蜘蛛切り伝
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
ふ~、ここんところ気温がいよいよ下がってきた感が出てきて、安心してきたな。
ここんところ、雲が多くて直射日光がさえぎられているからかもしれん。とはいえ湿気が多い日本だと快適な体感とはいいがたいがね。
高温多湿の気候で暮らし続けてきたゆえか、採光や通風にはけっこう気をつかったつくりの家が日本には多い。はっきり区切ると「こもる」ものだから、屏風なりで軽く視界のみ区切り、通って来る風は共有するかのごとき様相だ。
風。
この空気の動きも、地球上で生きるものなら誰でも感じる機会があるだろう。
風上、風下と川と同じように上と下をつけられるものとして、上からの影響を下は受けざるを得ない。上からもたらされるものに、いち早く気がついて相応の対処を行う。ある意味、これも空気を読んだ行動といえるかもな。
その風、そこに乗っかるもの。これに関する伝説のひとつが、俺の地元に伝わっているんだ。ひとつ聞いてみないか?
むかしむかし。
地元を荒らしていた化け蜘蛛を倒した、おさむらいさんがいたそうだ。
その大きさ、大人10人分にも及ぶ巨大なものを、かのおさむらいさんは二日間ぶっ通しの死闘の末、退治したのだそうだ。
のちに蜘蛛切りと呼ばれることになる、おさむらいさんのかの刀は、刃はおろか柄の握りの部分まで蜘蛛の出した緑色の血で、どっぷりと濡れてしまっている。そのため、おさむらいさんは蜘蛛の巣喰っていた山の裏手に湧く滝で、身を清めることにしたのだそうだ。
まず着ていた服を、滝より流れる川の流れに沈めたのだが、真新しい緑色の血が流れていくと、そこから小さいあぶくたちが浮かび始め、それらが細かい子蜘蛛たちへ変じていったそうだ。
その数、見えるだけでも数十匹。手に乗るほどの大きさたちだったが、滝よりの清水に落ち込むや、彼らは身体中から元の緑色の血を吹き出して、今度は色も残さずに水へ溶けていく。服から完全に血が抜けきるまで、実に数百匹の子蜘蛛が川に湧き、そして消えた。
服の清めが終わると、おさむらいさんは次に自分の身を清めに滝へ入る。抜き身の蜘蛛切りをしっかりと抱いてだ。
滝は見上げても、降り落ちてくるてっぺんを見通せないほどの高所から落差を持つ。へたに身をこわばらせれば、たちまち水は鉄槌と化し、その重みでもって全身を打ちのめすだろう。
ゆえに逆。力を抜く。水の力を真っ向から受けるのではなく、あえて自然に受け流す体勢をとる。おさむらいさんは、すっと薄目になると次々に頭へ肩へ打ち付ける滝水を感じながらも、それを意識から外していくよう努める。
ここに「我」はない。あるのは生まれたままの姿の肉体と、抱える刀と、降り落ちる滝のみだ。余計なことは考えず、水が洗うままに任せる。
ぎゅっと目は閉じきらない。薄く開いた視界には、先ほどの服と同じように、緑色の血がたっぷり垂れ流れていく。滝へ直接打たれているがゆえか、服のように血は子蜘蛛たちへ変ずることなく、たちまち水へ溶けて見えなくなってしまう。
やがておさむらいさんの身からは完全に蜘蛛の血が流れるも、刀はなおも身体から緑色を吐き出し続けていた。
切っ先から柄頭にいたるまで、どっぷり血に浸かっていたのだから、刀の内々まで汚れきっているかもしれない。いましばし、こうして抱えているかと思っていたところ。
するりと、手の内から刀が滑り落ちた。柄を滝行の当初よりしっかり握り、これまで手放すまいと思っていたものだ。自然に任せんとしすぎて、力が抜けてしまったのだろうか。
かっと目を見開くと、刀は思うよりもずっと速く流れを下り始めている。おさむらいさんもそのまま流れへもぐり、刀を追いかけて泳ぎ始めたのだそうだ。
この滝より流れる川は、はるか下流でおさむらいさんの故郷へ通じている。直線距離では最短ではあるが、流れに逆らおうなどとは魚でもない限りは考えないだろう。ところどころ、滝とは言えないまでも落差がいくつもある。
そこをおさむらいさんは、泳ぎ続けた。刀はというと、おさむらいさんとつかず離れずな距離を保ち続け、途中の落差に幾度ももまれながら流れを下り続ける。
おさむらいさんも後へ続いた。落差を落ちる際の叩きつける痛みももちろんだが、もし刀がすぐ下で引っかかり、刃先が上を向いていたならば串刺しの憂き目に遭うことも、十分に考えられた。
幸いにもそのようなことはなく、されども刀も一向に捕まることもなく。泳ぎに泳いだ両者がようやく巡り合えたのは、故郷の村のすぐそばの岸だったらしい。ふと刀が行く手で曲がったかと思うと、岸へ自ら投げ出されに行き、動きを止めたからだ。
おさむらいさんが、ほっと胸をなで下ろしたのもつかの間。岸へあがって刀を握ったおさむらいさんは、鼻をひくつかせる。
蜘蛛の臭いだ。あの二日間の死闘で、鼻がバカになるほどに叩き込まれた、化け蜘蛛の放つ生臭さ。あれと同質の臭いが村のほうから漂ってくるのだ。
さっと、抜き身の刀をさげたままおさむらいさんは走り、ほどなくたどり着いた村の入り口より中を見て、農具を手にした村人たちと大蜘蛛たちがあちらこちらで大立ち回りをしているのを確認したのだ。
例の化け蜘蛛よりずっと小さいが、それでも大人と同等以上はある。その身体は化け蜘蛛そのものや、清流に溶けた子蜘蛛たちとそっくりなもの。親玉が討たれたことを察し、早くも復讐を企てたというところだろうか。
そして今、目前の男が蜘蛛に突き転ばされる。すぐさま蜘蛛に馬乗りされて、その首筋にあごが突き立てられるかというところ。
おさむらいさんはすでに駆けだしていた。素っ裸のまま、刀を大上段に振りかぶり、蜘蛛の体を両断しようとした瞬間。
びゅっと、おさむらいさんの背後より強い風が吹きつけた。
それを振りかぶった刀が受けたかと思うと、次の瞬間には目前の蜘蛛の体は真っ二つになっていたんだ。実際、刃を食い込ませるより前に、おのずとだ。
おさむらいさんも村人も、あっけにとられているまに、村中へ風が巻く。すると、暴れまわっていた蜘蛛たちばかりが、その身を次々となます斬りされて倒れ伏していく。やがて風がやんだときには、もはや生きている蜘蛛たちの姿はなかったとか。
化け蜘蛛を斬り、長い川を下り、そうして次は風をまとって蜘蛛たちを触れることなく斬り捨てた。この実績をもって、刀は蜘蛛切りと名付けられ、村が地震によって滅びるまでの数百年の間、村にまつられ続けていたという。
その風をまとった伝説にもとづき、刀はひとところに収まることなく、村には四方八方に刀のためのやしろが作られ、強く風が吹くたびに風上に位置する方向へ刀をうつされ、村の破邪を願ったとか。