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英雄のつくり方  作者: 河合しず
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2章 英雄と竜

 旅というものは、行く理由や目的がなんであれ、心揺さ振られずにはいられない。まだ見ぬ風景、そこで出会うであろう人々、そして血湧き肉躍る冒険。それらを想像するだけで胸は高鳴り気持ちが高ぶってくるものだ。

 しかし、必ずしもそうではないことを今回思い知らされた。

 旅自体はいたって順調だ。立派な馬車が支給され、重い荷物を背負って歩くこともなく、一日中御者台に座っていればよかった。必要充分な食料と資金も用意され、寝食に困ることもなかった。だから今のところ不自由はない。

 問題は同行者連中だ。

 同行者その一、チェド=フェヒナーという少年。

 この国を救う英雄の末裔、ということらしい。こいつのおかげでウルドは旅に出るはめになった。

 チェドは始めこそずっとマローリンの後ろに隠れ、ウルドへの警戒心を隠さなかった。目が合っただけで猫に追いつめられたネズミのように震え上がる始末である。しかし何日か経ってくると、さすがに警戒心が薄れていったようだ。目が合っても驚かれることは少なくなった。それどころか食事の準備や馬の世話なども手伝ってくれる。

 しかしチェドは全くウルドと話そうとしなかった。

 喋れないわけではない。避けられているわけでもなさそうだ。

 ウルドとしても親衛隊で叩き込まれたコミュニケーションを実践してみた。どんな出会いであれ、まったく会話をせずに生活を共にするわけにはいかない。ならば早めにちゃんと話し合っておきたいところだ。しかしどうにも話が噛み合ない。

 例えばこんな感じだ。

「英雄の末裔って、本当なのか?」

「あっ、うつ、そ、そ……」

「じゃあ。チェド、お前の両親は今何してる?」

「そ、そ、そ、は……」

「は?」

「あわ、あわ、ああ……」

「……出身はどこなんだ?」

「そ、その、えっと……、ス、ス、ス……、スラギ州の、ノルー……」

「おっ、少しはしゃべれるじゃねえか。そこって、高級なノルー牛で有名なところだな。ところで、おまえ好きな食べ物は?」

「あ、あ、あ……」

「……夕飯つくるから準備手伝ってくれ」

「……はい」

 きっと極度の人見知りかコミュニケーションべたなのだろう。王宮に勤める文官の中にも何人かそんな奴を見たことがあるので珍しくはない。しかしそれでも異常ではないだろうか?

 そんなチェドの様子を見ていると、元々胡散臭かった英雄の末裔という話が更に信じられなくなっていく。なにしろ昔話などから想像される英雄のイメージとはほど遠い。英雄とは勇敢でカリスマ性があると同時に、時に荒々しく獰猛で自分勝手、というのがウルドのイメージだ。偏見かもしれないが、少なくともチェドのようなイメージではない。彼はどちらかと言うと小さな農村で田畑を耕し、牛馬の世話をして静かに暮らす、そんな生活の方がぴったりに見える。決して戦いに出るような性格ではない。

 だがチェドはまだ可愛い。仕事も手伝ってくれる。沈黙は辛いがこれから少しずつコミュニケーションをとっていけばいい。

 より問題は、同行者その二、自称大魔法使いマローリンだ。

 このジイさん、チェドとは正反対にとにかく喋る喋る。

 聞いてもいないのに若き日の大冒険話やら、自ら編み出した魔法体系の話やら、国際情勢やら、話題が尽きない。トウマ国へ来る前は世界中を旅していたらしく、さすがにその知識量には舌を巻いた。しかし話がやたら誇張されている気がしてならない。特に自身の若き日の冒険物語とやらは、胡散臭さ満載である。

 曰く「七つの海の果てで大怪獣クラーケンと決戦になった。わしの偉大なる魔法で見事あやつをイカ飯に……」——クラーケンってイカだったっけ?

 また曰く「砂漠の地下遺跡で五万の盗賊とたった一人で対峙し、見事蹴散らしたのじゃ」——どれだけ広い遺跡だよ! そもそも盗賊の数、一国の軍隊並みだぞ。

 もちろん、魔法使いという部分についても疑っている。

 ある日、小川のほとりで休憩を取っていた時に、ウルドはさりげなく聞いてみた。

「魔法ってものを見せてくれないか?」

 小川の水で顔を洗っていたマローリンはその手を止めてゆっくりとウルドの方を向いた。顔がわずかに赤らみ、怒っているように見えた。

「若いの、わしを信じておらんのか?」

「いやいや、単純に退屈しのぎにちょっと見せてくれないかなって聞いただけだ。嫌ならそれでいい」

 この頃になると、いい加減彼らに対して敬語で話しかけるのも疲れてきて、すっかりため口で話すようになっていた。要は彼らに敬意を払う気は失せていたのだ。

 マローリンはしばらく黙って小川を見ていた。

「まあ、しようがないのう。我が魔法とくと見るがよい」

 そう言って、マローリンは左の掌をウルドの方に向けた。

「タネも仕掛けもないぞ」

 次にマローリンは右手に持っていた布を左手に被せる。そして「えいっ」と大きなかけ声をあげ、ゆっくりと布をつまみ上げた。

 マローリンの左手には木製の小さな人形が握りしめられていた。

「……」

 ウルドは絶句する。——おお、先ほどまで左手には何もなかったはずなのに。これが有名な物体生成という、魔法使いの中でも高度な能力を持った者のみが扱えるという超魔法なのか!

 ……などと思うか!

「これただの手品だろ」

「馬鹿者、魔法じゃ」

 マローリンは顔を真っ赤にして怒鳴りつけた。

「いやいやいやいや、大道芸人達が似たような手品やってたの見たことあるし」

「じゃあ、そやつも魔法使いなのじゃな」

「っんなわけあるか!」

 ウルドも我慢できなくなって大声を上げる。馬車の中からチェドが何事かとこちらを驚いた表情で覗いている。

 しかしマローリンは強硬な態度を崩さない。

「じゃあ、若いの。これが手品だと言うのなら、そのタネを明かしてみせよ」

 ウルドは言葉に詰まった。見れば明らかに手品だと分かるのだが、だからといって手品にそこまで詳しいわけではない。さすがにタネまでは分からなかった。

 固まるウルドを見て、マローリンは口角をつり上げ意地悪そうな笑みを浮かべた。

「たとえこれが仮に、あくまで仮にじゃぞ」マローリンは仮という単語をやたら強調した。「タネなどあったとしても、それが見ている側に分からなければそれは既に魔法なのじゃ」

 ウルドは唖然とする。——なんだこの屁理屈は。魔法使いというよりはペテン師だろ、その言い方は……。

 こうしてウルドはマローリンに対してほら吹きペテン師という評価を固めつつあった。

 こんな連中と最後まで旅が続けられるだろうか、そう思いながらウルドは嘆息する。


 しかし、旅を続けるにつれウルドとマローリンには唯一と言ってもいい意見の一致が存在することに気づいた。

 それは二人とも酒好き、ということだ。

 親衛隊に入隊して以来の習慣なのだが、王宮での勤務が終わるとほぼ毎日酒場に通った。酒が唯一の趣味と言ってもよかった。一方のマローリンも様々な国を旅してありとあらゆる酒を味わったという。酒に関する知識もかなり豊富で、ウルドが飲んだことがない珍しい酒の話を色々教授してくれた。

 しかし今は戦場へ向かう旅の途中。酒の話は聞けても肝心の酒そのものはなかった。それでも酒に対する禁断症状が抑えきれなくなった頃、マローリンが何時になく優しい声音で話しかけてきた。

「若いの、丁度この近くにうまい酒を造っている村があるんじゃが……」

 ウルドは黙って馬の進路を変更した。


  □ □ □ □ □


 「っうまい!!!」

 絶叫しながら、ウルドは空になった木製のジョッキをテーブルに置いた。

 ——一日の終わりに飲む酒、これこそ人生最良の瞬間!

 王都を出発して四日後、ウルド達はホイリヨ村に到着した。ハクラの砦へ向かう街道から少し離れた小さな村だ。マローリンの話によると、ブドウ酒の名産地だが流通量が少なく、上流階級を中心に珍重されているとのことだ。その意味がよくわかる味だ。

「そうじゃろそうじゃろ」

 マローリンも顔を真っ赤にして上機嫌にジョッキの中の酒をぐいっと飲み干す。あご髭にこぼれたブドウ酒が垂れている。

「まさかこんな村が王都の近くにあったとは、是非土産に買っていきたいな」

 酒、酒、酒。人生の幸せの半分は酒でできている! ここ数日ずっと我慢してたんだ。今日はとことん飲んでやる。

 ウルドも職務をすっかり忘れ上機嫌に笑った。そんな二人をチェドは不思議そうに見比べていた。チェドのジョッキには無発酵のブドウジュースが入っている。

 ホイリヨ村唯一の宿場に併設されている食事処兼酒場。全部で二十席ほどあるだろう。しかし今酒場にいるのは、ウルド達を除けば、一人カウンター席に座っている老人と厨房入り口で暇そうに立っている給仕女だけだった。

 火の灯ったランプはウルド達のテーブルとカウンターにのみ置かれ、部屋は全体的に薄暗かった。窓からは明かり一つ見えず、外は暗闇に閉ざされている。ウルド達の会話が途切れると酒場は静まり返り、調理場から時々物音が聞こえてくるだけだった。

 ウルドは酒場にいる二人を順に見た。

 老人はずっとカウンターに突っ伏したままで動く気配がない。酔いつぶれて眠ってしまっているのだろうか。

 もう一人は給仕女。ウルドより少し若いぐらいだ。ブロンドの肩までかかる髪に端正な目鼻立ち、適度に日焼けして健康そうな血色の良い肌をしていた。彼女は手持ち無沙汰に自分の爪をいじっているが、時々眉間に皺を寄せ、ちらちらとウルド達を見ていた。そしてウルドと目が合うと、給仕女はさっと目を逸らした。だが再びじろじろと不思議なものを見るかのようにウルド達へ視線を向けていた。客を観察するような態度をするなんて、なんと失礼な給仕だろうか。接客の教育はちゃんとできているのか。王都の酒場だったら一発でクビだぞ。

 しかし……、ウルドは今一度給仕女を見る。再び彼女はさっと目を逸らし自分の爪をいじり始めた。どうやら彼女が見ているのは、正確にはウルドだけのようだ。チェドやマローリンが給仕女を見ても意に介した様子はなかった。ウルドが彼女を見る時だけ、視線を逸らす。

 ここでウルドははたと膝を打つ。

 ——彼女はまさか、俺に惚れてしまったのではないだろうか! 容姿こそ弟には負けるかもしれないが、俺だってそこそこいけるはずだ。女性から声をかけられたことは一度や二度……すらないが。しかし、俺の良さを分かってくれる女性がいつかは現れるだろうと待つこと二十ウン年、三十の入り口も間近に迫ってきたが、遂にその時が来たのか!

「若いの、何にやけた顔しておるのじゃ」

 これから始まるだろう彼女とのラブロマンスを想像していたところを、マローリンがクラッカーを頬張りながら声をかけてきた。チェドも首をひねってウルドを見つめている。

「あ、いやちょっと」

 ウルドはハハハと愛想笑いを見せながら誤摩化した。——危ない危ない、そんな変な顔をしていたのか? 彼女の好感度が下がってしまうではないか。横目で給仕女を見ると、彼女は丁度厨房へ入っていくところだった。

「変なヤツじゃのう」

「いやあ、なんというか。……それよりも、寂しい村だな。いくら街道から離れているとはいえ、ブドウ酒の産地なんだろ。もう少しにぎやかでも良さそうなのに」

 ウルドは恥ずかしい表情を見られまいと、必死に話題を変えた。

「まあ、仕方がないかのう。どこの村も今はこんなものじゃ」

 マローリンがジョッキを空ける。

「そうなのか?」

 すると突然、マローリンに睨まれた。さっきまでの陽気な表情から一変、室内でも決して外さない三角帽の影から、厳しい表情が垣間見える。その変化に驚いて口に含んでいた干し肉が喉につかえた。むせ返る。

「ごほっごほっ、……な、何だよ急に」

 マローリンは頭を振り、今度は「ああ情けない」といった感じで哀れみの表情を向けた。そしてチェドまでが冷たい視線をウルドに向けていた。

「やれやれ、天下の親衛隊員殿は世間の情勢に疎いのう」

「おい、大声を出すな!」

 ウルドはとっさにマローリンの口を塞いだ。

 ウルド達の旅は極秘の任務だ。旅の途中で自分達の立場や目的を周りに公言するな、とディーンやアスにきつく申し付けられていた。今の格好も親衛隊だと分からぬように、目立つ白い軍服ではなく簡素な黒いジャケットの旅行服を着ている。

 ウルドは先ほどのマローリンの「親衛隊」という言葉が誰かに聞かれなかったか確かめようと、周りを見渡す。給仕女はまだ厨房にいるらしく姿は見えない。厨房からはがちゃがちゃと大きな音が漏れ聞こえてくる。カウンター席に座っている老人は、……居ない!

「おめえら、兵隊さんだべか?」

 突然ウルドのすぐ隣からしわがれた声がした。ウルドはびっくりして飛び退いた。

 先ほどまでカウンター席で突っ伏していた、腰が曲がったせいで背が低くなってしまった老人がウルドの前に立っていた。

 ——完全に聞かれていた。ここはなんとか否定しなければ。

「あ、いや。我々は決してそんな怪しい者では……」

 ウルドの弁明に、老人はがっくりと肩を落とした。

「そおだべか、さっき親衛隊とか聞こえたと思ったんじゃが。聞き間違えかのう。最近すっかり耳が遠なってしまったべ」

 老人は小声で呟いた。その様子にウルドはほっと胸を撫で下ろす。

 その時マローリンがさっと立ち上がった。椅子の引きずる音に老人は驚いて振り返る。

「わしは大魔法使いマローリン、この子があの伝説の大英雄ペルの末裔チェド殿、そして彼が国王親衛隊でわしらの従者でもあるウルドじゃ。わしらは魔王を討伐する為に旅をしておる!」

 マローリンが高らかに宣言した。

 やっぱり従者かよ! って今突っ込むところはそこじゃない。何バラしとるんじゃこのジジイが。せっかくうまく誤摩化せたっていうのに!

 ウルドは立ち上がりマローリンの胸ぐらをつかんだ。

「あれほど素性は他言するなって言っただろ!」

 ウルドの怒りは何処吹く風、マローリンは舌を出してへらへらと笑っている。

「そうじゃったかのう、覚えとらんのう」

 人を小馬鹿にした表情を見てウルドは一発ぶん殴りたい衝動に駆られる。老人虐待? 知ったことか。秩序を乱す奴は誰であろうと鉄拳制裁あるのみ。

 ウルドが拳に力を入れた時、ウルドは腰に違和感を感じた。後ろを振り返ると老人がウルドの腰にしがみついていた。

「おい、どうした?」

 ウルドはマローリンから手を離し、老人の肩に手を置く。

 老人は顔を上げた。その皺だらけの顔は滝のように流れ出る涙でびしょ濡れだった。

「へ、兵隊様、ど、どうかこの村を、この村を救ってくだせえ」


 酒場にいた老人はホイリヨ村の村長でジルと名乗った。ジルはウルド達と同じテーブルに座り、ホイリヨ村の現状を語り出した。

「異形のモノとの戦争が始まって以来、村の若い男達は労役に駆り出され、この村には女子供とあっしらのような老人しかいないべ。このままでは田畑や村の特産であるブドウ園を維持することもままならんべ……」

 ウルドはもう一度酒場を見渡す。厨房から戻ってきた給仕女が再び厨房入り口に立ってじろじろとウルドを見ている。

 ようやく人がいない理由を理解した。

 ウルドは自分のジョッキに注がれていたブドウ酒に目を落とす。地方の状況は言葉では聞いていたが、実際に村の存亡がかかっているほど深刻な状況だと、考え及ばなかった。さっきまで酒を飲んでいてはしゃいでいた自分を恥じた。マローリンが言いかけていたこともジルの話とおそらく同じだろう。

 気落ちしたウルドの様子を見てジルは慌てて付け足した。

「いえいえ仕方のねえことだべ。国王陛下と軍の皆様が必死になっていることはわかっとります。ここを耐えるのが国民としての義務だべ」

 何か気に食わないことでもあるのだろうか、マローリンが顔をしかめて「フン」と大きく鼻を鳴らした。

「そして遂に英雄様が魔王討伐をなされると。これを聞いて喜ばずにはいられないべ」

 ジルはチェドの両手をぐっと握りしめる。

「どうかどうか、異形のモノと魔王を滅ぼし、この国に平和を!」

 ジルは涙を流してチェドに懇願する。チェドの方はどう対処していいのか分からないらしく、ただ困惑した表情を浮かべマローリンの方を向いていた。

「必ずや、この国に秩序と安定をもたらしましょうぞ」

 チェドの代わりにマローリンが力強く答えた。

「いや、まだ剣を取り返しに行くだけで、魔王のことはずっと後……」

 ウルドが訂正しようとすると、マローリンがギッとウルドを睨みつけた。「黙れ」そう顔に書いてあった。ウルドは口をつぐむ。

 ——知らない、知らない。後でどうなっても全てこのペテン師ジジイのせいだからな!

 ジルはマローリンとチェドに向かって何度も頭を下げ、泣きながらお礼を言った。チェドは何も約束などしていないはずだが。

 ジルはようやくチェドの両手を離すと袖で涙を拭いた。すると先ほどまで希望で溢れていた顔に再び影が差した。

「……実は戦争以外にも、厄介な問題があるんべ」

「村長殿、厄介な問題とは?」

 マローリンが身を乗り出す。

「あっしらのブドウ園は村の裏山の奥にあるんですが、そこにいるんべ」

「いるとは何が? ……まさか異形のモノの軍か?」

 ウルドも真剣な表情で老人に向かい合う。

「いや、奴らはここにはいないべ」

 ジルは一呼吸置くと震える自身の手を見つめながらこう言った。

「いるのは、……竜だべ」

 その時、遠くから獣の遠吠えと思われる不気味な鳴き声が、夜の村に響き渡った。


  □ □ □ □ □


 竜。ドラゴンとも呼ばれる生物は、地上で最も獰猛な生物として恐れられているが、神の使いとして崇拝の対象となっている地域もある。トウマ国にも人間の何倍もの大きさの竜が生息している。全身硬い鱗に覆われ、大きな翼で空を飛び、口からは高温の炎を吐く。その何人も寄せ付けない圧倒的な力は、大地の王者にふさわしいものだった。

 しかし同時に、竜の硬い鱗は頑丈な防具として戦士達の憧れの的であり、またその角や牙は最高級の装飾品として高貴な方々はそれを手に入れるため大金をはたき、そしてその肉は珍味中の珍味として知られ世界中の美食家がこぞって手に入れようとしていた。飽く無き人間達の欲望と絶え間ぬ努力により、竜の効率的な狩猟方法が考え出され、乱獲により個体数が激減してしまった。そんなわけで近年では竜を見たければ山の奥地まで行かなければならない。人里近くで竜の姿を見ることなど非常に稀だった。

 以上が昔イェニーから教えてもらった竜の話である。まったく博学才穎な弟である。

 そんな今は珍しき竜がこのホイリヨ村の目と鼻の先にいるという。

「三日前になります。村とブドウ園をつなぐ道の途中に、一匹の竜が突如舞い降り、道を塞いでしまったべ。それ以来ブドウ園へ行くことができず……。丁度今がブドウ収穫の最盛期だべ。今収穫できないと、無事戦争が終わっても、租税が払えずこの村は滅ぶべ」

 ジルは涙ながらにそう語った。

 目を閉じてジルの言葉に耳を傾けていたマローリンは、目をかっと見開くと、ジルの両手を掴んだ。なんとマローリンの目も涙に溢れていた。

「村長殿それはなんと不憫な。しかしご安心くだされ、わしらがここを通りかかったのも何かの啓示。この村を何とかお救いいたしま……」

「ちょっと待て。ジイさん」

 いたたまれなくなって、ウルドはマローリンの言葉を遮る。ウルドはちらりとジルの方を見る。ジルは大粒の涙を零しながら、ありがたやありがたやとマローリンに向かって両手を合わせて拝んでいた。

 ——村長には悪いが俺達にもやらねばならない任務がある。

「急ぐんだろ。竜の話は軍の専門部隊に任せた方が」

 するとマローリンはフッと不気味に小さく笑う。そしてウルドに小声で耳打ちした。

「まあ聞け、若いの。ドラゴンスレイヤーって言葉、知っておるか?」

 ウルドはその言葉を聞いて、突如胸に熱いものがこみ上げてきた。

 竜狩猟は安全と効率の為、集団で行われる。しかし、あえてたった一人又は少数で竜を退治した時に与えられる、戦士としては最も誉れ高い称号がドラゴンスレイヤーだ。

 ウルドの顔色が変わったのをマローリンは見逃さない。

「この称号を持った者がいると、わしらの箔も上がるってもんじゃ。それに若いの、普段は文官とほとんど変わらない仕事をしとるようだが、それでもお前も兵士、いや戦士じゃろ。欲しいと思わぬか、ドラゴンスレイヤーの称号を」

 マローリンはすっとウルドに顔を近づける。漆黒の瞳がウルドを離さない。

「お前の剣の腕があれば、いけると思うんじゃがなあ……」

 マローリンの甘言にウルドの呼吸が粗くなる。

 ウルドの思考は激しく回転する。——俺の目的は可及的速やかにチェド達をハクラの砦に連れて行くことだ。寄り道をしたり、ましてや竜を退治しにいくなどという危険なことに首を突っ込むべきではない。頭の中にいる任務に忠実な職業人ウルドはそう主張する。その一方で、確かに竜と戦う機会は滅多にない、それでなくとも一度は竜を見てみたい、そしてあわよくば竜を退治し、いつもぞんざいな態度で人を小馬鹿にしたような目で見る先輩達の鼻を明かしたい、と個人的欲求に素直な戦士ウルドはそう主張する。

 しばらく脳内で葛藤が続いた。

「いや、しかし……駄目だ駄目だ」

 激しい脳内議論の末、職業人ウルドが勝利した。

「しかるところに届け出て、軍に対処させるべきだ」

 ジルが口を半開きにして哀しそうな顔をする。——そ、そんな顔で見るな。正論を言ったまでだ。軍に届け出て対処してもらう。これが一番確実で理にかなってる。

「やっぱり堅物じゃのう」

 マローリンはそう言って舌打ちした。——待て、お前達の目的を第一に考えての行動だぞ。どうしてそんな態度を取る?

「うーん、チェド殿はどう思う?」

 マローリンがチェドを指名した。ウルドもチェドを見る。チェドはじっと朱色の瞳でウルドを睨むように見つめていた。いつもの頼りないチェドとは思えないほどの、力強い眼力にウルドは気圧される。

 完全に悪役だった。

「……分かったよ」

 ウルドは渋々首肯した。——ここは英雄様のご意見を尊重する、ということにしておこう。英雄様の言うことを聞くべしってのが一応俺の任務の一部なのだし。しかし、本当にどうなっても知らないからな。

「おお、さすがはこの国の守護者たる親衛隊ウルド殿」

 マローリンがわざとらしく大げさに喝采した。

 ジルがウルドの前にやってきて、額を地面に付けるほどに頭を深々と下げる。そして繰り返しありがとうございますと涙ながらに礼を言った。チェドは嬉しそうに頭を大きく何度か縦に振った。

 ——こいつの喜んだ顔を初めて見るな、っていい加減少しはしゃべれよ。


 ここから村長の接待攻勢が始まった。

「今日は奢るべ、好きなだけ食べて飲んでくんろ!」

 瞬く間にテーブルには大量の酒瓶と料理が用意された。

「今日は精のつくもの食べて、明日に備えるべ」

 そう言って、ウルドとチェドの前に次々と肉料理を運ばせた。

「どんどん飲むべ」

 そう言って、マローリンのジョッキに次々とブドウ酒が注ぎ込まれた。

「なんと、今日のお泊まりがエコノミープランですと。それはいかんべ! 英雄様と親衛隊員の方に対してそんな待遇をしたとなってはこの村の恥じだべ。すぐにロイヤルスイートルームを用意させるべ。え、宿賃? もちろん村で持つべ。村の救世主様方からお金を取ろうなんて、畏れ多いべ」

 なんだか最後の方には既に村を救ったことにされていた。面倒な事態になってきたなあとウルドは心配になり始めていた。

 ジルが席を辞したのは夜も大分更けてからだった。去り際には再びウルドの両手を握って涙ながらに「明日はお願いいたします」と何度も懇願された。

 ウルド達も床に就こうとなって、酒場の二階にある宿へ向かおうとする。するとウルド達を呼び止める声がした。

「あの、おにいさん達、もしかして最前線の戦場へ行くんですか?」

 そこにはエプロン姿の給仕女が立っていた。両手にはウルド達が使用していたジョッキやら皿を抱えている。

 その瞬間ウルドの心臓が高鳴る。

 ジルのせいでうやむやになっていたが、遂に女性側から声をかけてくるとは。——やはり彼女は俺に気があったのか!

「まあ、その予定だ」

 ウルドは努めて冷静に返答し、紳士的な自分を演出する。

 すると給仕女は、大きな目をぱあっと更に大きく見開き素早くウルドに近づいてきた。

 ち、近い、もう少しで体に、その、む、胸が触れそうだ。いきなり大胆な女だ。……しかしそれも悪くない!

「ほ、ほんと!」

 給仕女は大輪の花のような笑顔を咲かせる。先ほどまでのどちらかというと男っぽい雰囲気から突然若い女性の雰囲気へ様変わりした。

 ——可愛い。

 元々アルコールのせいで赤くなっていた顔が更に赤くなる。呼吸も速くなり正常に思考が回らなかった。

「どうしたんじゃ?」

 舞い上がって声が出なくなったウルドの代わりにマローリンが給仕女に尋ねた。——おいこら、今この女性と話しているのは俺だぞ、勝手に割り込むな。

 ウルドの心の叫びは届かず、女性はマローリンに視線を向けた。彼女は再び真剣な表情に戻っていた。

「あ、あたしを、戦場に連れてってください」

 そして頭を下げた。その瞬間女性が持っていた食器が大きな音を立てて一斉に地面にぶちまけられた。


  □ □ □ □ □


 頼み事というのは、来る時は次々とやってくるものらしい。

 村長ジルの話の次は給仕女だ。彼女は真剣な表情で、ウルド達に一緒に戦場に連れて行ってくれるよう懇願していた。一体、幾つのお願いを聞けばいいのだろうか。彼女の次に今度は調理場の店主が来たりしないよな?

 給仕女はヘレーネと名乗った。食事処の給仕はあくまでバイトであって本当は王立アカデミーの学生だという。

 明かりはウルド達のテーブルのところだけ点いていて、調理場やカウンターは既に暗くなっていた。外からは時々フクロウの鳴き声と、風で森の木々の葉がこすれる音が聞こえてくる。ウルド達以外に人の気配はしない。

 酒場にいるのは四人だけ。さすがにチェドは眠そうな顔をしていた。先に床に入るように促したが、ヘレーネの話を聞きたい、とは一言も発していないが、表情と態度でそう意思表示をしたため、時々目を擦りながらもじっと座っていた。

 ヘレーネは自己紹介すると、こちら側の紹介を聞くことなく、すぐに身の上を語り始めた。

「学位論文で異形のモノについて研究しててー。で、文献まとめるだけでもよかったんですけどー、今なら本物が見られるってことで、こりゃ、見に行かないとって思ったんですー」

 ウルドは先ほどから違和感を感じていた。ヘレーネのやたら語尾を伸ばしてアクセントを置く話し方もそうだが、名前自体に引っかかるものを感じていた。格段珍しい名前ではないはずだが……。

「え、この訛り? 出身が遠くの田舎でして。聞き苦しい所はごめんねー」

 ヘレーネはそう言って、「ははは」と笑う。その表情もとても素敵だった。

「っと、何処まで話したっけ? そう、戦場に行くって所ね。で、戦場を目指して出発したんだけどー」

「一人で? さすがに危ないだろう」

「それは大丈夫、戦場へ物資を運ぶ人達の集団に紛れ込んだから。いやー、狭い馬車の荷台にずっと隠れてたから、体中が痛くなったわー」

 この女、さらりと凄いことを言ってないか? 行動力があると言うか、無鉄砲と言うか。

「で、輸送部隊に付いて行ったはずなのに、なんで今ここにおるんじゃ?」

 マローリンが尋ねる。ヘレーネは今までウルドに向けていた視線をマローリンに移す。チッとウルドは心の中で舌打ちする。——俺と彼女の会話を邪魔するんじゃない、ジイさん。

「えっと……。さすがに体が耐えられなくなってねー。丁度馬車が止まったから、抜け出して外でしばらく休憩してたのー。そして気づいたら、あたしを置いて、勝手に馬車が行ってしまったのよー。酷いと思わない?」

 別に置いて行ったわけではないだろう。その部隊にとって、この女性は最初からいないことになってるし。先ほどの食器の件といい、少し間が抜けてる感じがする。……そんな所も見方によっては好感が持てる。って俺も既に彼女にぞっこんじゃないか! きっと相思相愛、いい関係を築けるはずだ。

「顔が気持ち悪いぞ」

 マローリンに小声で指摘された。ウルドは慌てて頬を力強く叩いてよからぬ思考を追い出す。その姿をチェドとヘレーネが不思議そうに見ていた。

 ウルドは「ゴ、ゴホン、続けて」と咳払いする。。

 ヘレーナが再び語り始める。

「でね、馬車に全部荷物置いていたからー、所持金も何もかも無くなってしまって。それでたまたま近くにあったこの村にやってきたわけー。無くなった資金を貯めるためにここで働いているの。そしたらおにいさん達に出会って、こりゃあたしの日頃の行いの賜物ってことかなー、と」

 そう言って、ヘレーネはウルドに向けてウィンクした。その表情にウルドの胸が鷲掴みにされた。思わず胸を押さえた。その姿をチェドが胡乱な表情で見つめている。

「ずいぶんな自信過剰女じゃな」

 マローリンも飽きれた様子で小さくつぶやいた。

 ヘレーネはウルドに頭を下げた。

「ってことで、よろしく。お、に、い、さ、ん」

 ウルドは思わず吹いた。大量の唾がマローリンの顔にかかる。マローリンは凶暴な目つきでウルドを睨みつけた。だが、今はそれを気にしている場合ではない。

 ——お、おにいさん、だと。

 先ほども何度かおにいさんと呼ばれたが、それはあくまで「若い」男性全般を称する一般名詞であって、特別な意味があるとは思っていなかった。しかし今度の彼女の発言は、明らかにおにいさんという部分が強調されていた。

 何だ、何の意図があるんだ?

 まさか、やっぱりあれか。何処かで聞いたことがある。好意ある男性への甘えの表現ってやつか。やっぱり彼女は俺に興味を持っているってことか! ……って、俺に妹属性なんてないぞ。そもそもそんな属性を期待する年じゃないだろ、俺もこのヘレーネという女性も。

「任せなさい。困った人があれば手を差し出す。国王親衛隊として当然の勤めです」

 そう言ってウルドは鼻息荒く、胸を力強く叩いた。

「さっきの村長の時とは随分態度が違うのう」

 マローリンが顔を拭きながら冷ややかな声で言う。その隣に座っていたチェドも先程からずっと不審そうな目つきをしていた。

 村長とは違う態度だと、そんな事はない。国民の守護者として公平正大であれ、士官学校時代に教わったその精神は、今でも血液のように体の隅々まで行き渡っている、はずだ。

 しかし、とウルドは頭をひねって考える。この女性、研究の為とはいえ、随分危ないことをするものだ。学生ということは指導する先生がいるはずだ。だとすると戦場調査も先生の指示か? 信じられない。そんな危険な奴、俺が一発ぶん殴ってやる。

 ちょっと待て、アカデミー、歴史学、先生。それにヘレーネ……。

 ウルドの目が見開かれる。全てが繋がってしまった。ウルドはヘレーネの左手薬指に指輪がはめられていることにようやく気ついた。

「ヘレーネさん……。その指輪は……」

 ウルドの質問に、ヘレーネは左手をひらひらと動かしながら答えた。

「これー?」

 ヘレーネはわずかに顔を赤らめる。

「何今更言ってるの。あたしよ。イェニーの婚約者のヘレーネ。ってあれ、大丈夫、お義兄さん?」

 弟の婚約者だと。

 ウルドはその場で突っ伏した。


  □ □ □ □ □


 翌日。

 ロイヤルスイートルームという名の簡易宿舎でも、ちゃんとしたベットで寝ることができて体は楽だった。

 しかし頭は痛かった。昨日の酒が残っていた、ということもあるが、それ以上に精神的なショックが大きかった。好意を持ってくれたと思った女性がまさか弟の婚約者だなんて。一歩間違えたらとんでもないことになっていた。

 ウルドの思いとは裏腹に空は雲一つない晴天だった。時々冷たい風が吹くがそれが逆に心地良い。狩りはうってつけの天候だった。

 ウルド達の竜狩りの助太刀に、ということでホイリヨ村の広場には村中の男達が二十人ほど、各々武器を持って集まっていた。村中から集まった精鋭達の声が聞こえてくる。

「こう見えても昔は兵隊をやっててな。その時の剣を持ってきたぞ。しかし五十年前のもんだから、錆び付いてないといいんだが……」

「隣のアドルフ。今日ぎっくり腰で行けなくなったとよ」

「ハンスの姿が見えんが? こういう時は必ず一番先に来ておったのに」

「ハンスのジイさんは十年前に逝っちまったじゃねえか。何ぼけてんだ」

 などなど。

 ウルドは頭を抱える。ジルが村の精鋭を集めました、と言った時に薄々予感はしていたが、想像以上だった。屈強そうな若い男達は一人もいなかった。労役に行ってしまったところを、突如竜が村のブドウ畑へ続く山の渓谷に居座ってしまったのだ。確かに今いる彼らではどうしようもなかっただろう。

「お、お義兄さん。お疲れ?」

 ウルドの前にヘレーネがやってきた。昨日の給仕のエプロン姿とは違い、長袖長ズボンの登山スタイルな格好をしていた。王都のアカデミーに席を置く、将来有望かどうかは知らないが歴史学者の卵で、昨日ウルド達について行くことを宣言した。そしてウルドの弟で同じくアカデミーに在籍し助手を務めているイェニーの教え子であり、婚約者。ヘレーネも最初酒場でウルドを見た時、イェニーの兄に似ているなあと思っていたが確証が持てなかった。それ故、じろじろとウルドのことを観察していたそうだ。

 なんて紛らわしい話だ。まあ思い出せなかった自分も悪いが。

「その格好、まさかヘレーネさんも俺たちに付いて来るのか?」

 ウルドはヘレーネを指差す。——彼女に怪我なんかさせたら弟に殺されるかもしれない。できればおとなしくしてほしい。

「もちろん行くよー。今や図鑑や分献にのみ語られる竜が見られるなんて、血が騒ぐわー」

 今集まっている人達の中で一番行く気満々なのかもしれない。

 そうこうするうちに、ジルが村の広場に現れ、集まった男達の前に立った。

「諸君、よく集まってくれたべ。今日こそ渓谷に居座った竜を退治し、わしらの生活を守るべ!」

 ジルが拳をあげると、村の男達からも「おー」と、ときのこえが上がった。声は大変勇ましかったが、数人は既に足が震え始めていた。竜に対する恐怖によるものなのか、年のせいなのか。……いやここは武者震いだと信じよう。

「そして、今回の竜退治。強力な助っ人が馳せ参じてくれたべ。まず、剣の名手にして名誉ある国王親衛隊、ウルド様!」

 ジルがウルドを紹介する。男達から盛大な拍手が湧き上った。ウルドを指差しては「頼もしい、これなら竜も追い払えるべ」「なんとたくましい体。昔のわしみたいだべ」などなど、感嘆の声をあげた。

 ジルは次にマローリンを指差した。

「希代の大魔法使い、マローリン様! この方の魔法は大地を揺るがし、異形のモノ達も恐れをなして逃げていくらしいべ」

 ジルの紹介に、マローリンは両腕を組み威厳たっぷりにうなずいた。しかし村の男達からは「頭大丈夫けえな、あのジイさん?」「どこかの大道芸人さんの間違いでねえか?」などとマローリンを怪しむ声があがった。マローリンが歯ぎしりしている。彼らの反応にご立腹のようだ。——いい気味だ。

「最後に、英雄ペルの末裔、チェド様じゃ! ゆくゆくは魔王を倒すお方。竜などひとひねりに違いないべ」

 ジルの紹介にチェドはひっと小さな叫び声をあげて、どうしたらよいものかとあちこちに視線を泳がした。案の定村人達からは「こっちも大丈夫けえな、まだ子供じゃろうに」「あんなか細い子が英雄だなんて信じられないべ」と、こちらもチェドを疑問視する声があがった。

 当然な反応であろう、ウルドは心の中で村人達に同意する。やはり期待されているのは厳しい鍛錬を積み、日々自分を磨いてきたこの俺、というわけだ。

 さあ村人達よ、俺に続くがいい!


  □ □ □ □ □


 ホイリヨ村の留守を守る男達を中心とした竜討伐隊が出発した。

 竜が居座っているという渓谷までは一時間ほどかかるらしい。

 道中は楽ではなかった。道は荷車用に整備されていた為、歩くこと自体は辛くはない。しかし、村の精鋭達を大勢引き連れている為、歩く速度が遅い。あちこちで「足が痛い」とか「持病のリウマチが」とか聞こえてきて、その処置にてんやわんやだった。竜と戦う以前に、彼らだけで畑の仕事ができるのだろうかと正直不思議に思う。

 更にウルド達の行く手を阻んだのが、野獣の存在だった。

 野獣といっても様々な種類がいる。ゲル状の軟体生物や首切りウサギがウルド達一行に襲いかかってきた。確かに一般人が不意をつかれて襲われた場合は危険な存在である。しかし、実戦には縁がなかったにせよ、兵士として十分鍛えてきたウルドにとって敵ではなかった。次々と襲いかかってくる野獣共を容易く打ち倒していった。

 今も一匹の大イノシシを一刀両断にしたところだ。

「さすがは天下無双の親衛隊ウルド様! 見事だべ」

 後ろの岩影に隠れていた村の男達から大歓声があがった。

 もう何度目のやり取りだろうか。村の男達は野獣が襲いかかってくる度にウルドの影に隠れ、一切戦おうとはしなかった。そしてウルドが野獣を倒すと割れんばかりの拍手と大歓声を送った。応援される方も嬉しいを通り越して恥ずかしくなってきた。

「しかし、なんで普段は人の往来がある道で野獣なんかが襲ってくるんだ?」

 ウルドは剣に付着した血糊を拭きながら、村人達と一緒に岩陰に隠れていたジルに尋ねた。

「それがあっしらにも。本来は大人しい獣達しかいないのですが。……あの竜が現れて以来だべ、凶暴な野獣が現れたのは」

 ジルと村人達は足をぶるぶると震わせながら一斉にうなずいた。

「竜の出現に刺激されて、野獣達が活性化したのかのう?」

 小さな岩に腰掛けていたマローリンが顎髭を撫でながら言った。ちなみにこのジイさんも「戦いが終わったら教えてくれい」とか言ってそのまま目を閉じてしまい、一切戦おうとはしなかった。クラーケンをも倒した魔法使いと自称する以上、少しは働いてくれるかと僅かに期待していたが、まあ期待した方が馬鹿だった。多分「一緒に戦え」と言ったら、「老人を酷使するとはそれでも親衛隊か」と返されるのは目に見えているので、何も言わないことにしていた。

「竜の影響で野獣が凶暴化、無い話じゃないかもー」

 ヘレーネは先ほどウルドが真っ二つにした野獣の遺骸をとても楽しそうに観察していた。地面に落ちていた小枝を使って、遺骸の傷口をつついたりしている。そして時々クスクスと不気味な笑い声をたてていた。これが好奇心の塊、学者魂なのか、それともただのグロテスク趣味なのか……。

「文献に結構そういう話があるのよー。竜や巨大な怪物に街が滅ぼされる話」

 そう言いながら、ヘレーネが魔物の傷口に小枝を突っ込む。

「で、そういう街って、実際は竜や怪物自身に滅ぼされるよりー、その影響で凶暴化したその他大勢の野獣達に滅ぼされることの方が多いのよ」

 ヘレーネの言葉に、後方の岩陰に隠れていた村の男達の顔は一斉に青ざめた。

「おい、不吉なことは言うなよ」

 竜や野獣の脅威に怯えて、下手すると滅ぼされかねない村に住んでいる奴らがすぐ近くにいるんだぞ。

 ウルドは隣に立っているチェドを見る。チェドも戦いから今までずっと震え続けていた。手には小振りのナイフが握られている。他の連中と違って一応戦おうとする気概はほめてやりたいが、当然戦力にはならなかった。ウルドは震えていたチェドの腕を掴んで「終わった、しまえ」と伝える。チェドはゆっくりとナイフをしまった。

「ご……」

 チェドの口から何か言葉が出てこようとしていた。しかしいつも通りと言うべきか、「ご」という言葉から次が続かなかった。チェド顔を伏せたままマローリンの方へ走っていってしまった。

 まったく、どいつもこいつも何を考えているのやら。

 野獣の遺骸の観察をしていたヘレーネが突然大声をあげた。

「お、面白いもん発見!」

 ヘレーネは手が血やら何やらで汚れるのも構わず遺骸の傷口に手を突っ込み、何かを取り出した。

 大きさは人の顔ほどもある平たいものだった。

「鱗だねー。大きいけど、何かな? おお、これがもしかして……」

 ヘレーネの続きの言葉は獣の鳴き声でかき消された。鳴き声は周囲の山々に響き渡り、木々の葉は揺れ、耳と腹がビリビリと痛んだ。大音声に耐えるため必死に耳を塞ぐ。額から汗が一斉に流れ出た。

 聞くもの全てを恐怖させる、そんな鳴き声だった。

 村の男達もチェドもヘレーネもマローリンもその場にしゃがみ込んで必死に耳を塞いでいた。

 ようやく鳴き声がおさまった。

 村の男達は全員揃ってゆっくりと立ち上がった。

 回れ右。

「「「「ギャーー、竜だーー!」」」」

 彼らは先ほどの鳴き声に負けない音量の悲鳴をあげながら、我先にと脱兎のごとく逃げ出した。

「なっ!」

 あまりの素早さにウルドは引き止める間もなかった。

 村の男達は一人残らずいなくなっていた。


  □ □ □ □ □


 元々期待なんてしていなかった。

 力ある若い男達は戦争に伴う労役に行ってしまったのだ。残されたのは第一線を退いた、余生を静かに過ごす人生の大先輩方。彼らには日の当たる暖かくのどかな部屋で静かにお茶でもすすって、温かい目で若者達の行く末を見守ってもらう、これこそが本来のあるべき姿のはずだ。

 しかし彼らは立ち上がってくれた。村が滅ぶかどうかの瀬戸際。戦争が終わるまでこの村を守っていかなければならない。戦場に行っている息子達の帰る場所を守らなければならない。外の人間に力を借りることにはなったが、やはり最後にこの村を、故郷を守るのは俺達だ。彼らはそう言って、危険を承知の上でこの竜退治に同行してくれた。

 そんな彼らの姿を見て。実を言うとウルドは少しだけ期待をしていた。野獣を前にしてさっさと隠れてしまったとしても、竜と対峙した時こそ、彼らは村を守る為、その秘めたる力、己に宿りし真の力を発揮してくれる、と。

 だがしかし、ウルドは考え直す。武官なのか文官なのかよく分からない身分ではあるが、親衛隊はやはり軍人である。つまりウルドは軍人だ。その本懐は国民の生命財産を守ること、それに尽きる。一般住民を危険な場所に同行させること自体が間違っていたのだ。

 だからこそ今の状況は正しい。国家の宝たる国民を守る為、俺は一人でも戦い抜くぞ!

 などと茶番はこれぐらいにしよう。

 ウルドは現状を冷静に分析する。

 今ウルドの目の前には一匹の竜がいる。ウルドの身の丈の五倍はあろうかという巨大な胴体。全身のそのほとんどが堅そうな鱗に覆われ、背中には大きなコウモリのような翼、両前足には巨大なかぎ爪、耳の後ろからは大きな角がそれぞれ生えている。右側の角だけ半分欠けていた。半開きになった口からは大きな牙が覗いている。そして時折牙の隙間から白い煙のようなものが漏れ出ていた。

 そんな凶悪そうな竜とウルドは対峙している。


 村の男達が全員いなくなった後、残されたウルド、チェド、マローリンとヘレーネの間で緊急作戦会議が始まった。

「俺たちも戻るか」というウルドの意見に、

「さんざんタダ飯にタダ酒それにタダ宿したんじゃ、後には退けんじゃろ」と、マローリンに痛い所を突かれた。一番飲んで食ってたのはお前だろ、という大人げない突っ込みをウルドはしない。

「あたしは、食べてないよー」と、終始笑顔のヘレーネ。

「ヘレーネさん、危険だしやっぱり戻った方が」

「お義兄さん、そりゃないでしょー。ここまで来たんだし、竜を一目見るまでは帰れないってー」と、口を尖らせる。

 チェドも「行くべきだ」と一言も喋っていないが、表情と態度で訴えていた。

 三対一の絶対的不利な状況で、ウルドはあれやこれやと理由を付けてこれ以上の前進を止めようと訴えたが、誰も聞く耳を持たなかった。

「みんな本気か? この人数で本当に竜に勝てるのか?」

 一人不安を口にするウルドにマローリンが力強く肩を叩き、ウルドに活を入れた。

「若いの、お前ならできる!」ぐっとウルドに顔を近づけた。「これまでのお前の戦いっぷりを見てわしは確信した。お前の戦闘能力は非の打ち所がない! その力、もし戦場で発揮すれば一騎当千疑いなしじゃ。異形のモノだって恐るるに足らず。いわんやドラゴンをや!」

 竜と異形のモノってどっちが強いんだっけ? という疑問が浮かんだが、ウルドが口を挟む余地なく、マローリンは早口でまくしたてた。

「さすれば、今こそドラゴンの首を打ち取り、その名を世間に轟かせようぞ。ドラゴンスレイヤー、ウルド=アイラーの名を!」

 パチパチとチェドとヘレーネの拍手が聞こえてきた。


 そして気づいたらウルドの目の前に竜が鎮座していた、というわけだ。

 どうしてこうなった! と考えるのは後の祭りだ。

 やるしかない。もうヤケクソだ。

 ウルドは剣を両手で構え、腰を低く落とし竜を睨みつける。竜もじっとウルドを見ている。竜との距離はまだ少しある。

 ウルドはちらりと後ろを振り返る。後方の大岩にマローリンがもたれかかっていた。両腕を組んで、三角帽子の影に隠れて表情はよく見えなかったが、少なくとも戦おうという意思は全くなさそうだ。

 チェドは体中を震わせて岩の影に隠れていた。それでも顔だけ出してウルドを心配そうに見ている。彼の戦意も完全に消失していた。

 ヘレーネにいたっては大岩の頂辺に座り、小型の望遠鏡を覗き込んで、時々歓声を上げていた。当然戦う気など微塵もなく、楽しそうに竜を観察していた。

「ひやー、図鑑で見るのとは大違い。感激! チェド君も見る?」

 ヘレーネは小型望遠鏡をチェドの方へ放った。チェドは危うく取り損ねそうになったが、何とか落とさずに済んだ。恐る恐る小型望遠鏡を覗き込んだ。

 結局最初から最後まで戦うのは俺だけか、そう思って舌打ちする。

 ウルドは改めて竜を観察する。体格差は歴然。力の差も想像するまでもない。勝てるとしたら素早さか。見るからに動きは鈍そうだ。機敏な動きでかく乱させ、隙を見て足を狙っていくのがいいだろう。足を集中的に攻撃して転倒させれば勝機が見えるかもしれない。

 ウルドは竜の顔に視線を合わせたままゆっくりと竜に近づいていく。そんなウルドの姿を竜もじっと見つめている。

 一歩、一歩、少しずつ、一歩、一歩。

 ウルドは呼吸を落ち着かせながら竜に近づく。そしてウルドがまた一歩進んだ時、竜の頭がピクリと動いた。

 竜の間合いに入った。

 来る!

 ウルドは身構える。

「ブアックショーン!」

 突然の大きなくしゃみが緊迫の空間を叩き壊した。マローリンのくしゃみだった。

 くしゃみに反応して竜は遠くにいるマローリンに首を向けた。

 ウルドから視線が外れた。

 その幸運を逃さない。ウルドは竜の足下目掛けて一気に走り出した。

 竜が再びウルドに視線を向けた時には、既に竜の足下にまでたどり着いていた。竜は左前足を持ち上げると、ウルド目がけて振り下ろした。その動きは緩慢でウルドは難なく前足の攻撃をかわす。そして回避際に前足に剣を叩きつけた。

「っ……!」

 鈍い音と共に、剣は前足を覆っている鋼のように硬い鱗によって弾かれた。その反動でウルドの体が大きく仰け反った。そこに今度は竜の右前足が振り下ろされる。ウルドは体をよじらせて間一髪回避した。

 一旦竜から離れ間合いを取る。

「あぶねえ、あぶねえ」

 ウルドは大きく息を吸って気持ちを落ち着かせる。

 予想通り竜の動きは鈍く、避けるだけなら難しくはなさそうだ。あとは堅い鱗に覆われていない所を狙えば……。

 ウルドは竜の体を見回す。体中のほとんどは鱗に覆われていた。覆われていない所といえば、まず竜の内側の首から腹にかけて。しかしそこまで剣が届かない。あとは前足の掌側。狙うのはそこか。

 ウルドは再び全速力で竜に向かって走った。

 今度は竜がウルドに向かって口を大きく開いた。

 ——まずい。

 ウルドはとっさに横へ飛び退き、竜の口が向いている方向から体を反らす。次の瞬間、竜の口から大きな火の玉が吐き出され、ウルドのすぐ横を通り過ぎていった。そのまま火の玉は崖にぶつかって、大きな音を立てて消滅した。

「すごいわね」

「これはなかなか」

「……!」

 後方でウルドと竜の戦いを見物している連中から感嘆の声が漏れる。

 なに普通に感心してるんだよ。あれに当たってたら、良くて全身火傷、普通は即死だぞ。

 ウルドは起き上がり、火を放った後で隙だらけ竜に向かって走り出した。一気に竜の前足まで近づくと、今度は鱗で覆われていない掌部分を剣で斬りつけた。

「ギィィィ!!」

 竜は耳をつんざくような悲鳴を上げる。そしてバランスを崩したのか、竜の巨大がゆっくりと倒れた。

「あれ?」

 随分あっけなく竜が倒れたことに、ウルドはつい間の抜けた声を発してしまった。後方の傍観者達からも「すごい!」と歓声が沸き上がった。

 今や竜の喉元が無防備に横たわっていた。ここを剣で突けば竜といえども無事ではいられまい。拍子抜けだがともあれ勝利は目前だった。

「もらった!」

 ウルドは剣を構えて竜の喉元めがけて突っ込んだ。

 その時、

「ダメーー!」

 渓谷中に響き渡る叫び声に驚いてウルドは足を止めた。そして辺りを見渡す。

 誰の声だ?

 ウルドはマローリンを見る。いや違う、マローリンの声じゃない、もっと若々しい声だった。次にヘレーネを見る。彼女も違う。女性のような高い声だったがもっと子供っぽかった。

 子供の声? まさか。

 マローリンとヘレーネの視線はある一点に向かっていた。ウルドも彼らの視線の先に目を向ける。

 三人の視線が一点で交わる。

「その竜、殺しちゃ、ダメ」

 チェドがもう一度ウルドに向かって叫ぶ。そしてウルドに向かって走り近づいてきた。朱色の瞳が竜のある一点に向けられている。

「殺しちゃ駄目って、ってお前……」

 ウルドは、チェドが喋った内容よりもチェドが喋ったこと自体に驚いた。

 ——普通に話せるじゃないか。なら最初からちゃんと話せよ!

 ウルドの呆気にとられた表情を尻目に、チェドは竜に近づく。

「この竜、怪我してる」

 チェドは竜の翼の付け根を指差した。ウルドもチェドの指の先を見る。指差した部分は血でまっ赤になっていた。

「俺、あそこに攻撃はしてないぞ?」

「多分、もっと前から、怪我してるんだと思う」

 ウルドは竜の体をもう一度見回した。

 よく見ると竜の体中の鱗に傷がついていた。古い傷もあるが比較的最近できたと思われる傷も多い。中には鱗が欠けていたり剥がれていたりして、肉がむき出しになっている部分もあった。

 つまりどういうことだ?

 竜は最初からかなり傷ついていた。だからあっけなく倒れてしまったということか。だからといって竜の止めを刺すのをやめることと何の関係がある。こいつのせいで村は困ってたんだろ。

 地面が揺れた。竜がゆっくりと立ち上がった。

 ウルドとチェドは思わず後ずさる。

 竜はウルドとチェドを睨みつけた。竜は口を開ける。真っ赤な長い舌、巨大な牙がむき出しになる。

 やばい。こんな近距離で再び火を吐かれたら避けられない。

 ウルドの体中から冷や汗が溢れ出る。——言わんこっちゃない。さっさと止めを刺すべきだった。

 竜は青く光る目を細めた。

「少年よ、ありがとう」

 竜が話しかけてきた。


  □ □ □ □ □


「竜が人語を話すのは、珍しいことじゃないよー。例えば五百年前の文献に人と竜が一緒に暮らしてた部族がいて、ドラゴンライダーと呼ばれてた話が……」

 後にヘレーネは竜について熱く語ってくれた。竜の知性は人間に匹敵する。百年生きた竜は人語を解する、そうだ。当然ながら人間と長期間接触したことのある竜に限る、らしい。

 では今目の前にいる竜はかつて人と交流したことがあるのだろうか?

 竜は流暢な言葉でチェドに話しかけてきた。

「私は、ゲドレイドの息子オムレイド。少年よ、貴方が止めてくれなければ、私はこの野蛮な賊に命を奪われるところであった」

 オムレイドと名乗った竜はウルドを睨みつけ、口を大きく開けて獰猛な牙を見せつけて威嚇する。

「貴方は、私の命の恩人」

 竜はチェドに向かって恭しく頭を垂れた。全く正反対の扱いだった。

 チェドは竜の鼻頭を撫でた。

「傷、大丈夫?」

 竜は目を細める。

「なんと心優しき少年。その隣にいる野蛮者とは全く違う」

 竜は再びウルドを睨みつける。

 何かが根本的に間違っている。村の人達の要請でチェドも含めてみんなで竜退治に出発して、誰も戦わないからしようがないので俺一人で戦って。そうしたら、たまたま竜の傷に気づいて戦いを中止させたチェドが竜に感謝され、一方村の要請に忠実に従った俺は竜に恨みを持たれて……。腑に落ちない。むしろ最初に竜退治を拒んだのは俺の方じゃないか。

 ウルド達のすぐ後ろにやってきていたマローリンが竜に話しかけた。

「如何にも。その少年は大英雄ペルの末裔じゃ。そこにおる野蛮兵士とは格からして違うのじゃ」

 ジジイ、お前まで言うか。ウルドは歯を噛みしめ、両の拳を強く握りしめる。

「なんと、ペル様のご子孫とは」

 竜は目を見開く、といっても元々顔の大きさに比べて目が小さいのでほとんど変化が分からないが、驚いた様子を見せたのは確かだった。

「知っておるのか? ペルを」

「ええ、その昔私の父ゲドレイドがペル様に助けられました。まさか親子二代に渡って、ペル様とそのご子孫様に救われるとは!」

 竜の目からポタポタと涙が溢れ出てきた。辺り一面あっという間に水浸しになってしまった。

 今度はヘレーネが目をきらきらさせながら近づいてきた。竜を近くで見れるのがこの上なく嬉しいらしい。竜の涙でずぶ濡れになるのも構わず竜に近づき、話しかけた。一体どんな質問をするのか? と思ったが、その内容は至ってまともなものだった。

「あの、ところであんたは何故こんなところにいるの? 村の人が困ってるんだけどー」

「ああ、ここの住民には申し訳なく思っている」

 竜の話によると、普段はもっと山の奥地で暮らしていた。しかしある時、移動中に大怪我をしてしまった。怪我自体は竜のただの不注意だったそうだ。そして体を休める為にこの渓谷に降り立ったという。

 どうしてここだったのか? という質問には、

「怪我を治すには、酒を飲むのが一番なのだよ」と竜は言い放った。

「「「「は?」」」」

 ウルドのバスとマローリンのテナー、ヘレーネのアルトとチェドのボーイソプラノが見事にハモった。四人の気持ちが揃ったのはこれが最初で最後かもしれない。

「何を驚いている? 常識であろう」

 竜はウルド達が驚いていることに驚いたようだ。

 酒は百薬の長という言葉があるにはあるが、傷が治るなんて聞いたことはない。それはこの竜の勝手な妄想だろう。

「とにかく、私は酒の匂いを辿ってこの渓谷にたどり着いたわけだ。そうしたら、私の血の匂いを嗅ぎ付けて、野獣共が私に襲いかかったのだ。その為余計傷が増えてな。動くに動けなくなってしまったのだ……」

 野獣が活発化した理由もやはりこの竜のせいだった。

「私はここで傷を癒そうとしただけであって、人間を襲うつもりなど毛頭ない」

「おい、俺を炎で丸焦げにしようとしただろ」

 ウルドが抗議する。

「野蛮者が私に襲いかかってきたからだ。正当防衛だ」

 ウルドが戦いを始める前から竜がやる気満々に見えたのは気のせいだろうか。

「じ、じゃあ、話せるなら最初から話せよ」

「……それは、……お前が旨そうだったから」

 さらっと小声で恐ろしいこと言いましたよ、この竜。知能が高いといっても所詮は獣。やっぱり止めを刺しておけばよかった!

 ウルドと竜がにらみ合うのをチェドが間に入って制止した。そして竜に向かって尋ねた。

「村の人。襲わない?」

「当然。我が父ゲドレイドの名にかけて、人間に危害を与えることなどしない」

 本当かよ、と突っ込むのをぐっと我慢する。ここで突っ込んで話がこじれても面倒なだけだ。

「というわけじゃ、竜退治は終いじゃな」

 マローリンはそう言ってウルドの肩に手を置いた。口だけ笑ったマローリンの表情にウルドの堪忍袋はそろそろ破れそうだった。


 結局竜の怪我を治療してやることになった。

 ウルドが所持していた薬をヘレーネが竜の翼の付け根に薬を塗ってやった。ウルドが手伝おうと言ったがオムレイドが体に触れさせてくれなかった。とことん信用されていない。

「あと、村の人に伝えて酒を持ってこさせてやろう。一番の薬なんじゃろ」

 マローリンがそう言いながら、ジョッキを持って酒を飲み干す真似をして、にやりと笑った。それにつられて竜も口を開ける。ぼたぼたとよだれが出ていた。そのやり取りを見て、竜はどれくらい酒を飲むんだろうか? という素朴な疑問が浮かんだ。酒を全部飲み干して、やっぱり村が滅亡、なんてことにはならないだろうか。……せめて土産分は残しておいてほしい。

 日はすっかり傾き、空は茜色に染まっていた。最後に竜はチェド達に何度も何度もお礼を言った。決してウルドの方は向かなかったが。

「今日のご恩決して忘れません。もし貴方様に万が一の事がありましたら、必ずやお守りいたします」

「ありがとう」

 そう言ってチェドが竜の頬を撫でた。

「かつて私の父ゲドレイドも、貴方様の先祖であるペル様にご恩を受けました。しかし、あの時、ペル様に恩を返せなかった事が心残りだと何度も私に語っていました。二度と過ちを繰り返しません」

「……分かった、信じてる」

 チェドの返事は抑揚のない無感情だった。ただ、今までのチェドからは全く感じられなかった大人びた雰囲気が僅かに感じられた。


  □ □ □ □ □


 夜。ホイリヨ村の酒場。ウルド達を取り囲むように村中の人々が集まっていた。マローリンはその群衆の中心に立って演説よろしく事の顛末を語っていた。

「……そして決着がつかぬまま、徐々に竜に押されはじめた。絶体絶命、親衛隊最強の兵士ウルドもこれまでか!」

 村人達は固唾を飲んで、マローリンの次の言葉を待っていた。

「誰しもが諦めかけたその時、全てを見抜いた大英雄ペルのご末裔であられるチェド殿が、彼らの仲裁に入ったのじゃ。さすがの竜も英雄の末裔の言葉には従い、恭順の意を表した!」

「おおっ!」

 村人達から一斉の感嘆の声が漏れる。

「わしゃあ、この子がきっとやってくれると信じてたべ」

「ありがたやありがたや」

「さすが英雄殿。生きててよかったわ」

 村人達は、マローリンの講演に耳を傾けながら、チェドに向かって手を合わせたり、頭を深々と下げている。朝とは百八十度違った反応だった。

 チェドはさっきから黙ったまま、怯えるように村人達を見ていた。竜の元から戻ってからチェドは再び一言も喋らなくなっていた。それを肩代わりするかのようにマローリンが喋りまくっているのだった。

「何を嘘八百、ある事無い事……」

 ウルドはマローリンの演説を横目に見ながらつぶやく。後で村人が竜から話を聞いたらどうなることやら。

 ウルドはジョッキを一気にあおった。——やはり一仕事終わった後の酒は最高だな。

「あら、お義兄さん。チェド君のおかげで万事解決したのは事実なんだしー」

 ヘレーネが空になったウルドのジョッキにブドウ酒を注いだ。

「いや、あれは俺が勝ってた。本当だったら今頃俺はドラゴンスレイヤーの称号を……」

「でも、あの竜。戦う前から怪我してたんだし。それで勝った負けたなんて言うのは、公平じゃないわよ」

「……」

 あまりに正論で言い返せない。手負いの状態であの強さだ。万全な体勢だったらどうなっていただろうか。

 竜を倒してやるなんて、冷静になってみればどう考えても妄言だ。戦った後ならよく分かる。……いや、戦う前から分かっていたはずだ。士官学校時代も今の親衛隊でも個人戦闘能力は一番か二番だという自負はあった。しかし、この世に俺より強いものなど存在しない、などとうぬぼれるような自信屋でもない。何故あの時、勇ましく竜に挑んでいってしまったのだろうか。

 あと気になるのは、あの竜オムレイドが言った言葉。「あの時、ペル様に恩を返せなかった事が心残りだ」と言っていた。あの時とは何のことだろう?

「……お義兄さん、大丈夫? 酔っぱらった」

 ヘレーネがウルドの目の前で手を振っている。その声にウルドは思索の旅から戻ってきた。

「大丈夫。酔っぱらってない。ブドウ酒をもう一杯頼む」

「えっと、あたしがさっき注いでから、一滴も手を付けてないけど……」

 ……少し酔っぱらったようだ。ヤケ酒が過ぎたかもしれない。

 いつの間にやらマローリンの大講演会は終わっていて、村人達がめいめい感想を言いあっていた。

「本当に、英雄様々だ」

「それに引き換え、国の兵隊さんと来たら、口ばっかりじゃのう」

「んだべ、んだべ」

 ウルドは村人達に白い目で見られていた。道中の野獣退治におけるウルドの活躍は綺麗さっぱり忘れ去られていた。こちらも朝とは真逆の評価に変わっていた。

 随分な言われようではないか。任務で忠実であろうとしたら、チェドやマローリンから冷たい目で見られる、それではと村人の願いを聞いて必死で戦ったというのに、最後は村人達から冷たい目で見られ、散々だ。ウルドは涙目になりながら独りごちた。

「俺、何か悪い事したか?」

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