降水確率60%
1
朝、窓の外は灰色だった。厚い雲が空を覆い隠し、嫌な雰囲気を漂わせている。登校中に雨が降らなかったのは幸いだったが、午前九時からの降水確率は六十パーセント。この地域では五十パーセントを超えるとほぼ確実に降る。放課後までには止んでいて欲しいと願いながらあたしはため息をついた。
「かなっち、今日も盛大なため息ですな」
声のした方に視線だけ向けると、よく見知った顔がそこにあった。
「何よミサキ、それじゃあたしがいつもため息ついてるみたいじゃない」
「私はかなっちがため息ついてないとこ見たことないよ」
あたしが反論すると、ミサキはコロコロと笑う。そういうことをミサキが言っても誰も怒らないし、嫌わない。それが可愛い女子の特権。かわいいは正義なのだ。
「で、何か言いたいことあるんでしょ? また新しい男ができたとか?」
あたしは状況打破のために用件をズバっと言い当てる。岬が朝っぱらから用もなくあたしのところへ来るはずがないのだ。
「あ、やっぱりわかる?」
ミサキはニタリとだらしない笑みを浮かべる。心なしか顔が少し赤い。
「アンタが分かりやすいだけ。で、今度は誰を手篭めにしたわけ?」
「えっとねぇ……C組のマコトくん。キャー!」
あたしの皮肉など一切聞こえていないらしく、一人姦しく騒いでいる。文字通り女三人分煩い。
「だからバスケ部のマネージャー始めたわけか……」
ミサキの言うマコトくんとはバスケ部の主力メンツのひとりである。しかし―――
「あれ、確か彼って彼女いなかった?」
マコトくんには中学から付き合っている彼女がいたはずだ。それなのに彼がミサキと付き合っているということは二股かあるいは―――
「まさか、寝取った?」
「ちょ、人聞きの悪いこと言わないでよ! いくら惚れっぽい私でもフリーにしか手ぇ出さないもん!」
勘に障ったのか、ミサキは声を荒げて抗議する。
「ジョーダンよ。で、なんで別れたん?」
別に興味なんてないけど、ミサキがして欲しい問いはこれだと思ったので訊いてみた。
「えっとね、高校入って部活でスタメンに選ばれて忙しくなったせいで付き合い悪くなったからって振られたんだよ、マコトくん。カワイソーだよね!?」
ミサキは興奮気味に身を乗り出してあたしに同意を求める。
「ま、彼女にとってマコトくんはその程度の存在ってことだったって事ね」
きっとその彼女は彼氏がいる優越感に酔いしれていたのだろう。哀れなのは果たして振られたほうか振ったほうか。
「ホントに好きならマネージャーくらいやれって思うよね!」
「そーね。その点に関してはミサキの方が何倍も素敵な彼女さんだわ」
「でしょ!?」
「でも、マネージャーの仕事ってめんどうじゃない? 自分の時間もほとんど取れないし」
「分かってないなぁ。真の恋の前にはそんなのただの陸上用ハードルでしかないの。それに、コートで汗水流して頑張るマコトくん見てるだけでご飯三倍はイケちゃうんだからっ」
なんとなく言いたいことはわかったが、何を言っているかわからなかった。ついでに言えば、使いどころを間違えた言葉が多分に含まれていた。
「あっそう、じゃ頑張って。アンタの恋が一秒でも長続きすることを祈るわ」
いい加減どうでもいい話の相手をするのも面倒になったので、あたしはテキトーに話を切り上げ立ち上がる。
「ありがと。私もかなっちに素敵な出会いがあることを祈ってる」
美咲はウィンクを決め、クスリと笑う。あたしは返事の代わりにため息をついて教室を出た。
2
学校の水道に備え付けてある鏡で身だしなみをチェックしている女子の後ろを通り過ぎ、あたしは女子トイレの鏡の前に立つ。鏡を覗き込むと向こう側のあたしが見つめ返してくる。
「素敵な出会い、ねぇ……」
ミサキが「命短し恋せよ乙女」なら、あたしは「来る者拒まず、去る者追わず」だ。あたしの辞書には積極性のという言葉がない。それはもう数々の友達から「枯れてる」と評されるほどに。勿論、恋愛小説は好きだし面白いと思うが、現実の恋愛は「好き合ってる」だけじゃ済ませてくれない。個人的問題から社会的問題、さらには性の問題が常につきまとう。
「はぁ、メンドクサ……」
髪が乱れていないことをチェックしたあたしは女子トイレをあとにした。
トイレを出てすぐ、あたしはふと廊下の窓の外を見た。雨は降っていない。けれどどんより曇っている。
「あたしみたい」
あたしは笑って、また歩き出す。
「ねぇちょっと!」
不意に、誰かがあたしに声をかけた?」
「ん?」
あたしが見ると、そこには男子がいた。男子があたしを見て一瞬ひるむ。あたしが振り向かずに肩ごしで見たせいで睨んだようになったからだろう。そうであってほしい。
「これ、落としたぞ」
恐る恐るというように男子が差し出したのは、何かの布だ。あたしのハンカチだった。
「あぁ、ごめん。拾ってくれてありがと」
あたしは男子からハンカチを受け取り、上着のポッケに入れる。
「あ、ちょっと待った」
が、なぜか突然男子があたしを引き止める。
「ナニ?」
「……」
男子は答えず、代わりに折り畳んだ紙を私に差し出した。
「ん?」
こんなもの落としただろうか。そう思いつつ受け取ると、男子は「待ってるから」とだけ言い残し、走り去っていった。
「はい?」
一瞬だけ理解できなかったが、すぐに分かった。よくよく考えればこんな経験は前にもあった。あたしはその紙をハンカチと同じポッケにつっこみ、今度こそ教室に戻った。
3
三時間目の体育までに雨が降らず、結局体育は外でやることになった。
「あー、外とかマジダルイわ……」
ミサキはでっかい溜息をつく。
「ひっどい顔。彼に見られたら即破局だわ」
「マコトくんの前じゃ絶対しないから大丈夫だし」
「あっそ」
そのうちボロでても知らないから。言いかけて、バカらしくなったのでやめた。あたしが着替えをはじめると、隣のミサキがしげしげとあたしを見てくる。
「相変わらずムダな肉が一切ないよねぇ。胸も含めて」
「一言余計。あたしは別になくても困らないからいいの」
「え~、でもないといざという時に困るよ? コレとか」
ミサキはそう言って自分の胸を寄せて上げる。
「キモッ、たとえあっても絶対しないわ……」
「大抵の男子は喜んでくれるよ?」
「別に喜ばせる必要ないし、そんなヤツと付き合わないから」
女の価値を胸の大きさで決めるようなクズ野郎は死ねばいいし、ましてそんなことを頼むヤツがいたら、あたしはイチモツをソッコー噛み千切る。
「まぁ、かなっちに彼氏なんて出来っこないから関係ないか」
ミサキは勝ち誇ったような笑みを浮かべ、得意気に鼻を鳴らす。
「余計なお世話だっつの」
あたしはそう吐き捨て、さっさと着替え終えてグランドへと向かった。
今日の体育はハードル走だった。ハードル走なんて陸上部でもない限りやる必要性も意味もない競技だ。けれど、カリキュラムに組み込まれているなら仕方ない。そう、仕方ない。
「アンタ帰宅部のくせに全然衰えてないじゃない」
一度目の測定を終えたあたしのもとに、嫌な奴が来た。中学時代、同じ陸上部で同じ短距離のミカだった。
「別に、そうでもないよ」
「何もしてなかったらこんなに走れないでしょう。逃げたくせに未練がましく練習してるんでしょ?」
ミカは昔からあたしをライバル視していて、何かとあたしに突っかかってくる。相変わらず面倒なやつ。
「ジョーダン。あたしは陸上を捨てたの。今は太らないように運動してるだけ」
「あ、そう。また戻ってきて私に惨めに負けに来てくれると思ったのに、残念ね」
ミカは踵を返すと、水道の方へ歩いて行った。
「かなっちまた絡まれてるし。とんだ災難だこと」
タイミングを伺っていたらしいミサキは、他人事だと思っていることを隠しもせず、薄っぺらい同情をよこす。
「心配してくれてありがとう。別に慣れてるし」
慣れは恐いなと心中で呟きつつ、水道の方を見やる。
「でもさぁ、リアルツンデレってマジウザくね?」
ミサキはリバースする五秒前のような顔で水道の方を睨む。
「そうかもね」
あたしはそう嘘をついた。あたしが現役だった頃はまだツンデレだったかもしれない。だが、あたしが陸上を捨ててからはそうではなくなった。言動の裏に潜む羨望や一抹の好意は、今となっては憎悪と憤怒に姿を変えあたしに牙を向けている。ミカはあたしが陸上を捨てたことを許していないのだ。
「ま、どうでもいいケド」
けれども、誰がどんな理由であたしを恨もうが関係ないし、あたし自身(今となっては)結構どうでもいい理由で陸上を捨てた。世の中なんて案外どうでもいいことで成り立っている。
「ねぇ、放課後ヒマなら駅前ブラつかない?」
唐突に、ミサキはそんなことを言い出した。あたしはミサキが何を言っているのかすぐに理解した。
「雨が降らなかったらね」
あたしは曖昧に答えて、鈍色の雲で覆われた空を仰いだ。
4
四時間目、窓の外は雲行きがますます怪しくなり、今にも雨が降りだしそうだった。授業中、あたしはふと今朝のラブレターのことを思い出し、おもむろにポッケから取り出す。入れっぱなしにしていたせいで少しよれている。ミサキが知ったら怒りそうだ。
『今日の昼休み 屋上にて待つ』
B5用紙たったその一言しか書いておらず、あたしはそのあまりの無駄遣いぶりに思わず、
「……これじゃ、ハタシジョーだな」
そう言って、苦笑いしてしまった。しかし、そこであたしはあることに気づいた。
「(そう言えば、あたしアイツの名前知らないな……)」
面識はない上に、ハンカチを拾ってもらっただけだし、何よりラブレターに名前が書いていない。
「(名前くらい書けよな……)」
あたしは溜息をつき、窓の外を見る。外ではついにポツリポツリと雨が降りだしているのが見えた。
四時間目が終わる頃には雨は本降りになっていた。あたしはせっせとノートや教科書をしまい、机の上に弁当を広げる。
「今日も色とりどりの弁当だこと」
ミサキはあたしの机の上に購買で買ってきたパンを置き、前の席にどかっと座る。
「何か用?」
「ナニ? 用がなくちゃかなっちと一緒に昼メシ食べちゃダメなわけ?」
ミサキはドスの効いた声であたしを睨むが、あたしは答えないまま箸を取り出し、手を合わせる。
「シカトとかヒドっ。確かに用があったから来たんだけどさ」
ミサキは小さく舌打ちをして、買ってきたやきそばパンにかぶりつく。
「で、用件は何? あたし昼飯終わったら用事あんだけど」
「は? 用事?」
「あたし宛にハタシジョーが来てるからさ」
さらっとあたしがいうと、ミサキは意図を即座に汲み取り、目を見開く。が、すぐになにか納得したようにしきりに頷く。
「はは~ん。それでさっきニヤけてたわけかぁ」
見られていたのか。あたしは少しだけ顔が熱くなるのを感じたが、振り切るように弁解する。
「あれは内容が滑稽すぎて苦笑いしただけ」
あたしは食べ終えた弁当にフタをしてから、ラブレターを取り出す。
「うわっ、ぐちゃぐちゃじゃん! ありえなっ!」
「それじゃ、あたしは果し合いに行ってくるわ」
案の定怒りを露わにしたミサキからの追撃を逃れるため、あたしは足早に教室を出た。窓の外を見ると、雨がしきりに窓をたたいていた。
「屋上にいなかったらぶっ飛ばす」
あたしは呟いて、屋上目指して階段を上った。
屋上への出口には誰もいなかった。あたしはてっきりここにいるのかと思っていたが、違ったらしい。
「うわ、バックレやがった」
そう思い、あたしは拳を温めたが、よくよく見たらドアの脇に一本の深紅の傘が立て掛けてあった。あたしは傘を手に取り、屋上へと出た。屋上には人がいた。顔は見えなかったが、間違いなく今朝の男子だ。
「お、来てくれたんだ。あんがと」
あたしに気付いたソイツは振り返ると、顔をほころばせる。
「よく告白に最悪のシチュをチョイスするる気になれるわね。シューズも靴下も濡れるじゃん」
あたしは足元を見ながら悪態をつく。屋上を叩く雨は跳ねてあたしのシューズを既にだいぶ濡らしていた。
「悪いね。でも、雨が好きな俺には最高のシチュなんだ。こうして告白の場所に選ぶくらい」
ソイツは笑いながら、けれど大真面目にそう言った。
「ブフッ、何ソレ?」
「っせぇな、ロマンチストなんだよ俺は!」
何がロマンチストだよ。とか、内心嘲笑ったが、そういう発想は嫌いじゃなかった。
「清々しいほどの馬鹿ね。でも、肝心なことまだ行ってなくない?」
それと、バカっぽいセリフを大真面目に言えるバカも嫌いじゃない。むしろ好きなくらいだ。面白いから。
「そうだった……。えっと、その……」
ソイツは意識したとたん急に挙動不審になり、目が泳ぎだす。目が四種目メドレーを泳ぎ切ったところで意を決したのか、あたしと目が合う。顔は茹でダコみたいだ。
「俺、栗原のことが好きなんだ。だから、その、俺で良ければ……つ、付き合ってくれ!」
ところどころセリフをつっかえたが、最後まで視線を逸らさずに言い切った。告白の最低条件はクリアだ。しかし、あたしは肝心の相手の人柄どころか名前すら知らない。かと言ってあっさり断ってしまってはつまらない。あたしの中の小悪魔が不意に耳元で囁いた。あたしは囁きに従って答えた。
「うーん……保留!」
「は?」
「だから保留。あたしアンタのこと名前すら知らないし。でも、それで断っちゃアンタが悲しすぎるでしょ? だから保留」
全く予想していなかったであろうあたしの発言に、ソイツは呆然としたままあたしを見ていた。
「でも、保留って具体的にどんなジョーキョ?」
頭の回転が止まっているのか、察しが悪い。
「要するに、アンタが諦めさえしなければ何度でも告白していいってこと。さらに言うなら、アンタが持ってるエロゲのようにあたしの好感度をあげろって言ってるの!」
「え、エロゲなんて持ってねぇよ!」
そこに食いつくか。食いつくところ違うだろう。
「じゃ、そういう訳だから」
あたしは概要をざっくり説明し、踵を返す。
「ま、待てよ!」
ソイツは硬直から解放されたのか、慌ててあたしを引き止める。
「ん、何?」
あたしが振り向くと、彼はあたしの持つ傘を指差し、
「それ、雨好きな俺からの最初のプレゼント」
と言って笑った。
「アリガト。あ、そう言えばアンタ名前は?」
「……岩城悠だよ。よろしく」
「そ、よろしくね」
あたしは屋上を出て、傘を閉じる。適当に水滴を払い、階段を下りる。
「だぁ!もうちょっとだけ待まてって!」
まだ何かあるのか。何度も引き止められるのは好きじゃない。用件は一回で終わらせろ。あたしは、今度は睨みをきかせて振り向く。
「あー……えっと、アドレス交換させてもらってもいいでしょうか?」
睨みつけにひるんだ岩城は、至極丁寧にそう訊いた。
5
「決闘オツカレー。って何その傘?」
あたしが教室に戻ると、ミサキは満面の笑みを浮かべて待ち構えていた。概ねあたしが取り付く島もないレベルで振ったとか思っているのだろう。
「これ? プレゼントだってさ」
「プレゼントって、まさか受けたの!?」
「いんや、保留」
あたしは淡々と答え、机の脇に傘をかける。
「かなっちって、見かけによらずえげつない性格してるのね……」
えげつない。
「そうかもね……」
確かに返事を待たせているあたしはえげつない性格をしているのかもしれない。
「で、悲しくもかなっちの餌食になった男子って誰なの?」
「餌食って……。確か、岩城悠って言ってた。知ってる?」
「うーん、知らない。ってか、どんな子か知らないのにそんなことしてるの? アリエネー」
「別に、チャンスをあげただけだし」
そう、あたしはチャンスを与えただけなのだ。初対面の女子に告白してもオーケーをもらえる確率は普通皆無だ。だから、あたしはそれを哀れみ保留にしたのだ。そういうことにしとこう。
「あ、そう。にしても、かなっちがどんなバッドエンド迎えるのか気になるわぁ」
「バッドエンド前提で話さないでくれる?」
「そう、遊びのつもりがかなっちは本気で彼を好きに。けれど、彼の方はかなっちに愛想をつかして離れていってしまう。あぁ、なんて悲劇なのでしょう!」
ミサキが一人演劇を始めてしまったので、あたしは大人しく席に着いて宙を仰ぐ。雨の中に傘を差して立つ岩城の姿が思い浮かぶ。あたしは岩城のことを何も知らない。だけど、それがあたしに刺激をくれる。その刺激があたしをこの惰性に満ちた日常から引き上げてくれる。そう思うと、あたしは少しだけ嬉しくなった。
6
放課後、窓の外では未だに雨が降り続いていた。けれど、そこまで雨はひどくない。帰り支度をしていたあたしのケータイが不意に振動する。メールだ。
『今日の放課後、一緒に買い物行きませんか?』
早速デートのお誘い。けれど、
「誘うならもうちょっと飾らない?」
絵文字一つない、いかにも男子のメールって感じだ。でも、よくよく考えれば、逆に絵文字があっても軽い感じがして、むしろ簡素な文面のほうがいいのかもしれない。
「あら、殿方からデートのお誘いかしら?」
いつの間にか隣に立っていたミサキは薄笑いを浮かべながらあたしのケータイを覗き込もうとする。
「そういうこと。だからあんたとのデートはまた今度ね」
「そんな! あなたはそうやって最後には友情より恋愛をとってしまうのね!」
大仰な言動でまたしても一人芝居を始めてしまった。
「アンタ今日は暇なんだし、彼氏に尽くしたらいいんじゃない?」
「うぐぐ……そうだもん! 私にはマコトくんがいるもん! 今日はマコトくんに尽くしまくってやるんだから!」
ミサキはそう言い残し、カバンを持って教室を飛び出していってしまった。
「……ふぅ」
厄介者の撃退にどうにか成功し、あたしは安心して昇降口へ向かった。特に待ち合わせをしていなかったから、おそらくここにいるだろうと踏んで昇降口に来たが、果たして岩城はそこにいた。柱に凭れかかり、辺りを見回したりケータイを取り出してみたりとせわしない。なんとも乙女チックな光景だ。
「待った?」
あたしが声をかけると、岩城はちょっとだけ驚いた後、顔をわずかにほころばせ、
「いや全然待ってねえけど?」
平然と嘘をついた。
「そっか。じゃあ、行こうか」
あたしは昇降口で靴を履き替え、昇降口を出る。雨はまだ降っていた。けれど、不思議と雨足が穏やかになっている気がした。
「雨も、悪くないね」
あたしは岩城から貰った深紅の傘を差す。傘の色が鈍色の空によく映えているなと思って、あたしはそっと微笑んだ。
7
岩城との(傍から見れば)奇妙な関係が始まってから二週間が経った。この二週間で休日デート二回、放課後デート三回あった。退屈はしなかった。岩城は口がちょっと悪いけれど、顔は悪くないし、エスコートは上手かったし、話題のチョイスも悪くない。あたし以外の女子であれば即落とせていたに違いない。けれど、今のあたしは落とせない。
この二週間一度も感じなかった。否、ずっと目を背けてきたことが今さらのようにあたしの目の前を過り、立ちはだかり始めた。
あたしを引き上げてくれるはずの岩城を知らないということが、恐怖となってあたしにまとわりつく。
知りたい。けれど、知ることも怖い。
これ以上知ってしまえば、岩城が嫌いになってしまいそうで。岩城のことを拒絶してしまそうで。
あたしは鏡の向こうのあたしを見つめた。全てがあべこべの、鏡の向こうのあたし。あたしの全てがあべこべだったら、あたしはどうしていただろう。どうなっていただろう。
「かなっち、最近カレと喧嘩でもした?」
不意に声を掛けられ、あたしはハッと我に返る。
「ミサキ……」
「私なんかで良かったら、相談に乗るよ?」
「ありがと。でも、ケンカとかそういうのじゃないから」
大丈夫、なんでもないよ。自分にそう言い聞かせる。
「それより、アンタの方はどうなの? マコトくんとは」
自分のことはもう考えたくなかった。
「えへへ、私とマコちゃんはまだまだアツアツだから心配ご無用!」
ミサキは照れくさそうに笑いながらピースをした。なんだか、今まで見たことのない笑顔だった。
「そう、良かったじゃん。それで、彼とはどこまでいったの?」
あたしは少し声量を下げて、知りたいわけでもないことを訊ねる。
「実はね、最後までやっちゃった。マコちゃんったら思ったよりダイタンなんだもん!」
ミサキは顔を真っ赤にして、頬を抑えながら体をくねらせる。
「お盛んですこと。さすがは乙女ね」
あたしは苦笑しながら溜息をつき、トイレをあとにしようとする。
「……でもね、マコちゃんの目は私を見てないんだよ」
ミサキの言葉が、あたしを力強く引き止めた。あたしは振り返ってミサキを見る。ミサキは俯いたまま言葉を紡ぐ。
「マコちゃんは本当に元カノが好きだったんだよ。だから、私としてる時もマコちゃんの瞳には私が映ってなかった……」
いつものミサキじゃない。あたしの知らないミサキが目の前にいる。そのはずなのに、知らないはずのミサキがそこにいることが至極自然で、当たり前のことのように思えた。
「私の告白を受けたのも、元カノがいない寂しさを埋めるためのものだと思うんだ」
ミサキは顔を上げた。ミサキは、今にも泣き出しそうな顔で笑っていた。
「でもね、私がいることで少しでもマコちゃんの寂しさを埋めてあげられるなら、それでもいいかなって思えるんだ」
あぁ。ミサキにとって愛しの彼といる時間は、最高のヒトトキで、最悪のヒトトキなんだ。
間違いなく、この恋がミサキにとって最後の恋なんだ。そんな予感が、何故かあたしの中を過った。
「ミサキ、辛かったら辛いっていいなよ。親友のあたしでよければいつだって聞くし、いざとなったマコトくんとやらをぶっ飛ばしてあげるから」
あたしは握った拳をミサキに向けて突き出し、笑った。久々に心から笑った気がした。
「……かなっちがもし男だったら、私、かなっちに惚れてたかも」
ミサキの笑顔に、一筋の雫が美しい線を描いた。
8
昼休み、あたしは屋上に岩城を呼び出した。用件は他でもない、告白の返事。
「大事な話って何?」
「勿論、告白のことよ」
岩城の第一声にあたしは語調を強めて答える。岩城の顔から穏やかさが消え、真剣な顔つきになる。
「告白の返事を出す前に、ひとつ聞いてもいい?」
「何?」
「あたしを好きになったきっかけって何?」
あたしは知らなくちゃいけない。そうでないと、どうしてあたしが好きなのか分からない気味の悪いヤツに返事を出さなくちゃいけないことになるから。
「……中学の頃、俺、陸上部だったんだ」
概ね予想はしていたけど、本人の口から聞かされるのはやはり息苦しかった。
「それで、地区大会の時に栗原の走りを見たんだ。栗原の走りに見蕩れて、気づいたら俺、惚れてたんだ」
誠意のこもった彼の言葉は、残酷にあたしの心を抉ってくる。
痛い。
怖い。
苦しい。
逃げたい。
ごちゃまぜの感情が吐き気となって押し寄せる。
「……ごめん」
「え?」
「もうあの頃のあたしはどこにもいないんだ。だから、ごめん。あたしは岩城とは付き合えないよ」
「……それは」
「もう何も言うな。じゃあ、ごめん。保留なんて卑怯な手使って。卑怯なあたしのことなんて忘れていいから」
あたしはとうとう耐え切れなくなって、屋上を飛び出した。岩城は何かを言おうとしていたが、聞きたくなかった。今何を聞いても、あたしが惨めになるだけ。そんなのは御免だった。
あたしの心のどこかの縫い目がちぎれていく音がした気がした。
9
この間の一件以来、岩城との接触は一切ない。今まで以上に惰性に満ちた、無味乾燥なあたしの日常が戻ってきた。
「ヒマ……」
あたしは自室のベッドに寝転び、呆然と天井を眺めていた。窓の外から雨の囁きがわずかに聞こえる。雨の音が、今のあたしには不愉快でたまらなかった。あたしはヘッドフォンをして、音楽プレーヤーを大音量で再生した。流れてきた曲は、あの日岩城と初めてデートした日に買ったシングルに入っていた曲だった。
『僕なんてどこにもなくて 惰性に満ちた海に 漂っているんだ 溺れているんだ』
あたしはプレーヤーを止め、目を瞑った。岩城のことを忘れたいのに、忘れることができない。
「っていうか、どうしてそもそもこんなことになったんだっけ……」
あたしは思案し、思い至った。中学三年の春。あたしは気づいてしまったんだった。陸上部で必要とされているのはあたしの走りだけで、その他の部分のあたしは全部どうでもいいって思われているんだって。
きっかけはもう覚えてなんていないし、覚えていたくもない。だから覚えていない。でも、顧問の教師の言葉を聞いてそう思ったことは覚えている。顧問の言葉を聞いた瞬間、あたしという存在は学校の名を上げるためだけに必要とされている消耗品でしかないということを自覚した。現役時代は散々しごかれ、引退すればハイさようなら。次の世代という新しい部品に取り替え、古くなったあたしはお払い箱にされる。そんな現実から、あたしは逃げ出したんだった。
「何度考え直しても無理だわ」
部活は嫌いになってしまったあたしだったが、走ることは好きでずっと続けてきた。だけど、やっぱりちゃんとした練習をして、もう一度競技場で走りたいんだ。本当にあたしは陸上が好きなんだ。
でも、消耗品にされるのが怖くて、どうしても踏み出せない。
岩城が惚れた頃のあたしと比べて、今のあたしは弱虫で卑屈でひねくれ者になってしまった。岩城は今のあたしに昔のあたしの幻想を重ねて日々を過ごしてきた。そう思うと何故か申し訳なくて、息苦しくて、吐き気が止まらなかった。
「もう、忘れよう……」
大丈夫。つい最近まで掘り返されても気にしなかった昔のことだ。またいつものように過去のどうでもいい出来事として、笑い飛ばしてしまえばいい。そう思った矢先だった。
ケータイの着信が鳴り響いた。ケータイが表示する名前は『岩城悠』。途端、どす黒い感情が突然沸き立ってきた。
「こんな時に……ウザイやつ」
あたしは吐き捨て、着信拒否にしてやろうとした。が、その前にメールを開いてみた。
『今日、板倉城址であじさい祭りがあるから来い』
ムカつく。初めて貰ったメールは誘いのメールだったくせに、このメールは命令口調。あたしに指図するなんていいご身分だ。
「行くかよ、バーカ」
あたしはそう罵って、部屋を出た。服を着替えて、岩城から貰った傘を差して、あたしは外へ出た。
板倉城址まであたしの家からは歩いて十分ほどの距離しかない。だから、雨が路面に無数の波紋を作っていくのを眺めているうちについてしまった。
「……よぉ、待ってたぜ」
顔を上げると、目の前には笑みを浮かべた岩城がいた。
「忘れてって言ったよね?」
あたしは岩城を睨みつける。
「いつ誰が承諾した?」
挑発的な発言にあたしの中で火花が散った。
「お前の知ってるあたしはもうどこにもいないんだよ。だから……その面影を追ってまとわりついてくんな! 目障りなんだよ!」
岩城といると、消えたはずの古傷が痛み出すように、黒い感情がこみ上げてくるのだ。だからもう、全部終わりにしたかった。
「何を勘違ってんだか知らねぇけど、そんなことはどうでもいいんだよ。重要なのは、俺が栗原を好きってことだけだ」
言っている意味が分からなかった。
「栗原がどうして陸上をやめたのか、昔の俺はずっと気になってたし、知りたかった。けど、ホントはそんなんどうだってよかったんだ。保留の二週間が俺にそう教えてくれた。きっかけは陸上だけど、好きなのはお前だけなんだ。オプションなんてどうでもいい」
岩城は二週間前のように赤くはならなかった。
「だからさ、もうどうでもいいじゃん。昔のことなんて、忘れようぜ?」
気にしたってしょうがない。岩城はそう言って笑った。
「あたしだって、そう思ってるし、最近までそうだったよ。アンタがあたしに惚れた理由を知るまではね」
「そんじゃ、俺が責任もって忘れさせてやるよ」
………………。
なんだか、子供のケンカみたいだった。理由も根拠もない、感情論と虚栄心で構成された駄々。なんだかもう、滑稽でバカらしくなってきた。
「はぁ……なんだか馬鹿らしくなってきたわ。アンタ、あたしと口喧嘩するためにデートに誘ったわけ?」
傷は疼く。けれど、あたしの心はそれを全部呑み込んで笑い飛ばした。
「んなわけあるか。めげずに告白しに来たんだよ」
岩城は不敵に笑ったあと、あたしの目をまっすぐ見て言った。
「俺は他の誰でもない『栗原加奈子』が好きだ。だから、俺の彼女になれよ」
どこか歪な、けれど真っ直ぐな告白だった。
「そんなにあたしが欲しいなら、あたしの唇でも奪ってみなさいよ。あたし、草食系男子は嫌いだから」
「いいぜ、やってやるよ」
口調は強気でも、顔を少しだけ強ばらせて、岩城はあたしに一歩一歩歩み寄る。そして、体が触れ合いそうな距離まで近づく。岩城は傘を持っていない方の左手であたしの体を抱き寄せ、顔を近づける。あたしはそっと目を閉じる。
「ん……」
あたしの唇と岩城の唇が触れる。唇どうしが触れ合うだけなのに、舌を絡ませる以上に熱烈に思えた。
「……」
どれだけ途方もない時間が流れたような気分の中、唇が離れ、そっと開けたあたしの目に真っ赤な顔の岩城が映る。
「合格。約束通り彼女になってあげるよ」
「……生意気ぬかすな」
そう言って、二人で笑った。
傷は疼く。けれど、不思議と痛みはない。
さっきまで傘を叩いていたはずの雨はいつの間にか音もなく止んでいて、雲の隙間から太陽の光が差し込み始めていた。
ひょっとしたら続き書くかもしれません