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『見えない鎖:誇りを失った国』第4~7章(全10章)

 本作『見えない鎖』は、現代日本を舞台にしたフィクション小説です。

 作中には実在の団体や人物を想起させるような記述がありますが、物語の登場人物・出来事はすべて創作であり、現実の政治・経済・社会情勢とは関係ありません。

 第4章から第7章では、物語がさらに深まり、「情報の帝国」「浦上に落ちた光」「土地の異変」「浸透する影」といった章題が示す通り、

 日本社会に潜む見えない構造と、それに翻弄される人々の姿が描かれます。

 ジャーナリスト井藤の調査は、やがて命を賭けた闘いへとつながっていきます。

第4章 情報の帝国

第1節 電通の誕生秘話

 都心の高層ビル群の一角にそびえる巨大広告代理店「電通」の本社を見上げながら、井藤は胸の奥に奇妙なざわめきを感じていた。きらびやかなガラス張りのビルは、広告と情報の象徴として都会に根を下ろしている。しかし、その成り立ちに潜む影を知る者は少ない。

 井藤が手に入れた資料には、驚くべき記述があった。電通の礎を築いた人材の多くが、戦後GHQの情報機関「OSS(戦略事務局)」のリクルートを受けていたというのだ。敗戦国日本における宣伝と情報操作を担うため、彼らは戦勝国の手で育成され、その後民間広告代理店の顔を被って再編成された。

 教授が語っていた言葉が蘇る。

「戦後の日本人が何を信じ、何を疑うか――その枠組みを作ったのは、新聞でも政府でもない。広告だったのだ」

 テレビの普及と共に、電通は瞬く間に成長し、CM枠を独占。企業も政治家も、国民にメッセージを届けるには彼らを通さなければならなくなった。情報の流れを握る者こそ、影の支配者だった。

 井藤はふと、経済学者が残したメモの一節を思い出す。

《電通=現代のWGIP》

 つまり、戦後に植え付けられた罪悪感の構造は、広告産業を通じて今もなお国民の意識に刷り込まれているのではないか。

 ビルの明かりを見上げながら、井藤は思う。もし電通の誕生が占領政策の一環であるならば、その影響は今も続いている。真実を告げるメディアが沈黙している理由は、この情報の帝国の存在にあるのかもしれない。

 胸の奥で、調べを進めるべき確信が強く燃え始めていた。


第2節 メディア支配の構造

 電通が築き上げたのは、単なる広告代理業ではなかった。新聞、雑誌、ラジオ、そしてテレビ。あらゆる媒体に流れる広告を統括し、その流通経路を独占することで、彼らは「情報の関所」と化していった。

 企業が商品を宣伝したければ電通を通さなければならず、テレビ局が番組を維持するためには莫大な広告費を必要とする。こうして、広告費を握る者が事実上、報道内容をも左右する仕組みが出来上がった。

 井藤は、かつて新聞社にいた頃を思い出す。スポンサーからの圧力で記事が差し替えられ、政権に不都合な原稿は「広告主が離れる」との理由で消される。表向きは編集の独立を掲げながら、実態は広告収入に従属していた。

 さらに衝撃だったのは、海外との結びつきだ。経済学者が残した資料によれば、冷戦期にCIAが極東の情報戦の一環として、電通を通じて世論形成を行っていた形跡がある。戦後の政治広告、オリンピック招致、国際的なキャンペーン――その裏には常に「外部の意志」が流れ込んでいた。

「ニュースの見出しひとつで、人々の考え方は簡単に変わる。だが、その見出しを決めているのは誰か?」

 井藤は、自問するようにノートに書き留めた。メディアは独立した権力の監視者ではなく、すでに情報帝国の従属機関にすぎない。その構造が続く限り、どれほど優秀な記者が真実を掴んでも、国民に届く前に封じられてしまう。

 ――では、国民はどう受け止めているのか。支配の構造は、意識の奥深くまで浸透しているのではないか。

 井藤の視線は、次なる問いへと移っていった。


第3節 操られる国民意識

 地下鉄に揺られながら、井藤は吊り広告に目をやった。朝の通勤客は皆、スマートフォンの画面か広告に目を落とし、同じ情報を共有している。政治スキャンダルも芸能ニュースも、見出しの言葉が一人歩きし、やがて人々の会話に溶け込んでいく。

「情報が流れているようで、実は流されているだけだな……」

 電通を頂点としたメディア支配の構造は、国民の意識そのものを均一化していた。戦争責任を語る言葉、民主主義を賛美する言葉、流行を追いかける言葉――。それらは一見多様に見えても、実際には与えられた選択肢の中を循環しているに過ぎない。

 かつて取材で会った大学教授が言っていた。

「テレビのスポンサーが不快に思う話題は放送されない。結果として、国民は何を知らないかすら知らない状態になる」

 その言葉の意味を、今なら痛感できる。国民は意識的に洗脳されているのではなく、気づかぬうちに刷り込まれている。笑い、涙し、怒る感情までもが番組の枠や記事の見出しに沿って誘導されているのだ。

 井藤は車窓に映る自分の姿を見つめた。孤独でやつれた顔。しかし、そこに映る瞳だけはまだ消えていない。彼が暴こうとしているのは、単なるメディアの裏側ではなく、「国民の無意識を操作する巨大な仕組み」だった。

 そのとき、ポケットの中の携帯が震えた。着信画面に表示された名前は――かつて新聞社を去った後、行方をくらませた同僚だった。

「井藤……おまえ、まだやってるのか?」

 低い声がそう告げた瞬間、井藤は確信する。この支配の構造を内側から知る者が、ついに口を開こうとしているのだ。


第4節 仲間の証言

 指定された喫茶店の片隅で、井藤は待っていた。ドアが開き、黒縁眼鏡をかけた男が入ってくる。かつて新聞社で共に働き、その後、広告代理店へ転職した同僚・森下だった。久しぶりに見る顔はやつれ、背中には重い影を背負っているように見えた。

「井藤……おまえには話しておくべきだと思った」

 コーヒーを前に、森下は小さく声を落とした。

「電通はただの広告代理店じゃない。スポンサーの意向を調整するだけでなく、国の政策や国際的なキャンペーンまで仕切っている。どのニュースを大きく扱うか、どんな言葉を使うか――それすら決められるんだ」

 井藤は身を乗り出す。森下は続けた。

「俺は何度も見た。官僚や政治家が広告戦略会議に呼ばれ、指示を仰いでいるのを。選挙のスローガンやテレビCMの枠組みは、ほとんど電通が組み立ててる。メディアを動かすどころか、国の方向まで演出してるんだ」

 その言葉に、井藤の胸が冷たく締めつけられる。かつて記事を潰された自分の経験が、点と点で繋がっていく。メディアの沈黙は偶然ではなく、計算された演出の一部だったのだ。

「だがな……ここまで話すのが限界だ」

 森下の手は震えていた。

「俺も監視されてる。下手に動けば、すぐに消される。……それでも、おまえなら――」

 森下はそれ以上を言わず、伝票を握りしめると立ち上がった。背中は怯えに覆われながらも、最後に一瞬だけ、井藤に力強い眼差しを送った。

 残されたカップから、冷めたコーヒーの苦味が漂っていた。井藤は心の中でつぶやく。

「この国の未来は、真実を語ることを恐れない者の肩にかかっている……」

 そのとき、井藤の携帯が震えた。画面には新たなメール通知。件名は――「浦上に落ちた光」。


第5章 浦上に落ちた光

第1節 廃墟の天主堂

 長崎に降り立った井藤は、冷たい潮風を胸いっぱいに吸い込んだ。街は再建され、観光客で賑わう場所も多い。しかし彼の足は、人々があまり語ろうとしない地へと向かっていた。浦上天主堂跡――かつての日本最大のカトリック教会であり、原爆の爆心地に最も近い聖堂だった場所だ。

 丘を登り、かつての聖堂の跡地に立つと、静寂が広がっていた。今では復元された壮麗な天主堂がそびえているが、その周囲には、崩れ落ちた赤煉瓦の破片が記念碑として残されている。

 井藤は足を止め、指先でその煉瓦をなぞった。赤黒い斑点は年月に風化しながらも、当時の熱と衝撃を物語っているように見えた。ガイドの説明に耳を傾ける観光客の声が遠ざかり、井藤の耳には過去の呻き声のような残響が響いてくる。

 原爆投下の歴史は、学校で学んだ「戦争終結のため」という説明で終わっていた。だが、この場所に立つと、別の問いが湧き上がる。なぜ数ある都市の中で、信仰の中心であった浦上が狙われたのか。

 背後から声がした。

「ここが、ただの軍事目標だったと信じますか?」

 振り返ると、地元で活動する歴史研究家が立っていた。彼の目は深い陰を宿しながらも、真実を語ろうとする強い光を放っていた。

「この地に刻まれた光は、単なる偶然ではないかもしれませんよ」

 その言葉に、井藤の胸はざわめいた。――もし原爆の投下が、軍事的理由以上の意図に基づくものだったとしたら?

 視線を再び天主堂に戻した井藤の胸に、重苦しい疑念が芽生え始めていた。


第2節 原爆の裏目的説

 歴史研究家は、井藤を案内するように歩き出した。復元された天主堂の裏手にある展示館には、原爆で溶けただれた鐘や、焼け焦げた十字架が並んでいた。その異様な光景の前で、研究家は低く語り始めた。

「長崎が狙われたのは、単に軍需工場があったからだと説明されています。しかし、本当にそれだけだったと思いますか?」

 井藤は答えられなかった。研究家は言葉を続けた。

「浦上天主堂は、日本のカトリック信徒の中心地でした。つまり、ここは信仰の砦だったのです。アメリカの一部の権力者、特に反カトリック的な勢力が、意図的にここを標的にしたのではないか――そういう説があります」

 展示品の中に、溶けた聖母マリア像があった。顔の半分は黒く焼け崩れ、眼窩だけが虚ろに空を見上げている。その姿は、まるで歴史そのものが沈黙の中で叫んでいるようだった。

「……つまり、軍事的な戦略ではなく、宗教へのメッセージ?」

 井藤の問いに、研究家は小さく頷いた。

「日本人に罪悪感を植え付けるだけでなく、信仰の象徴をも打ち砕く。それは精神的な武装解除の一環だった可能性があります」

 井藤の胸に冷たいものが走った。戦後日本が背負わされた「罪」と「沈黙」は、単なる敗戦の帰結ではなく、緻密に設計された意志の産物だったのかもしれない。

 だが、この説を大手メディアが取り上げたことは一度もなかった。取材する研究者は嘲笑され、論文は学会誌に掲載されず、いつしか陰謀論と片づけられてきた。

 館を出ると、夕暮れの空が茜色に染まっていた。信仰と権力――その衝突が、ここに確かに刻まれている。

 井藤は胸の奥で決意を固めた。次に探るべきは、この地で息を潜める信徒たちの声だ。彼らが守ろうとしたものの中に、真実が眠っているはずだ。


第3節 信仰と権力の衝突

 夜の帳が下りた浦上の町で、井藤はひとりの老信徒を訪ねた。原爆投下を幼い頃に体験し、その後もこの地を離れずに暮らしてきた人物だ。狭い木造家屋の居間で、老信徒は静かに語り出した。

「原爆で父も母も、友も皆いなくなりました。けれど私は生き残った。残酷なことにね……」

 深い皺に刻まれた顔に浮かぶのは、悲しみではなく、むしろ揺るぎない信仰心だった。壁には黒焦げた十字架が飾られ、祈りの場として大切に守られている。

「私たち信徒にとって、浦上天主堂はただの建物ではありませんでした。信仰の証であり、神の家でした。それが狙われたとき、私たちは神までも打ち砕かれたと感じたのです」

 井藤は、老信徒の震える声に耳を傾けながら、次第に重い問いを抱く。――人々の信仰を破壊することで、何を得ようとしたのか。

 老信徒はふと声を低めた。

「戦後、再建を望んだ我々の願いは、時に政治の都合と衝突しました。宗教は国家を縛る。そう考える人たちにとって、信仰は危険なものなのです」

 権力にとって、祈る者は従順な民であればよい。しかし、信仰は時に人々を勇敢にし、権力に抗う力を与える。だからこそ、浦上の象徴は破壊され、沈黙が強いられたのかもしれない。

 井藤は言葉を失った。信仰と権力の衝突は、単なる歴史の一幕ではなく、今も続く「精神の支配」の縮図のように思えた。

 老信徒の最後の言葉が、井藤の胸に重く響いた。

「権力は建物を壊せる。だが、信仰そのものは壊せない。だから私たちは祈り続けるのです」

 窓の外に広がる闇に、井藤は深い動揺を覚えていた。


第4節 井藤の動揺

 宿に戻った井藤は、狭い机に資料を広げたまま椅子に沈み込んでいた。

 原爆の裏目的説、権力と信仰の衝突――取材を通して見えてきた断片は、ひとつの像を結びつつあったが、その像はあまりに巨大で、重苦しかった。

 彼はノートに書きつけた言葉を読み返す。

《罪悪感の刻印》《情報の帝国》《信仰の破壊》

 まるで見えない鎖が複雑に絡み合い、日本という国を縛りつけているように思えた。

 窓の外から教会の鐘の音が響いてきた。澄んだその音色は、井藤の心を少しだけ解きほぐすように感じられたが、同時に耐え難い焦燥を呼び起こした。――自分は本当に、この巨大な闇を暴くことができるのか。

 脳裏に、老信徒の言葉が甦る。

「権力は建物を壊せる。だが、信仰そのものは壊せない」

 だが、自分にそんな強さはあるのだろうか。記事を潰され、世間から孤立し、かろうじて記者としての矜持だけで踏みとどまっている自分に。

 ふと、携帯が震えた。画面には加納からの短いメッセージが表示されていた。

《北海道の土地買収について、新しい情報がある。至急会いたい》

 井藤は深く息を吸い込んだ。浦上の闇を追うことで見えてきた「精神の支配」と、国内で進行する「土地買収」という現実――それは一本の線で繋がっている気がした。

 彼の胸には依然として動揺が渦巻いていた。しかしその渦こそが、次なる取材への推進力となるのを、井藤自身もわかっていた。

 夜風が窓を揺らす音の中で、彼はノートを閉じ、再び記者としての覚悟を刻み込んだ。


第6章 土地の異変

第1節 北海道の買収現場

 北海道の大地に降り立った井藤は、吐く息が白く広がるのを見つめながら、改めて身を引き締めた。眼前に広がるのは、延々と続く原野と、点在する牧場や小さな集落。だが、その一部が近年、次々と外国資本に買収されているという。

 加納が手渡してくれた資料には、奇妙な地図が描かれていた。土地の所有者を示す色分けを見ると、広大な面積が中国系の企業や個人の名義に切り替わっている。しかも、その多くが自衛隊基地や水源地の周辺に集中していた。

 井藤はレンタカーを走らせ、指定された一帯へ向かった。そこには、かつて牧場だったであろう土地に、無人のプレハブ小屋と資材置き場が点在していた。柵は錆びつき、家畜の姿もない。だが、なぜか周囲には監視カメラが設置され、通りがかる車を無言で見下ろしていた。

 近くで農作業をしていた老人に声をかけると、老人は口を濁しながらこう言った。

「数年前に土地を手放したんだ。買ったのは中国の会社だって聞いた。けどな……あそこでは夜になると妙な光が見える。誰も近づこうとはしない」

 井藤は胸の奥に冷たいものを覚えた。単なる投資や観光開発とは違う――国家的な意図が潜んでいるのではないか。

 取材ノートに走り書きしながら、彼の耳に風の音が混じって聞こえた。まるで遠くで低い機械音が唸っているような、不気味な響きだった。

 振り返ったとき、誰かがこちらを監視している気配を覚えた。雪原に並ぶ枯れ木の向こう、双眼鏡の反射のような光が一瞬だけきらめいた。

 井藤は息を呑み、カメラを構えた。だがシャッターを切る前に、その光は闇に消えていた。


第2節 アンテナのある集落

 翌朝、井藤は地元の案内人の協力を得て、さらに奥地へと車を走らせた。目的地は、近年突然開発された小さな集落。地図にはほとんど載っていないが、土地台帳には外国人名義で登録されている区画が集中していると記されていた。

 林道を抜けると、視界が開けた。そこには新築の住宅が十数棟、整然と並んでいた。だが奇妙なことに、人影はほとんど見えない。洗濯物もなく、窓も固く閉ざされている。生活の匂いがしない。

 集落の中央には、異様に高い鉄塔がそびえていた。太いワイヤーで固定されたアンテナは、携帯基地局に似ているが、規模も形状も明らかに異質だった。風を切る低い唸りが響き、周囲の空気が微かに震えている。

「通信施設か……それとも監視用か」

 井藤は望遠レンズで塔を覗いた。根元にはプレハブの小屋があり、夜になると中から青白い光が漏れているらしいと、案内人は囁いた。

 地元住民の証言によれば、この集落に越してきたのは中国語を話す人々だった。だが彼らは地域の交流を避け、買い物もほとんど外部で済ませ、ただ黙々と敷地を拡張しているという。

 井藤は背筋に冷たいものを感じながら、ノートに書き込んだ。

《アンテナ=情報拠点? 軍事的利用の可能性?》

 そのとき、不意に鉄塔の影から一台のSUVが現れた。黒い窓ガラスに遮られ、運転手の顔は見えない。車は井藤たちの前をゆっくりと横切り、雪煙を巻き上げながら消えていった。

 車内に残る緊張が、沈黙を突き刺すように重く広がった。井藤は確信する――これは単なる土地買収ではない。ここには明確な「意図」と「任務」が存在している。


第3節 謎の中国人居住区

 集落を後にした井藤は、さらに北へ車を走らせた。道はやがて雪に覆われ、わずかな轍だけが続いている。案内人の地図には「立ち入り注意」と赤字で書かれたエリアがあった。そこが、地元で囁かれる「中国人居住区」だった。

 やがて視界に現れたのは、不自然に整備された広い敷地だった。周囲を高いフェンスが囲み、門の前には監視カメラが何台も設置されている。内部には白いプレハブ住宅が規則正しく並び、煙突からは薄い煙が上がっていた。

 だが異様なのは、その閉ざされた生活だった。子供の姿はなく、笑い声も聞こえない。人々は無言で出入りし、互いに言葉を交わす様子もない。まるで「住むための場所」というより「任務の拠点」のように見えた。

 井藤は双眼鏡で敷地を覗いた。フェンスの奥には小さな倉庫があり、その扉が開くと、迷彩服に似た防寒着を着た男たちが現れた。手には工具のようなものを持っているが、動きは軍人のように規律的だった。

「……まさか、民間人じゃない?」

 思わず声に出た井藤に、案内人は顔を強張らせて首を振った。

「ここに近づいた地元民は、すぐに車で追い返される。誰も長くは留まれないんだ」

 その瞬間、井藤のポケットの携帯が震えた。加納からの短いメッセージ。

《気をつけろ。君の動きは監視されている》

 井藤は息を呑んだ。視線を感じて振り返ると、林の向こうに黒い影が一瞬だけ揺れた。

 ここは単なる居住区ではない。日本の土地の中に築かれた「異国の要塞」――そう直感した井藤の心臓は、不穏な鼓動を速めていた。


第4節 危険な尾行

 夕暮れの雪道を、井藤の車は慎重に進んでいた。バックミラーを覗くと、後方に一台の黒いSUVが一定の距離を保ってついてきているのが見える。昼間、アンテナの集落で目にしたものと同じ車種だった。

 井藤の喉がひりつく。これは偶然ではない。取材の動きを監視し、牽制しているのだ。

 雪を巻き上げてスピードを上げると、SUVもすぐに追随した。国道を外れ、わざと曲がりくねった林道に入る。だが距離は縮まらない。むしろ相手は確実に運転に慣れている様子で、逃げ場を潰すように追い込んできた。

 「……これは、ただの尾行じゃない」

 そう直感した瞬間、SUVのヘッドライトが強く点滅した。威嚇だ。井藤は冷や汗をかきながらハンドルを握り締める。雪道でのスリップは命取りになる。

 林道の先に小さな橋が見えた。渡りきると、井藤は思い切って車を停め、エンジンを切った。ミラー越しにSUVが近づいてくる。――だが、橋の手前で止まり、それ以上は進んでこなかった。

 沈黙の中、井藤の耳に風の音だけが響いた。数秒後、SUVはゆっくりとバックし、雪煙を残して去っていった。

 心臓の鼓動がまだ収まらない。命を狙われたわけではない。しかし、これは「おまえの動きはすべて見ている」という明確な警告だった。

 井藤は震える指でノートを開き、一行だけ書き記した。

《取材は核心に触れつつある》

 その言葉と共に、彼の胸に燃え残った恐怖は、次なる決意の火種へと変わっていった。


第7章 浸透する影

第1節 ハニートラップの噂

 東京に戻った井藤は、旧知の政治記者から声をかけられた。人気の少ない居酒屋の奥で、彼は声を潜める。

「北海道の件を追ってるそうだな……だが、あれは土地だけの問題じゃない。もっと個人を狙った手口がある」

 記者はグラスを置き、目を細めた。

「ハニートラップだ。若い女性を使って、政治家や官僚を取り込む。パーティーや留学、経済交流の名目で接触し、弱みを握ったら逃がさない。表には絶対出ないが、もう何人も堕ちている」

 井藤は眉をひそめた。金や土地ではなく、欲望を糸口にした支配。人間の脆さを突く方法は、もっとも確実で、もっとも暴きにくい。

「証拠はあるのか?」

 問いかけに、記者は苦笑を浮かべた。

「証拠なんか残さないさ。だが、あの議員が突然親中派に転じた理由……知ってる人間は皆、察している」

 会話の最中、隣の席から視線を感じた。酔客を装った男が、一瞬だけ井藤と記者を盗み見る。目が合うとすぐに目を逸らしたが、井藤の胸に冷たいものが走った。

 帰り道、夜風に吹かれながら井藤は思った。土地の買収も、メディア支配も、すべては「人間の支配」へと繋がっている。政治家が絡め取られれば、国の舵は簡単に他国の手に渡るのだ。

 そして、噂は単なる噂に留まらない。井藤の脳裏には、既に具体的な顔がいくつか浮かんでいた。


第2節 金に縛られる政治家

 永田町の議員会館。重厚な建物の廊下を歩きながら、井藤は旧知の秘書から渡された封筒を握りしめていた。中には、匿名で送られてきた内部資料のコピーが数枚。そこには、複数の政治家に流れた不透明な献金の記録が記されていた。

 献金元は、国内企業を装ったフロント会社。しかし、その背後には中国系資本が透けて見えていた。金額は数百万から数千万単位に及び、名目は「研究会支援」や「政策調査費」といった耳障りのいい言葉で飾られている。

 井藤は資料をめくりながら、背筋に冷たい汗を感じていた。名前の中には、かつて「対中強硬派」として知られていた議員の名も含まれていた。だが近年、彼は不自然なまでに発言を軟化させ、親中派の立場へと転じていたのだ。

 秘書は低い声で告げた。

「先生はもう抜け出せないんです。借金を肩代わりされた時点で……」

 権力者を縛るのは、理念でも信条でもない。金だ。弱点を突かれれば、どんな大物でも操り人形になる。井藤は拳を握りしめた。

 廊下の向こうから、その議員本人が姿を現した。かつては毅然とした態度で記者に応じていた男が、今は疲れた笑みを浮かべ、周囲の取り巻きに守られるように歩いている。その目は虚ろで、意志の光を失っていた。

「……これが現実か」

 井藤の胸に深い怒りが込み上げた。金の鎖は見えない。だが、その力は土地や情報を超えて、国家そのものの意志を縛り上げていた。

 彼は決意する。この資金の流れをさらに突き止めなければならない。その先にこそ、日本を覆う「浸透の影」の核心があるはずだ。


第3節 親中派の議員名簿

 深夜、井藤は加納から呼び出され、都内の古びた喫茶店に足を運んだ。シャッターを半分閉じた店内で、加納はすでに待っていた。テーブルの上には、分厚い封筒が置かれている。

「……これを見ろ。おそらく君が求めていたものだ」

 封筒を開けた瞬間、井藤の心臓が跳ねた。そこには「親中派と目される国会議員名簿」と題された数十ページの資料が収められていた。所属政党ごとに整理され、献金の流れ、関連団体との接触記録、訪中歴などが細かく記されている。

 さらに驚くべきは、名簿の末尾に添えられた備考欄だった。そこには暗号のような記号で「弱点」と「掌握手段」が記されていたのだ。借金、女性スキャンダル、企業不祥事――政治家の人生を一撃で破壊し得る爆弾が、冷徹に分類されていた。

 加納は声を低める。

「これは氷山の一角だ。だが、これだけでも十分に国の舵取りを左右できる。彼らは票ではなく、人物そのものを買収しているんだ」

 井藤はページをめくる手を止め、知った顔の名に目を留めた。かつて自分の取材に協力してくれた議員。その名の横には「女」と赤字で記されている。思わず喉が乾き、ペンを握る指が震えた。

 この名簿は、単なる情報ではなかった。日本の政治がどれほど深く浸透されているかを突きつける証拠そのものだった。

 その瞬間、店の外で不意に車のドアが閉まる音が響いた。加納が一瞬だけ顔を強張らせる。

「……長居はできない。君、気をつけろ」

 井藤は名簿を胸に抱えながら、闇の中に潜む監視の気配をはっきりと感じていた。


第4節 揺らぐ民主主義

 翌朝、井藤はホテルの一室で名簿を広げたまま、窓の外を見つめていた。東京の街はいつも通りに動き、通勤客が列をなし、ニュース番組は明るい話題を流している。だが、その背後で民主主義の基盤は音もなく浸食されている――そう思うと、景色は一変して見えた。

 名簿に載った議員の数は、与野党を問わず数十名に及んでいた。つまり「親中派」というラベルは一部の例外ではなく、すでに国会全体を覆う影のひとつになっていたのだ。

 井藤はノートに大きく書きつけた。

《選挙は表の儀式。裏で決めるのは金と弱点》

 国民は投票によって代表を選んでいると信じている。だが実際には、その代表者が既に他国の意志に絡め取られていたとしたら、民主主義は見せかけに過ぎない。自由も独立も、空洞化した幻に等しい。

 その思考が進むにつれ、井藤の胸に暗い不安が広がった。日本という国家は、もはや自らの意志で進んでいないのではないか。選挙も政策も、すべては影のシナリオに沿って動かされているのではないか。

 突然、部屋の電話が鳴った。受話器を取ると、無言のまま切れる。続けて、携帯に不審な番号からの着信。留守電に残されたのは、低く歪んだ声だった。

「やめろ。おまえは見られている」

 背筋に冷たいものが走る。だが、恐怖の奥で確信も強まっていた。自分の取材が核心に触れたからこそ、圧力が加わり始めているのだ。

 窓の外の喧騒を見下ろしながら、井藤は心に刻んだ。

――この国の民主主義は、揺らいでいる。だが揺らぎの正体を暴かなければ、すべてが沈黙の闇に呑み込まれる。

 ここまでお読みいただき、ありがとうございます。

 第4章から第7章では、情報支配の仕組みや戦後史の陰影、そして現代における経済・政治への静かな浸透を物語として描きました。

 本作はあくまでフィクションです。現実の事件・団体・人物との関わりは一切ありません。

 しかしながら「もし本当にこういうことが起きていたら?」という仮定のもとで描かれたストーリーが、読者の皆さまに少しでも想像の余地を広げ、考えるきっかけとなれば幸いです。

 次回以降は、第8章から第10章へ。物語はいよいよ核心に迫り、真実を告発する決断の場面へと進んでいきます。ぜひ最後までお付き合いください。

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