第7話:過保護な新婚生活の始まり
契約書に署名した翌日から、リリアーナの人生は、文字通り一夜にして変わった。
グレイ子爵家の借金は、いつの間にかロックウェル公爵家によって綺麗に清算されていた。そして、彼女自身は、たった一つの荷物と共に、あの壮麗な公爵邸へと移り住むことになったのだ。
「こちらが、奥様のお部屋でございます」
侍従長のセバスチャンに案内された部屋は、リリアーナがこれまで住んでいた屋敷の、客間を除いたすべての部屋を合わせたよりも広かった。
天蓋付きの巨大なベッド、猫足の優雅なソファ、陽光をたっぷりと取り込む大きな窓。壁には美しい風景画が飾られ、部屋の隅には、見たこともないような繊細な装飾の施された家具が並んでいる。調度品の一つ一つが、美術館に展示されていてもおかしくないほどの価値を持っているように見えた。
「ありがとうございます。素晴らしいお部屋ですわ」
リリアーナは、完璧な淑女の笑みを浮かべてセバスチャンに礼を言った。
「何かご不便がございましたら、何なりとお申し付けください」
セバスチャンの声は丁寧だったが、その目には隠しきれない探るような色が浮かんでいる。突然現れた、後ろ盾のない貧乏令嬢。主君がなぜこのような女を妻に迎えたのか、と訝しんでいるのは明らかだった。その視線は、リリアーナには痛いほど分かった。
(わたくしの『職場』、というわけね)
リリアーナは、内心で冷静に呟いた。これは住居ではない。一年間の契約期間中、「ロックウェル公爵夫人」という役割を演じるための舞台装置に過ぎないのだ。
荷物を解き、一息つく間もなく、侍女が呼びに来た。
「奥様、旦那様がお呼びでございます」
――さて、お仕事の時間だ。
リリアーナは、すっと背筋を伸ばし、執務室へと向かった。
「おはよう、公爵閣下。本日より、よろしくお願いいたします」
部屋に入るなり、リリアーナは完璧な角度でお辞儀をした。その動作には、一点の隙もない。まさに、理想的な公爵夫人の立ち振る舞いだった。
机に向かっていたアシュトンは、顔を上げ、その青い瞳でじっと彼女を見つめる。
「ああ。……そこに座っていろ」
彼が指し示したのは、執務机のすぐ脇に、昨日まではなかった豪奢な椅子だった。見るからに高価な、深紅のビロードで装飾された、まさに貴婦人のための特別な席。しかし、その位置は、まるで監視するかのように、執務机の真横に置かれていた。
リリアーナは言われた通り、静かに腰を下ろす。
「契約通り、閣下のお側におります」
彼女の声は、まるで業務報告をするかのように、感情を込めずに淡々としていた。
アシュトンは、そんな彼女の様子をちらりと見ると、満足げに頷き、再び書類の山へと視線を戻した。
奇妙な時間が、始まった。
アシュトンは、時折唸り声を上げながら、必死に書類と格闘している。領地経営に関する報告書、貿易協定の草案、国王からの親書への返信など、公爵としての職務は山積みだった。
時々、羽ペンをインク壺に浸すのを忘れ、紙の上で空滑りさせては、小さく舌打ちをしていた。そんな些細な失敗にも、彼はどこか嬉しそうな表情を見せる。
(……なぜ、そんなに嬉しそうなのかしら?)
リリアーナは、アシュトンの奇妙な反応に困惑していた。普通、仕事で失敗すれば苛立つものだろう。それなのに、この人は、まるで子供が新しいおもちゃを発見したかのような顔をしている。
理解しがたい行動だった。
リリアーナは、ただ、そこに座っているだけ。背筋を伸ばし、表情を無にし、まるで美しい置物のように。
(これが、わたくしの仕事……)
あまりに楽な仕事に、少しだけ罪悪感を覚える。だが、契約は契約だ。求められているのは、ただ「そばにいること」。それがどれほど奇妙で理解しがたいことであっても、プロとして完璧に遂行しなければならない。
数時間が経った頃、アシュトンが不意に顔を上げた。
「……喉は、渇いていないか」
「お気遣いなく、閣下」
「そうか。……腹は?」
「問題ございません」
「足はしびれていないか?」
「大丈夫です」
「……そうか」
会話は、それきりだった。
(まるで、具合の悪い患者を看病しているみたい……)
リリアーナは、内心で首を傾げた。なぜ、こんなにも頻繁に体調を気遣うのだろう。まるで、自分が壊れやすい物でも扱うかのような、慎重さだった。
昼食の時間も、もちろん一緒だった。
長いテーブルの、隣同士の席に座る。使用人たちが、次々と信じられないほど豪華な料理を運んでくる。前菜だけでも、リリアーナの家の一週間分の食費に相当するだろう。
アシュトンは、慣れない手つきでナイフとフォークを使い、少しだけ苦戦しながら食事をしていた。スープを飲む時に、わずかに音を立ててしまい、「しまった」という表情を見せる。
(公爵閣下ともあろう方が、なぜそんなに不器用なのかしら……?)
リリアーナには理解できなかった。幼い頃から最高の教育を受けているはずの公爵が、なぜ基本的なテーブルマナーに苦戦しているのか。
それでも、彼女は完璧なテーブルマナーで、静かに料理を口に運んだ。一口一口を丁寧に味わいながらも、表情は終始無表情を保っている。
「……料理の味は、どうだ?」
「とても美味しゅうございます、閣下」
「そうか……好みの味付けなどは、あるか?」
「特にございません。何でも美味しくいただいております」
完璧すぎる返答。そこには、個人的な好みや感情が一切混入していない。
アシュトンは、なんとなく物足りなさを感じていた。
午後は、剣の稽古に付き合わされた。
広大な訓練場で、アシュトンは騎士団長を相手に、汗だくになって木剣を振るう。何度も打ち込まれ、息を切らし、それでも彼は、どこか楽しそうに見えた。
リリアーナは、訓練場の隅に用意された椅子に座り、ただその光景を眺めている。パラソルを差し、優雅に座る姿は、まさに貴婦人そのものだった。
しかし、内心では別のことを考えていた。
(公爵閣下も、ずいぶんと不器用な方なのですね……)
アシュトンの剣技は、決して下手ではない。基礎はしっかりしているし、体力もある。だが、実戦経験が圧倒的に不足している。動きに迷いがあり、まるで初心者のような不安定さが見て取れる。
それでも、彼は必死に食らいついている。汗まみれになり、息を切らしながらも、決して諦めようとしない。その姿には、どこか子供のような純粋さがあった。
そして何より不思議だったのは、打ち負かされるたびに見せる、彼の表情だった。悔しさはあるものの、それ以上に、どこか満足そうな、達成感に満ちた顔をしているのだ。
(なぜ、負けて嬉しそうなのかしら……?)
普通なら、公爵ともあろう人が部下に負けるなど、屈辱的な出来事のはずだ。それなのに、アシュトンは、まるで何か大きな成果を達成したかのような表情を見せている。
リリアーナには、彼の心境が全く理解できなかった。
そして、夜。
ようやく一日のお役御免かと思いきや、夕食後もアシュトンはリリアーナを解放しなかった。
「庭を、散歩する」
その一言で、彼女は夜の庭園にまで付き従うことになった。
月明かりの下、二人きりで、言葉もなく歩く。
アシュトンは、何を考えているのか分からない。ただ、時折、リリアーナがちゃんと隣にいるかを、確かめるようにちらりと視線を送るだけだった。
(まるで、迷子になるのを心配されているみたい……)
リリアーナは、その視線に困惑していた。この庭園から逃げ出すつもりなど、毛頭ない。契約は契約だ。それなのに、なぜこんなにも神経質に気を遣うのだろう。
夜風が、リリアーナの髪を優しく撫でていく。庭園には、様々な花の香りが漂い、噴水の水音が静かに響いている。美しい光景だったが、リリアーナの心は複雑だった。
(この方は、一体何を考えているのかしら……)
父の手紙の件は事実だとしても、それだけでこんな奇妙な契約を結ぶものだろうか。しかも、まるで貴重品を扱うかのような、過剰な気遣い。
そこには、何か別の理由があるような気がしてならなかった。
「……そろそろ、休むといい」
ようやく解放の言葉を告げられたのは、夜も更けてからだった。
自室に戻ったリリアーナは、どっと疲労感を覚え、ベッドに倒れ込んだ。
肉体的な疲れではない。一日中、誰かの視線に晒され、感情を押し殺し続けるという、精神的な疲労だ。
(これが、あと一年続くのね……)
だが、と彼女は思う。
あの公爵様は、思っていた以上に謎の多い人物だった。
食事の時の、少しぎこちない手つき。
剣の稽古で、負けても嬉しそうにしている奇妙な反応。
そして、散歩中の、どこか心細そうな横顔。
氷の公爵。戦場の悪魔。
世間の噂とは、まるで違う素顔が、垣間見えた気がした。
「……さて、明日も頑張りましょうか」
リリアーナは、自分に言い聞かせるように呟いた。
これは仕事。これは契約。
そう割り切らなければ、この奇妙で、過保護すぎる新婚生活は、乗り切れそうになかった。
しかし、同時に、小さな疑問が心の奥に芽生えていた。
なぜ、この人は、こんなにも自分を必要としているのだろう?
外では、夜風が木々を揺らし、静かな夜が更けていく。
二人の奇妙な共同生活は、まだ始まったばかりだった。