3章 英雄の休息
ホイリヨ村での一件はウルドにとって無駄骨と言うより他になかった。しかしあの村での出来事を境に、旅の雰囲気が変わり始めたのだった。
まず同行者が増えた。男三人辛気臭い旅だったものが、半ば強引に同行してきたヘレーネの登場によって賑やかになったのは間違いない。マローリンは相変わらず、嘘とも真ともつかない話を延々と喋り続けていた。ウルドは適当にあしらっていたが、ヘレーネがうまく合いの手を入れ、時には何やら難しい議論を戦わせ、二人で大いに盛り上がっていた。おかげでマローリンはますます饒舌なっていった。
さらにチェドの雰囲気も変わりつつあった。堅かった表情もほぐれてきた。まだまだ言葉数は少なかったが、ウルドやヘレーネが話しかければそれなりに答えてくれるようになった。それどころか、ホイリヨ村の一件以来、ウルドはチェドにずっと観察されているようなのだ。気づくとチェドの視線がずっとウルドを追っていた。
それに気づいた時、ウルドはおいおい待ってくれよと心の中で叫んだ。——何か知らんがどうしてそこまで俺を気にしているんだ? 生徒が先生の顔色をうかがうような表情で俺を見るなよ。俺お前に噛み付いたか? たまにきつい物言いはしたかもしれないが。
そこでウルドは実に恐ろしい考えが浮かんでしまった。——まて、あの目はどちらかと言うと、先生を恐る目というより、何と言うか、異性を見るような目だな。……まさかとは思うが、もしかしてあいつは男色の気があるんじゃないだろうな。冗談じゃない。未だ独身彼女無しなのは単純に縁がないだけであってだな、人と違う性癖があるわけじゃない。……断じてそんな趣味はないぞ。
などとチェドの視線を感じる度に寒気を感じていたが、チェドとヘレーネが一緒にいるところを見てほっと一安心した。ヘレーネは事あるごとにチェドの元にやってきては、チェドを質問攻めにしていた。彼女はどうやらチェドの昔の話やら英雄について根掘り葉掘り聞いているらしい。その強引な態度にチェドは戸惑った様子を見せつつも、ウルドと話している時以上に表情豊かで、嬉し恥ずかしといった感じで顔を赤らめていた。
やはり彼も男ということだ。……うーん羨ましいって、羨ましいのはチェドであってヘレーネではない、念のため。
でも、じゃあなんでチェドは俺のことを熱心に観察してるんだろうな?
ところで、ここにきて大きな問題が発生しつつあった。
旅の日程が徐々に遅れ始めたのだ。原因はやはり、自称平和を愛する魔法使いマローリンである。
マローリンはホイリヨ村の件で味を占めたのか、立ち寄る村々で「困ったことあれば、英雄チェド様がたちどころに解決してみせようぞ」などと触れ回った。秘密裏に行動すべし、という当初の戒めはとうに失われていた。
マローリンの言葉を聞いた人々は我先にと彼の元へ殺到した。戦争による労役の為、村にいる若者は少ない。残された村民達は多くの問題を抱えていた。おかげでウルド達の元へ様々な事件が持ち込まれた。
しかしハクラの砦へ急がなければならない。それがウルドの任務だ。だから相談事が持ち込まれる度に理由を付けて断ろうとした。しかしマローリンは安請け合いするし、チェドも「困った人は助けないと」などと大層ご立派なことを訴えてくる。彼らは己の置かれている立場、大局が分かっていないのだろうか。
とは思うものの、ウルドの任務にはチェドとマローリンの指示に従うこと、という追加条項がある。マローリンにそのことをちらつかされては、これ以上反論できなかった。結局マローリンとチェドに押し切られる形で、ウルドは次々と持ち込まれる厄介な相談事に一肌も二肌も脱ぐはめになった。例えば、人外秘境の山奥に住まう人喰い虎を退治したり、幼女ばかりをさらう盗賊団を討伐したり、遺跡の奥深く眠る伝説の宝珠を探索したり、難病に冒された少女の為に幻の薬草を探しに行ったり……。
人々は英雄チェド様を頼りにしていたが、もちろんこれら問題の数々を実際に解決したのは彼ではなく、不肖国王親衛隊ウルドだ。チェドはウルドの影に隠れていただけである。ヘレーネも事件とは関係のない調査に邁進し、そして言い出しっぺのマローリンに至っては、自らは全く何もしない代わりに、ウルドを指図するだけ。おかげで何度死にそうになったことか!
そのくせマローリンは、事件が解決した後であたかもチェドが全て成し遂げたかのように喧伝する。かくしてウルドが事件を解決する度に「英雄チェド様が人々を救ってくださった」という噂はますます広まり、相談事は増えていく一方だ。ウルドに取ってみればとんだ役回りだった。
そして気づいた頃には、立ち寄る村々で英雄様ご一行として熱烈な歓迎を受けるようになっていた。タダ飯、タダ酒は当たり前。更には様々な特産品をお土産にと渡してくる。おかげで馬車の荷物は王都を出発する時よりも増えていた。このマローリンのよろず相談所は大盛況、うまくいけばひと財産築けるのではないだろうか? ……詐欺に近い気もするが。
今から語るのは、そんなよろず相談室で関わった、ある出来事である。
□ □ □ □ □
「「「お、温泉!!!」」」
ウルドとマローリン、それにすっかり同行者として溶け込んでいたヘレーネが目を輝かせ、一斉に声をあげた。一人、チェドだけが不思議なものを見るような表情を浮かべ首を傾げている。
「はい、さようでございます」
ウルド達とテーブルを挟んで座っている初老の男性が頭を深々と下げた。
「何卒、英雄様のお力でこの村をお救いください」
今ウルド達は旅の途中で立ち寄ったゴウド村の酒場にいる。目の前のテーブルには豪華な山の幸が溢れかえり、そしてジョッキには並々と酒が注がれていた。
もはや馴染みとなった光景である。
村に立ち寄る時、先ず向かうのが村長の家である。そして村長を呼び出し、マローリンお得意の口上を述べるのだ。
「我こそは、世界のありとあらゆる叡智を習得せし、大陸全土でその名を知らぬ者なし、大魔法使いマローリンじゃ! 次にここにおる麗しき女性がわしの秘書であり、世界の謎を解かんと旅を続ける学者の卵へレーネ。そしてこの少年が、かの大英雄ペルが子孫チェド殿じゃ。あと脇に控えておるのが、わしらの従者で国王親衛隊でもあるウルドじゃ。わしらは魔王を倒しにいく道中ではあるが、西に人々を困らせる野獣が現れればそれを退治し、東に病人あらばその病魔を打ち払う。ささ村長よ。この村に何か困ったことはないか? 大英雄チェド殿と大魔法使いマローリンにできぬことはないぞ。どんな悩み事でも立ち所に解消してみせようぞ!」
すると村長は涙を流しながらマローリン達を自宅または近くの酒場へ案内する。そして贅を尽くした食事と酒を用意して、村の窮状を語るのだった。
ちなみにこの口上について、ウルドは何度も「だから俺のことを従者と呼ぶのは止めろ」と抗議したが一向に聞き入れてくれる気配はない。同志を募ろうとヘレーネに自分が秘書だと言われることをどう思うかと聞いたが、彼女は別に何とも思っていないらしい。「まっ、いいんじゃない?」と言っていた。……心の広い女性である。
ともかくマローリンの巧みな話術によって、今回も酒場で歓待を受けつつゴウド村の村長の話を聞いているのだった。
そして、今回の依頼は温泉発掘だった。
「はい、ここゴウド村は温泉が名物でして。異形のモノとの戦争が始まる前はたくさんの観光客で賑わっていました。村の湯はいかなる病気や傷を治すと言われ、あの建国物語でも大英雄ペル様が戦いの傷を癒す為に入ったと語られているほどでございます。しかし戦争が始まった頃、突如として温泉が出なくなってしまったのです。温泉以外にこれといった産業のないこの村は、このまま温泉が復活しなければ国に租税が払えず、たとえ異形のモノとの戦争に勝ったとしても滅びるのは時間の問題でございます。どうかどうか、英雄の末裔様のお力で村の温泉を元通りにしてくださいませ」
村長は額をテーブルにくっつくほど深々と頭を下げた。
「温泉とは……。村長殿、我々に任せるのじゃ!」
マローリンはぞんざいな態度でローストビーフをくちゃくちゃと噛む。
「温泉ねえ……。やっぱり人は助け合いよね!」
ヘレーネは嬉しそうにフルーツを頬張る。
「困ってる……、じゃあ助けないと」
チェドは申し訳なさそうな雰囲気でパンをかじっていた。
「却下だ! 俺達にそんな暇はない」
ウルドだけが拒否した。当然だ、一分一秒でも早く砦にたどり着かなければならないのだ。こんなところで道草をくっている場合ではない。
その瞬間、マローリン、ヘレーネ、そしてチェドが、一斉に冷たい視線をウルドに向ける。もはや慣れた光景である。だが何時以上にマローリンとヘレーネの視線が厳しかった。
「お義兄さん、かわいそうだよ。助けてあげようよー」と、ヘレーネ。
「若いの、どうしてお前はそんなにも堅物なのじゃ。目の前に困った人達がいるのじゃぞ。それを助けずして、親衛隊を名乗れるのか!」と、マローリン。
二人の鬼気迫る表情にウルドは思わず仰け反った。そして二人は同時に立ち上がると「ちょっと来い」と言ってウルドを酒場の隅に引っ張っていった。
村長には聞こえない程度の声で二人が交互にウルドの説得を始めた。
「お義兄さん、温泉に入りたくないの?」
「若いの、温泉の素晴らしさが分からぬ歳でもあるまいに。ここは黙って協力するのじゃ」
……やっぱりこいつら温泉に入りたいだけじゃないか。
「お、温泉なんかに入っている暇はないぞ」
ウルドはにじり寄る二人に向かって、もう一度拒絶の意思を示した。
正直言えば、ウルドも温泉に入りたかった。連日連夜、マローリンが引き受ける様々な面倒事で体はくたくただった。昨日だって別の村で依頼を受け、人喰い虎を退治しに行ったばかりだ。温泉に入れるのであれば、きっと素晴らしいことだろう、一人の人間としてウルドは思う。
だがしかし、前線では今も兵士達が異形のモノ達と戦っているのだ、それを思えば、温泉に入る時間を惜しんでも、一刻も早く砦に向かうべきだろう、と職業人ウルドは主張する。
ウルドのかたくなな態度を見てマローリンは大きな溜息をついた。そしてウルドの耳元でぼそりと囁いた。
「若いの、よく考えてみよ。この依頼、わしは決して温泉に入りたいから引き受けたいと言っている訳ではないぞ。もちろん、この村を救うという理由もある。しかし、今回の依頼に限ってはそれだけではないのじゃ。これは今戦場にいる国王軍の為でもあるのじゃ」
「ど、どういうことだ?」
ウルドの言葉に、マローリンは不敵な笑みを浮かべた。
「もしここに温泉があれば、異形のモノ達との戦いで傷付き、疲れ果てた兵士達にとって、絶好の休息場となるじゃろう。さすれば、兵士達の士気も高まり、異形のモノ達との戦いも有利に進められよう。つまりこの依頼は国益にも叶うのじゃ。親衛隊が手を貸すのに十分な理由ではないかのう?」
……目から鱗が落ちた。
今までの言動から、マローリンのことをすっかり口先だけのペテン師か何かだと思っていたが、たまには良いことを言うじゃないか!
——ならば話は早い。
ウルドはマローリンとヘレーネに向かって親指を突き立てた。二人が嬉しそうにうなずく。
ウルドは大股でテーブルへ戻ると、その哀れな村長の弱々しい手を両手でぐっと握り締めた。
「村長殿、この俺が親衛隊の名にかけて必ずや温泉を復活させてみせましょう!」
ウルドの背後で、パチパチと拍手する音が聞こえた。
□ □ □ □ □
こうして、ゴウド村での温泉掘りが始まった。
ザク、ザク、ザク……。
ウルドは大きなスコップを持って、かつて温泉が湧いていたという村外れの源泉近くの地面をひたすら掘っていた。
……気付いたら、また何時ものパターンになっていた。結局今回も一人で働いている。やっぱり騙されたのか? と、ウルドは首を傾げた。しかし今回の見返りは温泉。非常に魅力的だ、自然と気合が入った。
とは言うものの、地面を掘り始めてかれこれ二時間ほど経ったが、一向に湯が出てくる気配はない。手も足もいい加減悲鳴をあげていた。
「……」
先ほどから頭上に視線を感じていた。ウルドは空を見上げる。穴の深さはウルドの身長を越えていた。歪な輪の形をした穴の入口から青い空が見えた。そしてその隅に人の顔が覗いていた。
チェドだ。
ずっと穴を掘るウルドを観察しているようだった。
「さっきから、じろじろ見られると気になるんだがな」
ウルドはスコップを穴の底に突き刺し体重を預けた格好で、チェドに向かって言った。
「あ、え、その……」
チェドは顔を引っ込めようとした。それを制止するウルド。
「待て待て、俺に何か言いたいこととか、聞きたいことがあるのか? 休憩がてら聞いてやるぞ」
「……」
チェドはしばらく身動きせず、その夕日のような朱色の瞳でじっとウルドを見つめていた。
風が吹いた。チェドの髪と服がはためく。
「……どうすれば、強くなれるの?」
全く想定していない言葉に、理解するのに少し時間がかかった。ややあって、ウルドは口を開いた。
「チェド、お前強くなりたいのか?」
チェドはこくりとうなずいた。
——すっかり忘れてたが、こいつは英雄の末裔だ。英雄の剣、ウエンリハトを手に入れれば、チェドが魔王と対峙するのだ。しかし今のチェドは誰がどう見ても最弱の名をほしいままにしている。一方、俺はそこそこ強い。少なくとも剣の腕なら親衛隊の中では負けない。なるほどな、俺をずっと観察している意味も理解できた。きっとあいつなりに考えているんだろう。
しかし、強くなるには? 強さとは? なんだか哲学じみた難しい質問だ。弟のイェニーなら好きそうだが、俺はこういった議論はあまり得意ではない。
「そうだなあ……、何よりもまず鍛錬あるのみだな。日々厳しい訓練に耐え、地道に体を作っていくしかない」
「訓練ってどれ位……?」
チェドが弱々しい声で聞いてきた。
「人によるだろうが、例えば、体を鍛えた上で、剣の腕をそれなりに高めようと思ったら最低十年はかかるんじゃないか? まあ一気にパワーアップできる薬なり魔法があれば楽なんだろうがな」
「……」
チェドは悲愴な顔つきになっていた。……まあ無理もない。チェドが立派な戦士として育つまで待てるわけがない。その前にトウマ国が滅ぶ。そう考えると、かなり無謀な話だよな、今回の作戦。
チェドが不憫に思えたので、ウルドは話を付け足した。
「そうだそうだ、こいつは俺の昔の上官から聞いた話だが、覚悟を決めた奴は強いらしい」
「覚悟?」
チェドは首をひねる。男とは思えない可愛らしい仕草だった。おおっと、危ない危ない、よからぬ想像を……。
「まあ、一度決めたことをやり抜く意思って言うか、諦めない心って言うか。俺もよく理解できてないところもあるんだが、上官の話だと、戦場で一番気をつけるべき相手は誰か? それは一騎当千の猛者も当然だが、それ以上に注意するのは覚悟を決めて突撃してくる奴ららしい。迷いを吹っ切ってがむしゃらに攻めてくる奴は底知れぬ力を発揮する時があるってことだ」
「……へえ」
チェドは感心した様子だった。そして少し顔を赤らめたように見えた。……なぜここで赤くなる?
「まあ、今すぐ一流の戦士にはなれないが、チェドのその世界を救いたいって気持ちと覚悟があれば、強くなれるんじゃないか。……保証はしないがな」
「うん、分かった」
チェドは小声ながらもその返事は何時もより力強いものを感じた。
俺、今なかなかかっこいいこと言ったな、などと心の中で自画自賛していると、頭上から別の声が聞こえてきた。
「若いの、首尾はどうじゃ? そろそろ湯は出てきたかの?」
マローリンだった。チェドの隣からマローリンが顔をのぞかせていた。大きな三角帽子が釣り糸のように穴の中に垂れていた。
「まったく出てこないぞって……、ジジイ、なんで酒飲んでるんだよ」
マローリンの片手には酒の瓶が握られていた。マローリンはぐいっとラッパ飲みする。
「別に暇じゃし、いいじゃろ?」
「じゃあ手伝えよ」
「な、なんじゃと、このか弱い老人を働かせようだなんて。それでも誇り高き親衛隊の一員か!」
そう言ってマローリンは大げさに仰け反った。こういう時だけ親衛隊を振りかざすんじゃない……。
「本当にここを掘れば温泉が出てくるんだろうな?」
「全てわしに任せよ、わしの占いによればこの近くに源泉があるのは間違いないのじゃ」
占い? 魔法じゃないのかよ!
「信じられねえな……。ところでヘレーネさんはどうしてる?」
彼女は遺跡発掘の経験があると言っていた。であれば、温泉発掘でも有益な助言が貰えるんじゃないだろうか。
「おお、あの娘なら、お前が掘り当てた怪しげな物を観察しておるぞ」
その時、マローリンの声の背後でヘレーネの歓声が聞こえてきた。
掘っても掘っても温泉は出てこないが、代わりに土器らしきものや昔の釣り針のようなものがたくさん発掘されたのだった。それらをヘレーネに見せると、彼女は嬉々として発掘物の鑑定を始めたのだった。もはや温泉のことなどすっかり頭から抜けてしまっているに違いない。さすが学者の卵……。
「じゃあ、チェド、お前ここに降りてこい」
ウルドの指名にチェドは目を丸くした。そして首を左右に激しく振った。「無理……」
「何が無理だ。お前強くなりたいんだろ。だったらさっきも言った通り、何よりも体力作りだ。これを鍛錬だと思え!」
ウルドは背伸びをしてチェドの足首を掴むと一気に穴の中へ引っぱりこんだ。チェドは「ひいぃ」と悲鳴を挙げながら穴の底へ転がり落ちてきた。まだ幼さが残る顔は瞬く間に泥だらけになってしまった。
「泥と汗にまみれてこそ、一人前の男と言えるのだ」と、ウルドは意味不明な口上を述べるとチェドにスコップを渡した。「さあそこを掘ってみろ」
チェドは涙目になりながらもこくりとうなずくと、スコップを振り上げた。足と腰がガタガタと震え、よろめいた。危うくスコップがウルドの鼻を叩き潰すところだった。
「俺の美鼻を台無しにする気か。腰に力を入れろ!」
「何が美鼻じゃ。笑わせる」
穴の上にいるマローリンの野次は黙って聞き流した。
ようやくチェドの体が安定してきた。そして「えい!」とかけ声とともにスコップを振り下ろした。
その瞬間、地面の割れ目から大量の湯が噴き出してきた。そしてウルドの顔面に直撃した。
「アッチ!」慌てふためくウルド。
「クククッ、わしの言った通りじゃろ」と、マローリンは満面の笑みを浮かべた。
そして遠くから「英雄様が温泉を掘り当ててくださったぞ。さすが英雄様じゃ!」と村長の喜びの声が聞こえた。
□ □ □ □ □
掘り当てた温泉は瞬く間にゴウド村の干からびた浴槽を満たした。村人達は一堂に会して喜びを分かち合い、チェドの功績を涙を流して讃えた。
穴の大半を掘ったのは俺だぞ、とウルドは主張しようと思ったが、今回もどうせ誰も聞く耳持たないだろうと、諦めた。
そして待ちに待った温泉タイム。ウルド達は村の有力者達と共に、一番風呂の名誉に預かっていた。
「労働の後の温泉は最高だな」
そしてウルドはあまりの気持ちの良さに思わず「ああー」と声を漏らした。……なんだかオッサンぽいな。少し恥ずかしくなった。
「極楽じゃあー」
一方マローリンも堪えきれず欣悦の声を漏らした。温泉の中でもそのトレードマークとも言える大きな三角帽を脱がず、湿気で何時になくしんなりとしている。
「なんだよ、その極楽ってのは?」
「知らんのか? 大昔、ざっと千年くらい前か、この地方で信仰されていた宗教の言葉じゃ。人は死んだ後、極楽という場所に生まれ変わると信じられておったのじゃ。そこには悩みも苦しみもなくてな。まあ天国の意味に近いかのう。ここは天国かと思えるくらい至福の空間というわけじゃ」
「なるほど、天国か。それは言えてるな」
この温泉の気持ち良さといったら、もはや言葉では表現しようがない。正に痛みも辛さも苦しみも忘れさせてくれた。
しかしこの地上の楽園とも言える温泉、唯一残念なのが、一緒に入っている連中が村のジイさんばかりだということだ。村長をはじめ、村人達は皆、意識だけは一足先に極楽とやらへ旅立っていったかのように、静かにピクリとも動かなかった。
ウルドは背後に視線を向ける。そこには木でできた塀があった。向こう側は女湯である。塀の向こうから、しわがれた声に混ざってヘレーネの声が聞こえてくる。
「ヒャッヒャッヒャッ、若い女子の肌はピチピチしててええのう」
「やだ、おばさま。皆さんの肌だってとてもお美しいじゃないですか」
「んま、嬉しいこと言ってくれるねえ、お嬢さん。……よし、この村に伝わる美肌を保つ伝説のマッサージ法を教えてやるわい」
「本当ですか、ありがとうございま……、きゃっ、……そこは触らないでください」
「なに言ってるんだい、女同士気にすることないじゃないかい。ほれほれ」
「あっ、そこは……、や、止めて、あっ」
……一体塀の向こうでは何が行われているんだろうか、気になってしようがない。
「おい、若いの、どうしてちょっとずつ塀の方へ移動しとるんじゃ?」
ウルドの不審な行動をマローリンが咎めた。
「な、何のことだ、き、気のせいじゃないのか?」
そう言いながらも、ウルドはゆっくりとマローリンのそばへ戻ってきた。
……全く、天国への扉まで後少し、人生の盛りを過ぎた偏屈ジジイには分かるまい。この塀の向こうに広がる、パラダイスってヤツを。なあお前もそう思うだろう、チェ……、あれ?
「そう言えば、チェドの奴は何処にいるんだ?」
ウルドは周囲を見渡した。すぐに見つかった。ウルド達から少し離れた浴槽の隅でぐったりしていた。
「……おいおい」
ウルドは村のジイさん達の間をすり抜けチェドの元へ近づいた。チェドの顔は真っ赤だった。
「おい、しっかりしろ。完全にのぼせてるな。大丈夫か」
「……う、うん」
チェドは何時も以上に弱々しい声をあげた。
「我慢して入ってることもないだろ、さっさと出ろ」
ウルドはチェドの脇腹を支えて彼を浴槽から引っ張り出した。
「あ、ありがと。ウルドさん……」
チェドはそう言って立ち上がると、おぼつかない足取りで風呂場を後にした。
「ホッホッホッ、すっかり兄役じゃな、若いの」
何時の間にかマローリンがウルドの元に近づいてきていた。
「止めてくれ、弟は一人で十分だ」ウルドは再び湯船に肩まで浸かった。「……弟なんて生意気なだけだ」
ウルドはイェニーの顔を浮かべる。——弟は若くしてアカデミーの助手となり、研究成果は学会で大反響、その知性を期待され政府や軍からも助言を求められるほどだ。そしてなによりも俺より先に婚約しやがった……、完全勝ち組じゃないか。ウルドは思わず溜息が漏れた。
「どうした? 溜息なんぞしおって」マローリンはウルドの方へ振り向く。関節がごきごきと音を立てた。「ところで、若いの、昼間穴を掘りながらチェド殿と何やら話しておったようじゃが?」
「ああ」ウルドも肩をグルグルと回す。「あいつが俺に質問してきたんだよ。どうしたら強くなれるかって?」
「ほほう? で、お前はどう答えた?」
マローリンは興味ありげな視線を向けてきた。普段は一方的に喋ってくるばかりなのに、珍しく人の話を聞こうとしている態度だった。
「日頃の鍛錬が重要だって言ってやった」
「まあ、そうじゃろうな」
「後は、……昔の上官の受け売りだけど、強さには覚悟が必要だって」
ふと、マローリンは眉を吊り上げた。
「若いの、お前の言葉からそんな単語が出てくるなんてな」
「なんだ、悪いのか?」
マローリンの態度に腹を立てて、ウルドは語尾を荒げた。
「いや別に……」マローリンは目をつむった。「お前も自分で言った言葉を忘れるなよ」
「なんか癪に障る言い方だな」
ウルドは舌打ちする。その様子にマローリンはフッフッと小さく鼻で笑った。
先ほどまで騒がしかった塀の向こうも今はぱったりと声が聞こえなくなった。もう出てしまったのだろうか。……残念だ。
「ところでマローリン。あんたとチェドってどこで知り合ったんだ?」
マローリンは目を大きく見開いた。驚いている様子だった。
「おや、言っておらんかったか?」
ウルドは首を振った。……聞いてない聞いてない。王宮で初めて会った時もその説明はなかった。二人はどう見ても家族ではない。顔の作りも目の色も違う。であれば、二人は何処でどのように出会ったのだろう。薄々気になっていたが、今まで聞く機会がなかった。
「そうか、じゃあ少しだけ教えてやろかのう」
「なんで少しだけなんだよ。全部教えろ」
「ちゃんと話すと、一日あっても足らんからのう」
「手短にお願いします」
ウルドは即座に頭を下げた。マローリンが一度話し始めると止まらないことはこの短い旅の間で身に染みて分かっていた。
「では、手短に話してやるわい」
そしてマローリンは語り始めた。
「あれは、わしが西果ての海の冒険から帰ったら後じゃった。あれはわしの旅の中でも五本の指に入る過酷さじゃった。当時の苦労が昨日のことのように思い出されるのう。……その冒険でわしは海賊島の金銀財宝を手に入れ、それらを恵まれない子供たちに……」
「前置きはいいから、さっさと本題を話せ」
マローリンは「チッ」と舌打ちをして「ここからがいいところなんじゃが」と呟き、つまらなそうな表情を浮かべた。……長々と話す気満々じゃねえか!
「しようがないのう、まあ要するにわしがチェド殿と初めて会ったのは、ランザリオ学園じゃ。……知っておるか?」
一気に省略された気もするがまあいい。
「ランザリオ……聞いたことあるな。確か、スラギ属州に数年前に設立された。一時期話題になったな」
トウマ国は複数の属州と呼ばれる、国王に忠誠を誓った周辺小国を幾つも領有している。属州はトウマ本国に税を納める代わりに軍事的な保護を受けている。本国は表面上、属州の自治を認めているが、実際は監督として提督を派遣し、支配下に置いていた。
属州の一つにスラギ属州がある。数年前、スラギ属州の提督は画期的な施設を作った。それがランザリオ学園だ。この施設は肉親を亡くし行くあてのなかった子供達を集め教育を施した。この道徳的な政策は熱烈な支持を得、本国や別の属州で次々とこれに追従する施設が作られたのだ。
「今まで裕福な子供達しか受けられなかった教育を孤児達に開放したって、大絶賛されてた気がするな。そうか、あいつはあそこの出身なのか」
すると、マローロリンはやれやれと首を大きく左右に振った。
「まったく、若いの、本当にお前は世間知らずな親衛隊様じゃな。本当にそんなことを信じておるのは王都に住む連中位だぞ」
「どういうことだ?」
ウルドはマローリンに顔を覗き込んだ。マローリンの顔は真剣そのもので怒っているようにも見えた。
「あの学園、表面上は孤児達の家であり学校じゃが、本当はあそこに集められた子供達は強制労働に従事させられておったのじゃ」
「なんだと……」
ウルドは視界が一瞬ぐにゃりと歪んだような気がした。
「子供達を農場や鉱山で働かせ、そこで得た収入は属州の提督達要人の懐に入るのじゃ。ようは福祉政策に見せかけた、提督どもの人身売買じゃな」
「そ、そんなこと、信じられるか」
属州の提督のほとんどは親衛隊の出身だ。確かに親衛隊達の先輩を見ていると、国の為というより自分の利益を第一に考えるような、あまり尊敬できない人達が多い。だが子供達を騙して無理矢理働かせるような非人道的なことまでやるなんて、とても信じられない。
「さすがに、本国が、国王陛下や宰相様が黙ってないだろ。そんな非人道的なこと」
震える声でウルドは聞いた。
「いやいや、中央の奴らも推奨したじゃろうよ。街から孤児達が減って治安も良くなったと思っている連中もおる。証拠に、似たような施設が次々と作られたじゃろ……」
マローリンの目は鋭く、口元だけが笑っていた。ウルドの背筋に寒気が走った。
「し、信じられるか……」
同じ言葉を繰り返すのがやっとだった。
「まあ、信じる信じないはお前の勝手じゃ。好きにせい。しかし、ちゃんと周りを見とかんと、いつか足をすくわれるぞ。……話が逸れたの。じゃが付け加えておくと、その施設は見るも無惨じゃった。重く息苦しい空気が充満しておったよ。さすがのわしも始めて見た時は寒気がしたわい。チェド殿がああいう性格なのは、施設での環境が少なからず影響しておるじゃろうな」
ウルドはマローリンの言葉にうなずくことも否定することもできなかった。
先ほどまで誰一人微動だにせず悦楽の表情を浮かべていた村人達がぽつりぽりと温泉から出始めていた。極楽の旅から戻ってきようだ。その様子を目で追いながらマローリンは続けた。
「異形のモノがこの国に攻撃を開始したばかりの頃、わしはランザリオ学園を訪れ、その子供達の中にチェド殿を発見した。わしは彼こそこの国を救い平穏をもたらす者じゃと確信した。そしてあの施設の管理者をあれやこれやと説得し、施設から連れ出したのじゃ。あとはお前も知っておるように、王都へ赴き、英雄の剣を手に入れようとしたのじゃ」
「ところで、前々から不思議だったんだが、どうしてチェドがペルの末裔だって分かったんだよ」
ウルドにはチェドが普通の子供とどこが違うのかさっぱり分からない。確かに正義感は強そうだが、平均的な子供より力は弱いくらいだ。
「わしの溢れんばかりの魔力がチェド殿に反応した、……では不十分か?」
「だから、あんたが魔法使いであることを証明してくれたら……」
「あやつの瞳の色じゃ」
マローリンはすぐさまチェドを英雄の末裔だと考えた根拠を教えてくれた。
「あの非常に珍しい、夕日のような朱の瞳。大陸中探しても数十人しかいないはずじゃ。そしてペルも目の色も朱だと伝えられておる。もちろん、それ以外にチェド殿が持っておった先祖伝来の品々も傍証となっておるがな」
「なるほど、目の色か……」
そういう身体的特上であれば、マローリンが魔法使いだということよりは説得力がある。
「かなり端折ったがな。わしと彼の出会いはそんなところじゃ。完全版を聞きたければ何時でも言うがよい。語ろうと思えば二日でも三日でも」
増えてんじゃん!
ウルドとの会話が終わると、マローリンは立ち上がると温泉から出て行った。ウルドもそれに続いて温泉から出る。マローリンの皺だらけの背中を見てウルドはふと疑問がよぎる。
マローリンはそもそも何故チェドを見つけようとしたのだろうか? トウマ国を救うため。
……本当にそれだけだろうか?