衣ちゃんからもらった質問の回答は、おれの中にいる涼太が全部答えた。おれはそのとおり口に出しただけなんや」

「・・・・・」

 結衣はぽかーんとしている。

「涼太が死んでから、しばらくおれが登校拒否してたことあったやろ?その時初めて涼太がおれの頭の中に出て来よったんや」

「そやけど、その・・・」

「ごめん。アホみたいなこと言うてると思うやろ。そら誰でもそう思うわな、こんな話をして。そやけど、もうちょっとだけ聞いてくれへんかな。そしたらもう帰ってくれてええし、おれとは今後一生口をきかんでもええし、なっ?」

 四度目の合掌をしながら、真剣な顔でこんな言い方をしたものだから、結衣はすごく緊張している様子だった。

 結衣ちゃんごめん。おれは心の中で謝った。

 それからおれは、はじめて涼太とコンタクトしたときから、いままでのことを細大漏らさず結衣に話して聞かせたた。

・・・・・・・・・・・・

「そやから、今日結衣ちゃんに来てもらったのは、おれの中にいる涼太が本当の涼太なのか、それとも精神に異常を来たしたおれが自分で作り出した新たな人格なのか、つまりおれがその、解離性・・・えーっと、なんやったっけ、その「二重人格」なのかどうかを確認したかったからなんや。わかってくれるかな。実は、結衣ちゃんに質問してもらうことを提案したのは涼太なんや」

結衣はしばらく黙っていたあと、重そうな口を開いた。

「なんとなくヒロシ君の説明の真剣さは伝わってくるけど・・・そやけど、こんな訳のわからない話、信じろって言われてもすぐ信じられるわけないやん」

「・・・・・」

 やっぱり信じてもらえなかった。やっぱりおれはどこかおかしいのだ、絶対に。これで今後一生口をきくことも無くなるのかと思いつつ結衣に謝ろうとしたそのとき、結衣が先に口を開いた。

「そやけど、ヒロシ君がこんなあほらしい嘘をわたしについてもしょうがないもんね。そんな理由は見つからへんし、別に頭がおかしくなってるわけでもなさそうやし。そしたら・・・、もうちょっとわたしから質問してもええかな?」

「うん、何でも聞いて」

 嬉しかった。結衣ちゃんがおれだからということで半分くらいは信じてくれたのだ。そして、結衣は急に真剣な顔つきになった。

「ヒロシ君やなくて、わたしは涼太君に直接聞きたいねん」

 ぬか喜びだったと分かり、おれは半分がっくりきた。

「あのとき、なんで来てくれへんかったん?」

 結衣の目に涙が浮かんだ。

「ごめん、おれはヒロシとの友情を踏みにじるわけにはいかんかったんや」

「え~、なんや、なんや。今のは、おれが喋ったのとちがうぞ。涼太か?お前勝手におれの体を使うなって言うたやろ。それに・・・あの時って? おれとの友情っていったいなんやねん」

「ヒロシ、ごめん。おれ、やっぱしヒロシの体を使えるみたいやわ。もうちょっとだけ体貸してもらうで」

 もうおれの出番はなかった。

「結衣ちゃん、死んでから言うのも何やけど、おれは本当は結衣ちゃんのことが好きやったんや。あの時、もし待ち合わせ場所に行ってたら、結衣ちゃんがおれのことを好きやって告白してくれるやろうことはわかってたし、おれも結衣ちゃんにおれも好きやって告白してたと思う。そやけど、ヒロシが結衣ちゃんのことを好きやちゅうことも良うわかってたし・・・。おれが結衣ちゃんと仲良くなることは、おれがヒロシとの友情を捨てるということになると思ったんや。ごめん、結衣ちゃん。おれはヒロシとの友情のほうを選んでしもうたんや」

「・・・涼太君」

「涼太、おれはそんな心のせまい男やないぞ。そら、おれなんかより涼太の方が頭はええし、スポーツ万能やし、身長も高いしルックスばっちりやないか。いずれはおれが結衣ちゃんのことを諦めんといかん日が来ることは、正直わかってた。出来るだけ考えんようにしてたんや。誰がどう考えたかて、そうなるのはあたりまえやないか」

 おれは涙を流していた。おれの涙か涼太の涙かわからなかったけど、おれは泣いていた。そして結衣ちゃんも泣いていた。

「涼太君、なんでわたしの体に入ってきてくれへんかったん?」

 その結衣のひと言におれは猛然と反論した。

「あかん、あかん。結衣ちゃん。こいつはおれの中にいておれの生活すべてを見とるんやぞ。プライバシーなんかあったもんやないわ。もし結衣ちゃんの中に入ったら・・・」

 おれはイヤラシイことを想像してしまいことばに詰まった。結衣もそれに気づいたようだった。

「ヒロシ君のあほ」


                    *


 それから、三人(・・)でのつき合いが始まった。

 金曜日の放課後、おれは結衣と待ち合わせて一緒に下校した。歩きながら話をするのが一番話しやすかった。結衣の目を見ながら話すのは、ドキドキする。

 一方、結衣のほうはというと、涼太が一緒にいるということからか、二人っきりではなくて、昔の幼馴染三人で学校帰りに話しているという感覚なのだろう。小学校の頃のようにおれに対して何の気兼ねも感じられない。

「なあ、結衣ちゃん。最近おれの成績が良うなってきたのは、やっぱり涼太のおかげやと思うか?」

「そやな~、そうかも。・・・けど、ヒロシ君の脳みそが働いてるのは確かなんやろ?」

「そらそうや。涼太の体はあらへんのやし・・・。いや本当にそうなんかな?」

「涼太君のもの覚えの良さが出てるのかもしれへんけど、実際に知識が蓄えられてるのはヒロシ君の脳みそやもんね」

「たしかに。ああ、そうや。このまえの体育の授業で鉄棒をやらされたんやけどな。おれ、「蹴あがり」が初めてできたんや。絶対に一生でけへんと思ってたのに。実際できてみるとそんなに力もいらんし、難しいことも無いていうことがわかったんや。これまで、でけへんのは自分の筋力、体力不足が原因やと思てたんやけど、そうやなくて単に腰を曲げるタイミングの取り方がわからへんかっただけやったんや。もう、目から鱗やな」

「涼太君が体で教えてくれた、ということやね。私もそんな家庭教師が欲しいわ」

「涼太に教えてもろたらええやん。つまりは、おれが教えることになるけどな」

「ヒロシ君に教えてもらうの?いくらクラスで一番や言うても、それこそ頭がおかしくなったんとちゃうかってみんなに笑われるわ」

「そこまで言わんでもええやろ」

 このとき、おれ達の会話の中に涼太はいない。おれの心の奥底で昼寝でもしているはずだった。それは三人で考えたルールだった。結衣は、おれのプライバシーがなくなることについて涼太に「問題ありや」と言ってくれた。本当は、結衣がおれの顔を見ながら涼太と話をするのが気まずいだけかも知れないのだが。だから涼太はおれ達が呼び出さない限り、たとえ涼太の話をしていても出てこない、ということにしたのだ。

「涼太君はご両親に会いたいと思わへんのやろか」

「うん、おれもいっぺん涼太に聞いたことがあるわ」

「なんて?」

「大人は結衣ちゃんみたいに信じてくれへん、って言うてた。話した後で、もし信じてもらえへんかったら両親を悲しませるだけやって。それにおれの立場もなくなるやろって」

「それで、ご両親の顔も見られなくてもいいって?」

「そんなことあらへん。そこはおれもちゃんと考えてるんやで」

「どんなこと?」

「あれからおれは、月一回は涼太の家に行くことにしてるんや。第一土曜日を月命日ということにして仏壇にお参りさせてもらってる。ご両親はおれが行くと、なんや涼太に会っているような気がするって言うてくれはる。おれさえ嫌やなかったらいつでも来てくれって言われてるんや」

「へえ~、そうやったん」

「お邪魔するときにはもちろん涼太が表に出てきてるんやけど・・・、直接話がでけへんのはかわいそうやな」

「第一土曜日って、明日がそうやないの」

「どう?結衣ちゃんも一緒に行ってみる?」


                    *


「こんにちわ、山口です」

 玄関で来訪を告げると、いつものようにお母さんが出てきた。

「いらっしゃいヒロシ君。あら、きょうは結衣ちゃんも一緒に来てくれはったんや」

「ヒロシ君から話を聞いたんです。お邪魔やなかったら、わたしにも仏壇にお線香あげさせてもらえますか?」

「もちろん、お参りしてやってくれる。今日はにぎやかでええわ。さあ、どうぞあがって。おとうさ~ん」

 お母さんはいつもより嬉しそうに奥へ入って行った。

「涼太、いつもどおりでたのむ。でしゃばったらあかんぞ」

『わかってるって』

 仏壇に向かって線香を上げるとき、涼太はいつも、こんなことをしても死んだ人には関係無いという。だけど、こういう宗教上の礼式というか、そういうものがあるからこそ故人を忘れずにいられるのではないかとおれは思う。おれと涼太みたいなパターンって、ほかにもあるのだろうか?まあ、涼太にきいてもどうせ『わからん』っていわれるだけだと思うが。

 結衣は仏壇の前で長く手を合わせていた。それからみんなリビングにもどって、お父さんも入って四人でテーブルを囲んだ。

「結衣ちゃん、私らはもう悲しみを乗り越えたし、ぜんぜん気を遣わんでもええのよ。涼太の昔話なんか聞かせてくれたら嬉しいわ」

 お母さんが結衣に気を遣っているのがわかる。いつもは無口なお父さんも結衣に対し口を開いた。

「ヒロシ君がうちに来てくれるようになってね、なんとなくヒロシ君と涼太が重なるというのか、涼太と話してるような気分になるんです。なんか不思議やね。結衣ちゃんもヒロシ君と同じ涼太の幼馴染やから、なんか私たちに子供が増えたような・・・。あっ、いや、これは申し訳ありません」

「いえ、私たちを涼太君のお父さんお母さんが、自分の子供みたいだと思っていただけるのでしたら、私たちも嬉しいです。ねえヒロシ君」

「ぼくも、そういうお付き合いをこれからもさせていただきたいと思っています」

 お父さんがぼく達に向かって頷いていると、今度はお母さんが結衣に向かって嬉しそうに話しだした。

「結衣ちゃん。ヒロシ君って優しいよね。先月なんか私が涼太の小さい頃の話をしていたら、私と一緒に涙を流してくれたんよ」

「いや、あれはその涼太が・・・」

 泣いてたのは涼太なんや。結衣ちゃんわかるかな。

「あっ、ヒロシ君ごめんなさいね。結衣ちゃんの前でこんな話して」

「いえ、別に・・・大丈夫です」

「私もヒロシ君は優しいと思います。この前も二人で涼太君の想い出話をしてたら、なんか二人で泣いてしまいました」

「おいおい、あれは・・・」

 おい、結衣までおれをからかうんかい。あの時も泣いてたのは涼太やぞ。

「ヒロシ君は意外と涙もろいのやね」

 その夜は、涼太の家で晩御飯をご馳走になった。幼稚園から中学まで、涼太のことは何でも知っていると思っていたけれど、結衣が加わったことでおれの知らない話がいっぱい出てきた。おれの中の涼太が、あの時はどうだったとか話し出すのを抑えるのが大変だった。涼太から先に話を聞いてしまうから、本当はみんな驚かないといけない内容が新鮮ではないので、「ヒロシ君、この話知ってたの?」と言われる羽目に。「実は、涼太から聞いたことがあります」と言わないとしょうがない。

「へ~、涼太はこんな話までしてたんや。本当にヒロシ君は涼太と仲良しやったんやね」

 そういうことになってしまった。


                    *


 おれの体の中に涼太とおれの心がふたつ存在している。

 この異常な関係を修復するために、おれの体がふたつの心を融合させようとしているのだろうか?近ごろ、なんとなく涼太の心がおれの中で融け広がっていくような、そんな感覚がおれを支配していた。いや、もしかするとおれの心も融けだしているのかもしれない。

 そして、その感覚がいくつかの現象として現れてきたのだ。

 不思議なことに、もう成長が止まったと思っていたおれの身長が、この半年でなんと三センチほど伸びた。久しぶりに成長痛を経験した。一六五センチが一六八センチになっただけのことなのに、なんとなく身長コンプレックスが消えていった。これだけのことであれば、普通にある話なのだが、それはおれの運動能力や、勉強の成績にも現れてきたのだ。

 百メートル走、走り高跳び、走り幅跳び、ソフトボールの投擲距離などの記録測定があったのだが、前回に比べるとクラスでおれだけが全ての記録を異常に伸ばしていた。

夏休みの予備校主催の全国中学生試験で、おれは総合成績が京都で第三位、全国でも第一五位になった。もちろん洛央中学の中ではTOPだった。これには担任の先生がまたまた驚いていた。そんなことも手伝ってか、蓮、颯太、大輝のアホ三人トリオもおれを避けるようになっていった。

「涼太。やっぱりこれはおまえの力や。おまえはこんな楽に運動とか勉強をしてたんか?」

『いや、そんなことあらへん。これはおまえの実力や。今のヒロシはもう昔のおれを超えてるわ』

「うそつけ、おれはいままで、サッカーのリフティングを十回以上できたことが無かったんや。それがこの前の体育の時間にやったら百回以上できたわ。あれこそ涼太の実力やないか?」

『そやけど、それをやってるのはヒロシの体やないか』

「まあ、確かに」

『たぶんおれの記憶の中にある「コツ」みたいなもんをヒロシが使えるようになったのとちがうか?勉強もそうやぞ。おれは勉強を始める前に効率よく楽しく勉強するにはどうしたらええか、ということを考えてからいつも始めてた。おれはそればっかし考えてたから、その手法をヒロシも使えるようになった。そういうことやろ』

 考えてみると、涼太との長い会話はひさしぶりだった。

『そうやな、久しぶりやな』

「なんか体も頭も涼太に似てきたからかな。涼太にたよる場面が減ってきたのかもな」

『ヒロシ。おまえ女の子にモテるようになったやないか』

「そら、教室ではおれに勉強を教えてくれって来る子がまあいるけど。顔が涼太に似てきたわけやないんやけどな。あれがモテるっていうことなんやろか?あんな目で見つめられたら・・・おれはどうしたらええんやろ、教えてくれや涼太」

『あほか、お前そんなにウブやないやろうが』

「へへ、まあな」

『そやけどヒロシ。結衣のことをほったらかしにしたらあかんぞ。これはおれの遺言や』

「もう、死んでしもうてから遺言はないやろ」

『そやな。そやけど・・・この頃なんかおれの存在意義がなくなってきたような気がするんや』

 急に涼太の声が沈んだものになった。

「なに言うてんねん」

『このごろお前の心の奥底でじっとしてるとな、そのまま周りの闇に吸い込まれて行くような気がするんやわ』

「・・・・・」

 こんなに暗い涼太の声を聴くのは初めてだった。

『今になって思うんやけど、ヒロシ。おれは・・・ヒロシがおれを求めてくれたからヒロシの中に現れたような気がするんや』

「いまさら何言うてんの。やっぱしおれの二番目の人格やったとでも言うんか?」

『それに近い状況かもしれへんな。解離性同一性障害、即ち多重人格の治療と言うのは、人格一人ひとりの存在意義を無くしていくことでその人格が二度と現れないようにするんや。おれは・・・おれのすべてをヒロシが引き継いでいってくれてるのは嬉しいけど、それは即ちおれの存在意義が希薄になっていってるってことやろ?』

「涼太。変なこと言うなよ。涼太がおれの中に現れたんは、何かほかの理由があるはずや、絶対に。いや、理由なんか特に無かっても別にええやないか。元々おれ達人間は、理由があってこの世に生まれてきたのやないからな」

『いいや、ヒロシ。人間はな、自分たちの子孫を残すという使命をもってこの世に生まれてきたんやとおれは思う。これは多分正しいで。そやから年とって生殖機能が無くなったら死んでいくんや。ほかのどんな動物見てもそうなってるやろ。おれもヒロシにおれの遺伝情報の一部を引き継ぐためにヒロシの中に登場したのかも知れんということや』

「ハハハ、そしたらおれは涼太の子供なんか?」

「・・・・・」

 涼太は笑わなかった。本当に自分の使命を終えようとしているのだろうか?

「涼太。まだまだおれと一緒にいてくれよ。そうでなかったら・・・」

『ヒロシ、阿弥陀ヶ峰高校の入試はもうすぐやけど、結衣は大丈夫かな』

 涼太は、わざと話題を結衣の話に変えた。

「この数カ月、涼太の家の離れを貸してもらって一緒に勉強してきたからわかるけど、まあ大丈夫やと思うわ。あいつも意外と負けず嫌いやしな」

『そうか・・・・洛央中卒業まであと一ヶ月やしな。答辞はもう書いたんか?』

「いや、これからや」

『忙しかったら無理におれを呼び出さんでもええしな。入試直前まで結衣の勉強をちゃんと見てやれよ。何があるかわからんからな。一緒に阿弥陀ヶ峰に入って、それからもずっと一緒にいてやってくれよな。・・・できたら・・・一生』

「やめろや。なんや本当の遺言みたいやないか」                

『ヒロシ、ひとつだけ約束してもらいたいんや』

「なんや?」

『卒業式が終わって下校するとき、結衣と三人で話がしたいんや』

「なに言うてんねん。そんなん明日でも・・・」

『いや、卒業式の日でええんや。それまでおれは結衣には会わへんから。そしたらたのむで』

 涼太は勝手に引っ込んでしまった。

 涼太のことばは、おれの心にドスンと大きな重石を残していった。                                                                                   *


 阿弥陀ヶ峰高校の入試が終わった。あとは結果を待つだけなのだが、結果が発表される前に洛央中の卒業式の日がきた。

 私立を受験した連中は、もう結果が出て進路が確定しているのでのんびりしている。一方、おれとか結衣のように公立高校を志望して受験した生徒は、まだ結果が出ていないという不安がある。スベリ止めで私立に合格して入学金まで納めたやつらはいいとして、そうでない公立一本のおれ達は、もしも落ちていたら三月の後半の期間にわずかに門戸を開けている私立の二次募集に賭けなければならない。大変なのだ。

 体育館には二年生が先に入って卒業生の入場を待っている。父兄も朝早くから場所取りして、デジカメやビデオカメラをスタンバイして、おれ達の入場を今や遅しと待っている。

後輩や父兄の拍手の中、おれ達三年生二百三十名が入場する。行進しているとき、涼太のご両親が遺影を抱いておれ達を迎えてくれているのが見えた。

 開式の言葉に続き、君が代斉唱、卒業証書授与、校長式辞、PTA会長の祝辞、来賓の祝辞が終わり、在校生代表である二年生の生徒会長がおれたちに送辞を述べてくれた。さあ、最後のクライマックス。次はおれの番だ。司会の教頭先生がおれの名を呼ぶ。

「答辞。卒業生代表 山口ヒロシ」

「はい」

 涼太も緊張することがあるのだろうか。何度かリハーサルをしたのだが、舞台上手の下のスタンドマイクがあるところに歩いて行くだけですごく緊張する。

『おれは緊張してへんぞ』

「涼太、なんかあったら助けてくれよ」

『落ち着いて、がんばれ』

 おれはマイクの前に立って、折りたたんだ答辞の和紙を広げ静かに読み始めた。

・・・・・・・・・・・・・・・・

 答辞。長い冬がようやく終わり、まさに春の息吹がそこここに感じられるようになって参りました。そして、私たち卒業生二百三十名は、本日この京都市立洛央中学校を卒業する日を迎えることができました。

 振り返ってみると、あっという間の三年間であったという思いがある一方、そのあっという間の中にたくさんの想い出が密度高く詰まった、私たちの人生の中でも最も貴重な三年間であったという気がします。

 そして・・・・・・

・・・先生方の御恩を、私たちは一生忘れないでしょう。

 そして、私たちの三年間の中学生活を陰で支えてくれたのが、家族の存在です。わたしたちは、この多感な思春期の中にあって、本意ならずも家族に対し反抗的な態度に出ることもありました。そんな私たちを温かく包んでくれた家族に対し、ここで改めて卒業生を代表して感謝の意を表したいと思います。ありがとうございました。

 最後にもう一つ、この中学生活の中で私たちはかけがえのない貴重な宝物を得ることができました。それは友です。一緒に学び、一緒に体を鍛え、一緒に遊んだ友達。一緒に笑い、一緒に泣き、一緒に悩みを語りあった友達。他校へ転校していった友達。他校から転校してきた友達。そして、図らずも私たちより先に人生を全うした友達。

 友達みんなが宝物です。私たちのこれからの人生の中で一生の友人として互いを認め合う存在、どこかで歩む道を違えるかもしれないけれど、いつも心が通じ合う存在、この中学三年間の想い出は、いずれセピア色になるかもしれないけれど、その中でいつまでも変わらず輝き続ける存在。この三年間にできた友達みんなが、私たちのこれからの人生をきっと豊かにしてくれるはずです。ひとりでも一生の友達を作ることができたのなら、この三年間は素晴らしい中学生活だったと胸を張りましょう。そしてこの洛央中学校に学べたことに感謝し、人生の次のステージへ大きく羽ばたこうではありませんか。

 二〇一三年三月一五日、卒業生代表、三年C組 山口ヒロシ。

・・・・・・・・・・・・・

 ジワっと拍手が沸き起こり、体育館全体が拍手と感動の涙で満たされていった。おれはその拍手の中を自分の席に戻った。ちらっと涼太の両親を見やると二人ともハンカチで目頭を押さえていた。

『おれのこともちらっと触れてくれてありがとうな。おやじもおふくろも喜んでくれてるわ』

「当然やないか。ここでお前のことに一言も触れへんかったら、卒業生の女子全員を敵に回すことになるやないか」

 式のあと、みんな一旦教室に戻って担任の先生とのお別れ会があった。そしてそのあと、みんな卒業証書をもって校庭に集まった。校舎の屋上から、二百三十名全員を一枚の写真に収める最後の集合写真撮影だ。いつの間にか、みんながおれの周りに集まってきた。

「みんな、ヒロシを胴上げするぞ、集まれ~」

 蓮だった。最近は蓮も真面目な生徒になっていた。颯太、大輝はやっぱり子分の立場は変わっていないようで、いつも蓮について歩いているが、今回は自主的に生徒を集めようとしてくれていた。一回、二回、三回、おれは宙に浮いた。その間に集合写真が撮影された。嬉しいやら恥ずかしいやら。

 そして、そのあとは互いに挨拶をしてそのまま流れ解散となった。校門近くでは卒業式に来ていた父兄が子供と一緒に帰ろうとそのまま待っている人もいれば、下級生の女子がいくつかの集団を作って集まっていた。

「山口先輩、これ読んでください」

 おれが校門を出ようとしたとき、二年生の女子が急に現れて、小さなピンクの封筒を差し出した。なかなか可愛い。

「ありがとう。君も勉強頑張ってね」

「はい。あの~、第二ボタンいただきたいんですけど」

 親父からこんな状況の話を自慢げに聞いたことがある。三十年ほど前にあったこんな風習が未だに残っていたのだろうか。しかし、どっちかというとA型に近いO型のおれは、ボタンがひとつ欠けている制服を(もう二度と着ることが無いはずなのに)着て自宅に帰ることになぜか罪悪感があった。

「あの、ごねん。これはちょっと・・・」

「あっ、いえ、いいんです。高校生活も頑張ってください」

 恥ずかしそうにその子はそう言ったあと、なんとなく寂しそうに走り去っていった。

『ヒロシ、お前あほちゃうか。ボタンくらいくれてやったらええのに。なんかあの子がかわいそうやったわ』

「そやな、可愛い子やったのにな。ああ、なんでこんなことになるのやろ。大反省や」

 おれはもらった手紙をぞんざいにズボンのポケットに突っこんで校門を出た。結衣との待ち合わせの三島神社に向かう。

「なあ、涼太。今日の話は・・・・」

『結衣と会ってから話すから』

 それは、有無を言わせない強い口調だった。


                    *


 結衣は、以前おれがそうしていたように、三島神社の本殿前の石段に座って待っていた。紺の制服のプリーツスカートと一緒に膝を抱えている。

「ごめん、ごめん。待った?」

 おれは結衣の隣に腰を下ろした。

「いいよ。それで彼女どうしたの?」

「彼女って?」

「なんでボタンあげへんかったの?かわいそうに」

「ああ、あの子。なんや、結衣ちゃん見てたんか。・・・そやな。なんか、かわいそうなことしてしもたわ。涼太にも叱られたし」

「ヒロシ君って、涼太君みたいに頭は良くなったけど、やっぱり女心がわからへんのやね」

 そうか、おれはやっぱり偏った成長をしているのだろうか。

「そんなこと言われても・・・、ええやないか。別にそんなん・・・」

「ふ~ん。それで。涼太君いる?長いこと話してへんのやけど。今日はどうしたん?やっと私と話す気になった?」

 結衣は急に涼太に話を振った。近ごろ話ができなかった涼太に、多少腹を立てているようだ。

「ヒロシごめん、ちょっと話させてもらうわ」

 涼太はおれを後ろに追いやって自分で話し出した。

「結衣ちゃん。これにはわけがあるんや。聞いてくれるかな?」

「もちろん」

「あのな・・・、実は、おれ、いつまでもこの状態を続けることがでけへん、ということがわかったんや」

「この状態って、なんのことやの?」

「うん。おれはいつまでもヒロシの体の中におられへん、ということや」

「それって・・・」

「おれもほかの死んだ人たちと同じように、どっかに行かんとあかんのやないかと思ってるんや」

結衣の顔が急に真剣になった。

「どういうことなん?ちゃんと説明してくれへんかったらわからへんわ」

それから、涼太は先月おれに語った内容を、そのまま結衣に話して聞かせた。そして、おれも聞いていなかった次のひと言を付け加えた。

「というわけで、今日で二人とはお別れなんや」

「ええっ、ちょっと待ってくれや涼太。おれはそこまで聞いてへんぞ」

「あれっ、そうか。ヒロシにはそれなりの表現で匂わせてたんやけどな。やっぱりヒロシは昔のヒロシと同じでちょっと鈍感なんやな。ハハハ。なんか嬉しい気がするわ」

「アホ、なに言うてんねん」

 周りに人がいなくてよかった。結衣の横で喋っているおれは、一人二役、下手くそな落語をやっているようなものだった。

「ヒロシ君。ややこしいから、どいててくれる?ここからは私が涼太君と話すから」

 結衣からすれば確かにややこしいことになっている。結衣が直接涼太と話すほうがまわりから見た目も普通なのだ。

「いつお別れするか、ということは自分で決められるんやないの?」

「いや。どうやらそうもいかんようなんや。何とか今日までおれはヒロシの中に存在し続けてきたけど、ここ数ヶ月はすごく大変やったんやから」

「・・・・・」

「このごろ、おれはヒロシの心の底にいるときに周りの闇に吸い込まれそうになるんや。一ヶ月ほど前のことなんやけど、その力に自分を任せたらどうなるかと思って・・・、なんて言うたらええのか、ようわからんのやけど。まあ、いわば体の力を抜いてみたんや」

「そうしたら?」

「その闇に、体を半分を持って行かれた」

「涼太君は、ヒロシ君の・・・心の中に体があるの?」

「いや、難しいな。おれは、おれの体を意識してヒロシの心の中におるんや。おれが自分の体を意識している、そのこと自体がおれの存在の証なんや。わかるかな」

「我思うゆえに我あり、っていうやつ?」

「そうや。そやけど、その闇はおれがイメージしているおれの下半身を持って行きよった。そのあと、おれがどんなに意識してもおれの下半身は戻って来んのや」

「そしたら今喋ってる涼太君は上半身だけなん?」

「まあ、そうや。そやけど結衣ちゃん。これがなにを意味しているかわかるか?」

「・・・・・」

「おれが意識しているおれの体は、おれが作ったものやないということなんや。わかるかな?」

「なんか難しいけど、それでも今ちゃんと話できてるやん。何の問題も無いやないの」

「そうや。そやけどな、結衣ちゃん。よーく考えてくれるか?もしおれが意識してるおれの体のすべてが持っていかれたらどうなる?意識している主体であるおれの頭が、いや心が闇の中に連れ去られたら」

「・・・・・」

「たぶんそのまま消え去っていくのやないかな。その闇の吸引力はだんだん強くなってきてるし・・・、そやから卒業式というキリの良い日を選んで二人にお別れしようと思うたってわけや」

「涼太君・・・・」

「おれは、あの試合で事故死したんや。いまさらあの世に行くことは全然怖いこともなんともない。結衣ちゃん、なんかおれはこの闇の中に入っていくことで、なんて言うたらええのかわからんのやけど、地球上の自然のエネルギーの一部として空気中に拡散して行くような気がするんや。人間も自然の一部。自然に生まれて自然に還る、そういうことかな」

「それがあの世ということ?」

「たぶんな。ヒロシの心の中でおれという存在を維持してきた、ごくわずかなエネルギーが、ヒロシの体に吸収されて、ヒロシの体から熱エネルギーとして汗と一緒に放出されて、ヒロシの体の周りの空気を暖めて、それが空気中に拡散して地球上の自然エネルギーの一部になるんやと思う」

 結衣もおれも、いや、涼太も目に涙を溜めている。

「ねえ、涼太君はどうしてヒロシ君の中に現れることができたんやろ」

「それは多分、ヒロシがおれのことを本当に親友やと思っててくれたからやないかな。おれはいま、自分はやっぱりヒロシの想像で作られたもののような気がしてるんや。身内を亡くした人はしばらくその人のことを思い出すやろ。その度におれみたいにその人の心の中に亡くなった人が現れてるんやないやろか。そやけど、それを受け取る人がヒロシみたいに強い思いを持ってたら、死んだ人が自分の中に蘇ったような気がするんやないやろうか。いや、新たな人格を作ってでもよみがえらせようとするのかもしれん。そやけど、ヒロシとおれが同じ心の中に同居しているという状態はヒロシにとって、というか人間にとっては異常なものなんや。ヒロシの心はなんとも思ってへんでも、ヒロシの体が、深層心理がこの異常状態を解消するために、いまになっておれの存在を取り消そうとしているんやないやろうか」

「そやけど、ヒロシ君はわたしと涼太君しか知らんことを全部知ってたやないの。涼太君はヒロシくんが想像で作ったものやないよ。ぜったいに」

「そうやな。それはうまく説明でけへん。そやけど、ヒロシはもうおれの存在については、自分で作ったものと感じ始めてる。ヒロシは「そうは思ってへん」て、口では言うやろうけど、ヒロシの深層心理で出た結論はもうそろそろヒロシの意識に上がって来ているはずなんや」

「ねえ、そしたらいまわたしはヒロシ君と話しているって言うの?」

「難しいところやな。なあヒロシ」

「おれは、今の涼太の話を聞いてて、なんか、そうなのかもしれんって、思った」

「ヒロシ君」

「涼太の説明はすごく理路整然としてる。おれが涼太をおれの心から排除しようとしてるのやと言われたら、そうなんかもって思う。そやけど・・・」

「・・・・・」

 結衣も黙ってしまった。

「さて、なんとなく結論が出たな。最後にヒロシ。お前はもう、おれがおらんでも十分に一人でこれからの人生を生き抜いて行ける。成績が良くなったのも、運動ができるようになったのも全部お前が自分でやったことなんやからな。自信をもてよ。

それから、結衣ちゃん。ヒロシであるこのおれが自分でいうのも何やけど、おれが死んでから、ヒロシと結衣ちゃんはたった二人の幼馴染や。ほんで、おれが結衣ちゃんを好きやったみたいにヒロシも結衣ちゃんのことがずっと好きやったんや。第二ボタンもヒロシは結衣ちゃんのために残したんや。わかってやってくれるかな・・・」

「・・・・・」

「さて、おれもそろそろ張りつめてた力を抜いて、ゆっくりさせてもらうことにするわ。ほんなら二人とも元気でな。ヒロシ。死ぬまでちゃんと生きろよ」

「涼太・・・・・」

「涼太君・・・・」

 盆地では珍しい風の強い日だった。おれは、体から涼太のエネルギーが逃げて行かないように、おもわず体を丸めてしゃがみこんだ。気がつくと、結衣がおれの背に抱きついていた。同じ思いだったのだろう。

 三島神社の境内には、スズを鳴らして手を合わせる母と小学生くらいの子供がいた。私立中学に合格でもしてお礼参りに来たのだろうか。

 境内の桜のつぼみは、まだ硬そうだった。


                    *


 阿弥陀ヶ峰高校には、二人とも無事合格していた。涼太のご両親がたいそう喜んでくれて、二人に合格祝いをくれた。あれから涼太を呼び出しても、返事は無かった。結衣に呼び出してもらっても、結果は同じだった。おれには、おれの中にもう涼太がいないことがわかっていた。でも、それでも涼太の返事を期待していた。

 そして、それからあっという間に二年半が経ち、いまは高校三年生の秋、二人とも大学入試に向けて必死に勉強する受験生になっていた。休日の朝には、おれ達は昼用の弁当持参で涼太の家に向かうのが習慣となっていた。高校入試の時からの続きで、夕方まで離れをふたりの勉強部屋として使わせてもらっているのだ。

 今日も家に戻って晩飯を食べてから自分の部屋で受験勉強を始めた。熱中していて、気がつくと午前三時だった。おれはなんとなくあの夜のことを思い出していた。窓を開けてみると街は静まりかえっていて、あの時のように冷たい風が入ってくる。たしか、こんな夜だった。

「涼太。最近どうや、元気にしてるか?」

 おれはあたかもその窓際に、涼太が立っているかのように普通に話しかけてみた。もしかすると涼太が『死んだ人間に向かって元気かって、普通聞くか?』なんて返事してくれるのではないかと期待したけれど・・・、もちろんそんなことはなかった。

 それでも、なぜかそこに涼太がいるという強い感覚がおれの心を支配した。鳥肌が立った。自然に溶け込んで拡散したはずの涼太の生命エネルギーが、熱力学の第二法則に逆らっておれの周りに再び集まってきたような・・・、そんな気がした。

 そのとき、確かにそこに涼太はいたと思う。思わず涙が出た。それはおれの寂しい思いが絞り出した、純粋におれの涙だった。いや、もしかすると涼太の気持ちがおれの心を動かしたのかもしれない。そう考えれば涼太の涙だったのかも知れない。いつでも見守っているぞ、とおれに言いに来たのだろう。

 そして、しばらくするとその存在感が再び次第に薄れていった。

 気がついたら、わずかに開いた窓から冷気と共に朝日が差し込んでいた。机の上の問題集に顔を埋め眠ってしまっていたのだ。ハックション。

「ハクション大魔王、出てきてもええんやぞ」

・・・・・・・・・・・・・・・・・

 おれは涼太と心をひとつにしたあの一年半の間に、人間として、男として、確実に強く成長した。だから、おれはもう涼太を心の中に再び呼び寄せようとはしないことに決めた。涼太を呼び出していたあの頃は、おれはいつも弱音を吐いていた。でも今はそうじゃない。

 結衣もあれからは涼太のことを口に出さないようになった。そして、あれからおれと結衣は幼馴染の恋人として付き合っている。結衣がおれの中に涼太を見ているのかどうかはわからない。でも、いまの結衣はおれを頼りにしてくれているし、おれも結衣を心の支えとして互いの道を進んでいる。

 おれは東大の理科Ⅲ類をめざし、結衣は同じく東大の文科Ⅲ類を志望している。おれが目指しているのは脳科学の研究者。そして結衣が目指しているのは心理学、特に超心理学というのをやりたいと思っている。二人ともアプローチは違えども、会えなくなった涼太を探す旅に出かけようとしているのだ。今は別々の道だけど、いずれは一本の道に重なることを強く意識しながら。 

 いつか二人でコラボ研究し、涼太と再会することがおれ達の夢となっている。そのとき涼太は、おれ達に焼きもちを焼くかもしれない。

                                            (了)


皆さん、最後まで読んでいただき有難うございました。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ